13.
「大丈夫でございますか、シャルロッテ様」
夜の闇の中で辺りを不安げに見回しながら、ひそひそと囁くように言う侍女のメイに対し、シャルロッテは片目を瞑ってみせた。
「大丈夫。絶対に上手くいくわ。神様が、きっとお守り下さるわ。もう何日もこんな部屋に閉じ込められていて、息が詰まりそう。神様だって、きっと私の苦しみを分かって下さるはずよ」
「でも、もし上手くいったとしても、こんな夜中にお嬢様お一人が外へ出るなんて。もし何かありましたら、私はどうすればよいのです」
「何かなんて、あるはずないわ」
シャルロッテは今にも泣き出しそうなメイの頬を両手で挟み、半ば自分に言い聞かせるように言った。
「きっと、神様がお守り下さる。絶対に、大丈夫よ」
「私、やはりお供致します」
自らの手を取り、決然と言ったメイに、シャルロッテは優しく応じた。
「メイ、私は大丈夫だから、おまえはここに居なさいな。おまえは私のために、よく事を計らってくれたわ。そのおまえを、どうしてこれ以上煩わせることができるかしら。私がベンにしてしまったように・・・。それにおまえのうちには、幼い弟や妹が大勢いると聞いたわ。おまえがここで働かなくてはならないって」
「お嬢様・・・」
涙目になるメイの肩に手を置き、シャルロッテは言った。
「さあ、おまえはこの部屋にいて、ロープが箪笥の足から外れないか、それだけを見ているといいわ。安全に下に降りられたら、合図に二回ロープを引くから、そうしたらロープを引き上げて頂戴。私の最後の頼みよ、メイ」
涙を堪えながら、メイは頷いた。彼女の頬に口づけして、シャルロッテは言った。
「では、メイ!さようなら。幸せにね!」
シャルロッテは窓に近づき、おずおずと窓枠に足を掛けた。それから彼女は窓から垂らしたロープを握り締め、少しずつ、辺りを警戒しながら下に降りていった。月明かりで朧げに辺りを見渡すことが出来たが、彼女はなるべく下を見ないようにしながら、徐々にロープを伝っていった。
漸く地面に足が着いたとき、シャルロッテはほっと安堵の溜息を吐いた。彼女は急ぎ、裏門へと回ろうとした。が、その時である。ランタンを翳した男たちが、植え込みの陰から現れた。ほの暗い光に照らされた彼らの顔は、皆屋敷に努める使用人たちのそれであった。皆一様に気の毒そうな顔をして、彼女を見ている。
「・・・見張っていたのね」
彼らは顔を見合わせ、頷いた。その一瞬の隙を突くように、彼女は彼らの間をすり抜けようとした。が、その試みは失敗に終わった。
「申し訳ございません、お嬢様」
彼女の腕を掴みながら、年老いた使用人が言った。
「わしらとて、このような真似はしたくはございませんのです。ですが、奥様の命令ですから・・・」
「・・・やはり、そうなのね」
シャルロッテは自分の体から、力が抜けていくのを感じた。使用人たちは、その彼女を半ば引きずるように、子爵婦人の部屋へと連れて行った。
「奥様、お嬢様をお連れしました」
部屋に着くと、使用人たちは皆恭しく頭を下げて退がっていった。夜中というのに明明と蝋燭を灯した部屋の、奥の長椅子に凭れかかるようにして座した母を、シャルロッテはとくと見つめた。夜中というのに、母は夜着ではなく、昼間と同じ別珍のドレスを身に纏っていた。その面には、疲れとも狼狽とも迷いともつかぬ色が浮かび、彼女が憔悴しているのは明らかであった。だが体の奥からこみ上げる怒りに囚われたシャルロッテには、そのような母の表情など目に入ろうはずがなかった。彼女はきりきりと目を吊り上げ、声を絞るようにして言った。
「母上様・・・!何故私に、このような仕打ちをなさるのです・・・!」
「それでは、私も聞きます」
長椅子からゆっくりと身を起こし、母は娘に向かった。
「この屋敷の何が不満なのです。おまえの望みのものは、何一つ欠けていないはず」
「確かに、ここには何でもあります」
シャルロッテは、最早母を怯えることも、臆することもなく答えた。
「美しいドレス、ご馳走、庭の花、高価なものが何でも揃っています。幼い頃は、あなたがそれらを私に与えて下さることが嬉しかった。ですが長じた今となって、それらが私の心を喜ばせることはもうないのです」
母は娘の言葉を聞き、雷鳴に撃たれたような心地がして、長椅子に再び身を預けた。だが一方で彼女には、娘の口からそのような言葉が出たことが、寧ろ当然のようにも思われた。黙して語らぬ母を前に、シャルロッテは息を弾ませ、頬を紅潮させて、更に言葉を続けた。
「ここには、自由もない。愛もない。私の愛する人は、あれほどまでに自由であるというのに・・・。この屋敷には、もう耐えられません。私は、私の愛する人の許に行きたいのです」
「おまえは・・・、何を言うのです」
目を閉じ、顔を被って、母は言った。
「おまえには、正式に私が決めた婚約者がいるのです。我々より身分の高い、侯爵家の方ですよ。そのような方をどうして、くだらない愛などのためにないがしろにできるというのですか。愚かな娘。おまえには一体、自分の言っていることがわかっているのですか。誰なのです・・・、その、おまえの愛する者というのは」
「サビーナ・・・、その名はサビーナ」
半ば叫ぶように、シャルロッテは言った。
「貧しいジプシー、でも、彼女は自由だわ。私とは違う、自由な鳥なのよ。私はその鳥に憧れた。今こそ私も鳥になって、その足元に飛んでゆきたい・・・」
「・・・何故、そのような下賎の者でなくてはならないのです・・・!」
絶望したように唇をわななかせる母に、娘は哀れむような眼差しを向けた。
「母上は、人を愛したことがないのね。自由な魂を、渇望したこともないのだわ」
「何と・・・」
母は顔を背けた。彼女には最早、娘をまともに見つめることはできぬように思われた。彼女は俯き、唇を震わせて呟くように言った。
「・・・どこへでも行くがいい、愚か者め。もう今日限り、おまえは私の娘ではない・・・!」
その言葉を聞いた瞬間、シャルロッテは、自分が母に勝利したように思った。彼女は希望と自由への憧れに胸を膨らませ、部屋の扉を押し開けた。彼女は高らかに笑った。笑いながら、彼女は屋敷の表門へ向かった。居眠りをしていた門番は飛び起き、驚いて威儀を正したが、狂ったように笑うシャルロッテを前にしてひどくたじろいだ。
「開けて頂戴!」
彼女は叫んだ。
「早く、門を開けて!」
「しかし・・・」
尚も躊躇う門番に、彼女は言った。
「大丈夫、門を開けたからといって、誰もおまえを叱ったりしないわ。だって私はもう、子爵の娘ではなくなったのだもの!」
門番はいつになくぎこちない手つきで、重い鉄の扉を開けた。シャルロッテは軽やかな足取りで門の向こうへ行くと、振り返って門番に手を振った。それから彼女は、夜の闇に姿を消した。




