狗狼族
「騒々しいですねえ。一体何の騒ぎですか」
騒ぎを聞きつけて藤葛もやってきました。
「おお、藤よ。あの犬が、あの犬が兵太郎の顔を嘗め回したうえ、兵太郎に抱っこされて頭まで撫でられるんじゃあ」
紅珠は涙ながらに悔しさを訴えます。
「兵太郎の顔を……?」
ごごごごごごごご。
藤葛はいつもの優しい笑顔のままですが、何故か家が恐ろしい音を立てています。局地的な地震でしょうか?
「ええ、ええ、ええ。大丈夫ですとも。兵太郎は全然悪くありません。その犬に騙されただけなのですからね」
「流石の僕も犬に騙されたりはしないと思うけど……」
やや自信なさげに兵太郎が答えます。
ねえ? と話しかけると、兵太郎の腕の中で子犬はきゅうンと鳴きました。
ごごごごごごごごごごご。
「まあまあ、可愛い子犬ですわね。私にも抱かせてくださいまし」
相も変わらず優しい笑顔の藤葛。でも兵太郎は藤葛に子犬を渡すのを躊躇ってしまいます。何故でしょうね。
兵太郎がためらっていると、子犬が兵太郎の手の中で急にもぞもぞと暴れだします。
「あ、駄目だめ、落ちちゃう」
慌てて抱き直そうとする兵太郎の手をすり抜けて、子犬はぴょんと地面に飛び降りてしまいました。
ぼわわん。
子犬が地面に着いた瞬間、そこから何か不思議な音とともに煙が噴き出します。
「え、え、何?」
兵太郎一人が焦って声を上げていましたが、煙はすぐに晴れました。
するとどうでしょう。兵太郎の前、ちょうど子犬が飛び降りた辺りに突然、小学生くらいの男の子が紅珠と藤葛に向かって平伏した姿で現れました。
「えっ、えっ? あれ、君は昨日の……? 何処から出てきたの? 犬は何処に行ったの?」
そろそろなんとなくわかりそうなものですが。
以前にも同じような現場に遭遇していながら、全く同じリアクションで驚いてしまう兵太郎を完全に無視してお話は進みます。
「狐の方様、狸の方様に恐れながらお尋ね申し上げます。いとお美しく畏きお二方はもしや、兵太郎の奥方様でございましょうか」
突然現れた男の子はしゃべっている間もしっかりと額を地面にくっつけたままです。
「あらあら。どこの雌犬と思いましたが男の子でしたか。それなりに礼儀はわきまえているようですわね」
「ふむ。如何にも、儂らは兵太郎の奥さんじゃ」
かなり危険な状態だった藤葛と紅珠でしたが、男の子の見た目の年にそぐわない敬意の払い方や言葉遣い、何より男の子が二人を兵太郎の奥さんであると見抜いたことに少しばかり怒りを治めることにしました。
まあぶっちゃけて言うと、他の人から奥さんと言われて、ちょっと嬉しくなっちゃったのです。
「で、貴様はなんじゃ」
内心の嬉しさを隠しつつ、紅珠は平伏する少年を見下ろします。
「ボクはショッピングモールで兵太郎をお見掛けし、忠義を捧げるはこの方しかいないと思い、憑いてまいりました妖にございます。矮小なる身ではございますが、兵太郎と奥様達に仕えること、お許しいただきたく」
「えええ、君も妖怪だったの? んで仕えるってナニ……?」
兵太郎がなにかぼそぼそ言っていますが、残念ながら誰の耳にも届いていないようです。
「ふむ。貴様、狗狼であろう? 昨日兵太郎にちょっかいを掛けたのは貴様じゃな?」
昨日ショッピングモールから帰ってきた兵太郎から犬の臭いがしていました。お風呂でよーく洗ったり、ここには書けないことをしたりしてすっかり上書きしておきましたが。
「ご慧眼恐れ入ります。おっしゃる通りボクは狗狼族の裔。兵太郎に近づいたのもボクに相違ございません」
「おやおや。狗狼といえばずいぶんと鼻の利く種族のはず。兵太郎には私たちが憑いていること、気が付かなかったは通りませんよ?」
藤葛の声はそれはそれは冷たいものでした。
でもほんとはそれほど怒ってはいません。犬の臭いがついていることにかっこつけて、お風呂で色々しましたから、むしろラッキー。
そのことを知らない男の子は、既に平伏しきっている頭と体をさらにぺちゃんこにしています。これ以上はもう穴を掘るしかないでしょう。
「お二人がお憑きであることも十分承知の上でございます。されど狗狼の定めとして、一度兵太郎と出会ってしまった以上、このお方に憑き従いたいという願いはなはだ抗しがたく。こうしてお願いに参った次第でございます」
妖怪ホイホイの兵太郎。犬の妖怪「狗狼」にとっては、どうやら仕えたくてしかたない人物に見えるようです。恋は盲目などと申しますが、忠義というのもまた盲目なのかもしれません。
「ううむ。気持ちはわからんでもないが。貴様、儂らが恐ろしくはないのか? 目の前に現れれば、八つ裂きにされるとは思わなんだか?」
「恐れながら申し上げます。大変恐ろしくてございます」
よく見れば狗狼の少年の小さな肩は震え、顔から流れ落ちた汗が荒れた庭のむき出しの地面に小さな染みを作っていました。
「お顔をあげなさいな」
その姿をかわいそうに思ったのか、藤葛は今度は本当に優しく言葉を掛けました。男の子はおずおずと顔を上げます。しかしよほど恐ろしいのか、目線は地面を向いたまま。藤葛の顔を見ることはできないようです。
「あらあら。ずいぶん可愛らしいお顔。本当に男の子ですか? わかりました。恐ろしさより兵太郎に仕えたいという気持ちが勝ったというならば、私は牙を収めると致しましょう」
藤葛に言われて、男の子はやっと目線を上げました。その顔が喜びに輝きます。でももう一人の奥さんは、どうやらまだ納得がいっていないようです。
「儂は許さぬ。だってこやつ、兵太郎にちゅーしたんじゃぞ?」
男の子は再び低く低くひれ伏しました。
「も、申し訳もございませぬ。狗の姿をとりましたる折に、兵太郎のお顔が間近にござりますれば、湧き上がる忠義の念を抑えることができず」
「いや、忠義の念でちゅうておかしいじゃろ?」
「まあまあ紅さん。男の子ですし、抑えきれない衝動ということもあるでしょう」
「男の子だからじゃとう……?」
「ええ、ええ。ほら、行き過ぎた友情とか忠義とか、そういうのでのキスというのは男女の間とはまた違って、あ、いえ私がそのソレがどうこうというわけではなくて、あくまで一般的なあれのアレの話ですが」
やたら指示語を多く使って藤葛が紅珠を宥めますが、紅珠には通用しません。
「なんじゃあ、貴様そっち系かあ!」
「何のことかわかりません!」
何故でしょう。藤葛の顔が耳まで真っ赤になっています。
「男だからなんじゃあ! 男同士だったらWEB小説でちゅうしても怒られんとかおかしいじゃろ! 同性だから美しいとかプラトニックだとか尊いとか、そういうの儂認めんからなあ!」
「紅さん、紅さん、話がズレてるよ」
ずーっと蚊帳の外にいた兵太郎が突っ込みを入れますが、そんな控えめの突っ込みでは、日ごろからため込んだ紅珠のうっぷんがおさまるわけがありません。
「いいか? 勘違いするなよ別にそれが悪いって言っとるんじゃないぞ。だが同性なら美しくて異性なら低俗だなどという戯言は到底受け入れられん! そんなんどっちも低俗で、どっちも尊いにきまっとるじゃろうがあああああ!」
大声で喚き散らす紅珠のその姿は、まるで誰かの何かを代弁するかのようでありました。
「まあまあ紅さん。男同士の友情のアレは恋愛のそういうアレとは違うんですのよ」
「じゃからそれ、男女の友達以上恋愛未満と同じじゃろ⁉」
「違うんですって。ほら貴方もちゃんと説明して」
「勿論でございます。兵太郎の顔を舐めたのはあくまで忠義故。主相手に盛るなどということは……。あ、いや、まあ求められればそれはそれで……」
「何顔を赤らめとるんじゃこのオス犬はああ!」
「なるほど、それはそれで。」
「何顔赤らめとるんじゃこのメス狸はあああああ!?」
この物語はフィクションです。
作品内でのキャラクターのセリフは、実在の人物、団体、作者の思想、うっぷん等とは一切関係ありません。




