前編
※本文中に挿絵を2枚掲載しています。
この国の防衛を担う防衛庁。
その中で国境防衛を担当する国境防衛局には、長いあいだ仲の悪い2つの課があった。
国境の砦や街道、城壁などの防衛設備を実地に調査し、警備計画を立てる国境防衛実務課。
それらに必要な予算を組み、法令を整え、領主や他国との折衝を担う国境防衛政務課。
実務課が現地の事情に合わせて計画を変更すれば、政務課から「承認されていない」と差し戻される。
政務課が法令に沿って計画を修正すれば、実務課から「これでは現場で使えない」と突き返される。
同じ案件が停滞したまま、両課の間を何度も往復することも珍しくなかった。
両課を統括する国境防衛局長も、長年続くこの状況にはほとほと困り果てていた。
そしてとうとう上層部に掛け合った結果、2つの課はこのたび統合され、国境防衛管理部として新たに発足することとなった。
初代部長には、旧国境防衛実務課を事実上取り仕切っていたユリウス・ヴァイス。
そしてその補佐官には、旧国境防衛政務課の実務責任者だったエレナ・ローデン。
人事を言い渡した局長は、2人を前にして笑いもしなかった。
「互いの仕事がそんなに簡単に見えるのなら、これからは同じ部屋でやれ。嫌でもそれぞれの苦労が分かるだろう」
◆◆◆
「この書類では上に出せません」
新しい執務室で一緒に仕事を始めて3日目、エレナはユリウスの机に計画書を戻した。
赤い印が1つ付いている。北部街道、第4警備拠点の移設箇所だった。
エレナは計画書の端を指で押さえた。
「隣の領地との境界線を10メートル超えています」
エレナ・ローデン。王立学院を首席で卒業し、18歳で王宮入り。法令と外交文書を扱わせれば、王宮でも指折りの才媛。淡い亜麻色の髪はきっちりとまとめられ、服装にも乱れがない。整った顔立ちも相まって、いかにも隙のない人物だった。
そして、旧政務課を代表するにふさわしい融通の利かなさ。
旧実務課の人間が彼女の名を口にするときには、たいてい最後の1言までが1組だった。
ユリウスはこっそりとため息をついた。エレナの話はずっと続いている。
「移設するなら、隣接する2領との協議が必要です。片方の領主だけに許可を取れば、もう片方が自領の街道警備に干渉したと抗議してくる可能性があります」
ユリウスには、目の前にあの街道が見えていた。
北へ10メートル。ただそれだけだ。
そこに境界を示す壁があるわけでも、地面の色が変わるわけでもない。兵の命を守るための警備拠点を、最も適した場所へ動かす。それ以上でも以下でもなかった。
だがエレナには、同じ10メートルの間に2つの領地と、それぞれの領主の権利、その先に起こり得る揉め事まで見えているらしい。
「協議に何日かかる」
「早くて10日です」
「7日で終わらせろ。この辺りはもうすぐ岩角鹿の繁殖期に入る。移転が遅れれば、兵が危険な目にあうかもしれん」
「できません。今日取りまとめた書類を投函しても到着だけで2日かかります」
やはり融通が利かない。
そう思いながら、ユリウスは計画書を引き取った。
一方のエレナもユリウスの机を離れながら、やりにくさを感じてため息をつく。
侯爵家嫡男でありながら近衛騎士となり、やがて防衛実務へ移った変わり種。地形を1度見れば忘れず、砦を歩けば図面を開くより早く兵の配置を決める。剣術、馬術ともに優秀で、現場からの信頼も厚い。
長身で、近衛騎士だった名残を感じさせる体格をしている。暗い髪に端正な顔立ちで、黙っていればいかにも侯爵家の令息らしく見える。
だが、印象は最悪だ。規則や手続きを軽んじ、政務課に文句ばかり言う。
同じ部署になっても、なにも変わらない。
3日目にして、早くも頭が痛かった。
そんな調子で、最初の1か月、2人はほとんど毎日のように衝突した。
国境の村を通る軍用街道を拡張したいユリウスと、住民への補償と移転の手続きを先に済ませるべきだと主張するエレナ。
老朽化した国境橋をまだ使えると判断するユリウスと、検査基準を満たしていない以上、重量のある軍用馬車は通せないとするエレナ。
砦の夜間警備では、侵入の難しい崖側の兵を減らしたいユリウスに、エレナが規定上の最低人数を突きつけた。
そのうち、どちらかが相手の机へ近づくだけで、本人も周囲の人間も身構えるようになった。
今度は何だ。今度はどこが気に入らない。
話し始める前から互いにそんな顔をしているのだから、当然、話し合いも穏やかには始まらない。
1か月も経つころには、2人とも相手の顔を見るだけで疲れを感じるようになっていた。
ところが。
奇妙なことに、仕事そのものは以前より進んでいた。
統合前なら、北部街道の1件だけでも、実務課から政務課へ計画書を送り、問題を指摘されて差し戻され、実務課が再案を作ってまた政務課へ送る。その間、書類は担当者と上司の間でも行き来する。
今は、エレナが数歩歩けばユリウスの机がある。
書類を往復させるより、本人たちが直接言い合った方がよほど早かった。
かつて両課の間で書類を運び、そのたびに差し戻しの理由や相手方への文句まで預けられていた連絡役の職員たちは、責任者同士が直接やり合うようになったことに、ひそかに胸をなで下ろしていた。
その日、2人の間に置かれていたのは、国境を流れる川に架かる橋の補修計画だった。
橋脚の一部が傷んでいる。ユリウスは支柱の位置そのものを変えたかったが、その橋は隣国との共同管理だという。
「構造を変えるなら、先方の承認が必要です」
またか、とユリウスは思った。
以前なら、そこで書類を突き返されて終わっていただろう。
ところが今は、目の前に突き返した本人がいる。
いつものように否定するのではなく、質問してみようと思ったのは、もういい加減、言い合うことに疲れていたからかもしれない。
「どこまでなら承認なしでできる?」
まず否定されるだろうと身構えていたエレナは、少し目を瞬いてから図面に目を落とした。しばらく視線を走らせてから、支柱の1本を指した。
「位置を変えず、補強するだけなら補修扱いにできます」
「強度は?」
「必要な数値を満たせば問題ありません」
ユリウスは図面を引き寄せ、支柱の脇に線を引いた。
「なら、ここをこうする」
エレナが机越しに身を寄せ、彼の引いた線を追う。
「それなら予算もこちらだけで出せます」
決まった。
数分だった。
2人は顔を見合わせた。
何だか、あっさり話がついてしまった。
精神的に楽になったかどうかは、まったく別の話だったが。
それでも、このやり方の方が効率がいいことだけは認めざるを得なかった。
どうにも釈然とはしなかったが。
◆◆◆
統合から2か月ほど経ったころ、翌朝の会議に必要な資料を置き忘れたことに気づいたユリウスは、夜も更けてから王宮の執務室へ戻ってきた。
部長のユリウスと補佐官のエレナには、国境防衛管理部の共同執務室とは別に、それぞれ個室が与えられている。政務と実務を取りまとめる立場上、日中はほとんど同じ部屋で仕事をしているが、統合前から引き継いだ資料も多く、個室の方も資料室を兼ねた第2の執務室のようになっていた。
必要な資料を手にして廊下へ出ると、エレナの部屋にまだ明かりがついていた。
こんな時間まで何をしているのだろう。
特に用事があるわけではなかったが、素通りするのも気が引けた。統合後、エレナの仕事が増えていることはユリウスも承知している。その一端は、部長である自分の補佐を任せているせいでもあった。
扉を叩いたが返事はなく、もう1度叩いてみても、やはり中から反応はない。
「ローデン補佐官?」
声をかけながら、そっと扉を開けた。
初めて入る部屋だった。
造りは自分の個室と同じはずなのに、印象はまるで違う。壁1面に設えられた棚には、書類の束や分厚い綴りが隙間なく、それでいて驚くほど整然と並んでいた。
そして反対側の棚を見て、ユリウスは足を止めた。
そこには白い立体物がいくつも並んでいた。紙で作られた模型らしい。精巧な工芸品というわけではない。厚紙を切り、折り、貼り合わせただけの簡素なものだが、それぞれに城壁があり、塔があり、門がある。砦や関所らしきものもあり、よく見ればどれも見覚えのある施設だった。
奥の机では、エレナが新しい模型を作っていた。
いつもきっちりとまとめられている亜麻色の髪から、細いひと房が頬に落ちている。それにも気づかないほど集中しているらしく、扉が開いたことにも気づいていない。
机の端や床には、切り落とした厚紙の小さな欠片がいくつも散らばっている。
ユリウスはしばらくその様子を眺めていたが、作りかけの形に見覚えがあることに気づいた。
「それは南部砦か?」
エレナの肩が大きく跳ねた。
振り向いた顔には、普段の彼女からは想像できないほど、はっきりと狼狽が浮かんでいる。
「ヴァイス卿」
「ああ、驚かせてすまない。まだ明かりがついていたから気になった。何度か声はかけたんだが」
「気づきませんでした。失礼しました」
エレナは慌てて立ち上がりかけ、それから机の上を見て、どこか気まずそうに手を止めた。
「明日の会議資料を確認していたんです」
「資料?」
机には南部砦の改修図面が広げられている。
ユリウスは図面と模型を見比べた。簡素な作りではあるが、縮尺はほぼ正確で、細かな高低差まできちんと再現されているように見えた。
改めて棚へ目を向けた。
「もしかして、あれも全部きみが?」
「はい」
「すごいものだな」
感心して言ったつもりだったが、エレナはなぜか褒められた顔をせず、少し迷った末に模型へ目を落とした。
「苦手なんです」
「何が?」
「こういう図面が」
意外な答えに、ユリウスは改めて机の上を見た。
「図面自体は読めるんだろう?」
「はい。平面図も断面図も立面図も、それぞれなら問題ありません。縮尺も角度も計算できます。ただ、それを頭の中で1つにするのが、少し」
ユリウスは模型を見た。
棚に並ぶいくつもの白い建物の意味が、ようやく分かった。
少し、ではないのだろう。だから毎回、実際に形を作って確かめている。
「これを毎回作るのか?」
「必要なものだけです」
「大変だろう。こんな時間までかかって」
「でも、私には必要なので」
その言葉には、恥じるような響きも、言い訳めいたところもなかった。
できないなら、別の方法で補う。
エレナにとっては、それだけのことなのだろう。
ユリウスは何気なく模型へ目を戻したが、ふと眉を寄せ、再び図面と見比べた。
「この塔、向きが逆じゃないか?」
「まさか」
エレナが即座に答えた。
「逆だ」
エレナは平面図と立面図を交互に確かめ、それから模型へ視線を移したが、それでもどこが違うのか分からないらしい。
ユリウスは模型の1角を指した。
「入口がこっちなら、張り出しは反対側になる。模型を回してみろ」
言われた通りにエレナが模型を回し、正面に置いていた平面図と見比べると、その手が止まった。
「あ」
もう1度模型を回し、今度は図面を引き寄せる。
「ああ、本当ですね。気づきませんでした。ありがとうございます」
ほっとしたのだろう。エレナの顔に、ぱっと笑みが広がった。
普段の執務室では見たことのない顔だった。
整った顔立ちであることは、もちろん知っていた。だが仕事中はいつも隙がなく、こんなふうに無防備に笑うところなど見たことがない。
ずいぶん印象が変わるものだ。
そう思ったことを妙に意識して、ユリウスは図面へ目を戻した。
「何か違うとは思っていたのですが、それが分からなくて困っていました。すごいですね。しかも即座に」
「まあ、慣れているからな」
図面を見れば、その先に実物が立ち上がる。それはユリウスにとって昔から当たり前のことだった。だがそれを今口にすれば、これらの努力を無下にしているように思えた。
「これで法定基準にも合います。よかった」
安心したようにエレナが模型を整えたが、ユリウスは返事をせず、しばらく模型を眺めていた。
今度は別のものが気になった。
「いや、ちょっと待て。これ、もらうぞ」
床に落ちていた厚紙の切れ端を拾う。
「どうぞ」
ユリウスは図面に記された寸法を確認しながら、厚紙を小さな長方形に切って模型の上に置いた。エレナが不思議そうに覗き込む。
「何ですか、それ?」
「荷馬車」
ユリウスは長方形の紙を門へ通し、その先で向きを変えようとした。すると厚紙の端が壁にぶつかった。
「ここは荷馬車が通るんだろう?」
「はい」
「図面の寸法上は通る。だが、この角度だと曲がりにくいな」
エレナも模型を覗き込む。
ユリウスはさらに厚紙を2つ小さく切り、道の上に並べた。
「これは馬だとして」
「馬、ですか?」
「ああ。こっちは兵が馬で移動するときにも使う。ここですれ違うなら、余裕がなさすぎる」
エレナは模型の上に置かれた紙片と図面を見比べた。
「でも、法規上必要な道幅は満たしています」
「そうだな」
ユリウスはあっさり認めると、模型の中の小さな紙片を指先で動かした。
「基準を満たすことは必要だ。だが、実際に使う人間が不便なら、それだけで十分とも言えないだろう」
エレナは答えず、荷馬車に見立てた長方形を自分でも動かしてみた。
門を抜けることはできる。だが、その先で向きを変えようとすると、やはり壁に当たる。
「確かに。そこまでは気づきませんでした」
「俺もだ」
ユリウスは模型を見たまま答えた。
「これだけ縮尺が正確だから気づけたんだ。完全に見落としていた」
エレナが顔を上げた。
「むしろ助かった。感謝する。明日の会議でもこれを使おう。いや、今後は模型を作る担当を置いてもいいかもしれないな。図面だけで話すより、よほど分かりやすいし伝わりやすい」
思いがけない言葉に、エレナは返事を忘れた。
模型を作っているところを見られたときは、少し気が重かった。
図面を見れば分かることを、自分はわざわざ紙を切り、折り、貼り合わせなければ理解できない。必要だから続けてきただけで、決して人に誇れることだとは思っていなかった。
けれどユリウスは、彼女が図面を立体として捉えられないことにはほとんど頓着せず、出来上がった模型を見て、そこに荷馬車と馬を置いた。
そして今度は、それを部署の仕事に使おうと言っている。
エレナは机の上を見た。
自分が作った南部砦の中に、ユリウスが適当に切った長方形の荷馬車と、とても馬には見えない2つの紙片が置かれている。
自分1人で作っていたときより、ずっと妙な姿になっていた。
それなのに、今まで作ったどの模型よりも、本物の砦に近いような気がした。
「分かりました。明日の会議までに、もう少し見やすくしておきます」
「いや、今日はもう帰れ」
「ですが、この馬では何だか分かりません」
「馬だと言えば分かる」
「模型を使う意味がありません」
「十分あるだろう」
やはりこの人とは、細かいところで話が合わない。
そう思ったのに、なぜだか笑えてきた。
◆◆◆
季節が1つ変わる頃、外国使節との協議を翌日に控え、ユリウスは1人で執務室に残っていた。
相手国の言葉で書かれた挨拶文を、何度も口にする。
読み書きには不自由しない。文法も語彙も分かる。
だが、その国の言葉には自国語に存在しない音がいくつかあった。
学院に入るまで外国語を耳にする機会がほとんどなかったユリウスには、そのうち2つがどうしても同じ音に聞こえる。
聞き分けられないものを、発音し分けるのは難しい。
これまでなら、それでも問題にはならなかった。
外国人との交渉は政務側の仕事だった。ユリウスは現地を調べ、必要事項を王国語で報告すればよかった。
だが今は違う。
国境防衛管理部の部長として、外国使節の前に立つのは自分だった。
「レシュ――リェシュ」
自分でも違いが分からない。
しかし、やるしかない。
「レ――」
「違います」
ユリウスは本気で肩を跳ねさせた。
振り向くと、扉のところにエレナが立っている。
「ああ、驚いた。いつからいた」
「3回目くらいです」
笑われると思ったが、エレナは笑わなかった。
「少しよろしいですか」
エレナは向かいに座ると、ユリウスが苦戦していた2つの音を順に発音した。
「今の2つの違いが分かりますか?」
「いや。……まったく同じに聞こえる」
「では、発音の練習はいったんやめませんか?」
「協議は明日なんだが」
「明日は私が通訳として補佐します。今の状態で無理に発音するより、必要なところはこちらに任せてください。それより、まず音の違いを聞き分けられるようになった方がいいかと思います」
ユリウスは手元の挨拶文を見た。
部長である以上、自分で話せるに越したことはない。だが、明日までにどうにかなると意地を張るほど、楽観的でもなかった。
「分かった。頼む」
「はい」
エレナは椅子を少し動かし、ユリウスの正面に座り直した。
「まず、こちらを1、こちらを2とします」
そう言って、それぞれの音を発音する。
「これから私がどちらかを発音します。1か2か、答えてください」
「それで分かるようになるのか?」
「少なくとも、今よりは」
エレナが片方の音を発した。
「どちらです?」
「……2」
「違います」
続けてもう1度。
「2」
「当たりです」
「いや、聞き分けたわけじゃない。たまたまだ。もう1度頼む」
それから何度か繰り返したが、当たったり外れたりで、ユリウス自身にも違いが分かっている様子はない。
「これは?」
「1」
「違います」
「ああ、クソッ」
エレナは思わず口元を緩めた。
「笑ったな」
「笑っていません」
「今、笑っただろう」
「気のせいです。もう1度いきますよ」
再び音を聞かせると、ユリウスは今度こそ当てようとするように、真剣な顔で耳を澄ませた。
自分には何の苦もなく聞き分けられるものを、ユリウスはこれほど真剣に聞こうとしている。
考えてみれば、彼にはエレナの答えが正しいかどうかを確かめる術さえない。それでも「違う」と言えば疑わず、もう1度聞かせてくれと頼んでくる。
もちろん、エレナがわざと間違ったことを教えるはずもない。
けれど、それとユリウスが疑いもせず自分を信じることとは、少し違う。
現場のこととなれば誰よりも自信に満ち、納得できない意見には相手が誰であろうと食い下がる。そのくせ、自分に分からないことは分からないと認め、分かる人間の言葉を素直に頼る。
案外、この人は素直な人なのかもしれない。
そんなことを思うと、目の前の姿が少し違って見えた。
いつも自信ありげに仕事をしている男が、今は必死に耳を澄ませ、自分の真似をするように何度も口を動かしている。
その姿を、エレナは不意に可愛らしいと思った。
そう感じたことに自分でも戸惑い、誤魔化すようにもう1度、ゆっくりと2つの音を発音する。
「こうして少しずつ音に慣れていきましょうか。私でよろしければ、お付き合いします」
「ああ。迷惑でなければ助かる」
「では、もう1度いきますよ」
エレナが発音すると、ユリウスは目を閉じ今度こそ聞き分けようと耳を澄ませた。
「どちらです?」
しばらく考えてから、ユリウスが答える。
「……2」
「違います」
「もう1度」
エレナは小さく笑って、再び同じ音を聞かせた。
この夜を境に、2人の仕事には、それまでなかった時間が加わることになった。
◆◆◆
問題が起きたのは、北部の砦だった。
改修中の仮設通路が崩れたのだ。
死者はいなかったが、兵士3人が負傷し、そのうち1人は重傷だった。
報せを受けたユリウスは、その日のうちに現地へ向かった。
事故原因を巡って、現地では意見が真っ向から対立していた。
補修に必要な資材の変更許可が下りなかったと主張する現場側と、許可も出ていないのに勝手に仮設構造を変更したことが原因だとする事務方。
どちらも、自分たちに責任はないと言う。
4日後王都へ戻ったころには、ユリウスもさすがに疲れ切っていた。
「参りますよね」
同行していた部下が、執務室へ入るなり吐き捨てるように言った。
「規則だ規約だばかり言っているから、こうなるんですよ。現場のことなんか何も分かっちゃいない」
ユリウスはすぐには答えなかった。
担架で運ばれていった若い兵士の顔が浮かんだ。
現地では、担当の政務官から何度も同じ説明を聞かされた。
規則に則って処理した自分たちに落ち度はない。
その通りなのかもしれない。
だが、負傷者が出ているというのに、自分たちに責任がないことばかりを繰り返す態度には、ユリウスも苛立っていた。4日間それに付き合わされた部下が鬱憤を溜めるのも無理はない。
「まあな」
疲れた頭のまま、ユリウスは答えた。
「結局、紙の上の処理だけで仕事をした気になられてもな」
口にした直後、視界の端に人影があることに気づいた。
扉のそばに、エレナが立っていた。
ユリウスの思考が一瞬止まる。
王宮へ戻る時刻は予定より大幅に遅れていた。すっかり無人だと思い込んでいたのだ。
待っていてくれたのか。
その腕には、何冊もの書類が抱えられている。
目が合った。
エレナの表情は、いつもとほとんど変わらなかった。
それなのに空気がピンと張った気がした。
「こちらは事故関連の資料です」
それだけ言って、ユリウスの机まで歩いてくる。
「過去5年間の同種事故と、関連法令をまとめました」
机の上に、書類が重ねられた。
普段ならエレナともだいぶ気安く話すようになっていた部下も、さすがに何も言わなかった。
「あ、ああ。ありがとう」
エレナは一瞬だけ目を伏せた。
「お疲れでしょうから、報告は明日伺います」
いつもと同じ、落ち着いた声だった。
それからユリウスと部下に向かって一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まった。
ユリウスは追いかけることもできず、机の上に置かれた書類を見た。
一番上には、エレナの字で細かな付箋がいくつも貼られていた。
「……聞かれましたね」
やがて部下が、気まずそうに言った。
◆◆◆
事故から2週間経ったが、北部砦の事故処理はまだ続いていた。
当初は単純に見えた責任の所在も、調べれば調べるほど曖昧になっていった。
資材変更の許可に時間がかかったことは事実だったが、現場が許可を待たず仮設構造を変更したことも、事故の一因だった。
では、規則通り許可が下りるまで待っていればよかったのかというと、それでは補修作業そのものが止まり、別の危険が生じていた可能性がある。
つまり、どちらか一方が間違っていたという話ではなかった。
ユリウスが驚かされたのは、エレナが事故の夜に置いていった資料だった。
そこには事故原因だけではなく、今回問題になった規則が、いつ、どんな理由で定められたのかまでまとめられていた。過去の改定記録や、そのきっかけになった事故にも遡っている。
現場判断で代替資材を使った仮設設備が、雨によって強度を失い崩落した事故。
責任者の判断だけで工法を変更し、必要な検査が省かれたことで起きた事故。
一見すると面倒なだけに思える手続きの向こうには、それが作られる理由になった出来事がある。
そのほとんどを、ユリウスは知らなかった。
自分の執務室に入ってきたエレナに、ユリウスは頭を下げた。
「あの夜の発言について謝りたい。悪かった」
エレナは少し目を見開いた。
「あれは、私に向けておっしゃったことではありませんよね」
「ああ。だが、していい発言ではなかった」
言い訳を口にする気にはならなかった。
疲れていたことも、現地の事務方に苛立っていたことも事実だ。
だが、それで口にした言葉が消えるわけではない。
「それに、これで気づかされたことも多かった」
机の上には、エレナがまとめた1冊の資料が置いてある。
付箋の数は、渡されたときより増えていた。
「事故の原因だけ調べればいいと思っていた。どこで判断を間違えたのか、誰が何を省いたのか。それが分かれば、そこを直せばいいと」
だが、それだけでは今回の事故を防ぐために、何を変え、何を残すべきなのか判断できない。
なぜ、その規則があるのか。
何を防ぐために作られたのか。
今までユリウスは、そんな視点で規則を見たことがなかった。
そこまで知らなければ、邪魔だからという理由だけで取り払うこともできない。
「紙の上にしかないと思っていたものの向こうにも、現場があったのにな」
口にしてみると、妙な話だった。
図面から実際の空間を想像することが苦手だと話したエレナは、模型を作ることで、自分から現場へ近づこうとしていた。
なのに自分は、規則の向こうにあるものを見ようともしていなかった。
見えないものが違っただけなのに。
「待ってください。私も至りませんでした」
エレナは静かに言った。
「あの事故では、私も考えさせられました。規則が必要な理由を知っていることと、それを現場でどう運用すべきか分かっていることは、同じではありませんから」
ユリウスはしばらく彼女を見て、それから小さく笑った。
「きみらしいな」
「どういう意味ですか?」
「俺が謝ってるのに、自分の反省まで始めるところが」
エレナはわずかに眉を寄せた。
「事実ですから」
「そういうところだ」
今度はエレナも、それ以上は言い返さなかった。
事故の夜以来、2人の間に残っていたわずかな居心地の悪さが、ようやく薄れた気がした。
話を終えて共同執務室へ戻ると、ユリウスは自分の机の脇から紙束を取り出した。
「そうだ。これも見てほしい」
エレナが受け取る。
最初の1枚に目を通し、2枚目をめくったところで、その表情が変わった。
「緊急補修時の手続きについて、改めて考えてみたんだが」
「部長が?」
驚かれるのも無理はなかった。
これまでのユリウスなら、現行の手続きが現場で使えないと思えば、そのまま政務側へ改善を要求していた。
「今までなら、政務課に『何とかしろ』と言って終わってただろうな」
「おそらく」
即答されて、ユリウスは苦笑した。
「だから今回は、自分で考えてみた」
事故現場で聞いた話を思い出しながら、何があれば現場の人間が困らないのかを1つずつ考えた。
通常の許可を待つことで危険が増す場合には、現場責任者の判断で一部の変更を認める。ただし、構造そのものに影響する変更は認めない。代替資材を使用した場合には、可能な限り早く報告し、改めて安全確認を行う。
今回のような事故を2度と起こさず、それでも現場の手足を縛らないためにはどうすればいいのか。
自分なりに考えたつもりだった。
「現場で使える形にはしたつもりだ。ただ、規則としてこれで通るのかが分からない」
「今ここで確認してよろしいですか?」
「頼む」
エレナはユリウスの机の前に椅子を寄せ、再び書類に目を落とした。
しばらく紙をめくっていたが、やがて机の上の赤いペンを取った。
最初の1行に線が入る。その下にも、その次にも。
気づけば、書き込みで紙が真っ赤になっていた。
「原形がなくなりそうだな」
「考え方は残っています」
それは慰めなのだろうか。
エレナは最初の項目を指した。
「まず、ここです。『緊急の場合、現場責任者の判断によって資材を変更できる』」
「ああ」
「緊急の場合とは?」
「通常の許可を待っていたら危険な場合だ」
「何が危険なんですか?」
「人間に決まってるだろう」
「人命に危険がある場合だけですか。設備がさらに損壊する可能性がある場合は?」
ユリウスが腕を組む。
「街道が使えなくなり、物資の輸送が止まる場合はどうでしょう。敵襲の危険が高まる場合は? それに、誰がどの程度を緊急と判断するのかも決まっていません」
「現場責任者だ」
「その責任者が不在なら?」
「副官」
「副官もいなければ?」
「次の指揮官だ」
「では、そう書かなければ分かりません」
「それくらい現場なら分かる」
言ったところで、ユリウスは自分で気づいた。
エレナも気づいたらしい。
何も言わずにこちらを見ている。
「……書く必要があるんだな」
「あります」
「いや、それは必要ないんじゃないですか?」
不意に横から声が飛んできて、2人そろって振り向いた。
少し離れた机に座っていた旧実務課の職員が、書類から顔だけを上げている。
「責任者がいなければ次席が判断する。その次も同じです。現場なら普通です」
「だそうだ」
ユリウスがエレナを見る。
だが、その向こうから今度は別の声がした。
「どこの現場でも同じなら、書いておけばいいじゃないですか」
旧政務課の職員だった。
こちらも手は動かしたまま、話だけはしっかり聞いていたらしい。
「書かなくても分かることまで全部書いていたら、規則が何十枚になるんだ」
「書かなくても分かると思っている人が作るから、現場ごとに運用が変わるんです」
「そこまで変わらないだろ」
「変わるから、規則があるんでしょう」
どうやら仕事をしているように見えて、周囲はかなり前から聞き耳を立てていたらしい。
統合前なら、このあたりで旧実務と旧政務の言い争いになっていただろう。
ユリウスは少し考え、紙を引き寄せた。
「責任者が不在の場合の代行順位を、最初から決めておくのはどうだ」
「それならいいと思います」
エレナが赤字の横に書き加える。
旧実務課の職員も、それなら現場で迷わないと頷いた。
1つ決まった。
エレナは次の箇所へ移った。
「それから、『可能な限り速やかに報告する』も駄目です」
「なぜだ」
「いつまでですか?」
「可能な限りだ」
「当日ですか。翌日ですか。1週間後でも、本人が可能な限りだったと言えば認めるんですか?」
「そんな馬鹿な話があるか」
「ですから、そうならないように決めるんです」
なるほど。面倒だ。
だが以前のように、その面倒さをただ無駄だとは思わなかった。
曖昧なまま残した場所には、必ず誰かの判断が入る。そして判断する人間が変われば、結果も変わる。
現場に長くいたユリウスだからこそ、それはよく知っていた。
同じ状況でも、経験豊富な隊長と配属されたばかりの者では判断が違う。
自分なら分かる。
いつの間にか、それを他人も分かると思っていた。
「じゃあ、24時間以内」
「通信手段が途絶えていた場合は?」
「なら、通常は24時間以内。ただし通信が不可能な場合は、復旧後すぐに報告する」
「『すぐ』とは?」
ユリウスは額を押さえた。
「きみ、楽しんでないか?」
「まさか」
口元が少し笑っている。
「部長、その場合は時間を決めるのは難しいと思います」
また横から声がした。
先ほどとは別の旧実務課の職員だった。
今度は書類を置いて、完全にこちらを向いている。
「通信が復旧しても、負傷者が出ていたり、設備の応急処置が続いていたりすれば、詳しい報告書を書いている場合じゃありません」
「ほら」
ユリウスがエレナを見る。
「ですが、報告を後回しにしたまま忘れられても困ります」
今度は旧政務課の職員が口を挟んだ。
「詳しい報告書は後でも、第一報だけ先に出してもらうのはどうでしょう」
その言葉に、エレナが顔を上げた。
「変更した事実と、その理由だけですか?」
「それなら現場でも出せるんじゃないですか?」
話を振られた実務側の職員が少し考える。
「それくらいなら。負傷者が出ていれば人数も入れてほしいですが」
「それは必要ですね」
エレナが書き加える。
「第一報は通信復旧後、可能な限り速やかに――」
そこで手が止まった。
ユリウスが見る。
周囲の職員も見る。
エレナは何事もなかったようにその部分へ線を引いた。
「24時間以内にします」
執務室のあちこちから笑いが漏れた。
そこからは、誰が参加しているのか分からなくなった。
最初は自分の机から口を挟んでいただけの職員たちが、1人、また1人と集まってくる。
エレナが条件を書き換えれば、現場経験のある者が実際に運用できるかを考えた。
実務側から出た案には、政務側の職員が法令上の穴を見つける。
穴を塞げば、今度は別のところに無理が出る。
安全確認の項目を増やそうとすれば、夜間や悪天候では実施できない検査があると指摘が入った。
では翌朝に、と書けば、敵襲の危険がある場合は待てないと言われる。
「また例外ですか」
「現場には例外しかないんだよ」
「だから、その例外に対応するための規則でしょう」
以前なら、その1言をきっかけに双方が自分たちの正しさを主張していたかもしれない。
今は違った。
「だったら、この場合だけ別にすればいい」
「それだと対象が広すぎます」
「じゃあ、ここまでなら?」
「それならいけるかもしれません」
誰かが紙を引き寄せ、別の誰かが横から覗き込む。
気づけばユリウスとエレナは机の同じ側に座り、その周囲を何人もの職員が囲んでいた。
最初にユリウスが作った案は、もうほとんど原形をとどめていない。
それでも不思議と、自分の案を壊されたようには感じなかった。
むしろ、自分が作りたかったものが、ようやく形になっていくようだった。
赤字が増えるほど、手応えも増していく。
現場で本当に使えること。
そして、誰が使っても同じ安全が守られること。
どちらか一方だけでは足りない。
「これならどうだ」
何度目か分からない問いに、エレナが新しい案を最初から読み直した。
今度はすぐに赤いペンを動かさなかった。
周囲の職員たちも、妙に静かになる。
やがてエレナが顔を上げた。
「これなら、正式な案として出せると思います」
その瞬間、なぜか周囲から小さな歓声が上がった。
「なんでお前たちが喜ぶんだ」
「なんか嬉しいじゃないですか」
誰かが答え、また笑いが起こった。
ユリウスも笑いながら、赤字だらけになった最初の紙を手に取った。
以前なら、こんなものを作るのに何時間も費やすくらいなら、政務の人間に任せればいいと思っただろう。
今でも、次からすべて自分で作るつもりはない。
得意な人間がやればいい。
ただ、もう以前のように、出来上がった規則を見て「現場では使えない」と文句を言うだけではいたくなかった。
自分たちが何を必要としているのか。それを規則にすれば、どこに穴ができるのか。そして、政務側が何を守ろうとしているのか。
少なくとも、それくらいは知っていたいと思った。
「次からは、最初から一緒に作った方が早そうだな」
ユリウスが言うと、エレナは机いっぱいに広がった紙を見回した。
「それには賛成です」
「ずいぶん素直だな」
「部長の案を1から添削するより、その方が早いですから」
「そういう意味か」
また周囲から笑いが漏れた。
エレナは何も答えず、赤いペンの蓋を閉めたが、その口元にも笑みが残っていた。
2人の間には、赤い文字で埋め尽くされた最初の案と、その隣にようやく出来上がった新しい規則案が並んでいた。
それは、統合された国境防衛管理部が初めて作る、実務と政務のどちらか一方だけでは作れなかった規則だった。
◆◆◆
新しい手続きが正式に採用されたのは、それから1か月ほど後のことだった。
最初から機能したわけではなく、実際に運用してみると、想定していなかった事態は山ほど出てきた。
第一報の必要項目が多すぎるという意見や、代替資材として使用できる範囲が分かりにくいという問い合わせが来た。そのたびに国境防衛管理部では、書類がユリウスとエレナの机の間を行き来した。
以前なら、どちらかが相手を説得するところから始まっていたが、今は2人で修正案を作る。
もちろん、いつも意見が一致するわけではないし、言い合いは相変わらずだった。ただ、周囲の職員たちはもう気にしなくなっていた。むしろ2人が同じ書類を挟んで議論を始めると、近くにいる者が当然のように話へ加わった。誰が旧実務課で、誰が旧政務課だったのかも、少しずつ意味を失っていった。
実務経験のある職員が規則案を読み、政務側から来た職員が砦の図面を覗き込む。
分からなければ、隣の机へ聞きに行く。
以前はできていなかったそんな当たり前のことが、次第に通常の光景となっていった。
模型も、いつの間にか部の備品になっていた。
専門の職員が作った砦の模型を囲んで検討することも珍しくなくなり、最初はそれを少し恥ずかしそうにしていたエレナも、今では自分から模型を持ってくる。
模型のそばには、兵や馬、荷馬車を模した小さな木片も用意されるようになった。
一方で、ユリウスの机には外国語の文書が置かれることが増えた。
以前より少し音を聞き分けられるようになったユリウスが、エレナに小声で単語の発音を確認することもある。
それも職員たちにとって、すっかり見慣れた光景になっていた。
◆◆◆
エレナ・ローデンに妙な噂が立ち始めた。
最近、休日のたびに男と出かけているという噂だ。
もともとエレナは、王宮では少々変わった令嬢として知られていた。
伯爵家の次女に生まれ、王立学院を首席で卒業すると18歳で王宮へ入り、そのまま官吏として働き続けている。姉がすでに家同士の縁を考えた結婚をしていたこともあって、両親も次女には比較的自由を許してきた。
本人も早くから、結婚するつもりはないと公言していた。
そうして王宮で実績を重ね、今では国境防衛管理部の補佐官を務めている。
そんな彼女を見る周囲の目も一様ではなかった。
貴族令嬢のくせに、いつまで働くつもりなのか。
どうせいずれ結婚して辞めるのだから、重要な仕事を任せるだけ無駄だ。
女は気楽でいい。適当なところで男を作って辞めればいいのだから。
本人の耳にも入っているであろう言葉を、ユリウスもこれまで何度か聞いたことがあった。
「ローデン補佐官、休みのたびに男と出かけているらしい」
だから、昼休みの廊下でそんな話を耳にしたときも、最初は聞き流すつもりだった。
「同じ男なのかな」
「らしいな。ずいぶん仲よさげだったらしい」
「そういえば、縁談があるって話も聞いたぞ」
「じゃあ、その相手か」
「いよいよローデン補佐官も結婚か」
数人の笑い声が背後から聞こえた。
ユリウスは振り返らなかった。
くだらない。
誰が休日に誰と出かけようと本人の勝手だ。まして、結婚するつもりはないと言っている人間が男と一緒にいたというだけで、すぐ縁談や結婚に結びつける理由もない。
それでも、執務室へ戻ってから、ふと向かいの机のエレナに目がいった。
いつもと変わらないように見えるが、そう言われてみれば少し疲れているようにも見える。
北部砦の事故処理以来、仕事は落ち着いているはずなのに。
その日の午後も、エレナは何度か小さく息をついていた。
書類を読む手が止まるほどではない。仕事にも普段と変わったところはなかったが、長く向かいの机に座っていれば、その程度の違いは分かる。
他の職員たちがちょうど会議や打ち合わせで出払っているのを確認して、ユリウスは声を掛けた。
「疲れてるな」
エレナは顔を上げて苦笑した。
「すみません」
「いや。だが、仕事はそこまで立て込んでないだろう」
「ああ、その……仕事ではないんです」
エレナは困ったようにうつむいた。
「少し家のことで」
家のこと。
昼休みに聞いた話が頭をよぎった。
休日のたびに同じ男と出かけている。伯爵家に縁談がある。
まさかと思ったが、聞かない方がかえって不自然な気もした。
「……もしかして、縁談でも?」
エレナが目を瞬いた。
「あ、なるほど。部長には身に覚えがありますものね」
「まあな」
侯爵家の嫡男として生まれれば、本人が望むかどうかにかかわらず、そういう話はいくらでも持ち込まれる。
「うちなんかよりも大変なのではないですか? 部長は嫡男でいらっしゃるから」
「まあ……そうかもしれないが、それでも縁談となると、女性の方が厳しいんじゃないか?」
「はあ。確かにそうかもしれません。今回はかなり強引な気がします」
「そうなのか」
「逆に今まで甘すぎたんだ、なんて言われます。まあ、確かに好きなようにさせてくれていたんです。心配をかけているとは分かってるんですよ。申し訳なくは思っているので、あまり無下にもできなくて」
エレナはそう言って、手元の書類をトントンと揃えた。
ユリウスは返事をしなかった。
結婚するつもりはない、と本人に直接聞いたことはない。周りの話で耳にした程度だ。
家族には好きなようにさせてもらってきた。そのことを申し訳なく思っている。
そして今、休日には同じ男と出かけている。
そういうことか。
胸の奥に、妙に重いものが落ちた。
それが何なのか考えるより先に、ユリウスは口を開いた。
「そ、そうか。でもまあ、自分で決めたのなら、それはそれでよかったんじゃないか?」
エレナが顔を上げた。
「はい?」
「いや。いい相手なら、なおさらご家族も喜ぶだろうし」
言いながら、自分でも何を言っているのだろうと思った。
それでも、1度口にした言葉を引っ込めることもできない。
「女性の幸せはやはり結婚だ、なんていう人もいるくらいだからな」
エレナの表情が消えた。
その視線を受けて、ユリウスはようやく何かを間違えたらしいと気づいた。
「……部長も、そうお考えなんですか?」
「何が?」
「女性の幸せは結婚だと」
「いや、そんなことはない。ただ、そういう人もいると――」
「そうですか」
エレナは遮るように返事をすると、書類へ視線を戻した。
明らかに機嫌を損ねたらしい。
ユリウスとしては、どんな決断であれ彼女が自分で決めたことなら、それを肯定するつもりだっただけだ。
なのに、なぜこんなことになった。
「資料室へ行ってきます」
やがてエレナは必要な書類を抱え、席を立った。
そのまま執務室を出ていくエレナに声をかけることもできず、ユリウスはその背中を見送った。
まったく、何をやっているんだ。
小さく息を吐き、机の上の書類へ目を戻そうとしたときだった。
エレナの机の脇に、何かが落ちている。
小さな手帳だった。




