後編
エレナは廊下を足早に歩いていた。
資料室へ向かっているだけなのに、いつもより靴音が大きい。
自分でも、なぜこんなに苛立っているのか分からない。
女性の幸せは結婚だ。
そう言われたわけではない。そういう人もいる、と言っただけだ。
似たようなことなら、これまでにもうんざりするほど言われてきた。そのたびに適当に聞き流してきたではないか。
分かっている。それなのに、腹が立つ。
そんなことを言う人だとは思っていなかった。
そこまで考えて、エレナはさらに苛立った。
そんな人とは、どんな人だ。
自分はユリウス・ヴァイスという人間を、どれほど知っているというのだろう。
統合されてから毎日のように顔を合わせている。仕事の進め方も、考え方も、以前よりは分かるようになった。
分からないことを分からないと言える人だということも知った。自分の得意なことなら驚くほど強引なのに、知らないことになると案外素直に人の言葉を聞くことも。
だからといって、彼が結婚についてどう考えているかなど聞いたこともない。
勝手にそんな人ではないと思って、勝手に腹を立てている。
我ながら理不尽だった。
それに、もう1つ引っかかっていることがある。
ユリウスは、エレナが結婚を決めたと思った。
そして、それをあっさり受け入れた。
いい相手なら家族も喜ぶ、と。
それはつまり、自分が結婚すると聞いても、彼にとってはその程度のことなのだ。
エレナはぴたりと足を止めた。
その程度とは何だ。
何を期待していたのだろう。
上司が補佐官の結婚を聞けば、普通は祝う。
むしろ当然の反応ではないか。
自分だって同じだ。
もしユリウスが結婚すると聞かされたところで――
そこまで考えて、なぜか続きを考えたくなくなった。
「ああ、もうなんなのよ」
誰もいない廊下で、小さく声が漏れた。
そもそも、どうしてあの人はすぐに縁談だと分かったのだ。
部長には身に覚えがありますものね。
そう言ったのは自分だ。
考えてみれば当たり前だった。
侯爵家の嫡男なのだ。
近衛騎士になり、国境防衛の実務へ移り、今では新設された国境防衛管理部の部長をしている。貴族としては少々変わった経歴の持ち主ではあるが、それで侯爵家の嫡男でなくなるわけではない。
縁談など、いくらでも来ているのだろう。
今だって、誰かとの話が進んでいるのかもしれない。
「私には関係ないでしょう」
今度ははっきり声に出た。
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
関係ない。
ユリウスにどれほど縁談が来ていようと、そのうち誰と結婚しようと、自分には何の関係もない。同じ部で働く上司と補佐官なのだから、仕事に支障さえなければそれでいい。
そう結論を出したはずなのに、資料室の扉を開ける手には、まだ妙に力が入っていた。
◆◆◆
資料室から戻ってしばらくすると、エレナはユリウスに呼ばれた。
いつもの部の執務室ではなく、部長用に与えられている個人執務室だった。
扉の前まで来て、エレナは小さく息を吐いた。
先ほどは、明らかに不機嫌な態度を見せてしまった。
資料室で頭を冷やしたつもりだったが、冷静になればなるほど、自分の態度が大人げなかったことも分かってくる。
また結婚の話だったら、同じような態度を取ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら扉を叩くと、すぐに中から返事があった。
「失礼します」
部屋へ入ると、ユリウスは机の前に立っていた。
「これは、きみのだろう」
見覚えのある革表紙が彼の手の中にある。
「あれ?」
思わず服のポケットを探るが、感触がない。
「さっき机の脇に落ちてた」
お礼を言って手帳を受け取ろうとしたが、ユリウスはすぐには渡さなかった。
「その前に、謝っておきたい」
エレナは彼を見る。
「中を見てしまった。見覚えのある地名につられて」
「大丈夫です。特に困ることは書いていませんから」
実際、日記ではない。
訪れた場所と、そこで気づいたことを書き留めているだけだ。
それでもユリウスの表情は晴れなかった。なぜか緊張しているように見える。
「それで、少し聞きたいんだが」
「はい」
「最近、休日によく出かけていると聞いた」
エレナは目を瞬いた。
「え、あ、はい」
「この手帳には日付も書いてある。そういうことか?」
「え、ええ。そうです」
「ここ数か月ずっと?」
「そうなりますかね」
ユリウスが黙った。
何をそんなに深刻な顔をしているのだろう。
「その……いつも誰かと一緒なのか?」
妙に慎重な聞き方だった。
ますます質問の意図が分からない。
「はい。さすがに1人では家族も許してくれませんから。伯爵家の護衛や侍女に同行してもらっています」
「……それだけか?」
「そうですが」
ユリウスが息を吐いた。
それまでわずかに強張っていた肩まで緩んだのが分かった。
ところが本人も、自分の反応に気づいたらしい。一瞬だけ妙な顔をして、すぐにエレナから視線を逸らした。
「そうか。護衛か」
なぜ2度言うのだろう。
「どうかしました?」
「いや」
答えが早すぎた。ユリウスは机の上の書類を意味もなく揃えると、片手で額を押さえた。
「……いや、何でもなくはないな。謝らなければならない」
何度謝る気だろう。
「きみが、休日のたびに同じ男と出かけているという噂を聞いた」
「はい?」
今度は本気で間の抜けた声が出た。
「それとは別に、ローデン伯爵家に縁談があるという話も耳にした。それで先ほど、その……きみが家族に申し訳なく思っていると言っただろう」
こちらから目を逸らし、口元を軽く押さえている。珍しく歯切れが悪い。
「俺は、てっきりその男が縁談の相手で、きみが結婚を決めたと思ったんだ」
「ああ……」
そこまで聞いて、エレナにもようやく話が見えた。
休日のたびに同じ男と出かけている。
伯爵家には縁談がある。
そして自分は、家族に申し訳なく思っていると言った。
「ああ……なるほど」
だから、あんなことを言ったのか。
いい相手なら家族も喜ぶ。女性の幸せは結婚だという人もいる。
意味の分からなかった言葉が、今になって1つずつつながっていく。そして、つながらなくてもいいものまで一緒につながった。ユリウスが自分の結婚を何とも思っていないことに腹を立て、彼にも縁談があるのだろうと考えた。
誰かと話が進んでいるかもしれないと想像して、さらに腹を立てた。
私には関係ないでしょう、と声にまで出した。エレナは急に、自分の顔が熱くなるのを感じた。では、自分はいったい何に腹を立てていたのだ。
ユリウスは最初から、ありもしない結婚を祝おうとしていただけではないか。それなのに自分は彼の縁談まで想像して、勝手に機嫌を悪くした。
恥ずかしい。
「ローデン補佐官?」
「……何でもありません」
「いや、顔が赤いぞ」
「大丈夫です」
「今度は青くなったが」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
むしろ今すぐこの部屋から出たい。
「とにかく俺の早とちりだった。悪かった」
「いえ。事情が分かれば、そう考えるのも無理はないと思います」
できればこの話は、もう終わりにしてほしい。
「だから俺個人としては、結婚が幸せだという考えも特にないし、女性にそれを強いるつもりもなくてだな」
「すみません。理解しました。あまりにも恥ずかしいので、もうそのくらいでお願いします」
「では、謝罪は受け入れてくれると?」
「はい、もちろんです」
エレナは目を閉じて頭を下げた。
◆◆◆
だが、ユリウスはそこで終わらせなかった。
「それで、なぜこんなことをしているのか知りたい」
声が変わった。
先ほどまでの気まずそうな様子が消え、今度は完全に部長の顔をしている。
エレナは手元に戻った手帳を見た。
「なぜ、と言われましても」
「せっかくの休日になぜ第4砦の西門で、午後に何台の荷馬車が通るのか数えてるんだ」
「気になったからです」
「なぜ御者に、どこで切り返すのが1番面倒か聞いてる」
「知りたかったからです」
「第3詰所の夜勤の兵士に、冬場にどの通路を使うか聞いたのも?」
「それも知りたかったからです」
ユリウスはしばらく黙っていた。
「危険なことはしていません。護衛もいます」
「護衛がいるかどうかの話でもない」
護衛、という言葉にユリウスがほんの一瞬反応した。
どうやら本格的に叱られているらしい。
「部長には、模型を見ただけで分かることがありますよね。これでは兵がぶつかる。馬車が曲がりにくい。緊急時の通路を塞ぐ、とか」
「ああ」
「一緒に模型を見ているだけなのに、景色が立ち上がってくるようで。そこで人がどう動くのかまで見えるようで。だから、実際の場所を見てみたくなってしまって」
ユリウスが黙った。
エレナは手帳の表紙を指でなぞった。
「だいたい部長の仰った通りでした。でも実際に行ってみると、模型で見ていたよりずっと広くて、人も馬も動いていて。見ているうちに、もっと知りたくなったんです」
返事がない。
不思議に思って顔を上げると、ユリウスがこちらを見ていた。
「部長?」
「ああ、いや」
今度は彼の方が先に目を逸らした。心なしか顔が赤い。
「それで?」
「初めて行く場所では、どこを見ればいいのかさえ分からないことがあります。図面と実物を見比べても、そこを毎日使う人が何を不便に思っているのかまでは分かりませんから。それなら聞いてみようと思って」
ユリウスの視線が、エレナの持つ手帳へ落ちた。
「……そうか」
その1言だけが返ってきた。
エレナが首を傾げると、ユリウスは咳払いをした。
「ローデン補佐官」
「はい」
「基本的に休日をどう過ごすかは本人の自由だ」
思ったより強い声だった。
「きみが趣味で砦の周りを歩き回ってるなら好きにすればいい。だが、これは違うだろう」
ユリウスが手帳を指す。
「通行量を調べて、施設の使われ方を確認して、実際に使っている人間から話を聞いている。どう考えても仕事だ」
「でも、私が勝手に始めたことです」
「なお悪い」
「なぜです?」
「直属の上司の俺ですら知らなかったんだぞ」
エレナは口を閉じた。
「何かあったらどうする。護衛がいるから怪我をしないとは限らない。事故に巻き込まれることだってある。まして、国境防衛管理部の補佐官が砦の周辺で聞き取りまでしてるんだ。何か問題が起きてから、休日に個人的にやっていましたで済むと思うか?」
それは考えていなかった。
自分では、あくまで個人的に見に行っているつもりだった。
だが現地の人間からすれば、エレナ・ローデンが何の肩書も持たないただの旅行者になるわけではない。
「……すみません」
「それから」
まだあるらしい。
「きみが苦手なことを補うために、休日を使わなきゃならないような仕事のさせ方をしているなら、それは俺の責任でもある」
「違います。私は――」
エレナが何か言い返す前に、ユリウスは手帳を指で叩いた。
「次から勤務扱いにする」
「え?」
「休みは休め」
有無を言わせない口調だった。
「行き先は事前に俺に出すこと。必要なら現地にも連絡を入れる。ただし、普段の様子が見たいなら大げさな視察にはしない。そのあたりは考える」
ユリウスはそう言ってから、少し考えた。
「場所によっては俺も行く」
「部長も?」
「現場を見たいんだろう?」
「はい」
「だったら、俺が何を見てるのか、その場で聞けばいい」
エレナは一瞬、返事を忘れた。
見ても分からなければ、聞けばいい。
これまで自分が現地でしてきたことと、同じだった。
「……分かりました」
「ご家族にも、今後は正式な仕事として行くと伝えておけ。休日のたびに娘が国境まで出歩いていたら、そりゃ心配になって縁談も組みたくなるだろう」
「ああ、それは別問題です」
「……別問題?」
「はい。縁談を受けるつもりなんてありません」
ユリウスがエレナを見た。
「受けないのか?」
「申し訳ないとは思っているんですが」
「……そうか」
短い返事だった。
だが、その直後、ユリウスは明らかに大きく息を吐いた。
エレナはそれを見た。
ユリウスも、自分が何をしたのか気づいたらしい。
一瞬、2人の目が合った。
「……何ですか?」
「いや」
またそれだ。
「何でもない」
エレナはじっとユリウスを見た。
護衛だと知ったときも、縁談を受けないと知ったときも。
どうして私は、この人がどんな顔をするのか、いちいち気にしているんだろう。
先ほどようやく引いたはずの熱が、また頬へ戻ってきた。
分かっている。
自分が気にしているからだ。
だから、ほんの少し息を吐いただけでも意味を探したくなる。
護衛だと知って安心したのではないか。
自分が縁談を断ると聞いて、ほっとしたのではないか。
でも、それは自分がそうであってほしいと思っているから、そう見えているだけかもしれない。
ついさっきも、それで勝手に期待して、勝手に腹を立てたばかりだ。
「では、失礼します」
これ以上考えても仕方がない。
エレナは手帳を持って扉へ向かった。
「ローデン補佐官」
呼び止められて振り返る。
ユリウスは何か言いかけたが1度口を閉じ、結局出てきたのは別の言葉だった。
「……次の休みは、ちゃんと休め」
「分かっています」
返事をして部屋を出た。
扉を閉めてから、エレナはしばらくその場に立っていた。
結局また、最後まで彼の顔色をうかがっていた。
「……不毛だわ」
小さく呟いて、エレナは歩き出した。
◆◆◆
国境防衛管理部では、月に1度ほど、ユリウスとエレナが揃って現地へ出ることが、いつの間にか恒例になっていた。
エレナが休日に現地の様子を見に行っていたことが、勤務としての視察に移行したのだが、当初から2人だけで出かけていたわけではない。部の責任者が2人揃って出向く必要もないだろうと、それぞれが部下を同行させていたはずなのだが、何度か繰り返すうちに、なぜか部下たちの方から辞退するようになった。
理由はもっともらしかった。
ユリウスだけが現地へ行けば、戻ってからエレナが法令や予算に関わる部分を聞き直す。
エレナだけが行けば、今度はユリウスが地形や施設の使われ方について細かく確認する。
何度かそんなことが続いたので、最初からお2人で行ってください、と部下たちから頼まれたのだ。
実際、その方が仕事は早かった。
現地で構造上の問題が見つかればユリウスが確認し、法令や領地間の取り決めが絡めばエレナがその場で拾う。
どちらか1人では持ち帰らなければ判断できなかったことも、その場で話を進められるようになった。
それに、と、ある職員は付け加えた。
「お2人が現地入りの日は、部内で滞っていた仕事をまとめて片づけられますので」
そのときユリウスは、どういう意味だ、と聞き返した。
決裁を必要としない案件に集中できるという意味です、と返ってきたが、何だか歯切れが悪かった。
エレナも少し気になったものの、周囲が妙に熱心に2人での視察を勧めてくることについて、それ以上深く考えることはなかった。
統合されたばかりの頃は、部長と補佐官のどちらかが相手の机へ向かうだけで、職員たちは身構えた。今では多少2人の声が大きくなっても、誰も気にしない。放っておけば、そのうち結論が出る。
職員たち自身も、旧実務課と旧政務課に分かれて相手の判断を待つのではなく、自分たちで相談して処理するようになっていた。部長と補佐官が1日いなくても、部は問題なく回る。
統合された組織としては、たぶん健全なことだった。
そしてもう1つ。
2人を一緒に送り出すことについて、職員たちの間には言葉にするまでもない共通認識ができつつあったのだが、それを本人たちに教える者はいなかった。
そんなわけで、その日も2人は揃って東部の国境砦にいた。
目的は、東門周辺の改修案をまとめることだった。
「やっぱり詰まりますね」
2人が並んで見つめる先では、門を抜けた馬車が兵舎側へ大きく向きを変えようとしていた。
その間、後ろの荷車が止まり、反対側から来た兵士たちも道を譲っている。
エレナは手元の記録用紙に目を落とした。
部に置かれた模型で想定したのと、ほとんど同じ動きだった。
「まあ、模型を見た時点で分かってたけどな」
隣から記録用紙を覗き込んできたユリウスが、得意げに鼻を鳴らした。
口元までわずかに緩んでいる。
嫌だなあ。
それを可愛らしいと思うのは、もうかなり重症ではないだろうか。
「その模型を使って、現地調査が必要だと判断したのは部長ですよね?」
「念のためだ」
「では、念のため来てよかったですね」
エレナは記録用紙を挟んだファイルをいったん閉じ、鞄へしまった。
模型で予想したことが実際に起きているのは確認できた。
だが、今日ここへ来たのは、それを確かめるためだけではない。
「実際に使っている方にも話を聞いてみます」
「俺も行く」
「部長は模型で全部分かるのでは?」
「大体はな」
先ほどまでの得意げな顔のまま答えるので、エレナは何も言わず歩き出した。
最初に声をかけたのは、荷下ろしの順番を待っていた御者だった。
この門を使うのは週に何度ほどか。混雑する時間帯はいつか。馬車を入れる際に不便に感じることはないか。
1人に尋ねると、そこから模型にも図面にもなかった話が出てきた。
強い雨が降ったあとは門の内側に水が溜まり、馬がそこを嫌がるため、普段より兵舎側へ寄って通るのだという。
別の御者からは、冬場は日が落ちる前に搬入を済ませようとする馬車が増え、兵の交代時刻と重なりやすいと聞いた。
さらに門の警備を担当する兵士によれば、荷下ろし場が埋まっていると、入ってきた馬車が門の内側で待つしかなくなるらしい。
エレナは1つずつ記録用紙に書き加えていった。
図面には排水路がある。模型にも、馬車が通るために必要な幅は正確に再現されている。それでも、雨の日に馬がどこを嫌がるのかまでは載っていない。
一通り話を聞き終え、2人は再び東門の内側へ戻った。
「なかなかの収穫でしたね」
エレナが言うと、ユリウスは東門から兵舎までを見渡した。
「ああ。特に雨の日や排水については知れてよかった。やはり来てみるべきだな」
先ほどまで模型を見た時点で分かっていたと得意げにしていた人とは思えないほど、あっさりしたものだった。
けれど、こういうところもエレナはもう知っている。
自分に分かることには妙に自信満々なのに、分からなかったことは案外あっさり認める。
模型で分かることもある。
実際に見なければ分からないこともある。
そして、見ても分からなければ、そこで毎日働き、使っている人に聞けばいい。
ユリウスは東門と兵舎の中ほどまで歩くと、その場に片膝をついた。
地面を見ながら何かを測るように視線を動かし、やがて両手を大きく広げる。
「ここをこれくらい拡張できたら解決するな」
エレナは図面と実際の位置を見比べた。
「無理ですね。防壁との必要距離を確保できません」
「相変わらず早いな」
そう言いながらも、ユリウスの声に以前のような苛立ちはない。エレナの方にも、彼の案を退けたという感覚はなかった。ならば別の方法を探せばいい。
防壁を動かす案は、その下を通る排水路に干渉した。排水路をずらせば、今度は必要な勾配を確保できそうにない。
ユリウスはそれを聞くたびに別の場所へ視線を向け、しばらくして軽く吹き出しながら立ち上がった。
「何を言っても早いな」
エレナも図面から顔を上げた。
以前なら、このあたりで互いに意地になっていたかもしれない。
現場では必要だ。規定上できない。
それぞれが自分の正しさを主張して、相手を納得させようとしていた。
今は、できないと分かれば次を探すだけだった。
エレナはもう1度、東門から兵舎までを眺めた。
先ほど話を聞いた御者と兵士の言葉を思い返す。
馬車が曲がりにくい。けれど、それだけが問題ではない。荷下ろし場が埋まっていれば、門の内側で待つしかなくなる。視線を先へ動かすと、普段は資材の一時搬入に使われている通路があった。
「もう少し先に、退避場所を作りましょうか」
ユリウスがエレナを見る。
「この先に? 不便にならないか?」
「門の内側で待つ必要がなくなる分、便利になりませんか?」
エレナは歩きながら、その先を指した。
「こちらの通路です。普段は資材の一時搬入に使っていますよね」
ユリウスはすぐには答えず、周囲を見回し、通路の幅を確かめる。門から入った馬車がそこまで進み、荷下ろし場が空いてから移動する様子を頭の中で追っているのだろう。
やがてエレナの示した場所まで歩くと、そこからもう1度東門を振り返った。
「なるほど」
しばらく考えてから、うなずく。
「それならいけるな」
「法令上も、この場所なら問題ありません」
「排水は?」
「今のままで大丈夫です」
「そうか。いいかもしれないな。検討しよう」
ユリウスが模型を見ただけで分かることを、以前のエレナは不思議に思っていた。
それは今でも変わらない。自分にはできない。それを残念に思う気持ちもある。
けれど、自分にすんなりと見えるものもある。
それができないと言われると、少し不思議な気もする。
案外ユリウスにとっても、他の人にとっても、そんなものなのかもしれない。
自分には当たり前のことが、誰かにとっても当たり前とは限らない。
だから、見えないものなら聞けばいい。自分に見えるものは、伝えればいい。
それでいいのだと思う。
◆◆◆
一通りの確認を終えたころには、午後も半ばに差しかかっていた。
昼の盛りは過ぎ、日もわずかに西へ傾いている。今日予定していた視察は、これでひとまず終了だった。王都までの道のりを考えれば、そろそろ帰路についた方がいい。
2人で改めて東門を眺めていると、不意にユリウスが口を開いた。
「ああ、そうだ。今度の休みなんだが」
エレナは手元の図面から顔を上げた。
「どこかへ行くんですか?」
「どこに行こうか」
「え? 視察ですか? 駄目ですよ。部長がおっしゃったんですよ。休みは休むものだと。視察なら勤務日にしてください」
あれ以来、エレナが休日を使って現場へ出ることはなくなった。現地を見る必要があるなら仕事として予定が組まれ、必要な担当者にもあらかじめ連絡できる。聞き取った内容も正式な記録として残せる。そして何より、休日は休める。自分がどれほど無茶なことをしていたのか、今となってはエレナも認めていた。
「休みの日に仕事を持ち込むのは駄目です」
「分かってる。だから仕事じゃない」
「では?」
「休みの日に、仕事なしで一緒に出かけないかと誘ってるんだ」
しばらく意味が分からなかった。
意味が分かったあとも、エレナは何も言えなかった。
先ほどまで法令のことを打てば響くように答えていたのと同一人物とは思えない。口を開きかけては閉じ、結局何の言葉も出てこない。その顔が次第に赤くなっていくのを見て、ユリウスの口元が緩んだ。
「どうした」
「いえ」
ようやくエレナの声が出た。
「それは……どういう意味でしょうか」
今度はユリウスが黙った。
ここまで言って、まだ足りないのか。一瞬そう思ったものの、すぐに苦笑した。
自分に見えているものが、相手にも見えているとは限らない。それは嫌というほど知ったはずだった。
「エレナ」
初めて呼ばれた名前に、エレナの肩がわずかに揺れた。
「きみが好きだ」
聞けば分かる。それほど簡単な言葉だった。
「今度の休日、仕事抜きで俺と出かけてほしい」
仕事抜きで。
その言葉が、妙にはっきりと耳に残った。
エレナは俯いた。
自分が勝手に期待して、勝手に彼の言葉に腹を立てたあの日から、本当はもう分かっていたのだと思う。
視察に一緒に行くのが嬉しい。彼に認められるのも嬉しい。外国語の練習をする時間も、いつの間にか楽しみになっていた。それでも、自分だけの気持ちなら、胸の内にしまっておけばいいと思っていた。仕事をしている限り、隣にはいられるのだから。
だが今、ユリウスの方から仕事ではない時間に会いたいと言った。
「……分かりました」
どうにか声にすると、ひどく小さくなった。これでは聞こえなかったかもしれない。
そう思って顔を上げると、ユリウスは先ほどまでとは違う顔をしていた。いつもの、自分の判断に疑いなどないような顔ではない。少しこちらをうかがうような目をしている。しかも、頬がわずかに赤いように見えるのは気のせいだろうか。
そのことに気づいて、エレナはようやく思い至った。
自分だけが返事を怖がっていたわけではないのだ。
「次のお休みは、空けておきます」
今度はきちんと聞こえるように言った。
けれど、少し強く言いすぎただろうか。
自分の顔もきっと赤い。そう思うとなんだか悔しくなって見上げたのに、ユリウスのほっとしたような表情を見た途端、一気に恥ずかしくなった。
「よかった」
ユリウスが息を吐いた。
それから、少し困ったように東門の向こうへ目をやった。
「それで、どこへ行く?」
「決めてないんですか?」
「誘うことだけで精いっぱいだった」
意外な言葉だった。
現場へ来れば、どこを見るべきかすぐに分かる人なのに。地形を見れば道を選び、模型を見れば人や馬の動きまで思い浮かべる。そんな人が、休日に自分とどこへ行くかは分からないらしい。
エレナは思わず笑った。
「では、それぞれ候補を考えておきませんか?」
「そうするか」
ユリウスも笑う。
すぐに行き先を決める必要はなかった。次の休日に会う。今は、それだけ決まっていれば十分だった。
少し離れたところで、砦の職員たちが片づけを始めている。そろそろ本当に戻らなければならない。エレナが図面を鞄へしまい、2人は門へ向かって歩き出した。
いつもと同じだった。視察を終えれば、2人で王都へ戻る。次の勤務日にはまた同じ執務室へ行き、同じ机を挟んで、規則だ現場だと言い合うのだろう。
ただ、次に2人で出かける日は仕事ではない。
しばらく歩いたところで、ユリウスがおもむろに口を開いた。
「そうだ。先にローデン伯爵家に挨拶しに伺った方がいいか?」
エレナは足を止めた。
「……何のです?」
「娘さんを休日に連れ出すなら、必要なことかと思うんだが」
仕事では大胆なくせに、こんな時にしっかり律儀なのは、侯爵家の嫡男だからなのか。それとも、単にこの人がこういう人なのか。おそらく両方だろう。
「やめた方がいいです。挨拶にいらしてくださったりしたら、絶対にうちは大騒ぎになります」
「そうなのか?」
「侯爵家の嫡男が娘を訪ねてきたとなれば、父も母も大喜びします。きっと私をどうにか押しつけようと、山のような書類を出してきますよ。法的に逃げられないようにされます。そういう家なので」
自分が法や規律に興味を持ったのは、主に家の影響なのだ。
簡単に想像できる。嬉々として書類にサインを求める父母の様子が。
それを何とか説明しているというのに、ユリウスは、そうか、そういう家で育ったということか、と笑みを深めた。
「ハハ。なるほど。それは是非行かないとな」
エレナはユリウスを見た。
この人は分かって言っているのか。
どこまで本気なのか分からない。
けれど、きっと自分の顔は真っ赤になっている。そして目の前のユリウスも、同じように赤くなりながら、穏やかに微笑んでいる。
「言いましたね? では、そうしますか?」
ユリウスは一瞬目を見開いたが、すぐに頷いた。
「ああ。実際に行った方が、分かることも多いに決まってるからな」




