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第二十話 契約書の最後に、私の名前を書く

王都の朝は、煤の匂いがした。


 中央契約塔が崩れた夜から、一晩が明けた。

 白い王宮の壁には黒い筋が残り、北庭には砕けた石材が積み上がっている。尖塔の青い屋根は折れ、承認鐘は半分に割れていた。


 けれど、王都は完全には止まらなかった。


 水路は動いている。

 救護院の灯りは消えていない。

 港湾管理塔の信号灯も、弱いながら青く点いている。


 王都の人々は、不安げに空を見上げながらも、店を開け、荷を運び、井戸から水を汲んでいた。昨日まで王家の契約炉が当然のように支えていた暮らしは、今、別の形でかろうじて保たれている。


 民と土地へ還す。


 その原文通りに。


 エリスは王宮北庭に立ち、崩れた契約塔を見上げていた。


 眠っていない。


 地下礼拝堂で暫定建国再確認契約を結んだあと、書記官たちとともに写しを作り続けた。王家用、北方用、神殿用、財務院用、法務院用、民代表選出までの仮保管用。さらに、ミリアの聖女契約解除記録、中央契約炉の緊急流路変更記録、ヴァルドニア密使拘束記録、ディートリヒ副法務官の聴取準備記録。


 書いても、書いても、書類は尽きなかった。


 それでも、不思議と手は止まらなかった。


 王宮の書庫で、誰にも気づかれずに写していた頃とは違う。

 今書いている文字は、誰かを黙らせるためではない。

 誰かの声を、なかったことにしないためのものだった。


「ここにいたか」


 背後から声がした。


 レオンハルトだった。外套にはまだ灰がついている。彼もまた、ほとんど休んでいない顔をしていた。


「少し、外の空気を吸っていました」


「空気と言うには、煙が多い」


「王都らしい上品な言い方をしました」


「無理がある」


 エリスは少しだけ笑った。


 昨日までなら、王宮の中で笑うことなど考えられなかった。

 王宮は、いつも息を詰める場所だった。


 だが今、王宮は崩れた塔の前で立ち尽くしている。

 完全な威圧感は、もうない。


「体調は」


 レオンハルトが尋ねた。


「眠いです」


「それは体調ではなく事実だ」


「手も痛いです」


「それも事実だ」


「でも、立てます」


「それは無理をする者の返答だ」


 彼は短くため息をついた。


「これから大広間で臨時王国会議だ。国王、王太子、主要貴族、神殿、財務院、法務院、北方、そして臨時民代表が集まる」


「民代表は決まりましたか」


「正式代表ではない。王都商人組合、職人組合、救護院、港湾労働組合から、それぞれ一名ずつ仮出席する」


「十分です。最初から完璧な形にはできません」


「君がそれを言うと説得力がある」


「どういう意味ですか」


「完璧でなくても、まず記録するという意味だ」


 エリスは頷いた。


 暫定建国再確認契約には、民代表の写しを置くと書いた。

 だが、王国にはまだ民代表を選ぶ制度がない。


 ならば、作らなければならない。


 最初の一枚は、いつも不完全だ。

 不完全だからこそ、次に修正できるよう記録する。


「行きましょう」


 エリスは言った。


 大広間は、かつて婚約破棄を告げられた場所だった。


 あの夜、エリスは人々の視線の中心に立たされ、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を宣告された。貴族たちは囁き、父は彼女を庇わず、ミリアは金色のチョーカーに言葉を奪われていた。


 同じ大広間に、今またエリスは入る。


 だが、立場は違う。


 彼女は王太子の婚約者ではない。

 反逆容疑者でもない。

 王家臨時調査協力者でもない。


 ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人。

 建国契約に異議を申し立てた書き手。


 広間には、すでに多くの人々が集まっていた。


 国王セルヴィスは上座に座っている。顔色は悪いが、昨日よりは落ち着いていた。ユリウスはその右側に立っている。王太子の礼服を着ているが、表情は固い。


 神殿司祭たちは沈黙している。

 財務院長代理ローレンは大量の書類を抱え、目の下に濃い影を作っていた。

 法務院の席には空席が目立つ。ディートリヒは拘束中であり、法務官長はいまだ行方不明だった。


 広間の後方には、王都商人組合の代表、職人組合の代表、救護院の老院長、港湾労働者の代表が緊張した面持ちで立っている。


 貴族たちの多くは不満そうだった。


 当然だろう。


 これまで王家と貴族の間だけで扱われてきた契約の場に、民の代表が入っているのだ。


 国王が口を開いた。


「これより、中央契約塔崩壊および建国契約異常に関する臨時王国会議を始める」


 広間が静まる。


「昨夜、中央契約炉は反証反応を起こし、王都各所で契約火災が発生した。ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人エリス・フォーマルハウトの緊急異議により、民生維持流路は保たれた」


 国王が、エリスの名を正式に呼んだ。


 エリス・フォーマルハウト。


 姓も、職務も、省かれなかった。


 それだけのことなのに、広間の空気が少し変わる。


「また、建国契約原本の確認により、王家の契約解釈に重大な改変があったことが判明した」


 貴族席がざわついた。


 国王は続ける。


「王家は、民より預かった魔力を所有物として扱ってはならない。聖なる力を持つ者を供物として扱ってはならない。書き手の異議を封じてはならない。これらは、建国契約原本に明記されていた」


 神殿司祭の一人が目を伏せた。


 ユリウスは唇を噛んでいる。


「したがって、王家は暫定建国再確認契約に基づき、魔力管理の共同記録制度を開始する」


 商人組合の代表が、恐る恐る手を上げた。


「陛下。共同記録制度とは、具体的に何をするのでしょうか」


 以前なら、平民が国王の言葉を遮ることなど許されなかっただろう。


 だが国王は怒らなかった。


「エリス・フォーマルハウト。説明せよ」


「はい」


 エリスは一歩前へ出た。


 広間中の視線が集まる。


 だが、今度は俯かなかった。


「共同記録制度とは、中央契約炉の運用記録を王家だけで保管せず、複数の立場で写しを保持し、相互に照合する仕組みです」


 彼女は用意した紙を広げた。


「第一に、王家は毎月、中央契約炉の魔力流路記録を作成します。第二に、その写しを北方監視役、書き手記録室、神殿外部監査、財務院、そして民代表記録所へ送ります。第三に、支出や流路に不審な点があれば、いずれの記録所からも異議申し立てを行えます」


 職人組合の代表が眉をひそめた。


「つまり、王宮の中の話を、外でも確認できるということですか」


「はい。すべてではありません。軍事や外交の秘匿情報は制限されます。ただし、民から預かった魔力が民生維持に使われているかどうかは、確認できるようにします」


 港湾代表が低く言った。


「今まで、それができなかったから港の支払いも止まったんだな」


「はい」


 エリスは認めた。


「中央金庫が凍結した時、どの支払いが止まり、どれを優先すべきか、すぐに判断できませんでした。記録が王家と財務院に集中しすぎていたためです」


 ローレンが苦い顔で頷いた。


「財務院としても、今回の混乱は記録集中の弊害を認めざるを得ません」


 貴族の一人が声を上げた。


「しかし、民代表に王国契約を見せるなど、秩序を乱すのではないか」


 エリスはそちらを見た。


「秩序を乱したのは、契約を読ませなかったことです」


 広間が静かになる。


「契約は、見えない場所で歪められると支配になります。読める者だけが読み、読めない者に従わせるなら、それは約束ではありません」


 ハルゼ村の小麦畑を思い出す。


 南畑。

 南部耕作領域。


 たった一行で奪われかけた土地。


「王国規模でも同じです。民の魔力を預かる契約なら、民に対する説明と記録が必要です」


 商人組合の代表が深く頷いた。


 救護院の老院長は、胸元で手を組んでいる。


 国王が言った。


「この制度を、暫定として承認する」


 広間の書記官たちが、一斉に筆を走らせた。


 次に議題となったのは、聖女契約だった。


 神殿司祭長代理が前へ出る。


「聖女ミリア・クレインに対する契約について、神殿は儀式手続きに不備があったことを認めます」


 不備。


 その言葉に、エリスは眉を動かした。


 不備というには軽すぎる。


 ミリアの声を奪い、首輪で縛り、生命力を徴収しようとしたのだ。


「不備ではありません」


 エリスは言った。


 司祭長代理の顔がこわばる。


「では、何と」


「本人説明同意の欠落、不当拘束、生命力徴収、人格の儀式資産化です」


 広間がざわめく。


 エリスは、ミリアの意思表示を掲げた。


「ミリア・クレイン様本人は、自分が王家の所有物ではなく、聖女という称号が自分のすべてではないと明記しています。神殿は、この文書を正式に受領し、過去の聖女契約について調査する必要があります」


「過去の、ですか」


「はい。ミリア様だけではない可能性があります」


 司祭長代理は、沈黙した。


 国王が重く言った。


「神殿契約の調査を命じる。王家、神殿、書き手記録室、外部証人を含む調査団を設置する」


 ユリウスが口を開いた。


「ミリアは……どうなるのですか」


 広間が静まった。


 エリスは彼を見る。


 ユリウスの声には、昨日までのような命令の響きはなかった。

 だが、完全に変わったとも思えない。


「ミリア様は、ミリア様ご本人が決めます」


 エリスは答えた。


「王都へ戻るか。北方に残るか。聖女として力を使うか。薬師見習いに戻るか。別の道を選ぶか。それは、本人の意思で決めることです」


「私は、謝罪を」


 ユリウスは言いかけ、言葉を止めた。


 謝罪。


 その言葉を、彼の口から初めて聞いた気がした。


 だが、エリスは静かに言った。


「謝罪は、命令や呼び出しではありません。相手が受け取るかどうかを選べる形で行ってください」


 ユリウスは目を伏せた。


「分かった」


 本当に分かったのかは、分からない。


 けれど、少なくとも彼はその場でミリアを呼び戻せとは言わなかった。


 次に、王太子の署名責任が議題となった。


 ユリウスの顔が硬くなる。


 国王は彼を見た。


「ユリウス。婚約破棄契約への署名について、正式に記録する」


「……はい」


「エリス・フォーマルハウトを責める前に、お前が読まずに署名した事実を認めよ」


 広間が静まる。


 ユリウスは、長い間黙っていた。


 やがて、ゆっくり口を開いた。


「私は、婚約破棄契約の内容を十分確認せず署名した。その結果、王家資産管理権の移転危機と中央金庫凍結を招いた」


 声は固かった。


 屈辱を飲み込むような声だった。


 だが、言葉は出た。


 エリスは記録した。


 王太子ユリウス・アルトレインは、婚約破棄契約を十分確認せず署名した事実を認める。


 ユリウスは続けた。


「また、その責任をエリス・フォーマルハウトへ転嫁し、反逆容疑をかけたことについて」


 そこで声が止まる。


 彼はエリスを見た。


 大広間で婚約破棄を告げた時のような傲慢さは、薄れていた。

 だが、素直な悔恨だけでもない。自尊心と後悔と怒りが混ざり、まだ整理できていない顔だった。


「……謝罪する」


 短い言葉だった。


 広間は静まり返った。


 エリスは、すぐには答えなかった。


 欲しかった言葉だったのかもしれない。

 かつての自分なら、それを聞けば泣いたかもしれない。

 許されたのではなく、謝られたことに救われたかもしれない。


 だが今、彼女の中にある感情は、もっと静かだった。


「謝罪の言葉は、記録しました」


 エリスは言った。


 ユリウスの表情が動く。


「それだけか」


「はい」


「許すとは言わないのか」


「今すぐには言えません」


 広間の空気が張り詰める。


 エリスは続けた。


「謝罪が記録されたことと、私が許すことは別です。私は、王太子殿下に反逆者として扱われ、王都から追放されました。その結果、多くの記録を作ることになりましたが、傷つかなかったわけではありません」


 ユリウスは黙った。


「ですが、謝罪の言葉は受け取りました。今後の行動も記録します」


「行動を、か」


「はい。契約は、署名して終わりではありません。履行される必要があります」


 ユリウスは、苦い顔で小さく頷いた。


 それが本当の変化になるかどうかは、まだ分からない。


 だが、記録は始まった。


 その後、フォーマルハウト侯爵が前へ出た。


 彼は昨夜よりも老けて見えた。


「エリス」


 父は、国王ではなく、初めて彼女へ向けて呼びかけた。


「はい」


「私は、お前を守らなかった」


 広間が少しざわつく。


 侯爵は続けた。


「家を守ることを優先し、お前の言葉を聞かなかった。お前の署名を、家の都合で否定しようとした」


 エリスは父を見た。


 その言葉が本心なのか、政治的判断なのか、完全には分からない。


 だが、どちらでも記録する価値はある。


「今さら父として許されるとは思っていない」


 侯爵は、ゆっくり頭を下げた。


「だが、エリス・フォーマルハウトの署名を、フォーマルハウト家は否定しない。お前がその名で残した記録は、お前自身のものだと認める」


 エリスは息を吸った。


 胸の奥が少し痛んだ。


 許したわけではない。

 すぐに父娘に戻れるわけでもない。

 家に帰りたいわけでもない。


 それでも、その言葉は必要だった。


「その内容を、書面にしてください」


 エリスは言った。


 侯爵は少し驚いた顔をした。


 だが、すぐに頷いた。


「分かった」


「署名もお願いします」


「もちろんだ」


 父は、初めて娘に対して、自分の言葉を紙に残すことを受け入れた。


 午前の会議が終わる頃には、大広間の空気は始まった時とは別物になっていた。


 王家の権威は傷ついた。

 貴族たちは不満を抱えた。

 神殿は調査を避けられない。

 財務院は記録公開の準備に追われる。

 民代表は制度の重さに戸惑っている。


 何も解決していない。


 けれど、隠されていたものが記録され始めた。


 それだけで、王国は昨日とは違う場所に立っていた。


 午後、エリスは王宮書庫にいた。


 懐かしい机。

 古いインクの匂い。

 窓から差す淡い光。


 ここで彼女は何年も契約書を写した。

 誰にも評価されず、ただ誤字のない写しを作り続けた。


 今、その机の上には、最後の文書が置かれている。


 正式名称は長い。


 ――建国契約再確認および暫定共同記録制度設置契約。


 エリスは、最後の清書を担当していた。


 本文はすでに会議で承認されている。


 王家は、民より預かった魔力を所有しない。

 中央契約炉の運用記録を共同保管する。

 聖なる力を持つ者を供物としない。

 書き手の異議申し立て権を認める。

 民代表記録所を設置する。

 王家、北方、神殿、財務院、民代表は、定期的に記録を照合する。

 ヴァルドニアによる契約干渉について、正式に抗議し調査する。

 王太子の署名責任と法務院の改ざん関与を記録する。


 最後に、署名欄が並ぶ。


 国王。

 王太子。

 北方辺境伯。

 神殿代表。

 財務院代表。

 民代表。

 証人ミリア・クレイン。

 書き手エリス・フォーマルハウト。


 ノアが隣で写しを確認している。


「エリス様」


「はい」


「この書類、本当に歴史に残りますね」


「残さなければ困ります」


「そうですね」


 ノアは少し笑った。


「王宮書庫で、あなたが古い規定ばかり読んでいた時、正直、なぜそこまで細かい文書を読むのだろうと思っていました」


「私も、自分でも分かっていませんでした」


「今なら分かりますか」


 エリスはペンを止めた。


「少しだけ」


 古い契約書。

 誰も読まない規定。

 忘れられた注釈。

 誤字のない写し。


 それらは、無駄ではなかった。


 誰かが忘れた約束を、あとで読み返せるようにする。

 それが記録の役割だ。


「ノア様も、記録を残してくださいました」


「私は紙片を隠していただけです」


「それがなければ、第三承認錠には気づけませんでした」


 ノアは少し照れたように目を伏せた。


「これから、王宮書庫も変わりますか」


「変えます」


 エリスは言った。


「王家だけの書庫ではなく、照合できる書庫に。写しを閉じ込める場所ではなく、必要な時に読める場所に」


「仕事が増えますね」


「はい」


「楽しそうですね」


 エリスは少し考えた。


「大変そうです」


「でも、嫌ではない」


「はい」


 ノアは笑った。


 夕方、正式な署名式が行われた。


 場所は崩れた契約塔ではなく、大広間でもなく、王宮北庭だった。


 あえて、塔の跡の前で行うことになった。


 隠された部屋ではなく、空の下で。


 王都の人々の一部も、門の外からその様子を見ていた。完全公開とはいかないが、少なくとも王宮内部だけの儀式ではなかった。


 最初に国王が署名した。


 セルヴィス・アルトレイン。


 次にユリウス。


 彼は一瞬ペンを止めたが、今度は最後まで読んでから署名した。


 エリスはそれを見ていた。


 署名の前に読む。


 それだけのことが、ようやく始まった。


 レオンハルトが署名する。


 レオンハルト・ヴァイスベルグ。


 神殿代表、財務院代表、民代表が続く。


 民代表たちは手が震えていた。

 それでも、自分の名前を書いた。


 王都商人組合代表。

 職人組合代表。

 救護院長。

 港湾労働代表。


 ミリアは銀鏡を通じて署名した。


 ミリア・クレイン。


 もう首輪はない。


 最後に、エリスの番が来た。


 書き手。


 エリスは羽根ペンを受け取った。


 目の前の契約書を見る。


 婚約破棄契約から始まった。


 あの時、彼女は署名する前に異議を申し立てた。

 王太子は読まずに署名し、王都の金庫は閉じた。

 彼女は追放され、北方で竜の契約を直し、相談所を開き、村の小麦畑を守り、聖女の首輪を読み、建国契約の罪を見つけた。


 いくつもの契約を読んできた。


 人を縛る契約。

 土地を奪う契約。

 命を削る契約。

 国を売る契約。


 けれど最後に書くのは、人を所有しないための契約だった。


 エリスは署名欄にペンを置いた。


 エリス・フォーマルハウト。


 書き終えた瞬間、契約書は静かに光った。


 派手な光ではない。


 しかし、強く、安定していた。


 崩れた契約塔の跡から、青い光が空へ昇る。

 王都の魔法灯が一つずつ灯る。

 水路の音が広がる。

 遠くの救護院の鐘が鳴る。


 王国はまだ傷だらけだった。


 だが、完全には壊れていない。


 そして、もう同じ形には戻らない。


 署名式が終わると、国王がエリスへ近づいた。


「そなたには、王宮に残ってもらいたい」


 周囲が静まる。


 エリスは国王を見た。


「王家書き手長として、建国契約の再整備を任せたい」


 王宮に残る。


 かつての自分なら、それは最大の栄誉だっただろう。

 魔力ゼロの令嬢が、王家の正式な書き手として認められる。


 だが、エリスはすぐに答えた。


「お断りします」


 国王は驚かなかった。


 ただ、静かに続きを待った。


「私は、王宮に所属する書き手にはなりません。王家のためだけに記録する立場には戻れません」


「では、どうする」


「北方の契約魔法相談所を続けます。その上で、共同記録制度の外部書き手として王都にも来ます。王宮の中からではなく、外から照合する立場で」


 国王は目を伏せた。


「それが、そなたの選択か」


「はい」


「王家は、そなたを縛らぬ」


 その言葉が、契約書に記録された。


 エリスは礼をした。


「ありがとうございます」


 ユリウスが近づいてきた。


 少し離れた場所で、立ち止まる。


「エリス」


「はい、殿下」


「私は、君を理解していなかった」


 エリスは答えなかった。


 ユリウスは続ける。


「今も、完全には分からない。なぜ君が、あそこまで契約書にこだわるのか。なぜ許しより記録を求めるのか」


「分からなくても、読んでください」


 エリスは言った。


「契約書も、人の言葉も」


 ユリウスは苦い顔をした。


「努力する」


「努力ではなく、手続きにしてください」


 レオンハルトが横でわずかに咳をした。

 笑いをこらえたのかもしれない。


 ユリウスは一瞬むっとしたが、やがて小さく頷いた。


「……手続きにする」


 それが、二人の最後の会話ではないだろう。

 王国の再建には、王太子も関わらざるを得ない。


 だが、少なくとも婚約者としての関係は終わった。


 エリスの中でも、ようやく終わった。


 翌日、エリスは王都を発った。


 見送りは多くなかった。


 王宮の者たちは後始末に追われ、貴族たちは新制度への対応で混乱している。王都の民はまだ不安の中にいる。


 だが、南門にはノアが来ていた。


「王宮書庫の改革案、必ず送ります」


「待っています」


「それと、相談所の王都支所の件も」


「まだ決まっていません」


「でも、必要になります」


「そうですね」


 二人は少し笑った。


 ミリアからは手紙が届いていた。


 北方でしばらく休み、その後、薬師として学び直したいと書かれていた。聖女の力を完全に捨てるのではなく、自分の意思で使い方を決めたいとも。


 最後に、こうあった。


 ――私の名前で、また契約書を作ってください。


 エリスはその手紙を丁寧に畳んだ。


 馬車が動き出す。


 王都の白い壁が遠ざかる。


 追放された時、エリスは何も持っていなかった。

 小さな鞄と、古い羽根ペンだけだった。


 今、鞄の中には大量の写しがある。


 暫定建国再確認契約。

 共同記録制度設置契約。

 ミリアの解除記録。

 王太子署名責任記録。

 父の署名した本人署名承認書。

 そして、北方へ持ち帰る相談所の仕事。


 レオンハルトが向かいに座っている。


「戻るぞ」


「はい」


「北方は書類の山だ」


「王都も山でした」


「君は山に縁があるな」


「書類の山とは縁を切りたいです」


「無理だろう」


「否定できません」


 馬車の中に、穏やかな沈黙が落ちた。


 少しして、レオンハルトが言った。


「王宮に残ると思った」


「少しだけ迷いました」


「そうか」


「でも、私は王宮の中にいると、また王家のためだけに読んでしまう気がしました。外にいる方が、いろいろな契約が見えます」


「小麦畑も、竜も、聖女もか」


「はい」


「なら、相談所に戻るのが正しい」


 エリスは頷いた。


「閣下」


「何だ」


「私の契約は、まだ続きますか」


「雇用契約のことか」


「はい」


「君が望むなら」


「更新したいです」


 レオンハルトは少しだけ口元を緩めた。


「では、戻ったら更新契約を作る」


「全文確認します」


「当然だ」


「条件を追加しても?」


「内容による」


「相談所の人員増員と、王都支所設置検討と、休暇規定の明確化を」


「最後が最重要だな」


「カレンに叱られますので」


「俺も賛成する」


 エリスは小さく笑った。


 馬車は北へ進む。


 王都の白い壁が見えなくなり、やがて北方の山が遠くに現れる。


 その山の上で、古代竜グラナートが眠っている。


 次に文字を歪めれば、焼く。


 竜はそう言った。


 厳しい約束だ。

 だが、約束があるからこそ、人は読み返せる。


 数日後、ヴァイスベルグ城に戻ると、相談所の前にはすでに人が並んでいた。


 薬草採りの老婆。

 鍛冶屋の弟子。

 兵士。

 商人。

 ハルゼ村のロイ。

 そして、ミリア。


 チョーカーのない首元に、柔らかな白い襟巻きをしている。


「おかえりなさい、エリス様」


 ミリアが言った。


 エリスは馬車を降り、少しだけ驚いた。


 その言葉が、胸に温かく広がった。


 おかえりなさい。


 王都では、戻れと言われた。

 北方では、帰ってきたと言われる。


「ただいま戻りました」


 エリスは答えた。


 カレンが腕を組んで待っていた。


「補佐官殿、休む暇はありません」


「分かっています」


「相談記録簿が五冊増えました」


「……五冊」


「王都の件で、皆さん契約書を持ち込むようになりました」


「よい傾向です」


「書類は増えます」


「それも、よい傾向です」


「言いましたね」


 カレンは満足そうに笑った。


 相談所の扉には、新しい看板がかかっていた。


 ――契約魔法相談所。

 土地・雇用・商取引・魔法契約・封印文書・王都共同記録、相談承ります。


 その下に、エリスの字ではない追記がある。


 ――署名前に読むこと。


 誰が書いたのかと見ると、ロイが少し照れたように頭をかいた。


「村でも、皆にそう言っております」


 エリスは笑った。


「とても大切なことです」


 その日、相談所は再開した。


 最初の相談者は、ミリアだった。


 彼女は一枚の白紙を持ってきた。


「薬師見習いとして働く契約を作りたいんです」


「相手は」


「北方の救護院です。でも、聖女の力についても少し書きたいです。使う時は、私の意思で。無理に使わない。使ったら休む。誰かに命じられてではなく、患者さんと私が同意した時に」


 エリスは頷いた。


「よい契約にしましょう」


「はい」


「まず、あなたの名前から」


 ミリアは少し笑った。


「ミリア・クレインです」


 エリスは白紙の一番上に書いた。


 ミリア・クレイン薬師見習い雇用契約。


 黒い染みはない。


 窓の外では、北方の風が吹いていた。


 遠くの山で、古代竜が眠っている。

 王都では、共同記録制度が動き始めている。

 ハルゼ村では、小麦が育っているだろう。


 契約書は、これからも人を縛るかもしれない。

 誰かがまた言葉を歪めるかもしれない。

 王家も、貴族も、商会も、神殿も、簡単には変わらない。


 それでも、読む者がいる。


 署名する前に立ち止まる者がいる。

 説明を求める者がいる。

 記録を残す者がいる。


 ならば、約束はまだ直せる。


 エリスは羽根ペンを取った。


 相談所の机に、白い紙が広がる。


 契約書の最後には、必ず名前を書く。


 誰かに奪われるためではない。

 誰かに所有されるためでもない。


 自分の意思で、約束するために。


 エリスは静かに微笑み、最初の一文を書き始めた。

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