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第二十三話 第三案は、誰の名前もまとめて奪わない


 王都契約相談支所の三階にある小会議室には、夜明け前から灯りがともっていた。


 窓の外はまだ薄暗い。

 王都の通りには人影も少なく、昨日の港湾通りの騒ぎが嘘のように静まり返っている。だが、静けさは安心ではなかった。


 灰印は動いている。


 民の署名権宣言書。

 民生維持物資接収契約。

 そして、民代表記録所設置契約の改訂案。


 どれも、王家や貴族による契約支配を否定する言葉で始まっていた。

 それ自体は、正しい。

 契約は王家の所有物ではない。

 署名権は本人に属する。

 不当な契約には異議を申し立てられるべきだ。


 だが、灰印の契約書は、最後には必ず同じ場所へ行き着く。


 個人の名前を、集合の名に預けさせる。


 民のため。

 解放のため。

 迅速な救済のため。

 旧支配からの回復のため。


 美しい言葉の下で、本人の署名権が別の手へ移される。


 王家が上から奪っていたものを、灰印は下から集めようとしている。


 エリスは机の上に三枚の書類を並べた。


 一枚目は、現行の民代表記録所設置契約案。

 王家、北方、書き手、暫定民代表の共同保管を定めるもの。慎重だが、手続きが重い。


 二枚目は、灰印の改訂案。

 民代表記録所の独立性を強める一方、集合署名と一括代理の権限が危険なほど広い。


 三枚目は、白紙。


 ここに、第三案を書く。


 誰の名前も、まとめて奪わないために。


「補佐官殿」


 カレンが扉を開けた。


「まだ朝ではありません」


「分かっています」


「分かっている人は、この時間に白紙と向き合いません」


「眠れませんでした」


「それは理由ではなく症状です」


 カレンは容赦なく言った。


 その後ろから、ノアが紙束を抱えて入ってくる。目の下にくっきりと影がある。


「おはようございます……と言ってよい時間でしょうか」


「ノア様も寝ていませんね」


「灰印の改訂案を読み始めたら、眠れなくなりました」


「同じです」


「同じではありません。補佐官殿は寝ない前提で書き始めます」


 カレンは二人を順番に見た。


「この部屋には、書類中毒者しかいないのですか」


 そこへレオンハルトも入ってきた。


 彼は外套を羽織り、すでに支所周辺の巡回を終えた様子だった。


「支所前に灰印の者はいない。だが中央広場ではまた宣言書を配っている」


「早いですね」


 エリスは顔を上げた。


「昨日の倉庫開放契約で引かせたと思いましたが」


「逆だ。彼らは、君が倉庫を開けた事実を利用している」


 レオンハルトは灰色の紙片を机に置いた。


 そこには、新しい文言が印刷されていた。


 ――王都契約相談支所も、民のための物資開放を認めた。

 ――ならば、民はさらに進まねばならない。

 ――王家と商会の記録棚を開け。

 ――民代表記録所を、民自身の手に。


 エリスは目を閉じたくなった。


 予想はしていた。


 昨日、緊急民生物資分配契約を作ったことで、灰印は「支所も物資開放を認めた」と宣伝できる。

 もちろん、実際には灰印の無記録な接収契約を否定し、記録付きの緊急分配契約に置き換えたのだ。


 だが、街角の宣伝文はそこまで細かく説明しない。


「だから、第三案が必要です」


 エリスは言った。


「現行案のままでは手続きが重く、灰印に『王家寄り』と批判されます。灰印案のままでは個人の署名権が危険です。その間に、第三案を出さなければ」


「方針は」


 レオンハルトが問う。


 エリスは白紙の上に、すでに書いていた一文を指した。


 ――誰の名前も、まとめて奪わないために。


「民代表記録所は必要です。ですが、民代表が個人の署名権を包括的に代理してはいけません」


「では、どうする」


「代理権を三種類に分けます」


 エリスは新しい紙を取った。


「第一に、相談代理。これは本人の契約書を読み、説明し、質問を代わりに整理する権限です。本人の署名権は移りません」


 ノアがすぐに記録する。


「第二に、限定交渉代理。これは本人が指定した契約、指定した相手、指定した範囲に限り交渉できる権限です。期間、目的、上限条件を明記します」


「第三は」


「集合異議申立」


 エリスは少し声を落とした。


「同じ契約被害を受けた複数人が、共同で異議を申し立てる権限です。ただし、これも個人の署名をまとめて使うのではなく、各人が参加・離脱・範囲指定を選べる形にします」


 カレンが腕を組む。


「灰印の集合署名とは違うのですね」


「はい。灰印案では、登録された民の署名を評議会が必要に応じて集合署名として扱えます。第三案では、集合異議ごとに参加意思を確認します」


「時間がかかります」


「だから、緊急仮登録制度を作ります」


 レオンハルトが目を細めた。


「緊急仮登録?」


「はい。災害、価格高騰、賃金未払い、強制契約など、急ぐ必要がある場合に限り、本人が『この種類の問題について、三日間だけ、記録所から連絡を受けることに同意する』という仮登録をできます」


「代理ではなく、連絡を受ける同意か」


「はい。仮登録だけでは署名権は移りません。記録所は該当者へ情報を届け、説明会を開き、参加するかどうかを個別に確認します」


 ノアが顔を上げた。


「つまり、速さを確保するために名簿は作るけれど、その名簿を署名として使わない」


「そうです」


「よいと思います」


 ノアの目に少し光が戻った。


「それなら、灰印の言う『個別では弱い』という問題にも対応できます。同じ被害を受けた人を集められる。でも、名前は勝手に使えない」


「はい」


 エリスはさらに書き進める。


「それから、民代表記録所そのものの代表権も制限します」


「具体的には」


「民代表は、地域・職能・救護・労働・農村などの区分ごとに選びます。任期を設け、解任手続きも設ける。さらに、代表自身の契約や利害が関わる案件では、発言はできても決定には参加できない」


 カレンが頷いた。


「利益相反ですね」


「はい。王家や商会だけではなく、民代表にも必要です」


「灰印は嫌がるでしょう」


「だから必要です」


 エリスは、灰印の改訂案を見た。


 民の名であっても、権力は権力だ。

 記録所に人々の契約情報が集まれば、それだけで大きな力になる。

 それを善意だけで運用すれば、いずれ歪む。


 王家がそうだったように。


「もう一つ、重要な条項があります」


 エリスは言った。


「契約教育です」


 レオンハルトが少し口元を緩める。


「やはりそこへ行くか」


「はい」


 彼女は白紙に書いた。


 ――民代表記録所は、代理権を集めることを目的とせず、本人が自ら契約を読めるようにする教育を目的の一つとする。


 ――基本講習として、署名前確認、契約相手、対象物、期間、解除方法、代理権、罰則、異議申し立ての七項目を教える。


 ――講習資料は、専門用語版と平易語版を作成する。


 ノアが小さく笑った。


「平易語版、大事ですね」


「はい」


 王宮の契約書は、難しい言葉で人を遠ざけてきた。

 灰印の契約書は、力強い言葉で人を急がせている。


 どちらも、人が立ち止まって考える余地を奪う。


 だから、分かる言葉が必要だった。


「第三案の柱は四つです」


 エリスは整理した。


「一つ、代理権の限定。二つ、集合異議の個別参加。三つ、民代表の選出と解任。四つ、契約教育」


「そして、記録」


 レオンハルトが付け加える。


「はい。すべて記録します」


 カレンは深く息を吐いた。


「理屈は通っています。ただ、会議で通るかは別です」


「分かっています」


「王家は民代表の権限が増えるのを嫌がる。灰印は代理権が限定されるのを嫌がる。商会は集合異議を嫌がる。貴族は契約教育を嫌がる」


「全員が少しずつ嫌がるなら、案としては悪くないかもしれません」


「それは、よい基準なのですか」


「一方だけに都合がよい案よりは」


 レオンハルトが頷いた。


「今日中に草案を仕上げる。明日、支所で公開説明。三日目の民代表会議に提出する」


「はい」


「ただし、今日の一般相談は減らす」


「ですが」


「減らす」


 彼の声は短い。


 エリスは反論しかけたが、カレンとノアの視線を受けて黙った。


「……分かりました」


「よし」


 こうして、第三案の作成が始まった。


 午前中、支所の一階では通常相談を半分に制限し、緊急案件のみ受け付けた。

 その代わり、二階の記録室では第三案の条文作成が続いた。


 エリスが骨子を書く。

 ノアが法形式を整える。

 カレンが現場で悪用されそうな抜け穴を指摘する。

 レオンハルトが権限と責任の均衡を見る。


 第一条。目的。


 ――本契約は、建国契約再確認に基づき、民が契約に関する情報、記録、異議申し立て手段へアクセスできるようにするため、民代表記録所を設置する。


 第二条。本人署名権。


 ――本人の署名権は本人に帰属し、民代表記録所、民代表、書き手、王家、貴族、商会、神殿その他いかなる団体も、本人の明示同意なくこれを代行、集合化、名義使用してはならない。


 この条項を書いた瞬間、エリスは少しだけ息を吐いた。


 ここが中心だ。


 誰の名前も、まとめて奪わないために。


 第三条。代理権の種類。


 相談代理。

 限定交渉代理。

 集合異議申立参加。


 それぞれ、別の書式が必要になる。


 第四条。代理権の期間。


 相談代理は一件ごと。

 限定交渉代理は最長三十日。延長には本人再確認。

 集合異議申立は案件ごと。参加・離脱可能。


 第五条。緊急仮登録。


 災害、急な価格高騰、賃金未払い、強制契約、生命・生活に関わる契約被害の場合、本人は三日間の仮登録を行える。仮登録は署名権委任ではなく、連絡・説明会参加の同意に限る。


 第六条。民代表の選出。


 地域代表、職能代表、救護代表、農村代表、労働代表、契約被害者代表。

 任期半年。再任可。

 解任請求は、該当区分登録者の一定数の署名で可能。

 ただし、署名収集時にも個別説明が必要。


 第七条。利益相反。


 代表本人、家族、所属団体、雇用主が関わる契約については、決定権を一時停止する。発言は記録付きで可能。


 第八条。記録の公開範囲。


 個人情報は保護する。

 契約類型、問題条項、異議結果、改善例は匿名化して公開する。


 第九条。契約教育。


 署名前確認七項目。

 代理権の危険。

 集合署名の意味。

 解除条項の読み方。

 罰則と担保。

 契約相手の確認。

 読めない時に保留する権利。


 第十条。灰印条項。


 カレンがそこで止めた。


「灰印条項、という名称は刺激が強すぎます」


「仮名です」


「本契約に反対する団体を名指しにすると、会議が荒れます」


「では、包括名義使用禁止条項にします」


「それで」


 エリスは修正する。


 ――いかなる団体も、民の名、解放の名、緊急の名、正義の名において、本人の個別同意なく署名権、名義、財産請求権、異議申立権を包括的に使用してはならない。


 ノアが小さく頷いた。


「これなら、灰印だけでなく王家や商会にも効きます」


「そのための条項です」


 王家だけを縛っても足りない。

 灰印だけを縛っても足りない。


 権力の形は変わる。

 だから、名前を守る条項は、相手を選んではいけない。


 昼過ぎ、草案の第一版が完成した。


 エリスは椅子に深く座り、目を閉じた。


 頭が重い。

 だが、まだ終わっていない。


 これを、人々に説明しなければならない。


 難しい契約を、難しいまま出せば、王宮の契約書と同じだ。


「平易語版を作ります」


 エリスは言った。


 カレンが即座に言う。


「昼食後です」


「ですが」


「昼食後です」


 レオンハルトも頷いた。


「食べろ」


 エリスは、諦めてパンとスープを受け取った。


 食事中も頭の中で条文を平易語に直していたが、カレンに「今考えていますね」と指摘され、しばらく本当に食べることに集中した。


 午後、平易語版を作った。


 表題は、ノアの提案でこうなった。


 ――あなたの名前を守るための記録所案。


 エリスは少し迷ったが、採用した。


 本文は、短く分けた。


 一、自分の名前は、自分のものです。

 二、誰かに代わりに交渉してもらう時は、「何を」「誰と」「いつまで」頼むのかを書きます。

 三、「みんなの名前」として勝手に使うことはできません。

 四、同じ被害を受けた人たちは、一緒に異議を申し立てられます。ただし、参加するかどうかは一人ずつ決めます。

 五、急ぐ時でも、名前を預ける契約にはしません。まず連絡を受けるための仮登録だけにします。

 六、代表は選びます。辞めさせる手続きも作ります。

 七、代表にも利害関係がある時は、決定から外れます。

 八、契約の読み方を学ぶ場所を作ります。

 九、王家でも、灰印でも、相談所でも、あなたの名前を勝手に使うことはできません。


 最後の一文を書いた時、ノアが深く息を吐いた。


「これなら、読めます」


「専門家から見ると、粗いです」


「粗くていいんです。最初に読むものですから」


 カレンも頷いた。


「支所前に貼り出しましょう」


「反発が来ますね」


「来ます」


 レオンハルトが外を見た。


「すでに来ている」


 支所の前には、灰色の腕章をつけた者たちが集まり始めていた。


 その中に、ラウルの姿もある。


 彼は、こちらを見上げていた。


 まるで、予定通りだと言うように。


 夕方、王都契約相談支所の前で公開説明会が開かれた。


 急な告知にもかかわらず、多くの人が集まった。


 港湾労働者。

 商人。

 職人。

 救護院関係者。

 下町の住民。

 貴族家の使用人。

 王宮書記官。

 灰印の腕章をつけた者たち。


 エリスは、支所の入口に立った。


 手元には二種類の紙。


 正式な第三案。

 平易語版。


 風が少し冷たい。


 だが、声は出た。


「本日、民代表記録所設置契約の第三案を作成しました」


 ざわめきが広がる。


「これは、王家だけの案でも、灰印の案でもありません。民代表記録所を必要と認めたうえで、誰の名前もまとめて奪われないようにするための案です」


 灰印の者たちが反応する。


 ラウルは黙って聞いていた。


 エリスは平易語版を掲げた。


「難しい条文の前に、簡単に言います。自分の名前は、自分のものです」


 人々が静まる。


「王家が勝手に使ってはいけません。貴族も、商会も、神殿も、相談所も、灰印も、勝手に使ってはいけません」


 そこで、灰印の腕章をつけた男が声を上げた。


「我々は民のために動いている!」


「はい」


 エリスは答えた。


「民のために動くことと、民の名前を勝手に使うことは別です」


「一人ひとり確認していたら間に合わない!」


「そのために、緊急仮登録制度を作りました」


 エリスは説明する。


 急ぐ時には、同じ被害を受けた人へ連絡を届けるための仮登録ができる。

 ただし、それは署名権を預けるものではない。

 参加するかどうかは、案件ごとに本人が決める。


 港湾代表が手を上げた。


「昨日の倉庫みたいな時は、どうなる」


「仮登録者へすぐ連絡し、説明会を開きます。緊急の場合、代表者が暫定交渉を行えますが、物資搬出や金銭請求など本人に責任が及ぶ行為は、記録付きで範囲を限定します」


「面倒だが、昨日みたいに記録が残るなら分かる」


 救護院長が頷いた。


「救護院としては、分配記録が残ることが重要です。善意で集めた物資がどこへ行ったか分からなくなるのは困ります」


 商人組合代表も口を開いた。


「商会側としても、すべて民の名で接収されるなら取引が止まります。しかし不当な値上げを監査されるなら、まだ話し合える」


 下町の女性が不安そうに尋ねた。


「字が書けない人はどうするんですか」


「代筆できます」


 エリスは答えた。


「ただし、代筆者、読み上げ者、本人確認者を別にします。本人が内容を聞いたこと、分からない点を質問できたことを記録します」


「話せない人は」


「身振りや、信頼できる人を通じた確認もできます。ただし、その人の意思かどうかを慎重に記録します」


 人々の表情が少しずつ変わっていく。


 完璧に納得しているわけではない。

 だが、考え始めている。


 そこへ、ラウルが前へ出た。


「よくできた案です」


 彼は穏やかに言った。


「さすが、書き手様。誰も反対しにくい言葉を並べた」


 周囲が緊張する。


 エリスは彼を見た。


「反対点があれば、聞きます」


「あります」


 ラウルは灰印の改訂案を掲げた。


「あなたの案では、民はいつまでも説明を受ける側です。講習を受け、手続きを学び、限定代理を使い、代表を選ぶ。整っています。しかし、今すでに力を持つ商会や貴族に対し、遅すぎる」


「では、灰印案なら速いのですか」


「速い。民の名前を集めれば、すぐに交渉力になる」


「本人の意思確認なしに?」


「最初の宣言書で同意を得ます」


「十分な説明がない同意は、危険です」


「危険を承知で動かなければならない時もある」


 ラウルの声が強くなる。


「あなたは、王宮の中で契約を読めた。辺境伯が守った。建国契約があなたを認めた。だが、下町の者にはそんな後ろ盾はない。一人の署名では商会に笑われる。家賃契約、奉公契約、賃金契約、薬代の借用書。皆、個別に潰されてきた」


 その言葉に、何人かが頷いた。


 真実がある。


 エリスは、それを否定しなかった。


「はい。一人では弱いことがあります」


「なら、集めるしかない」


「集め方が問題です」


「あなたの案では、強くなる前にまた潰される」


「だから、集合異議申立を入れました」


「弱い」


 ラウルは即座に言った。


「あなたは名前を守りすぎて、力にできない」


 その言葉は、エリスの胸に刺さった。


 守りすぎる。


 それもまた、可能性としてはある。


 本人意思を大事にするあまり、動きが遅くなる。

 その間に、困っている人が傷つく。


 だが、名前を力に変えることばかり急げば、その人自身が消える。


 どちらも、危険だった。


「では、修正します」


 エリスは言った。


 ラウルの眉が動く。


「何を」


「集合異議申立に、緊急暫定効力を加えます」


 ノアが慌てて記録板を構えた。


 エリスは続ける。


「同じ契約類型で、生活に重大な影響があり、相手が交渉を拒否している場合、参加希望者が一定数集まれば、民代表記録所は暫定異議通知を出せるようにします」


 ラウルが目を細めた。


「本人確認は?」


「仮登録者の中で、説明会に参加した者、または個別に同意した者に限ります。ただし、相手方への通知は『同種被害の疑いがある』として広く出せる。個々の請求金額や契約取消は、本人確認後」


「つまり、交渉の入口は速くするが、名前の使用は限定する」


「はい」


 港湾代表が頷いた。


「それなら使えそうだ」


 下町の女性も言った。


「まず相手に止まってもらえるなら、助かる人はいると思う」


 ラウルはしばらく黙った。


 やがて、小さく笑う。


「あなたは、交渉中にも契約を書き換えるのですね」


「必要なら」


「なら、こちらも要求します。民代表記録所の代表選出に、灰印のような任意団体から候補を出せる条項を入れてください」


「候補を出すことはできます。ただし、選出手続きを経ます」


「灰印として席を持つことは」


「できません。個人として立候補してください」


「団体の思想を背負っていても?」


「それは発言で示せます。ですが、席は個人の責任で持つべきです」


 ラウルは、少し考えた。


「よいでしょう」


 周囲がざわめく。


 灰印が完全に納得したわけではない。

 だが、少なくともこの場で第三案を潰すことはしなかった。


 エリスはその場で修正条項を書いた。


 ――集合異議申立に関する緊急暫定通知制度。

 ――任意団体所属者の立候補は妨げない。ただし、代表権は団体ではなく選出された個人に帰属し、利益相反規定を受ける。


 ノアが写しを作り、カレンが掲示板へ貼る。


 人々がそれを読み始めた。


 完璧な合意ではない。


 だが、対立が契約文の中へ入った。


 怒号ではなく、条項として記録された。


 それは小さくない前進だった。


 説明会が終わる頃、夜の鐘が鳴った。


 人々は少しずつ散っていく。

 灰印の者たちも、ラウルに従って支所前から離れた。


 ラウルは最後にエリスへ近づいた。


「三日目の会議で、第三案に賛成するとは限りません」


「分かっています」


「ですが、読みます」


「それで十分です」


「読んだうえで、反対するかもしれない」


「それも記録します」


 ラウルは笑った。


「あなたは本当に、何でも記録する」


「忘れないためです」


「忘れた方が楽なこともあります」


「楽でも、また同じことが起きます」


 ラウルは、少しだけ目を伏せた。


「私は、昔、父の工房を契約で失いました」


 エリスは黙って聞いた。


「商会から材料費を借りた。契約書には、返済不能時の担保は工房の一部と書いてあった。だが、注記で『一部とは生産設備全体を含む』と定義されていた。父は読めなかった。私もまだ子供で、何もできなかった」


 ハルゼ村と同じだ。


 南畑。

 一部。

 言葉の定義が、人の生活を奪う。


「だから、私は名前を集めたいのです」


 ラウルは言った。


「一人の名前では奪われる。百人の名前なら、奪い返せる」


「百人の名前を扱うなら、百人分の確認が必要です」


「それが、あなたの答えですか」


「はい」


 ラウルは深く息を吐いた。


「面倒な書き手だ」


「よく言われます」


「ですが、嫌いではありません」


「それは、ありがとうございますと言うべきでしょうか」


「まだ早いです」


 彼は灰色の外套を翻した。


「三日目の会議で会いましょう」


 ラウルが去ったあと、エリスはしばらくその背中を見送っていた。


 彼は敵なのか。


 完全には、そう言い切れない。


 だが、危険な契約を書く人間であることは確かだ。


 怒りを知っている。

 契約で奪われる痛みも知っている。

 だからこそ、力を急ぐ。


 エリスとは違う方法で、人の名前を守ろうとしているのかもしれない。


 ただし、その方法は名前を集めすぎる。


 ならば、止めなければならない。


 支所に戻ると、カレンが椅子を指した。


「座ってください」


「はい」


「今日はもう終わりです」


「第三案の清書を」


「ノア殿がやります」


 ノアが机の向こうで手を上げた。


「やります。補佐官殿は確認だけ明朝で」


「ですが」


 レオンハルトが無言でエリスの前に立った。


 エリスは口を閉じた。


「……分かりました」


 その夜、エリスは久しぶりに早めに寝台へ入った。


 だが、眠りに落ちる直前まで、頭の中には第三案の条文が巡っていた。


 本人署名権。

 限定代理。

 集合異議。

 緊急暫定通知。

 代表選出。

 利益相反。

 契約教育。


 王家の契約を正すだけなら、原本を読めばよかった。


 だが、人々が自分の名前を使って契約を扱う時代には、もっと複雑な仕組みが必要になる。


 誰かの善意も、怒りも、大義も、名前を奪う理由になり得る。


 だから、契約書の最後には本人の名前を書く。


 まとめてではなく。


 一人ずつ。


 翌朝、民代表会議へ提出する第三案の清書が完成した。


 表題。


 ――民代表記録所設置契約・第三案。


 副題。


 ――誰の名前も、まとめて奪わないために。


 エリスはその一文を見て、静かに頷いた。


 まだ完全ではない。


 だが、白紙ではなくなった。


 これを持って、会議へ行く。


 王家、商会、神殿、民代表、灰印。


 それぞれが違う思惑を持つ場へ。


 エリスは羽根ペンを鞄に入れた。


 次に守る名前は、一つではない。


 けれど、まとめて奪わせるつもりもなかった。

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