第十四話 終話・平家敗戦
……
……
どのくらい、馬で駆けたのであろうか。私はただ一騎、波打ち際をひた走り、心ここに在らずのまま御座船を目指す。
漸くまともに呼吸ができるようになるも、先の知章と頼方の最期が頭から離れない。
……知章……………
……
そうして駆けゆくうちに、青い海の上に御座船が浮くのが目に入る。拓けた浜の磯風が、冷たく頬を切る。周りの船も、どれも平家のもののように見えるが、兄上は……帝と、女院は、ご無事なのであろうか。
私はぼんやりと平家の行く先を考える。平家の、この先は。
……。
……いや、このような有様で船に乗り込むなど見苦しい。気を、強く持たねば。
私は馬で海へ駆け入る前に、一度大きく深呼吸をする。青く、広い、いつもと変わらぬ大海原。かつての父の夢が詰まったこの場所を、今私たちは落ちてゆく。私は船を見遣り、凡その距離を目で測る。船までは二十数町程か。
「参るぞ」
私をここまで連れてきてくれた馬に言ったのか、まだ知章や頼方ら郎党共を身近に感じたのか、応える者もいない言葉は空に消える。そうしてそのまま手綱を引き、馬を泳がせ、兄上らの居る御座船を目指した。
◇
「新中納言殿が戻って参られた!」
遠目からも、私の帰還を叫ぶ者がいるのが見て取れ、その者が奥に引っ込むと、程なくして奥から兄上の姿が現れた。見慣れた兄上の顔を見て少し気が緩む私は、今までずっと気が張り詰めていたことを感じる。
暫く馬を泳がせ御座船にたどり着くも、そこは既に人が溢れており……兄上は人をかき分け、私の手を取り、迎え入れる。
「知盛……! よくぞ、無事であった」
「兄上……」
全身潮に濡れたままに、なんとか船に立つことができた私だったが、兎にも角にも船は既に一杯であり……馬の立てる隙間は、もう残ってはいない。
「知盛。……その馬は」
「井上黒に御座います。兄上が太政大臣になられた際に、院の御所より賜った愛馬。私を……ここまで連れて参ったのです」
「井上黒……よくやった。だが、最早この船に馬の乗る隙はない」
「……兄上」
「可哀そうではあるが、岸へ追い返す他あるまい。………知盛も、良いな」
「………………は」
連れて行ってやれたらどれ程よかったことかと、私は別れが惜しくもありながらも、命を繋いでくれた愛馬……井上黒を撫でて別れを告げ、岸へと追い返す。が、愛馬は暫くの間、私の乗るこの御座船の周りを泳ぎ、追いかけてくるばかりで離れようとしない。その様子を見ながら別れが惜しくも思っていると、御座船に乗っていた阿波野民部重能が弓を手に、私の横に並ぶ。
「新中納言殿。この馬は大層な名馬に御座います。このまま岸へお返しになっては、敵のものとなってしまいましょう。今ここで射殺すべきかと」
情けのない言葉に、思わず重能を見る目が鋭くなる。本来ならばそうするのが道理なのであろう。
しかし……それを、私は受け入れられなかった。弓を構え、矢を番えようとする重能を、私は静かに制する。
「良い、重能。誰のものとなっても構わぬ。私の命を助けてくれたのだ……射てはならぬ」
重能の顔も見ず、馬を見ながら言った私の言葉に、重能は構えた弓をそっとおろす。井上黒はその後もしばらくこの御座船を追いかけ続けたが、だんだんと離れ行くのを、仕方なく岸へと引き返していった。
「……さらばだ、井上黒」
井上黒が岸まで泳ぎ切るのを見届ける。陸に上がると井上黒は別れを惜しむかのようにこちらを向き、三度、嘶いたのであった。
……。
戦には、多くの別れが付きものなのだと、改めて……思う。
いつまでも浜を見る私の別れを待ってくれていたかのように、兄上が声をかけてくる。
「知盛。別れは済んだか」
「……は。見苦しゅうところをお見せいたしました」
「良いのだ。………帝と、女院はご無事だ。だが………この戦で平家は、多くの者を失った」
「……」
「知盛が帰って来てくれて、どれほど心強かったか。よくぞ、帰って来てくれた」
「兄上……」
私は兄上を見る。優しくも哀しい、兄上の顔である。……兄上の言うように、この戦で失ったものは多い。
知章……頼方…………通盛も討たれたと、聞いた。
…………重衡は、どうなった
私ははっとして兄上に尋ねる。
「兄上。重衡は」
「重衡は…………敵の手に生け捕られた」
「生け……捕り…………」
「命はまだ無事のようだが、この後どうなるか……源氏に命運を握られているようものだ」
「……っ」
「夢の口の通盛は討たれ、経正は自刃し……一ノ谷を守っておった忠度や敦盛も、それぞれ、討ち取られた」
「……」
静かに話す兄上の抑揚のない言葉から、本当に多くのものを失ったのだと、痛感させられる。
その者らを思うと、胸の奥の方がぐっと熱くなるのを感じていた。
兄上は私を案ずるように此方に視線を遣ると、控えめに切り出す。
「……時に……知盛よ。知章は、どうした」
「………」
私はすぐに答えられない。知章の名を聞くだけで、こんなにも胸が閊えるのだ。
「知……章は…………知章は、私を守り、先立ちました。監物太郎頼方もその時に……討たれました」
「……」
兄上は只、黙って聞いている。私は視界が滲み、感情が溢れ出すのを感じていた。
「今は大変心細く、哀しく思われてなりませぬ。…………なぜ……我が子が親を守ろうと、身を挺して敵と組み合い、討たれるのを助けもせず、このように逃げて参ったのかと………もし他人の事であれば、どれほどにもどかしく、歯痒く感じられましょう………」
……私はもう、堪えることができない。気を強く在ろうとしたはずが、はらはらと涙がこぼれ落ちる。
「……ですが我が身となると、よくも命は惜しくもあるものかと………苦しいほどに、思い知りました。……人は、息子を助けぬ私を、酷い父親だとお思いになるでしょう。…………今はただ、なぜ助けてやれなかったのかと、悔やまれるばかりで…………大変、恥ずかしゅう事に御座います…………」
私は袖に顔を押し当てるも……溢れる涙も、嗚咽も、留まることを知らない。
そんな私に兄上は寄り添い、静かに語りかける。
「知章は、父を守るために、本当によくやった。素晴らしいことだと、私は思う」
「……」
「腕は利き、心も剛く、最期まで武士の矜持を重んじた……よき大将であった。………まだ、私の息子と同じ……十六であったな」
兄上も知章を思って共に涙ぐまれるのに、私は嗚咽と共にさめざめと袖を濡らすばかりで、何も答えることはできなかった。
……
私は、袖で最後の涙を拭う。……我らの戦は、ここで終わりではない。落ち行く先は、讃岐国、屋島。体制を整えるために長門国、彦島から制海権を掌握することも必要となろう。……もう二度と負けることなど許されぬ。一門の為ならば、鬼にも蛇にもなってやろう。
知章や頼方に繋がれたこの命……決して無駄になどはしない。
私は面を上げ、先ほどまでいた白い浜を見る。ここは……多くの命が散った地。
今後、私が涙を見せることは二度とない。一門をかけて、必ずや平家を再起へ導こうと……口惜しさと哀しみを胸に、海に向かった私は堅く、心に誓うのであった。
END
この度は本作を最後までお読みくださり、誠にありがとうございます!
源平合戦の敗者となった平家……平知盛から見た一ノ谷の合戦でした。
この後、屋島の合戦でも平家は敗れ、最期、壇ノ浦にて滅亡を遂げます。
勝者から語られることの多い歴史ではありますが、敗者にも多くの思いやドラマがあったことを綴りたいと思い、執筆を始めました。本作は平家物語や吾妻鏡等を参考資料として構成しておりますが、多くは平家物語の流れを基盤としているため、平家物語を現代語訳(意訳含む)した部分や創作部分も含んでいます。平安時代末期をお楽しみ頂けておりましたら嬉しく思います。
また、作者からのお願いです。
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はる❀




