その日、私の世界は燃えた
私の名前は、セラナ・アルセリア。
――顔はいい、魔法も天才級、運動神経も抜群。
でも“性格だけはイマイチ”ってよく言われる、落ちぶれ貴族の三女だ。
北の国ミラレスの魔法学校に通う十四歳。
全寮制のはずなのに、私はひとりだけ家から通っている。
だってアルセリア家は、この国の貴族だから!
……まあ、落ち目の貴族だけどね。
だけど――この何気ない通学路で、私は運命を変える出会いを果たすことになる。
* * *
魔法概論の授業――。
また、同じことを言っている。
「この世界は、意味の神アレインの恵み“マナ”に満ちている。
我々の魂に刻まれた“意味火”から魔力を生み、その魔力をマナに放つことで……魔法は発動する」
……リアルに、もう何十回この話を聞いたんだろう。
隣の席のミーアは、案の定ぐっすり寝ている。
金色の髪が机にさらさら流れて、まるで昼寝用の枕みたいだ。
先生の声を完全に遮断して、夢の世界へ旅立っているらしい。
私も眠くなってきた、寝ようかな、、、
こんな、授業への姿勢に反して――私の成績は、超がつくほど優秀だ!
正直、いま冒険者になっても食べていける自信すらある。
(まあ、親に許してもらえないだろうけどね)
* * *
今日も、ようやく授業が終わった。
「セラナ、また明日ね!」
ミーアが手を振り、寮の方へ駆け出していく。
私は一人、通学路を歩き出した。
歩いて二十分ほどで、アルセリア家の屋敷にたどり着く。
……貴族の娘なのに、馬車でも護衛もなく徒歩通学。
落ちぶれ貴族の現実ってやつだ。
この国は平和だ。
貴族の娘がのんびり歩けるくらいには。
まあ、誘拐犯が来たら――返り討ちにする自信はあるけどね。
けれど、私にはそんな平和が退屈すぎた。
正直――私は自分に自信がある。
綺麗な銀の髪に、かなり整った顔立ち。おかげでファンも多い。
魔法の才能は抜群、この歳にして上級魔法を一通り使いこなせる。
しかも運動神経だって悪くない――足の速さなら同年次トップだ。
……うん、こうやって並べてみると、完璧すぎるかも。
やっぱり、こんなふうに思ってる時点で――性格だけはイマイチなのかもしれないけど。
退屈だ……。
でも――この平和を嫌ってるわけじゃない。
家族は大好きだし、友達だってたくさんいる。
退屈ではあるけれど――この国が平和であることは、やっぱり素敵なことだ。
そんな日常は、いつまでも続くと思っていた。
けれどある日。
学校からの帰り道、私はふと気まぐれを起こして、いつもと違う道を選んだ。
ほんの少し遠回りしてみただけ。理由なんてない――気晴らしみたいなものだ。
川沿いを歩いていると、そこで“人が倒れている”のを見つけた。
私は自分の性格がいい方じゃないと自覚している。
だけど、見て見ぬふりができるほど冷たい人間でもなかった。
……気になって、そっと近づいてみた。
「すみませーん? 生きてますかー?」
……あ、今の言い方は間違えたかもしれない。
なんで“生きてますか”なんて聞いちゃったんだろ、私。
返事は――ない。
「……死んでるかも……」
頭の中に、そんな嫌な予感がよぎる。
死んでたら、私どうしたらいいんだ? 衛兵? 神官? いやいや、まず確認しなきゃ……。
――あれ?
近づいてよく見ると、胸がかすかに上下している。
……息はしてる、みたいだ。
よく見ると――老人だ。おじいちゃん。
さらに目を凝らせば、体のあちこちに切り傷が刻まれていた。
「……もしかして、危ない人?」
警戒心が頭をよぎる。
けど、このまま放っておいたら死ぬのは間違いない。
危ない人だったとしても……まあ、私、強いし。
――よし。
私は決断し、詠唱を始めた。
次の瞬間、掌から溢れる光が、老人の傷へと注ぎ込んでいった。
うーん……治りそうだけど、これ、本当に助けて良かったのかな。
そんな疑問が浮かんだ、そのとき――
「あっ! 動いた!」
老人のまぶたが震え、ゆっくりと私の方へ視線を向けてきた。
「……治癒魔法か? お嬢さん……ありがとう」
そのかすれた声を聞いた瞬間、胸の奥の迷いがすっと消えていく。
――私の決断は、間違ってなかったと思えた。
私は、このおじいちゃんが立てるようになるまでは付き添うつもりでいた。
けれど、案外あっさり――彼はよろめきながらも立ち上がった。
「お嬢さん、その歳でこれだけの魔法を使えるなんて……すごいね」
褒められて育った私にとって、そんな言葉は聞き慣れたものだ。
だから私は肩をすくめて、そっけなく返す。
「それほどでもありません」
「でも……お嬢さん。魔法はすごいけど、世界の仕組みは何も分かってないね」
は?
意味はよく分からなかった。
けれど――“貶された”と感じた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
褒められることには耐性がある。
でも、貶されるのには……全然耐性がない。
……無視しよう。
老人は、くつくつと笑った。
……余計に腹が立つ。
次の瞬間、彼の指先に小さな炎が灯った。
――無詠唱魔法?
それは私の知っている火の玉とは違っていた。
小さいのに揺れがほとんどなく、澄んだ赤のまま静かに燃えている。
ただ“火”であることに、完璧なまでの説得力を持った炎だった。
「この世界には法則がある。
火には火の……ただ無駄に“意味”を放っても、人は主者にはなれんよ」
……この老人が何を言ってるのか、正直さっぱり分からなかった。
けれど、その声は妙に胸に響いた。
意味は分からないのに、なぜか心を強く惹きつけられる。
私は気づけば、老人の言葉に耳を傾けてしまっている。
だめだ、明らかに怪しい老人なのに、
このまま何も言わず立ち去るのが、一番いいに決まってる。
……なのに。
その口からこぼれた「法則」という言葉が、妙に胸に響いて離れなかった。
気づけば私は、もう止められなくなっていた。
「……世界の法則って、なんですか?」
あっ。
やってしまった――セラナ、お前の口はどうしてこう勝手に動くの。
まだ間に合う。
いまなら逃げられる……!
何たって私は足が速い。
この年次では一番だ。
相手は――ただのおじいさん。
……勝てる。たぶん。いや、絶対。
そうこう考えていると老人が、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、構造と論理の支配する世界からやってきた。
そして――残響者へと堕ちた」
しまった……!
これは、絶対に関わってはいけないタイプだ。
なのに、よりによって私、らしくもない正義感で人助けなんて……。
……セラナ、バカ。
「へぇー……すごいですねぇ……」
口から出た言葉は、思ってもない軽口だった。
内心では心臓がバクバクしてるくせに、なぜかこんな時に限って余計なことを言ってしまう。
……セラナ、お前ほんと黙ってろ。
うっ……ん? 待てよ?
残響者――それ、授業で習ったやつだ。
たしか、神に見捨てられた者。
そして……かなり危険な存在だったはず。
私は改めて老人を見る。
……確定だ。
次の瞬間――私は逃げ出していた。
頭が真っ白で、ただ足だけが勝手に動く。
気がつけば、目の前に広がるのは見慣れた景色。
落ちぶれ貴族の屋敷――つまり、私の家!
……流石、私。
無心で走っても、ちゃんと家にたどり着けるんだから。
庭を抜けると、メイドたちが一斉に頭を下げた。
落ちぶれ貴族といえど、最低限の使用人くらいはいる。
私は軽く手を振り返し、急ぎ足で自分の部屋へ向かった。
――はぁ。
なんだか今日は、やけに長い一日だった。
川辺で人助けなんてするから……。
ベッドに身を投げ出し、天井をぼんやり見つめる。
あーあ、夕食の時間も過ぎちゃったな……。
そんなことを考えているうちに、まぶたは重くなり――気づけば眠りに落ちていた。
* * *
……たぶん、これは夢だ。
川辺の老人。
その指先に宿っていた、小さな炎。
揺らぎも迷いもない、ただ“火”そのものだった炎。
――世界の法則。
――主者。
言葉の意味はわからない。
けれど、夢の中でさえ、その響きは私の心を強く揺さぶった。
……すると。
「セラナ、学校の時間ですよ?」
モーニングコールの時間かぁ――って、ん? 母様の声?
どうして母様が?
いつもならメイドが起こしに来るはずなのに……。
私は朝が大の苦手だ。
布団にくるまったまま、寝ぼけ声で答える。
「んー……起きてるよ……」
「セラナ。昨日の夕食の時間、あなた何をしていたの?」
あっ……そういうことか。
だから今朝は母様がわざわざ直々に……。
「ちょっと……人助けをしてました……」
「帰ったら、挨拶くらいしなさい」
母様の声は少し強かった。
でも、それが心配からくる怒りなのは、私にもわかっていた。
「……ごめんなさい」
母様は小さくため息をつき、ふっと表情を和らげる。
「セラナ。あなたも、いずれはどこかの家に嫁ぐ身です。
振る舞いひとつで未来が変わってしまうのですよ。
今のままでは――よい縁談も逃げてしまいます」
「はい、気をつけます」
そう答えると、母様は満足したのか部屋を出ていった。
私は、この家の三女。
そして――アルセリア家には、ついに男は生まれなかった。
だからこそ、残された道はただ一つ。
娘を名家に嫁がせて家の地位を保つこと。
その努力の成果か、姉二人は見事に帝国の名家へと嫁いでいった。
母様はいつも「名家に嫁げ」と言う。
でも――私には、私だけの野望がある。
私はこの家が大好きだ。
だからこそ、落ちぶれていくのが、どうしようもなく悲しい。
かつて“魔道の名家”と呼ばれた、このアルセリア家。
その威光を、もう一度取り戻したい。
……でも、こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えないんだけどね。
* * *
私の野望が――背中を押しているのかもしれない。
私は、あの老人のことがどうしても気になっていた。
今日もいつもの授業が終わり、ミーアを見送る。
気づけば、足は昨日の川辺へと向かっていた。
……翌日も同じ場所にいるはずなんて、ない。
そう思っていたのに――
えっ……?
い、いる。
本当に、昨日のままの場所に……!
私はおそるおそる近づいた。
どうすればいいんだ……? いや、まずは謝罪だ。
「あの……昨日は急に逃げてしまって、すみませんでした」
老人はふっと笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいんだよ。お嬢さんは命の恩人だ。
むしろ、感謝しているよ」
「あの……何でまたここに?」
私は疑問をそのまま口にした。
ストレートなのが、私のいいところ――なはず。
老人は穏やかに笑みを浮かべる。
「お嬢さんは、真っ直ぐに“知りたい”という目をしている。
だから、きっとまたここに来ると思っていた」
その瞳は、まるで何もかもを見透かすように、静かで深い。
その視線に射抜かれると、なぜか少しだけ――恥ずかしかった。
そして同時に、胸の奥がほんのり熱を帯びた気がした。
「お嬢さんは――何を一番、知りたいんだい?」
老人はゆっくりと問いかけてきた。
答えようとして、言葉が詰まる。
目の前で灯るその炎が、他の魔法と明らかに違っていたから。
無詠唱で放たれたのに、揺らぎひとつなく、ただ“火”そのものとして燃えている。
その違和感が、胸の奥をざわつかせる。
「……おじいさんの魔法、何か……違う」
思わず口に出ていた。
老人は穏やかに微笑み、ゆっくり頷く。
「私は――この世界。アレインが力を持つ世界とは、別の世界から来たのだよ」
昨日と同じことを言っている。
無茶苦茶なことを言っている、と頭ではわかっていた。
だけど……なぜか信じられた。
あの炎が、あまりにも他とは違っていたから。
私はずっと魔法を見てきた。
だからこそ――自分の直感に、自信があった。
「世界には法則があり――因果がある」
老人の声は静かで、川面に溶けるようだった。
「マナの本質は“因果”だ。
だからこそ、因果に寄り添った“意味”を乗せることで、マナはより強く反応する」
この老人の言葉は――私が授業で習ってきたことと、まるで違っていた。
私たちはいつも教えられてきた。
詠唱が“意味”を構成し、その意味がマナに作用して、魔法が発動すると。
そして、マナは意味の神アレインが与えたものだと。
けれど老人は違った。
「マナを誰が、何のために生み出したか――それは私にも分からない」と言いながら、ただ一つだけは断言した。
「マナの正体は、因果の力そのものだ」
* * *
私はその日から、何日も何日も――老人のもとへ通い詰めた。
行けば行くほど、帰りは遅くなる。
そのたびに母様の小言は増えていったけれど……負けなかった。
老人のいた世界には、“世界の法則”を探究するための学問がいくつもあったらしい。
その中でも、とくに彼が語ってくれたのは――科学、そして医学というものだった。
火や水の構造。
電気というものの正体。
人体の仕組み。
老人は、それらの知識をひとつひとつ教えてくれた。
そして私は、その断片を魔法の“設計図”として取り込むことを覚えた。
そして、何度も試行錯誤を重ねたある日。
――無詠唱で、老人と同じ炎が、私の掌に灯った。
老人は、笑顔で私の成功を喜んでくれた。
「お嬢さんは……魔法そのものの才能がずば抜けている。
私なんかより、きっとすごい魔法使いになれる」
そう言ってもらえたのが、ただただ嬉しかった。
そして老人は、最後にこう告げた。
「世界を――観察するんだ」
それが、九日目の出来事だった。
* * *
「あーあ、今日も遅くなっちゃった。
また母様に怒られるな……」
そんなことをぼやきながら、帰り道を歩く。
――そういえば。
あのおじいさんの名前、まだ聞いていない。
……まあいい。明日、聞けばいいか。
そう思いながら、私は静かな夜道を抜け、屋敷へと足を向けた。
――けれど、その「明日」は、二度と来なかった。
* * *
あの老人との出会いから――十日目。
今日も授業が終わった。
「セラナ、また明日ね!」
ミーアが手を振って、寮の方へ駆けていく。
私は一人、帰り道に立った。
胸の奥が少し弾む。
今日も、あのおじいちゃんに会える。
きっと――また新しい“世界”を教えてもらえる。
あの人は、知識だけじゃない。
前の世界の料理や、“サブカルチャー”と呼ばれる文化のことまで、いろいろ教えてくれた。
そして彼がこの世界で最も苦労しているのは、“観察機器”というものの不足らしい。
顕微鏡、レントゲン……ちょっと、いや全く私にはわからないものたちだけど、彼にとってはとても重要らしい。
それらがあれば――魔法にも、もっと広い可能性があったと、彼はいつか仄めかしていた。
そんなことを考えているうちに、いつもの川辺に着いた。
……あれ? いない。
昨日まで、あの木の根元に腰を下ろしていたのに。
今日も当然のようにそこにいると思っていた。
胸の奥がざわつく。
まさか――もう、どこかへ行ってしまった?
私は足元の水辺まで駆け寄り、周囲を見渡した。
草の揺れる音。水の流れる音。
でも、あの老人の姿はどこにもなかった。
そっと掌を上げ、炎を灯す。
小さく、揺らぎのない光――あの人に教わった“火”だ。
「……もう、会えないのかな」
炎のぬくもりが、胸の奥の不安をかすかに映し出す。
老人が消えた後でも、この火だけは私の中に残っている。
諦めて帰ろうとした、その瞬間――
轟音が、大地を揺らした。
空気が震え、耳の奥まで突き刺さる。
遅れて、爆風と焦げた匂いが押し寄せてくる。
「……爆発?」
次の瞬間、肌がざらつくような違和感に包まれた。
――マナが乱れている。
これは……魔法の衝撃だ。
しかも、一つや二つじゃない。
街全体が、同時に燃え上がっているみたいな……そんな圧だ。
来た道の方――学校のある方角から、黒煙が立ち上っている。
胸が凍る。
“嫌な予感”なんて言葉じゃ足りない。
頭が真っ白になった。
……何が起きてる?
この国は、北の帝国ザイカールとも、南のセレストリア王国とも中立のはずだ。
どちらとも交易を結び、争う理由なんてない。
じゃあ、あの爆発は――?
まさか、大型の魔物でも襲撃してきたのか?
いや、でも……あの規模は違う。
明らかに“軍の魔法”だ。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
私は、煙の上がる方角に目を向けた。
……あそこは――学校の方角。
ミーア。
先生たち。
友達のみんな。
胸の奥がざわつく。
あの笑い声が、もう聞こえない気がして――怖かった。
「……大丈夫。私は特別な魔導士」
自分に言い聞かせるように呟く。
手のひらに小さな炎を宿す。
熱は、まだ震えている指先を包み込むように優しかった。
「みんなを……助けないと」
私は走り出した。
燃え上がる風の中へ。
焦げた風が頬を撫でた。
空は赤く染まり、マナの流れが逆巻いている。
遠くで、悲鳴がいくつも重なり合う。
その中から、かすかに意味のある言葉が聞こえた。
「――帝国の攻撃だ!」
「首都はもう、落とされた!」
帝国……?
ザイカールが、どうして?
この国は中立だったはず。
争いなんて、他人事だと思っていた。
私はただの学生で、
“世界の複雑さ”なんて、まだ何もわかっていなかった。
信じていた平和は、
あっけなく燃えて、崩れていく。
やっとの思いで、私は学校へと続く道にたどり着いた。
そこには、黒い鎧の兵士たちがいた。
鈍く光る甲冑に、赤い紋章――ザイカール帝国の印。
彼らの足元には、燃え落ちた門。
制服の焦げた布切れが、風に舞っていた。
その中心に、一人の男が立っていた。
黒いローブを纏い、周囲の炎をまるで手懐けるように操っている。
「……なんだ? 学生か?」
低く乾いた声が、炎の向こうから聞こえた。
おそらく――三十代半ばほどの男。
黒いローブの上に、赤黒いマナがゆらめいている。
その瞳だけが異様に静かで、けれど底のない怒りを湛えていた。
ひと目でわかった。
この人は、私が今まで見たどんな魔導士とも違う。
世界の理そのものを、ねじ伏せるような存在感。
「なんで……こんなことを……?」
声が震えた。
焼ける空気の中で、言葉すら溶けそうだった。
男はゆっくりとこちらを向き、
冷たく、どこか楽しげに口を開く。
「理由? ――“怒り”を集めるためだよ。
それが、我らが神に捧ぐ供物だからな。」
……何を言ってるんだ、コイツ。
頭が真っ白になる。
視線の先――燃え盛る学生寮。
崩れ落ちる校舎。
聞き慣れた声が、悲鳴に変わって消えていく。
胸の奥が灼けるように痛んだ。
――許さない。
あのリーダー格の魔導士さえ倒せれば
私ならできる。
そう思った瞬間、頭の奥であの老人の声が響く。
“世界を観察しろ。設計しろ。意味を刻め。”
私は息を吸い込み、両手を前にかざす。
炎の流れを、構造として分解していく。
炎の構造――
それは、三つの要素で成り立つ。
**酸素** 燃えゆくものを包み、命に余白を与えるもの。
**熱** 物質をゆるめ、因果を揺らがせる力。
**燃焼物** 形を持ち、意味を託される核。
三つが交わるとき――世界は“燃える”という現象を得る。
その構造の交点に、“龍”の意を置く。
マナが反応する。
手のひらが光を帯び、脈打つ。
世界の因果が、私の“意味”に呼応した。
「――火龍!」
大地が震えた。
紅蓮の奔流が爆ぜ、空を焦がす。
炎がうねり、龍の形を成して咆哮する。
赤く、巨大で、美しい。
それは、私の怒りであり――祈りだった。
紅蓮の龍は叫びとともに駆け抜け、一直線に男を呑み込む。
轟音。閃光。焦げた風。
灼熱の奔流が大地を穿ち、世界を焼く。
私の全身を、マナの反動が突き抜けていった。
……やった。
胸の奥が、熱い高揚に満たされていく。
勝てた。
この手で――
「学生にしては……素晴らしい魔法だ。」
低く乾いた声が、炎の奥から響いた。
「……っ!?」
立っている。
男は、まだ――立っていた。
焦げ跡ひとつない。
むしろ、炎の中で微笑んでいる。
その笑みは、静かで、底知れない。
「だが……少々“無知”だったな。」
「……無知?」
男はゆっくりと手を広げた。
その掌から、赤黒い光が滲み出していく。
「――炎では、炎を焼けないだろう?」
次の瞬間。
男の体から、赤と黒の炎が溢れ出した。
それは、私の火龍よりも濃く、重く――
まるで、“怒り”そのもののように脈打っていた。
空気が焼ける。
世界が軋む。
私の炎が押し返されていく。
その炎は、もはや“火”ではなかった。
たぶん、もう私には為す術がない――そんな怖さが胸を締めつけた。
諦めるのが早いかもしれない。けれど、現実は非情だ。
あれ以上の魔法は、もう私には出せない。
「父様、母様、みんな……ごめん……」
声にならない祈りが、喉の奥でちぎれるように消えた。
男はゆっくりと私を見下ろし、冷たい笑みを深める。
「学生は贄にしてもいいが……こいつは、後々、厄介だ。殺しておく。」
その言葉が、焦げた風の中で粉々に散った。
男の手がゆっくりと光を帯びる。
赤黒いマナが渦を巻き、炎の刃が形成されていく。
――終わる。
私は目を閉じた。
熱が頬を撫で、鼓動の音がやけに遠くに聞こえる。
心臓の音すら、どこか他人事のように感じた。
――これが、死か。
私は、覚悟を決めた。
その時――
「……ほぉ。じいさん、こんな国に隠れていたのか。」
「なるほど。この小娘に……あんたが魔法を仕込んだのか?」
私は目を開ける。
焦げた風の中、立っていたのは――
あの川辺の老人だった。
けれど、昨日までの穏やかな眼差しは、どこにもなかった。
その背から溢れるマナは、もはやこの世界の理すら拒むほど濃く――
空気そのものが、彼の存在を中心に歪んでいた。
炎のざわめきの中で、老人が静かに口を開いた。
「……お嬢さん。申し訳ないが、私はもう、目の前の男――ヴァルド・グレンを退けられるほどには、強くない。」
声は穏やかで、それでいて、燃え尽きたように静かだった。
「まして……お嬢さんの国を救うことも、もうできない。」
私は、唇を噛みしめながら頷いた。
心のどこかで、それが真実だと理解していたから。
老人は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……だがね、お嬢さん。」
その瞳が、炎の明滅の中で一瞬、若返ったように輝く。
「……あなたが変わらず生きれば――きっと、万象を知る者になれる。
この世界の理を、きっと、見通せる日が来る。」
その言葉が、炎のざわめきの中で、ゆっくりと私の胸に染み込んでいった。
息が詰まる。
胸の奥が熱くなって、何かが溢れそうだった。
どうして――この人は、こんなときにまで、私を信じてくれるんだろう。
「……行きなさい。」
おじいさんはそう言うと、私の目の前まで歩み寄り、そっと両手をかざした。
掌の奥で、光が渦を巻き、空気がひとつに収束していく。
「えっ……!」
身体がふっと軽くなった。
足元の感覚が消え、世界の輪郭がゆがんでいく。
――転移魔法。
まさか……私だけ、逃すつもり?
心臓がきゅっと縮む。
何かを叫ぼうとしたけれど、声にならなかった。
意識も遠のいていく。
視界の端で、赤黒い炎と凄まじい冷気が激しくぶつかり合うのが見える。
「そんな歳まで、生き延びた“残響者”が、
こんな小娘を逃して、こんな小国で死ぬとはな……」
ヴァルド・グレンの低い声が響く。
耳鳴りの奥で、呪いのように繰り返される。
……いやだ。
こんな終わり、いやだ。
この国は、私の全てだった。
家も、友も、夢も――全部ここにあった。
まだ、聞きたいことがある。
どうして、助けてくれたのか。
そして――あなたの名前を。
消えゆく意識の中、私は震える唇を動かした。
「……おじいさん……名前は……?」
老人は、こちらを見た。
炎の光が頬を照らし、あの川辺で見せたのと同じ笑顔を浮かべる。
――何かを、確かに口にした。
でも、もう――聞こえなかった。
音も、色も、すべてが遠ざかっていく。
夢なら、どうか――覚めてほしかった。
けれど、闇の底でひとつだけ光が見えた。
赤く、揺らめく光。
それはまるで、私を導くように、静かに脈打っていた。
……気づけば、私はその光に手を伸ばしていた。
――あたたかい。
でもその奥に、燃えさかる“怒り”のような熱があった。
それは炎ではなく、願いだった。
すべてを失っても、なお燃え残る、私の“意味”そのもの。
――そして。
次に目を開けたとき、頬を撫でたのは冷たい風だった。
空には無数の星。
どこまでも静かで、どこまでも――残酷な夜。
見渡せば、ぼろ布のテントが風に揺れている。
……国境近くの野営地だと、すぐにわかった。
誰もいない。
あの国も、あの街も、あの人達も――
もう、どこにも存在しなかった。
焼け落ちた世界の記憶が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
家族の声も、授業の音も、あの人の微笑みも――
すべて、灰になって消えた。
でも胸の奥には、まだあの赤い光が残っている。
怒りの炎が。
私は空を見上げ、握りしめた拳に魔力が滲むのを感じた。
涙が頬を伝い、唇が震える。
「……絶対に、忘れない。
そして――必ず、取り戻す。」
その夜、私は誓った。
この命に焼きついた“怒り”を、決して鎮めないと。
あの男に。
あの帝国に。
そして――この世界そのものに。
――私の全てを懸けて、必ず復讐する。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
もし気に入っていただけたら、同じ世界で描いている別作品 『主者選択』 もぜひご覧ください。
こちらは転生者のアーシェが、家族や仲間とともに“選択”を迫られていく物語です。
『万象の魔女』とはまた違った視点で、世界の裏側や神々の思惑に触れていきます。