第一話 一ノ谷
― 寿永三年 二月四日
「源範頼、義経を大将とする源氏の追討軍は、既に京を出たらしい。本日は我らが父上の命日だというのに……なんということであろうか」
ここは一ノ谷に構える平家の陣。そして、言うは私の兄で平家の棟梁、平宗盛である。やや控えめの目元と、下がり眉の温厚そうな顔立ちにもしっかりと威厳と貫禄を携え、今は神妙な顔をして高座に座っている。平家の大黒柱でもあった父・清盛亡き後、求心力を失った一門を束ねてきた苦労人でもある。源氏の追討軍が京を出たということは即ち、我々平家の追討……及び、平家が持つ三種の神器と帝を取り返すために、こちらに軍を差し向けているに他ならない。我ら平家の重臣が集う中、兄上は遠くの海を見据えながら、独り言ちるかのように続ける。
「父上が逝去なされてから、三年。本来であれば盛大に塔婆を建て、仏にお供え物をしたいものだが……時が時故にそれが叶わぬのも悲しいものだ。……そうは思わぬか、知盛」
「……仰る通りにございまする」
「重ねて、こんな折に源氏の襲来と。果たして、源氏は何時、こちらに来着くであろう」
今、名を呼ばれた知盛。……それこそが、私の名である。兄と私は、武士にして初めて太政大臣ともなられたことでも名高い平清盛の、三男と、四男。長兄・重盛と次兄・基盛は病にて既に他界しており、それゆえに父上亡き後はこの兄上……宗盛が平家の棟梁を務めることとなった。
兄上は日頃から穏やかで心優しいのではあるが、棟梁としては少々心許ない部分がある。源氏勢が京を出たというのに、どこか後手に回りがちなのでは……とも。私がしっかりお支えせねば。
「早ければ……本日か、明日にでも」
「本日は我らが父の法要の日。来着いたとて、こんな折に攻めてくることもなかろう」
「……」
「だが、明日は暦の上では西の方角が塞がった日であるから、東から攻めてくる源氏が矢合わせにこの日を選ぶはずが……」
「兄上。本日二月四日は、我らが父の命日である共に、暦の上でも吉日。源氏勢は、正月二十九日には院の御所にて、我ら平家追討の為西国へ発つと申し出たとの話もあります。京からここ一ノ谷までは三、四日……大軍を率いたとて五日もあれば来着きましょう。故に、此の日を選ばないとも限りませぬ」
「……つまり、矢合わせの日取りも決めぬうちから、奇襲もあると?」
「先の俱利伽羅峠の戦では、夜討ちにてわが軍の多くの者が命を落としました。源氏は、何をしてくるか全く読めませぬ。疾うに京を出たとあらば、こちらも相応の支度が必要かと」
ここ一ノ谷は、背後には急峻な崖が聳えたち、眼前には瀬戸の海原が広がる、東西に長い地形である。つまり、天然の要塞。攻めてくるとしたらこの東西からと考えられるが……
私が思案していると、弟・重衡が私に代わり、提言する。
「既に、南の山陽道と北の丹波道にて、源氏の軍勢を見たという話も入ってきております。恐らく、軍を二分して此方に向かってきているよう見受けられまする」
重衡は普段は明るく朗らかであるものの、いざと言う時には芯があり、よく私の相談役にもなってくれている。牡丹の花に喩えられるほど端麗な容姿を持つ重衡は、精悍さの中になまめかしさを携えた、いわば美丈夫である。そんな重衡は私を向き、その切れ長の目と私は視線を合わせる。私は軽く頷き、続けるように進言する。
「丹波道へ向かった軍は一ノ谷の西へ回り、山陽道の軍と東西から攻め寄せるのではないかと考えておりまする。先の木曽義仲が討伐された宇治川の戦いも……法皇様のご命令であったとしても、血を血で洗うことを厭わない者共です。どうして我らが法要を待ってくれる者共だと決めつけることができましょう。我らを追討せんと此方に向かってきているのであれば、常に戦に出られる準備を。悠長に構えていては背後を取られるやもしれませぬ」
兄上は、うーん……と唸りながら思案する。暫くすると、「しかし」と目線を此方に向け、言葉を繋ぐ。
「我ら平家は十万騎もの大軍であるうえ、ここは海と崖に挟まれた、天然の要塞。この堅固な守りを崩すなど、そう容易ではあるまい。奇襲となれば、それこそ夜討ちか、この海……もしくは反対側の断崖絶壁から現れるかのいずれかであろう。だが」
「……」
「この内海の制海権は我らが握っておる。我らに知られることなく、多くの水軍を動かすなど勝手な真似は困難と言えよう。そして反対側……この崖は見るからに急峻。神か鬼の所業でもない限り、ここから我らを討つなど不可能だ」
兄上は断言するが、果たして本当にそうであろうか。
私は午の方角に位置する海を見渡し、そのまま子に位置する急な崖を見上げる。兄上の言うように、この内海の制海権は我らにある。つまり多くの軍が示し合わせるように寝返るか、余程短期でこれらを凌ぐ程の水軍を他から集めぬ限りは、少数で攻め寄せてきたところで返り討ちにするだけである。更に背後に聳える崖は、まるで巨大な岩の塊がこちらを見下ろしているかのようだ。逆に言えばここは、広い海原と急峻な岩々に守られている堅固な要塞。喩えこの崖の上から討とうとなると……自らの立場に立って想像すると、その光景に思わず身震いする。
やはりここは東西を守り固めるべきか……。
思案を巡らせているうちに、兄は立ち上がり下知を下す。
「だが、知盛や重衡の言うことも道理である。本日中に来着くとすれば、夜討ちで先制を仕掛けてくる可能性も全くないとは言い切れぬ。東西の木戸口を固めよ。軍の指揮は知盛に」
「はっ」
「源氏がいつ攻めてきても対応できるよう準備を怠るでない。だが矢合わせとなれば……やはり六日の道虚日を避け、七日、早朝か。西の一の谷と東の生田森は断固として破られてはならぬ。だが万一ここが戦場となりうるのであれば、帝と女院、三種の神器は船で安全な海へお連れ申さねばなるまい。……源氏の手になど渡してなるものか」
兄上は考えがおありなのか、ぶつくさと何かを言いながら陣を出ていってしまった。
重衡は、兄上が出ていったことを確認すると、そっと私に話しかける。
「兄上」
「重衡。……確かに本日は兄上が仰せのように、大事な父上の法要の日ではあるが、源氏の行動は読めたものではない。不覚を取られぬよう、いつでも戦ができる準備を」
「はっ」
「軍評定を。最終確認を行う」
行基図を広げ、一ノ谷の地形を確認する。
兵法の基本の一つとして、正面から攻める大手軍と、それを攪乱させる搦手軍の二手に分かれて相手を討つのは定石。現に、一ノ谷へ通じる二つの道……南の山陽道と北の丹波道の二手に分かれてこちらに向かっているという。山陽道を通って東側の生田森から攻めてくるのが大手軍だとすれば、それを攪乱させる搦手軍は丹波道を通って一ノ谷の西側から。
我々の背後にあるこの崖の先は、北の丹波道に続く鵯越。一ノ谷の西へ回るには、その先の三草山を越える必要がある。
……西へ、行かせてなるものか。
「西へ向かう搦手軍を阻止すべく、その道中……三草山に兵を構える。資盛と有盛は三草山に配置せよ」
「はっ」
「西の一ノ谷は敦盛と忠度に。重衡は私と共に東の生田森にて、大手軍を討つ」
「承知」
こちらへ向かうは源範頼と義経は、木曽義仲を討ったという。木曽義仲は、我々も先の水島の戦で退かせた相手でもあるが、それをも討つとはなかなか手強い相手であろう。我らが堅固な要塞という地の利、圧倒的兵力という数の利を有していようとも、如何なる戦も侮ることなどはない。
各々戦支度へ向かう中、私は息子の知章に声をかける。
「知章」
「はっ、父上。ここに」
「今回の戦、お前は私と共に来い。激しい戦いとなるぞ」
「……! 承知仕ります!」
知章は現在十六。従五位上にして武蔵守を任じられた、力が強く、心優しい息子。母親に似たのか、精悍さの中にも優しさを携えたその顔は、今はやや表情が強張っているようにも見えるが……それは。
「知章は此度が初陣か」
「はい、左様でございます!」
「お前の初陣を敗戦で飾る訳にはいくまい。必ずや、平家に勝利を」
「はっ! 力の限りをお尽くしいたします!」
「はは、知章は元気が良いことだ」
私がそう言うと、知章は声が大きかったことに気が付いたのか、やや照れ臭そうに笑った。
私は東の森をじっと見る。この向こうに、源氏の軍勢が。
……負けるわけにはいかない。知章のため、帝のため、我ら平家一門のために。
はじめまして。はる❀と申します。
この度は本作をお手に取って下さり、誠にありがとうございます。
作者は歴史の専門家ではないため、歴史的背景や言い回しなどやや甘い部分はあるかもしれませんが何卒ご容赦いただけましたら幸いです。また、本作の大筋は平家物語を基盤としていますが、史実と異なる部分や、創作の部分も含まれますので、ご了承ください。
また、ぜひブックマークや★評価にて応援して頂けましたら幸いです。
宜しくお願いいたします❁