<10:恋愛熱血少女(2)>
戸川春菜・・・高校3年生。
柱谷秀彦・・・戸川春菜の担任教師。
能登奈緒美・・・戸川春菜の親友でクラスメイト。生徒会副会長。
職員室のドアを開けた春菜は、脇目も降らず、一直線に柱谷の元へ向かう。
他の教師の存在は、彼女にとっては石ころに等しい。
「先生」
春菜は元気に呼び掛ける。
「おう、戸川か」
何か調べ物をしていた柱谷が、顔を上げた。
(ああ、素敵だわ)
春菜はマジマジと柱谷の顔を見つめる。
それは彼女の恋愛フィルターを通しての感想であり、客観的な目で見た場合、柱谷の容姿は御世辞にもハンサムとは言えない。
せいぜい中の上といったところだろう。
「どうした戸川、何か用か」
「あっ、はい」
春菜は素早い瞬きをする。
「この前の、『箱男』を読み終わったので、それを報告に来たんです」
「もう読み終わったのか。早いなあ」
「ええ、本が好きなので」
春菜は可愛さを意識しながら微笑む。
彼女は1学期の後半から、国語教師である柱谷にオススメの本を紹介してもらい、それを読むことを始めた。
「純文学に興味を持つようになったんですけど、何から読めばいいのか分からないので、教えてください」
そう持ち掛けたら、柱谷は喜んで応じた。生徒が読書に興味を持ったこと、自分に相談を持ち掛けてくれたことが、熱血教師志望の彼としては、とても嬉しかったのだ。
しかし春菜は実のところ、読書になど全く関心が無かった。
彼女の関心は、柱谷に向けられている。その柱谷に気に入ってもらえるよう、そして彼に近付けるよう、そんな嘘をついたのだ。
安部公房の『箱男』は、柱谷が2学期に入って最初に勧めた本だ。それを春菜は、たった3日で読破した。
今まで見ていたテレビ番組も無視して、読書の時間に割いた。
春菜にとって小説を読む作業は、かなりの苦痛だった。
彼女が読む本と言えば、普段は漫画とファッション雑誌ぐらいだ。
だが、恋する気持ちの前では、そんな苦痛など屁でもない。
「それで、どういう感想を持った?」
柱谷が尋ねる。
「そうですね、自身のアイデンティティーを捨て去った時点で、ちゃんとしたコミュニケーションが成立しなくなることを描いているんじゃないかと思いました。自分だけ箱を頭から被って一方的に他人を覗き見ても、それは人間関係として間違っているような気がします」
「なるほど、そう感じたか」
柱谷はうなずくが、春菜は適当に、それらしい言葉を並べただけだった。実際には、作者が何を表現したかったのか、まるで理解できなかった。
彼女の本当の感想は、
「頭から箱を被って歩き回るなんて、ただの変態ね」
というものだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「それより先生、次の小説は、男女の関係を描いた作品なんて、どうかと思うんですけど」
春菜は提案する。
「男女関係か。それは、つまり恋愛関係という意味か?」
「ええ、まあ」
「恋愛を描いた小説か。うーん、正直に言うと、そういうのは、あまり得意分野じゃないんだよなあ」
柱谷は頭を悩ませる。
「すぐには思い付かないなあ。普通の恋愛関係ではないが、谷崎潤一郎の『痴人の愛』なんかは、その部類に入るのかな」
「どういう作品ですか?」
「主人公の男が、ナオミという美少女を成熟した女に育てていき、彼女に溺れて愛欲の奴隷になってしまう話だ」
「先生、そういうのが趣味なんですか」
「馬鹿、俺は小説として読んだだけで、そういう趣味があるわけじゃない」
柱谷は真顔で否定した。
「なんだ、そうか」
「その残念そうな顔は、どういう意味だ」
「いえ、別に」
少女を成熟した女に育てるのが趣味なら、自分がその相手になってあげるのに、と春菜は思ったのだ。
「じゃあ先生は、どういう恋愛がいいんですか」
「どういうって、ごく普通の恋愛だよ」
「ごく普通って?」
「デートをしたり、一緒に食事をしたり、そういうことだよ。って、何を言わせるんだ。そんなの、小説と何の関係も無いぞ」
やや照れたように、柱谷が言う。
「やっぱり相手の女性は、落ち着いた雰囲気の、おしとやかな人なんですか」
「その勝手な決め付けは何なんだ」
「いえ、先生って、そういうタイプの女性と付き合っている感じに見えたから」
春菜は、見たことも無い花屋の店員を想像しながら、そう口にした。
「勝手に俺の恋人を決め付けるな。大体、タイプも何も、付き合っている相手もいないのに」
「へえ、いないんですか」
平静を装った春菜だが、心の中ではガッツポーズを作っていた。
(ってことは、花屋の店員とは、何も無いんだわ)
「先生はモテそうだから、てっきり恋人ぐらい、いるかと思ってました」
「嫌味か。どうせ俺はモテないよ」
「いえ、嫌味じゃありませんよ」
春菜は首を横に振る。
(きっと鈍感で、自分がモテる男だって気付いてないんだわ。先生を大好きな女が、こんな近くにもいるのに)
「おい、そろそろ休み時間も終わりだぞ。教室に戻れ」
柱谷が時計を確認しながら言う。
「あっ、はい。それじゃあ先生、今度は、その『痴人の愛』を読みますから」
春菜はウキウキした気分で、職員室を後にした。
とりあえず、これでモヤモヤしていた悩みは解決された。
「あれっ、春菜」
クラスメイトの奈緒美が気付いて、声を掛けてきた。
「職員室に何か用事?ああ、そうか、アンタのことだから、どうせメラ谷にちょっかいでも出してたのね」
「ちょっかいって、そんな言い方はやめてよ。勧めてもらった本を読んだ報告に行っただけよ」
「それも気に入られるのが目的のくせに。で、その地道な作戦は、上手く行ってるの」
「まあね。それより、今回は収穫があったわ。先生、花屋の店員と付き合ってないことが分かったわ」
「そんなこと、直接訊いたの?」
奈緒美が驚く。
「花屋の店員のことは、話題にしてないわよ。本に関する話の流れで、交際相手がいるかどうかっていう質問に、上手く持って行ったのよ」
「へえ、それで、恋人はいないってメラ谷が言ったんだ」
「うん、ライバルは消えたわ」
「さあ、どうかな。その花屋がメラ谷を好きだっていう可能性もあるだろうけどね。って、それは無いか。あんな男を好きになるのは、春菜ぐらいだから」
奈緒美は冗談めかして言ったのだが、春菜は真面目な顔で腕を組んだ。
「そうか、向こうがメラ谷に片思いで、アタックする可能性はあるわね」
「いや、そうマジに受け取られても」
「そろそろ私も、攻めていった方がいいのかも。うん、そうだわ、そうしよう」
「勝手に一人で納得してるし」
奈緒美が呆れる。
だが、そんなことはお構い無しで、春菜は次のステップへ進むための作戦を練り始めた。




