第十二話 敗走
― 巳の下刻
「申し上げます、新中納言殿!! ……越前三位通盛殿が討たれました……っ! 能登(教経)殿は未だ奮闘しておりますが、苦しい状況です……!……っ、山の手方面は……もう…………!」
使いの言葉に、山の手方面は敗戦が色濃くなりゆくのを悟る。重衡をそちらに回したが、間に合わなかったのか……使者に問う私の声は、つい大きくなる。
「重衡は! 山の手へ向かったであろう!」
「本三位中将(重衡)殿は、後藤兵衛盛長殿と共に駆け行くところを見たと言う者がおりましたが、その後……どうなられたかまでは……」
「……っ」
先の逆落としを境に、平家の軍は総じて崩れゆくのを感じていた。だが兄上は……帝と女院、三種の神器と共に、船で海上へ向かったはず。そのまま屋島まで逃げ遂せてくれれば、今は、それでいい。
だが、重衡……重衡は、無事であろうか。
先刻まで共にこの森で戦った重衡を思う。私の実弟……優美で朗らかな、本当ならば平和の似合う弟だ。山の手に間に合わずとも、今もどこかで果敢に戦っているのではと、その身を案じる。
だが、そうするばかりもいられない。この生田森も恐らく、終焉が近い。ここも残すはわずか知章や頼方ら数騎のみとなっていた。……だが、最後まであきらめるわけには……っ!
私が尚も東へ駆けようとしたその時、源氏・児玉党を名乗る者が私の元に現れる。
「新中納言知盛殿……! 私は源氏、児玉党の者に御座います。今は敵……とお見受け申しますが、…………殿は武蔵の国司であらせられました故、我々児玉党の者がお伝えに馳せ参じたのです」
「………!」
武蔵国。確かに、武蔵国は以前私が管轄した土地であり、児玉党と名乗る者は見覚えのある顔である。
……源氏とは、平家とは、一体なんなのだろうと思わされる。
私が声を発せられずにいると、児玉党を名乗る者は西を指さし、私に告げる。
「……西の方をご覧下さい。……一ノ谷は、もう落ちてございます」
「……っ!」
その言葉に西の方を振りむくと、本陣は火炎で赤く燃え、黒煙が空に高々とあがっているところだった。
………
………あぁ…………
………………一ノ谷は………本陣は…………落とされたのだ……………
私は黒々と上がる煙のその先を見上げ、そのまま天を仰ぐ。
……我々平家は、負けたのだ。
一ノ谷が燃えゆく様子を見ながらも、それを受け入れられない自分もいる。
だが私が下知を飛ばすよりも早く、一ノ谷の様子を見た郎党たちは、慌てふためき始める。
「一ノ谷が落とされたぞ!」
「平家は負けたのか……!」
「おい、もう逃げよう、ここも終わりだ……!」
平家の郎党共は、我先にと敗走を始める。その様に、私は刹那立ち竦んでいた。……が
「戦え! まだここは……っ、ここはまだ終わってはおらぬ!!」
だが私のその声虚しく、敗走する者共には私の声は響かない。
「退くな、戦えーっ!!!」
「新中納言殿……!」
「最後……までっ、敵に背を向けてはならぬっっ!!!」
「新中納言知盛殿っ!!」
皆が敗走しゆく中、尚もその逆方向に向かおうとする私を止めるのは……家臣の監物太郎頼方。私の息は荒く、心の臓から熱が駆け巡るのを全身で感じられるかのように、鼓動は大きく、速く打つ。
分かっている……分かっているのだ、もう、平家は負けたことを。……皆戦意を失い、敗走に徹してしまっていることを。
「頼……方……っ」
怒りと悔しさの混ざる声は震え、自分でも最早どうすることもできない。だが私は頼方に指示を出すべく、声を絞り出す。
「……我らは……敗れた。頼方は知章と郎党共を連れ、福原の先……和田岬から船に乗れ」
「新中納言殿……なにを」
「私はここで最期まで戦い……残りの者にも退避指示を出してから向かう。船の行先は屋島……頼方は知章と共に」
「お断り申し上げます!」
「頼方っ!!」
私はつい声を荒げるが、その目は真っ直ぐに私を見る。……頼方はそもそも頑固である。一度こうと決めたら、きっと曲げることはない。
だがそこへ重ねるように「私もお供申し上げます!」と………、言うは息子、知章である。私は目を見開き、叫びたいのを最早堪えきれず、知章を向き、怒鳴る。
「知章まで何を言うておるっ!」
「父上は、平家になくてはならぬお方です! 私共が最後まで付き従います!」
「……っ」
言いたいことは山ほどあるが、最早決断の時である。退き時を見誤らぬことも……私の重要な役割だ。
周りを逃がしながらも頑固な二人と郎党を従え、私は全軍に退避命令を出しながら自らも敗走……海を目指す。
「平家全軍、退けーっ! 一ノ谷は…………っ、もう、落ちた………!」
私は言葉が閊えるのを感じていた。兵共は皆、私の下知に忽ち顔色を変え、わああ、と叫びながら海の方へと逃げていく。……もしかしたら、最早船も一杯かもしれない。だが、我々にはもう敗走という選択しか残っていないのだ。
「平家全軍、撤退ーっ!!」
私の撤退を呼びかける下知が、哀しくも遠く、この森中に響き渡ってゆく。
だがまだ戦は終わらない。あとはどれ程の者がここから逃げ落ちることができるのか……落ちる途中で討ち取られることも往々にしてあることであり、私は一ノ谷が落ちたという事実さえ、まだ信じられていなかった。