第四話 三草山合戦
知盛と重衡は、共に生田森へと向かう道を行く。
知盛が跨るは、井上黒――宗盛が内大臣に就任した祝いとして後白河法皇から下賜された後に知盛の預かりとなり、この日まで大切に育ててきた愛馬である。
「重衡はどう思う」
「此度の合戦の戦法、に御座いますか」
「左様」
生田森までの開けた道中を、此度の源氏軍の動向について考えていた。
「やはり軍を二手に分けて歩を進めているとなると、源氏は東西から攻め寄せるものかと」
「夜討ちや、奇襲の可能性は」
知盛が間髪を入れずに問うと、重衡は少し考え込んだ後に、口を開く。
「相手はあの源氏故、ないとは言い切れませぬが……そればかりは読めませぬ」
「だが備えは必須。生田森は激しい戦いとなるであろうな」
「必ずや、守り抜きましょう」
「……重衡の意見、いつも頼もしく思う」
「滅相もないことに御座います。私の方こそ、いつも頼りにしておりますぞ、兄上」
重衡はそう言うと、精悍でありながらも、花が舞うかのように優美な笑顔を知盛に向ける。その笑顔を見ながら、生まれながらの人たらしとはこのことであると、知盛は心の裡で零していた。
「矢合わせは七日。だが、不覚を取らぬよう、戦支度だけは怠るでないぞ」
「心得ております」
こうして時々会話を交えながら生田森に到着した知盛と重衡は、早々に森の様子を確認する。いつもと変わらぬ空気、いつもと変わらぬ森。だが、数日後には激しい戦場と化すであろう、森である。
知盛は下馬すると周囲を見渡しながら、その場にいた郎党を呼び止めて尋ねた。
「源氏勢は現れぬか」
「はっ。源氏と思われる軍勢は、未だ山陽道をこちらに向かって行軍中にございます」
まだ日の高い今現在、索敵によると源氏勢は未だ生田森には現れていないとのことであった。
行軍もとりたてて急ぐ様子も見られなかったというが、見かけた場所はここからも程遠くない昆陽野を過ぎた先であり、本日中には生田森に来着くことが予想された。
知盛は重衡と行動を別にすると、生田森を守る家臣、監物太郎頼方に状況を尋ねる。
「変わりはないか」
「はっ。皆、戦支度は万端にございまする」
「この逆茂木も……良さそうだ」
「そう簡単に超えられますまい」
頼方が白い歯を見せながら自信たっぷりに言うのを、知盛は逆茂木の強度をその手で触って確かめていた。棘のある木々を並べて作った逆茂木の鹿砦も、周りに張り巡らせた堀も万全であり、ここも堅固な要塞と化していた。
「何時でも返り討ちにしてくれよう。この生田森は、断固として通すまい」
◇
― 同日五日・戌の刻
生田森で陣を構えるも、本日――五日の日も何事もなく過ぎようとしていた。
ここで知盛が家臣や郎党たちと交わした話といえば、源氏の軍勢の話、京へ帰ったら何をしたいか……など、たわいのない話も多かった。
「特にこれといってやりたいことなんかないが……生まれ故郷なんて、やりたいことがなくとも恋しくなるってのが、本当の故郷というものよ」
誰かが言った言葉に、そこにいた多くの者が首肯する。
知盛がふと黄昏時の西の空を見上げると、二月の宵の明星はひときわ明るく光を放っていた。
「あれは……」
ほろりと言葉を漏らすと同時に、郎党の一人が「本日の夜空は、大層綺麗だぞ」と声を上げていた。
周りの者も夜空を見上げる中、知盛は静かに言葉を発する。
「あの星の名は『夕星』(金星)というらしい」
知盛は、幼き頃父親に教え賜ったことを思い出していた。
京にいた時分もあの星を見てはその瞬きに心奪われ、その星の名を聞いたのだ。
「ほぉ……! 新中納言殿は、さすが博識に御座いますね」
「父上から譲り受けた知識だ」
「相国入道殿から……」
「帰ろう、京へ」
「は! 必ずや平家を勝利へと導きましょう!」
軍の士気が高まる中、日はゆるりと落ち、暗闇に遠火を焚く。
森に広がる静寂に聞こえてくるのは、浜の方からの波の音と、時々風に葉の擦れる音。濃紺の空に白く光る月は、いつもと同じように静かに森を照らしていた。
現状源氏勢に大きな動きはないが、森の奥には、源氏の焚く遠火がぽつぽつと見え始めていた。だが既に小夜は更け、見回りをする者以外の多くの者は兜や箙を枕にし、明日以降の戦に備えて体を休めている。
しかし知盛は源氏勢が京を出たと聞いてからずっと気の昂りが落ち着かず、浅い眠りと覚醒を繰り返していた。月明かりが淡く照らす薄暗闇をぼんやりと眺めては、明日の戦に備えて今は休むべきだと自分自身に言い聞かせる。
ふっと溜息をつき月を見上げるも、その淡い光は森の様子を静かに、じっと眺めるだけで何も言わない。知盛は再びゆっくりと目を閉じようとした……その時。
「新中納言殿っ!」
その声にはっと振り返ると、火急の用を伝えに参る使いの者の姿があった。その様子は酷く焦りが滲んでいる。
「何事」
「み、三草山が夜討ちに遭いました! 草木や民家に火が放たれた様子で……敵の数、約、一万騎……!」
「夜討ち……だと」
一万騎。対する平家軍は資盛を大将とし、有盛、師盛ら約三千余騎が待機していたはずである。だが夜討ちとなると、咄嗟の対応は如何ほどであったのか……知盛の脳裏に、先の富士川の戦いが過ぎる。
「平家の軍は! 三草山に控えていたであろう」
「我が軍は、多くの者が翌日の合戦に備えて仮眠を取っておりました故に、即座に応戦することも叶わず……あっという間に五百騎もの軍勢がやられました」
「なんと……いうこと……」
現状、想像以上の被害を受けていることに愕然とする。
使いの者によると、助かった者は一ノ谷へ逃げたらしい。だが同時に、多くの者が討たれたことは、その様子から明白だった。
「一ノ谷の兵を三草山へ向かわせますか」
「いや。一ノ谷が手薄になっては相手の思うつぼだ」
「では……」
「こうしている間も、源氏は一ノ谷へと歩を進めよう。一度態勢を整える。……兄上は」
「ほ、本陣でお休みになられているかと……別の者が知らせに参ったはずですが」
夜討ち故致し方ないが……源氏勢が京を出たと知りながら、平家陣の甘さを情けなく感じつつ、同様である己を呪う。
「おのれ源氏軍め……夜討ちなど……っ!」
怒りをあらわにする知盛の、握りしめた拳の爪が掌に食い込む。
夜討ちなど――。
知盛が怒りに肩を震わせ、三草山の方角を睨みながらも状況を整理していると、そこへ重衡が駆けてきた。
「兄上!」
「……重衡」
「三草山が、源氏軍により火の海と……! 生田森は依然音沙汰がないようですが、このまま先に一ノ谷に攻め入られる危険性は……」
不安を孕んだその表情は、重衡もたった今その情報を聞いたばかりであることを物語る。
「一ノ谷には敦盛や忠度らが控えておる。三草山から一ノ谷はまだ距離があろう。その間に態勢を立て直す」
「ですが……」
「此方は此方で、何時動き出すやもしれぬ源氏軍を迎え撃たねばなるまい。此処が手薄になれば、それを機と見るや何時でも乱れ入るつもりであろう」
「……」
「だが、今回の夜討ちでいつ攻めてくるやもしれぬことがよぉく、分かった。一筋縄でいく相手ではないと、今一度心しておけ」
「はっ!」
知盛の、握りしめた拳がわなわなと震える。重衡の後ろ姿を見ながら、先の倶利伽羅峠の戦が脳裏に過っていた。夜討ちにより、我が平家の大軍が、少数の源氏勢に敗北を喫した戦いである。
富士川の戦といい、倶利伽羅峠の戦といい――平家は奇襲や奇策で、多くの兵を失っている。
知盛も重衡も、森の奥に見え隠れする源氏の焚く遠火を見ながら瞋恚を露わにするとともに、安らぐ心地がしなかった。




