おばけと綿毛・1
1859年、キャリントン・イベントが全ての始まりだと論じる者が居る。
1908年のツングースカ大爆発が原因だと或る者は主張している。
第二次大戦の混乱が彼我の境界を歪ませた、という論もある。
理由は何であれ、人間たちの領分であったはずの現実世界に怪物たちが溢れ出し、世界は混沌の様相を呈した。
混沌は混沌のまま日常となり、片方は片方に駆逐されぬまま、現代へと歴史を紡ぐ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……でね、もう一度近付いてみたらビニール袋だったの! あたし、ビニールを守って死ぬところだったんだよー! あはっ、笑っちゃうよねー」
パイプ椅子に座る女子高生が手を叩いて笑った。
対面に座り、相談内容を記録していた男子生徒……つまり僕はノートにペンを走らせる手を止め、顔を上げた。
「えっと……、それで?」
「それで? いや、これでオチだけど」
「え?」
「え?」
短い沈黙。
女子は首を傾げてこちらを見る。くるくると丸い茶色の瞳。その奥に、困惑した表情の僕がいる。
本当に話はこれで終わりらしい。
「じゃ、また明日ねぇー!」
女子はぱたぱたと手を振って部屋を出ていった。
軽快なリズムで遠ざかる足音に、バシャ、と扉の閉まる音。
結局、彼女はビニール袋をおばけと勘違いした、という雑談をしに来ただけだったみたいだ。
「……はぁ」
僕は力なくパイプ椅子に背を預け、ノートを閉じた。
こうして『駅前十字路に出没したおばけの保護』の相談は、問題が発生するよりも前に解決した。
まさか、光速よりも早いものがあるなんてね。
まったく。自分はどうしてこんなところにいるのだろう。
立ち上がり、ため息混じりの自問自答。
――僕がここにいる理由。それは、入学初日に遡る。
☆
「おはよう!! 担任の藤堂健一だ!」
担任が第一声を発した瞬間から、いや、担任が教室に入ってきた瞬間から、僕は嫌な予感がしていた。
「これから一年間、俺とお前たちで共同生活をしていくことになる! よろしくな!」
チリチリした短髪に、小麦色の肌。年齢はよく分からない。30歳くらいだろうか。
桜台高校一年A組の我らが担当教師は、元気溌剌という言葉がそのまま人間になったような男だった。
見ているだけで体力を奪われる。
「改めて、だ」
先ほどまで教壇に手を乗せ、前のめりになっていた担任がスッと姿勢を正した。
「俺のことはいい。学校ってのは学生が主役の舞台だからな! さあ、俺にお前たちのことを教えてくれ!! あー……と、1番!井上郁!」
「……はい」
「お前から順に行くぞ!」
「……」
突然の無茶ぶり。あまりにも乱暴なフリに僕は閉口する。
とはいえ、パニックになってうろたえるほどじゃない。
今日は入学初日なのだ。当然、それに付随する色々が僕たちには降りかかるに決まっていた。
「僕の名前は井上郁。15才です。趣味は読書と音楽鑑賞。部活には特に入るつもりはありません。以上」
事前に用意しておいた台詞をすらすらと吐き出す。
いつ、どのタイミングで発表しても問題にならないような、簡潔で普通な自己紹介。美しい。
僕は高校での最初の義務を手早くすませ、席に着こうとして重心を後ろに引いた。
瞬間。
「井上! 夢はなんだ!」
「……は?」
「人間というのはな、夢を持つとひたすらに輝くんだ! 部活に入らないというのであれば、せめて夢を持て!!」
「え……っと……」
大ピンチ。
今度こそ僕はパニックに陥った。
好きな食べ物や、好きな動物、得意教科などの質問であれば楽々と返せたのに、まさか、よりにもよって、初手で夢を聞かれるなんて。
「ひ、人助け……ですかね?」
必死に思考を巡らせ、喉奥をキュッと詰まらせながら、答えになっていない返事をする。
「そうか! 人助けか!! いいぞ、井上! 気に入った! 人助けを夢に持つ奴なんざァそういない! お前にピッタリの委員会があるから、後で連れて行ってやる!!」
がはははは、と藤堂が愉快そうに笑う。
ははは。
悪魔が人間に擬態すると、こんな外見になるんだねぇ。




