第十九話 最後の契約は、竜と少女の約束
建国契約の原本は、王宮本殿のさらに奥にあった。
そこは、王族であっても容易には入れない場所だった。
王宮地下礼拝堂。
王家の戴冠式、王印継承、王太子立太子、そして国家非常時の契約更新だけに使われるという、王国でもっとも古い部屋。
エリスは、国王、王太子ユリウス、レオンハルト、副法務官ディートリヒ、財務院長代理ローレン、神殿司祭、そして数名の書記官とともに、地下へ続く階段を下りていた。
階段の壁には、古い契約文が刻まれている。
王は民を守る。
民は王を支える。
王家は魔力を受け、王国を照らす。
美しい文言だった。
だが、エリスの視界では、その文字のあちこちに黒い染みが浮かんでいる。
正確には、文字そのものが悪いのではない。
文字が削られ、重ねられ、意味をずらされている。
受ける。
帰す。
守る。
支える。
どれも、少しずつ本来の意味から逸れていた。
王家が長い年月をかけて、契約を自分たちに都合よく読ませてきた跡だった。
「ここから先は、発言に注意せよ」
国王が低く言った。
「地下礼拝堂では、言葉が記録される」
「望むところです」
エリスが答えると、ユリウスが不快そうに彼女を見た。
「君は本当に変わったな」
「はい」
「以前は、父上の前でそんな口を利かなかった」
「以前は、発言の機会がありませんでした」
「機会は与えられるものではない」
「では、今は自分で取ります」
ユリウスは言い返そうとしたが、国王が咳払いをしたため黙った。
やがて、階段の先に扉が見えた。
巨大な石扉だった。
扉には、王家の紋章と、竜の爪痕のような古い刻印が並んでいる。王宮の公式な記録では、竜の印は「征服された災厄」を示すと教えられてきた。
だが、北方の副本を読んだ今なら分かる。
これは征服の印ではない。
見届け人の印だ。
国王が手をかざすと、王家の紋章が弱く光った。
しかし扉はすぐには開かない。
青い文字が浮かぶ。
――王家承認、不完全。
――記録者承認を求む。
全員の視線がエリスへ向いた。
ユリウスが低く言う。
「なぜ、王家の扉が君を求める」
「王家だけでは、開けられなくなっているからです」
「不敬だぞ」
「扉がそう言っています」
エリスは一歩前へ出た。
扉に触れず、言葉だけを置く。
「エリス・フォーマルハウト。ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人。建国契約第六条に基づく書き手として、原本閲覧の記録に立ち会います」
扉の竜印が赤く瞬いた。
次に、レオンハルトが名乗る。
「レオンハルト・ヴァイスベルグ。北方辺境伯。竜封印契約の守護者として立ち会う」
最後に、国王が苦い顔で言った。
「セルヴィス・アルトレイン。現国王として、建国契約原本の閲覧を許可する」
三つの光が重なった。
王家の青。
北方の赤。
書き手の金。
石扉が、ゆっくり開いた。
地下礼拝堂は、暗かった。
壁には魔法灯がある。
だが、その光は弱い。天井から吊るされた銀鎖も、祭壇の装飾も、かつての華やかさを失っている。
部屋の中央には、黒い石の祭壇があった。
その上に、一冊の契約書が置かれている。
書物というより、石板と竜鱗紙と金属板を重ねたものだった。厚く、重く、古い。表紙には王家の紋章と竜の爪痕、そして民を表す麦穂の印が刻まれている。
エリスは息を呑んだ。
建国契約原本。
王国のすべての契約魔法の根。
王家が守り、王家が歪め、王家が隠してきたもの。
国王が祭壇の前に立つ。
「これが、アルトレイン王家に伝わる建国契約だ」
「開いてください」
エリスは言った。
国王はゆっくり表紙に手を置いた。
だが、契約書は開かなかった。
青い文字が浮かぶ。
――王家単独閲覧、拒否。
――書き手による照合を求む。
国王の顔が険しくなる。
エリスは、鞄から北方で作った建国契約副本の照合写しを取り出した。
祭壇の横に置く。
すると、原本の表紙が音もなく開いた。
最初のページには、古王国語と竜語、そして古い民間文字が三層に重なって記されていた。
エリスは読み始めた。
「第一条。王は、民より魔力を預かる。預かった魔力は、民の生活、土地の安寧、竜の眠り、外敵からの守りのためにのみ用いる」
北方副本と同じ。
エリスは王都側の公式抄本を隣に置く。
そこには、こう書かれていた。
王は、民より魔力を受ける。受けた魔力は、王家へ帰す。
国王の表情がわずかに歪む。
「誤写だ」
ユリウスが言った。
「古い写本には誤写がある。そんなものを王家の罪と決めつけるな」
「一箇所なら誤写かもしれません」
エリスは次のページを開いた。
「第二条。王は、預かった魔力を私有してはならない。王家の血を保つため、個人の長命のため、婚姻の強制のため、他国への支配のために用いてはならない」
公式抄本では、この条項は短くなっていた。
王は魔力を王国安寧のために用いる。
禁止事項が消えている。
「第三条。竜は大地の炉を見守り、王家が契約を守る限り、王国を焼かない」
公式抄本では。
竜は王家に封じられ、王国を害さない。
見届け人が、封印対象に変えられている。
「第四条。王家が契約を歪め、民より預かった魔力を王家の所有物と偽った時、竜は承認を退く」
公式抄本では、この条項自体が存在しなかった。
「第五条。王家が異議を封じ、書き手の記録を焼き、民に契約を読ませぬ時、契約炉は王家の命令を拒む」
これも、公式抄本にはない。
エリスは読み続けた。
「第六条。契約が歪められた時、書き手は異議を申し立てることができる。書き手の異議は、魔力の多寡によらず、記録の正しさによって受理される」
そこで、国王が目を閉じた。
ユリウスは青ざめていた。
財務院長代理ローレンは震える手で記録を取っている。神殿司祭たちは互いに視線を交わしていた。
ディートリヒだけが、どこか諦めたような顔をしていた。
「知っていましたね」
エリスは彼を見た。
ディートリヒは沈黙した。
「法務院は、この原文を知っていた。だから書き手の役割を消した。だから私を王家臨時調査協力者にし、記録者の権限を協力者へ置き換えようとした」
ディートリヒは薄く笑った。
「法務院だけではありませんよ」
国王の目が動く。
「ディートリヒ」
「もう隠しても無駄でしょう、陛下」
ディートリヒは静かに言った。
「王家は知っていた。神殿も知っていた。財務院の一部も知っていた。建国契約の原文が、現在の王家支配にとって不都合だということを」
ユリウスが叫ぶ。
「黙れ!」
「殿下は知らなかったでしょう。あなたは何も読まなかった。読まなくても命令できる立場にいたからです」
ユリウスが言葉を失う。
ディートリヒの声は淡々としていた。
「しかし、王家は長い年月をかけて契約の解釈を変えた。民の魔力を預かる管理者から、所有者へ。竜を見届け人から、封印された災厄へ。書き手を独立記録者から、王家に従属する協力者へ。そして聖女を証人から、儀式資産へ」
「なぜです」
エリスは問うた。
「なぜ、そこまでして契約を歪めたのですか」
ディートリヒは笑みを消した。
「王国を維持するためです」
「それは理由になりません」
「理由になります。民は秩序を求める。王都の灯り、水路、防壁、港、金庫、神殿、すべては契約炉によって動いている。王家の権威が揺らげば、それらも揺らぐ。ならば、王家は強くなければならない。契約に縛られる管理者ではなく、契約を支配する所有者でなければならない」
「その結果、契約炉は弱りました」
「だから聖女が必要だった」
「聖女は供物ではありません」
エリスは建国契約の最後の条項を開いた。
「第七条。王家が契約を私物化し、聖なる力を持つ者の生命を炉に投じようとした時、その罪は王家の血に返る。聖なる者は供物ではなく、証人である」
この一文が読み上げられた瞬間、地下礼拝堂の空気が変わった。
祭壇の奥にある銀鏡が光る。
そこに、遠く北方の映像が映った。
ヴァイスベルグ城。
東棟の保護室。
そこにいるミリア・クレイン。
首には金色のチョーカーがある。
だが、その文字が今、激しく光っていた。
「ミリア様!」
エリスは思わず叫んだ。
銀鏡の中で、ミリアが胸元を押さえている。
カレンが傍にいる。オルドもいる。
チョーカーの契約が、建国契約原本の読み上げに反応しているのだ。
国王が呻くように言った。
「聖女契約が、原本と接続している」
「はい」
エリスは祭壇に手を置いた。
「今なら切れます」
「何を」
「聖女契約の根です。原本が、聖女は供物ではなく証人だと認めている。ならば、ミリア様の契約を供物として読ませる根拠は崩れます」
神殿司祭が慌てて前へ出た。
「待ちなさい。聖女契約は神殿儀式により」
「本人の説明同意がありません」
「聖女は王国に選ばれた者です」
「彼女はミリア・クレインです」
エリスは鞄から、ミリアが自分で書いた意思表示を取り出した。
――私は、ミリア・クレインです。
――聖女という称号は、私のすべてではありません。
――私は、王家の所有物ではありません。
――私は、私の意思に反して王都へ戻されることを望みません。
――私は、私の契約を読まれることを望みます。
エリスはそれを祭壇の上に置いた。
「本人の意思です」
銀鏡の向こうで、ミリアが泣きそうな顔で頷いている。
エリスは続けて、聖女契約の写しと停止申立書を置いた。
「聖女契約第三条、発言制限。第五条、生命力徴収。第七条、儀式資産登録。第八条、建国契約補填。これらは、建国契約第七条に違反します」
祭壇が青く光った。
ミリアのチョーカーから、金色の鎖のような文字が浮かび上がる。
王家。
神殿。
王太子。
聖女。
保護。
登録。
補填。
美しい言葉が並んでいる。
だが、その奥にあるのは拘束だ。
「ミリア・クレイン様」
エリスは銀鏡へ向かって言った。
「確認します。あなたは、自分の意思でこの契約の解除を望みますか」
ミリアは震えながらも、はっきり言った。
「望みます」
チョーカーが強く光る。
だが今度は、生命力を奪う赤黒い反応ではない。
契約そのものが、本人の意思と原本の条項に挟まれて軋んでいる。
「あなたは、王家の所有物ですか」
「違います」
「聖女という称号は、あなたのすべてですか」
「違います」
「あなたは、供物ですか」
ミリアは涙を流しながら首を横に振った。
「違います。私は、ミリア・クレインです」
その言葉が、礼拝堂に響いた。
建国契約原本の第七条が強く光る。
――聖なる者は供物ではなく、証人である。
ミリアのチョーカーに亀裂が入った。
カレンが銀鏡の向こうで叫ぶ。
「補佐官殿、チョーカーが!」
「触らないでください!」
エリスはすぐに言った。
「契約の方を切ります。金具を壊すのではありません」
彼女は白紙を取り出した。
書く。
――聖女契約根本解除申立。
――対象、ミリア・クレイン。
――理由、本人説明同意の欠落、発言制限の過度拘束、生命力徴収条項の不当性、儀式資産登録の人格侵害、建国契約第七条違反。
――本人意思、解除を望む。
――聖なる者は供物ではなく、証人である。
署名。
エリス・フォーマルハウト。
そして、銀鏡の向こうでミリアが、震える手で同じ文面の写しに署名した。
ミリア・クレイン。
二つの署名が、建国契約原本を通して重なる。
チョーカーが音を立てて外れた。
落ちた金属は、床に触れた瞬間、ただの冷たい輪になった。
黒い染みは消えている。
ミリアは首元を押さえ、しばらく呆然としていた。
そして、声を上げて泣いた。
カレンが彼女の肩を抱く。
オルドが深く頭を下げる。
地下礼拝堂では、誰もすぐには言葉を発せなかった。
神殿司祭は顔面蒼白だった。
ユリウスは、銀鏡の中のミリアを見つめていた。
「ミリア」
彼は小さく言った。
だが、その声に彼女は反応しなかった。
もう、命令に振り向く必要はない。
エリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ミリアは自由になった。
完全な意味での人生の自由は、これから取り戻していくものだろう。
だが少なくとも、首輪は外れた。
彼女は、供物ではなく証人になった。
その時だった。
礼拝堂の奥で、低い音が響いた。
地下のさらに深く、中央契約炉の方角からだ。
建国契約原本が、勝手にページをめくり始める。
エリスは息を呑んだ。
「まだ、何かあります」
開かれたのは、最後のページだった。
そこには、北方副本にもなかった条項があった。
古い竜語で、短く書かれている。
――王家が契約を守れぬ時、竜と書き手と証人は、最後の契約を結ぶことができる。
レオンハルトが低く問う。
「最後の契約?」
エリスは文字を読み続けた。
「王家が契約を私物化し、民の魔力を還さず、聖なる者を供物とし、外敵に契約路を開いた時、竜と書き手と証人は、王家を介さず、民と土地を守る暫定契約を結ぶことができる」
国王の顔が変わった。
「王家を介さず、だと」
「はい」
エリスの声も震えた。
これは、王家にとって最後の安全装置だ。
王家が建国契約を守れなくなった時、王国そのものを王家と一緒に沈めないための条項。
竜。
書き手。
証人。
それぞれが、王家の外側から契約を支える。
竜は見届け人。
書き手は記録者。
証人は聖なる者。
つまり。
グラナート。
エリス。
ミリア。
その瞬間、北方の銀鏡が赤く光った。
ミリアの背後に、山の影が映る。
古代竜グラナートが、目を開けていた。
その声が、地下礼拝堂に響いた。
――人は、また約束を歪めた。
全員が凍りついた。
声は空気を震わせるのではない。
契約そのものを震わせていた。
レオンハルトが膝をつく。
オルドも銀鏡の向こうで深く頭を下げた。
エリスは立ったまま、竜の声を聞いた。
――王は、忘れた。
――書き手は、読んだ。
――証人は、供物を拒んだ。
ミリアが震えながらも顔を上げる。
グラナートの赤い瞳が、銀鏡越しに彼女を見る。
――小さき証人。お前は、何を望む。
ミリアは息を呑んだ。
エリスが言う。
「ミリア様、自分の言葉で」
ミリアは涙を拭いた。
「私は……誰かの燃料になりたくありません」
彼女の声は震えていたが、確かだった。
「でも、王都の人たちが困るのも嫌です。私の村にも、王都に働きに出ている人がいます。救護院にも、けがをした人がいるはずです。私は、王家のために命を捧げることは望みません。でも、誰かを助ける証人にはなりたいです」
竜は沈黙した。
次に、赤い瞳がエリスへ向く。
――書き手。お前は、何を記す。
エリスは建国契約原本を見た。
王家を完全に切り捨てれば、王国は混乱する。
だが、王家に戻せば、同じことが繰り返される。
必要なのは、所有ではなく管理。
支配ではなく返還。
命令ではなく説明。
供物ではなく証人。
「王家所有解釈を停止します」
エリスは言った。
「民から預かった魔力は、民と土地へ還す。中央契約炉の暫定管理は、王家単独ではなく、竜、書き手、証人、王家、民代表の共同記録下に置きます」
国王が息を呑む。
「民代表だと」
「はい」
エリスは国王を見た。
「建国契約には、民の印がありました。麦穂の印です。民は契約の外ではありません。最初から当事者です」
それは、王家が最も隠したかった事実かもしれない。
王は民から魔力を預かる。
ならば、民はただ支配される側ではない。
契約の当事者だ。
レオンハルトが頷いた。
「北方は、その暫定契約を支持する」
国王は黙っていた。
ユリウスが叫ぶ。
「馬鹿な! 民を契約管理に入れるなど、王権を削るつもりか!」
「王権ではなく、王家の私物化を削ります」
エリスは答えた。
「違いが分からないなら、殿下はしばらく署名なさらない方がよいです」
ユリウスの顔が赤くなる。
だが、今は誰も笑わなかった。
その指摘があまりに正確だったからだ。
竜の声が再び響く。
――王よ。
国王が顔を上げる。
――お前は、何を返す。
国王は、長い沈黙のあと、王冠のない頭を垂れた。
「王家が所有していると偽ってきた管理権を、契約へ返す」
ユリウスが愕然とした。
「父上!」
「黙れ」
国王の声は低かった。
「王家は、長く契約を歪めた。私一人の代で始まった罪ではない。だが、私の代でそれを隠したことは事実だ」
彼はエリスを見た。
「記録せよ」
エリスは羽根ペンを取った。
手が震える。
だが、書いた。
――国王セルヴィス・アルトレインは、王家が建国契約の管理権を所有権として扱ってきた事実を認める。
――王家は、建国契約に基づく魔力管理権を私物化せず、暫定共同記録下に置くことに同意する。
国王が署名した。
セルヴィス・アルトレイン。
その署名は弱々しかったが、確かに書かれた。
建国契約原本が青く光る。
次に、竜の声が響く。
――証人。
ミリアが銀鏡の向こうで立ち上がる。
「はい」
――お前は、供物ではない。証人として、何を見届ける。
ミリアは深く息を吸った。
「王家が、もう人を燃料にしないことを。聖女という名前で、人の意思を奪わないことを。困っている人を助ける力は、命令ではなく、本人の意思で使われるべきだということを」
エリスはその言葉を書いた。
ミリア・クレインは、供物ではなく証人として、聖なる力を持つ者の人格と意思が尊重されることを見届ける。
ミリアが署名する。
銀鏡越しに、その文字が建国契約原本へ写った。
次に、竜の声。
――書き手。
エリスは顔を上げた。
――お前は、何を約束する。
エリスは、自分の名前を思った。
王家に奪われかけた名前。
父に制限されかけた名前。
肩書きで塗りつぶされかけた名前。
そして、自分で守ると決めた名前。
「私は、契約を読みます」
彼女は言った。
「王家に都合の悪い文字でも、民に知らされなかった条項でも、誰かの声を奪う契約でも、読みます。読んだものを記録します。記録を隠させません」
竜の赤い瞳が細くなる。
――人は忘れる。
「だから、書きます」
――人は歪める。
「だから、照合します」
――人は恐れ、黙る。
「だから、声を記録します」
エリスは、静かに続けた。
「それが、私にできる約束です」
建国契約原本の最後の余白が、白く光った。
ここに書け、と言っている。
最後の契約。
竜と少女の約束。
少女とは、ミリアだけではない。
エリスでもある。
王家に所有されないと宣言した二人の少女が、それぞれ証人と書き手として契約に立つ。
エリスは羽根ペンを握った。
契約文を書く。
――暫定建国再確認契約。
――第一条。王家は、民より預かった魔力を所有しない。
――第二条。預かった魔力は、民の生活、土地の安寧、竜の眠り、外敵からの守りのために還される。
――第三条。聖なる力を持つ者は供物ではなく証人であり、その生命力、意思、名前は王家または神殿の所有物とならない。
――第四条。契約に関する記録は、王家単独で保管せず、王家、北方、書き手、証人、民代表の写しをもって照合する。
――第五条。書き手は、契約の歪みを見つけた場合、身分、魔力、性別、家名にかかわらず異議を申し立てることができる。
――第六条。竜は、この暫定契約を見届ける。王家が再び人を供物とし、民の魔力を私物化し、記録を焼く時、竜は承認を退く。
――第七条。本契約は、王国を壊すためではなく、王国を王家の私物から民と土地へ返すために結ばれる。
書き終えると、礼拝堂は静まり返っていた。
国王が署名する。
セルヴィス・アルトレイン。
レオンハルトが署名する。
レオンハルト・ヴァイスベルグ。
銀鏡の向こうで、ミリアが署名する。
ミリア・クレイン。
竜の署名は、文字ではなかった。
銀鏡の奥で、グラナートが一度だけ息を吐く。
赤い光が契約原本に触れ、爪痕の印が刻まれた。
最後に、エリスの署名欄が残った。
書き手。
エリスは、一瞬だけ手を止めた。
ここに署名すれば、もう後戻りはできない。
王家の罪を記録し、王国の契約を開き、民を契約の当事者として認める道へ踏み出す。
王都は混乱する。
貴族は反発する。
神殿も財務院も、簡単には変わらない。
ヴァルドニアも、まだ諦めないだろう。
それでも。
契約書の向こうには、人がいる。
ハルゼ村の小麦畑。
北方の兵士。
薬草採りの老婆。
王都の水路を待つ人々。
救護院の患者。
チョーカーを外したミリア。
そして、自分自身。
エリスは羽根ペンを下ろした。
エリス・フォーマルハウト。
署名した瞬間、建国契約原本が強く光った。
地下礼拝堂の壁に刻まれた古い文字が、次々と本来の形を取り戻していく。
受ける、ではなく、預かる。
帰す、ではなく、還す。
封じる、ではなく、見届ける。
供物、ではなく、証人。
王都の遠くで、消えかけていた魔法灯が青く安定した。
水路の音が戻る。
救護院の鐘が鳴る。
港湾管理塔の信号灯が再点火する。
王家のためではない。
民と土地へ還すための流れとして。
竜の声が最後に響いた。
――約束は、読まれた。
――約束は、書かれた。
――次に歪めれば、焼く。
その言い方は相変わらず厳しかった。
だが、エリスには少しだけ分かった。
これは脅しだけではない。
竜なりの見届けの言葉だった。
銀鏡の向こうで、ミリアが泣きながら笑っている。
「エリス様」
「はい」
「私、首が軽いです」
その言葉に、エリスも少し笑った。
「よかったです」
「でも、これから何をすればいいのか分かりません」
「それは、これから考えましょう」
「一緒に?」
「はい。必要なら、契約書を作ります。あなたの意思で」
ミリアは頷いた。
もう、聖女様ではない。
いや、聖女であってもいい。
だが、それは彼女のすべてではない。
ミリア・クレイン。
彼女の名前もまた、彼女自身に戻った。
地下礼拝堂で、国王は深く息を吐いた。
「王国は、変わらねばならぬな」
誰も答えなかった。
変わらなければならない。
だが、それは契約書一枚で終わる話ではない。
むしろ、ここから始まる。
王家の説明。
法務院の調査。
神殿の責任。
財務院の透明化。
民代表の選出。
中央契約炉の共同記録。
ヴァルドニアとの対処。
膨大な仕事が待っている。
エリスは、契約原本の最後に並んだ署名を見た。
王。
辺境伯。
証人。
竜。
書き手。
その中に、自分の名前がある。
王太子の婚約者としてではない。
侯爵家の娘としてだけでもない。
王家臨時調査協力者としてでもない。
書き手として。
その事実に、胸の奥が静かに震えた。
レオンハルトが隣で言った。
「終わったな」
「いいえ」
エリスは契約原本を閉じながら答えた。
「ようやく、始まります」
彼は少しだけ口元を緩めた。
「そう言うと思った」
「仕事が増えました」
「知っている」
「相談所もしばらく休業できませんね」
「王都にも支所が必要かもしれない」
「それは……かなり大変です」
「望むところだろう」
エリスは少し考えた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
地下礼拝堂の扉が開く。
階段の上から、朝の光が差し込んでいた。
王都炎上の夜が明けようとしている。
崩れた契約塔の向こうで、新しい光が王都を照らし始めていた。




