番外編 理系男子だらけの大学で女王様(♂)になりました 〜“元”生徒会長白森悠里の大学デビュー編〜
中学生の俺は大馬鹿だった。
中学生男子なんてものは世界で一番愚かな生物だが、それにしたって馬鹿すぎる。
女子高に女装して潜入。物語の世界ならともかく現実で実行するなんて馬鹿の極みでしかない。そういうのは微睡みに落ちる寸前の妄想くらいに留めておくべきだったのだ。
そして何より恐ろしいのは、そんな馬鹿な俺と同じ考えの大馬鹿があの広い校舎にギュウギュウ押し込まれていたことだろう。
だから、俺は選択を誤らないよう今度はしっかりと将来を考えて進路を選んだ。
その結果がこれだ。
「白森ぃ、飲んでっかぁ?」
カシオレを右手に、左手を俺の肩に回して頬ずりする先輩。
この先輩が女性ならば言うことはないのだが、頬に当たるじょりじょりした感触が俺を現実の世界に引き戻す。
見渡す限り、男、男、男、男。
まぁ着ている物がセーラー服でなくなっただけ目には随分優しいが。
「しかし今年は新入部員が多くて嬉しいよ。白森はなんで“科学研究サークル”入ったの?」
――科学研究サークル。
俺の大学はいわゆる理工系総合大学。
授業で散々科学を勉強する俺がわざわざこんな堅いサークルに入ったのには訳がある。
歴史ある科学研究サークルは種々の過去問、ノート、人脈、さらには“教授別留年回避用手土産&土下座法リスト”なるものまで所有しているという。
キラキラした大学生活を楽しめそうなサークルにだって入ることはできたし、なんならこんな男子生徒率のバグを起こしたような大学じゃなくて、女子に人気の有名私大に入ることだってできた。
だが俺は下半身で物を考える事の恐ろしさをよーく知っているのだ。
「己の将来を考えたとき、最も自分の役に立ちそうなサークルだったからです」
先輩の質問に謹んで答えると、彼は「ほえ~」とアホみたいな顔で言う。
「堅いねぇ白森ちゃんは。俺はてっきり彼女狙いかと思ったけど」
「……彼女?」
呟いた瞬間、むさくるしい男の声を塗りつぶすような甘ったるい声が居酒屋中に響いた。
「ごめんごめぇん! 遅れちゃったにゃー☆」
刹那、あちこちに散っていた男たちの視線が、まるで虫眼鏡を通した太陽光のごとく一か所に集まる。
ツインテールの黒髪、白い肌、ロリータじみたピンクのワンピース、白い太ももに食い込んだ黒いニーハイソックス。
彼女がピンクの厚底ブーツを脱いで座敷に上がるなり、黒っぽい服を着た暗い顔の男たちの表情がパッと輝いた。
「遅いよ姫にゃーん!」
「ふえぇぇ、だってぇ、厚井先生がしつこくってぇ」
「また厚井の野郎か……」
「大丈夫だった? 体触られたりしてない?」
「えー……うん……」
顎に拳を置き、意味ありげに視線を足元に落とす女生徒。
その様子に、メンバーたちは顔を真っ赤にして怒声を上げる。
「今度という今度は許せねぇ!」
「教授だからって舐めやがって……」
「もう我慢ならねぇ! 俺がガツンと言ってやる!」
「大丈夫だよぅ。姫が我慢すればいいだけだから……」
いじらしい女生徒の態度に、サークルメンバーはますますヒートアップしていく。
異様な熱気を前に、俺は思わずカシオレ先輩に助けを求める。
「あの、彼女は一体?」
「姫ちゃーん! 俺が君を守るからねー!!」
そう言ってカシオレを飲み干すカシオレ先輩。
カシオレのせいかあの女生徒のせいか。耳元まで真っ赤で、彼女の元へと向かう足取りはフラフラとおぼつかない。あれはもはや使い物になるまい。
ため息を漏らして、卓上の冷めたポテトに箸を伸ばす。
「花咲さん。このサークル唯一の女生徒だよ」
役に立たないカシオレ先輩の代わりに俺の質問に答えたのは、同じ学部の杉浦先輩である。
彼は他のメンバーとは違い、やや冷めた目で会話の中心にいる女生徒を見つめていた。
「ほら、ここのサークル……っていうかこの大学男子率ヤバいでしょ? だからっていうと失礼だけど、あの子凄い人気なんだよ」
「へぇ、なるほど」
先輩の言葉に、ある単語が俺の脳裏をかすめる。
”オタサーの姫”
紅一点というのは良くも悪くも特別な存在だ。
身近にいる唯一の女性をアイドル扱いしたくなるという気持ちは分かる。そんな人間を跪かせ、足蹴にし、犬にしてきた俺にとって、それはもう痛いほどに良く分かる。
だからこそ、ヤツらの無様さを三年間見続けたからこそ、俺は下半身に任せて女に縋りつくような男にはならない。
「あれー? 君たちが一年生? こんにちにゃん、初めまして☆ 花咲紗良です」
花咲はカールした睫毛をパチクリさせながら、俺たち新入生の元へとやって来る。
その言葉に、俺は思わずハッとする。
「サ、サラ!?」
俺の言葉に、ザワザワとうるさい居酒屋が水を打ったように静まり返った。
杉浦先輩も驚いたように目を見開く。
「なんだ、知り合いか?」
「あ、いや、すみません。あの、知り合いと同じ名前だったので」
「ふうん?」
花咲紗良は少し目を細め、輝く赤い唇に舌を這わせる。
「君おもしろいね? 呼び捨てにされたの久々だったからちょっとドキッとしちゃった」
「あ、いや」
俺の目をじいっと見つめながら、花咲は少し意地悪な笑みを向ける。
「サラって、彼女の名前とか? もしかして私その子に似てる?」
「そ、そういうわけじゃ」
な、なんだこの胸の高鳴りは。
彼女と――柏木沙羅と同じ名前だからって、別に彼女に似ているわけではない。
いや、でも、長く艶々の黒髪は少し柏木沙羅に似ているだろうか。
「うふふ、そんなに見つめられると恥ずかしいな。あれ? あなた結構可愛い顔してるね?」
花咲は俺の前髪を白い指でつうっと上げ、顔を近づける。なにやら柔らかいものが腕に当たり、目の前が真っ白になる。
そんな俺を助けてくれたのは、杉浦先輩の冷静な声だった。
「こらこら、花咲さん。あんまり新入生イジメないでよ。大丈夫? 白森君」
彼の言葉でようやく現実に引き戻される。
――みんなが見ている。
親の仇でも見るような目で。今にも歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほどに、歯を食いしばって。
「すみません、ちょっと」
冷やさねば、冷やさねば。
頭を冷やさねば!!
名前が同じってだけで、情けない!
もう下半身で物を考えないと決めたのに!
俺はトイレに駆け込み、蛇口から出る水を頭からかぶる。
背筋を伝う水が俺の肌を粟立たせる。
そして顔を上げ、鏡に映った自分を見て、俺は急激に現実に戻された。
「あ……なんだ、俺の方が可愛いじゃん」
ヤツがちやほやされているのは紅一点だからこそ。
冷静に見れば、柏木沙羅の足元にも及ばない。
俺は心の中でそっと彼女に思いをはせる。
ありがとう柏木沙羅。あなたへの信仰のお陰で俺は自分を保てました。
だが俺が自分を保てても、彼女は構わず俺の元へと厄介ごとを運んでくるようになった。
「ねぇユーリィ。一緒にジュース買いに行こうよぉ」
他のサークルメンバーに見せつけるように、露骨に俺に話しかけてくる花咲。
何が気に入ったのか、彼女はあの新歓の日から何かと俺に付きまとうようになった。
それは良いとしても、周りの視線が痛くて痛くて仕方がない。
「白森のヤツ……また姫と……」
「ふざけやがって。きっと何か弱みを握って強請ってるんだ」
あちこちから聞こえてくる外野からの身勝手な声。
「おっとぉ! 手が滑ったぁ!」
床に落ちる紙コップ。
頭皮の間を伝う液体。頭では感じたことのないシュワシュワ感。
漂う甘い匂い。
濡れた前髪の隙間から、薄笑いを浮かべたカシオレ先輩が俺の顔をのぞき込む。
「ごめんごめん。カルピスソーダ落としちった」
「おいおい、蟻が来るだろ。白森ぃ、ちゃんと拭いとけよ?」
「もう! なんで意地悪するの? 大丈夫ユーリ?」
濡れた髪を、ショッキングピンクのハンカチで拭う花咲。
きっと間近で彼女の顔を見ている俺だけが気付いている。困った表情を浮かべた彼女の目が、満たされた自尊心と優越感に輝いていることに。
そうだ。ヤツは男たちの嫉妬を煽っているのだ。
俺は体のいい餌に過ぎない。
「もう、ユーリってなんだか本当にほっとけないなぁ。ねぇねぇ、ライン教えて?」
……ほらきた、またそうやって。
ほとほと嫌になって、俺はジッと考える。
どうしたら良い? どうしたら現状を打開できる?
俺は杉浦先輩の言葉を思い出す。
『花咲はとにかく厄介だ。ヤツを受け入れたらもちろんダメだが、下手にヤツを拒絶してプライドを傷つけてもダメだ。花咲は狡猾で執念深い。去年ヤツの告白を断った生徒が一人、痴漢の冤罪で捕まったんだ。結局訴えられはしなかったが、そのごたごたで留年しちまったよ』
『……杉浦先輩は他の奴らと違って冷静ですね。どうやったらそんなに彼女と距離を取れるんですか?』
尋ねると、彼はさらりと答えた。
『ああ、俺彼女いるから。アイツよりずっと美人だから、余裕よ』
――そうか、その手が。
「おっとぉ! 手が滑ったぁ!」
机の上に置いていた俺の携帯に、今度はカルピスウォーターが注がれる。
びちゃびちゃになったそれを摘まみながら、俺はゆっくりと花咲の顔を見上げる。
「すみません花咲先輩。俺、彼女いるので。他の女の子と連絡できないんです」
これぞ最適解。
相手を貶すことなく、ラインの交換を断れる神の一手。
サークルメンバーの面前で宣言することで、俺が花咲を狙ってなどいないこともアピールできる。
よし、これで俺の平穏な大学生活が守られ――
「は? なにそれ」
……なんでだ?
花咲の顔が、紫色に変わっている。毒キノコでも食べた?
「私よりその女の方が魅力的ってこと?」
いつもの甘ったるい声ではない、地獄から響く地鳴りのような声。
部室は静まり返り、サークルメンバーたちの息を飲む音が聞こえてくるようだ。
花咲は俺の胸ぐらを掴み、額に青筋の浮かんだ顔を近づける。
「そいつ、連れてきなよ」
「……は?」
「ねぇ、みんなもユーリの彼女見たいよね!? ねぇ!?」
花咲の豹変ぶりに困惑しながらも、サークルメンバーたちは恐る恐る頷く。
「ほら、早く。まさか連れてこれないなんてことないよね? もし嘘吐いてたら……」
淀んだ瞳でじっとり俺を睨む花咲。
なんだ。なんなんだ。何が彼女をここまでさせるんだ。
「わ、分かった、分かったから。あの、携帯水没しちゃったから今連絡取れなくて」
「じゃあ早く携帯ショップ行けよ馬鹿!」
俺は尻を蹴られるようにして部室を追われる。
……困った事になった。
彼女がいるなんて、もちろん口から出まかせである。
彼女役を頼める女友達だってもちろんいない。というか、こんな争いに女性を巻き込むわけにはいかない。
自分の不始末は自分でどうにかしなくては。
「自分で……か」
やるしか、ない。
*****
「は……?」
「あ、えっと、ここ科学研究サークルの部室ですけど……」
口を半開きにし、アホ面を晒す部員共を見下ろして俺は静かに答える。
「ええ、そのようね」
黒のタイトなワンピース、真っ赤なハイヒール、黒髪ロングのカツラ、キツめのメイク。
「あ……えっと、もしかして白森の……?」
よし、バレていない。
まさかまた女装することになろうとは夢にも思わなかったが、背に腹は変えられない。
急遽買ったワンピースはピチピチ、ヒールのせいで身長爆高だが、こいつら「キツい美人」にビビって細かな違和感に気付いてないのだ。
「いやぁ、まさかそんな……あれですよね、白森に土下座でもされて」
「は?」
いつものようにひと睨みしてやると、ヤツらは体を縮めて視線を泳がせる。
大丈夫、高校のときと変わらない。男を丸め込むなんて簡単だ。あの時と同じく――
「あんたが? ユーリの彼女ぉ?」
ヒステリックな喚き声に、俺は飛び上がりそうになるのを必死に押さえる。
肩を怒らせてこちらへと向かってくる花咲。
かなり濃い目のメイクで顔を変えたつもりだ。女慣れしていない男どもの目は誤魔化せた。
問題は日常的にメイクに触れている女の眼だ。
やはりヤツの目は誤魔化せなかったか。
心臓がバクバク収縮を繰り返すのを感じる。
すました顔で冷や汗を隠す。
もしバレたら、なにもかもおしまいだ。
学校中の笑いものになり、瞬く間にネットに晒され、まとめサイトに取り上げられてコメントでも馬鹿にされるに違いない。
俺は恐怖に丸まりそうな背中をピッと伸ばし、胸を張って彼女と対峙する。
花咲は俺の全身を舐めるように見回し、そして俺の顔を見上げる。
その顔はまさしく般若だった。
「ふうん? アンタがユーリの彼女? へぇ、可哀想に。今から捨てられるっていうのに、わざわざ大学まで来てくれたんだ?」
「……は?」
何言ってるんだこの女は。
俺の驚いた表情をどう受け取ったのか、花咲は意地の悪い笑みを浮かべる。
「あれ? まだ聞いてないの? ユーリはねぇ、もう私のものなんだよ」
――こいつ、どこまで。
俺は頭を抱えてため息をつく。
すると花咲は勝利宣言とばかりに声高々に宣言する。
「良い!? ユーリは私の彼――」
「くだらない」
花咲の戯言を掻き消し、俺は外野の男たちに視線を向ける。
「ねぇ、疲れるんだけど。お客に椅子も出せないのかしら」
男たちはビクリと体を震わせ、そそくさと俺のもとに椅子を運ぶ。
「違うでしょ?」
「へ?」
困惑するカシオレ先輩の頬を撫で、彼の耳元で囁く。
「四つん這いになりなさい。犬のように」
先輩はカシオレで酔い潰れる寸前のときみたいにフラフラになって、崩れ落ちるように床に膝と手をついた。
その情けない背中に勢いよく座ってやると、ヤツは横っ腹を蹴られた犬のように情けない声を上げる。
教室中から生唾を飲む音が聞こえてくる。
「なによ、随分と低い椅子ね。これじゃあ脚が伸ばせないじゃないの」
吐き捨てるように言うと、男たちが焦点のあっていない目でワラワラと俺の周りに集まってくる。
「お、俺が脚置きに!」
「いや、俺の背中を使ってください」
「ちょっとみんな……なにやってるの!?」
予想外の事態に困惑する花咲。
俺は彼女の眼をじっと見て言う。
「……で? 誰が誰の彼氏ですって?」
「う……い、意味分かんない!」
よろよろと後退りする花咲。
逃がすかよ。
「キャイン!」
“脚置き”を踏みつけながら、俺は花咲を追い詰める。
怯えるヤツの頬をそっと手でなぞり、満面の笑みを浮かべてやる。
「いい? 姫だかなんだか知らないけれど、支配というのはこうやるのよ。覚えておきなさい」
「あ……ああ」
花咲の瞳から、あのギラギラとした光が消える。
高校の時、腐るほど見てきた敗北者の眼。
俺は彼女に背を向け、教室をあとにする。
そしてさっさと化粧を落とすべく足早にアパートへと帰るのだった。
*****
「なんか、俺のいない時に凄いことあったみたいだね」
「はは……」
杉浦先輩の言葉に、俺は曖昧な笑いで返す。
「花咲も男連中もすっかり大人しくなって。良かったじゃないか。彼女様々だな」
……実はそれがそうでもない。
“彼女”の詳細なプロフィールや連絡先を尋ねる者から奴隷志願者まで出る始末。
すこし調教し過ぎたみたいだ。
そしてさらなる問題は、花咲だ。
「あっ、白森君!!」
「ひっ……」
ヤバイ見つかった。
逃げるよりも早く、花咲は腕を掴み淀んだ目を俺に向ける。
「ねぇ、いい加減連絡先教えてよ」
「おい花咲、まだ言ってるのか? 白森には彼女が」
呆れる杉浦先輩に、花咲はニタリとした笑みを向ける。
「何言ってるの? 私はその彼女――百合様の連絡先が知りたいの!」
「……は?」
「あんな屈辱初めてだったけど、あんな興奮も初めてだった……お願い白森君! もう一度だけ彼女に会いたいの」
「な、なんだか色々複雑そうだな……俺授業あるからもう行くわ。またな白森」
面倒な気配を察したらしい杉浦先輩は、さっさと俺に背を向ける。
「ちょっと待ってくださいよ! 俺に用があるって、あれなんだったんですか!?」
「ああ」
杉浦先輩はゆっくり振り返り、苦笑いをこちらに向ける。
「実は今度、彼女の友達呼んで合コン開くんだ。白森も誘おうと思ってたんだけど……そんなかわいい彼女いるなら必要ないだろ」
「えっ!? いや、その……」
「ま、別のヤツを当たるから気にすんな」
「ねぇ白森君! そんな事より百合様の連絡先!」
無情にも遠のいていく杉浦先輩の背中。
しつこく縋り付く花咲。
柏木沙羅、あの地獄の中で君は元気にやっているでしょうか。
せっかく抜け出せたのに……俺はまた選択を間違えたのかもしれません。