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エマ・ハーヴェストは8歳の誕生日に、前世を思い出した。
エマの一度目の人生、一ノ宮夏帆は32歳で生涯を終えた。
夏帆の人生は、決して順風満帆ではなかった。彼女が小学生になると同時に母が他界し、父と二人暮らしになった。父は仕事に家事に忙しく、夏帆は孤独な子供時代を過ごした。
彼女は家庭に強い憧れを持っていた。とくに、義母に対して夢を抱き理想の姿を想像していた。婚活に励んだ成果として、夏帆は28歳の時に五歳上の男性と結婚した。
夢に描いた結婚生活・・・ではなく、彼女に待っていたのは、夫と義母から支配された日々だった。
交際中穏やかで優しかった夫は、結婚届を出した日から別人のように変わった。気分の浮き沈みが激しく、機嫌を損ねると怒鳴り散らす。
夫の変貌ぶりに混乱した彼女を更に苦しめたのは義母だった。義母は息子を可愛がり、過保護に甘やかした。そして、息子夫婦の全てを牛耳った。彼女が反抗しようものなら、息の根を止める勢いで責め立てられた。自分の家なのに居場所がない、自由もない。
エマが前世、若くして亡くなったのは不慮の事故だったが、今際の際で踏み止まらなかったのは、あの家に帰りたくなかったからだ。
(寂しい、寂しい。もう一人はいやーー)
それが夏帆の死に際、最後の思い。
しかし儚くも、二度目の人生になっても孤独であることに変わりなかった。
エマは幼児期に戦争で両親を亡くし、受け入れてくれる親戚もおらず孤児院で育った。天涯孤独だ。夏帆の人生よりも救いがない日々の中で、孤児院の仲間たちだけが彼女を支えた。
10歳の頃にエマに転機が訪れる。前世の記憶が戻ったエマは、周りの子供たちよりも遥かに賢かった。前世はすでに成人過ぎた大人だったのだから、当然の評価だ。
エマの聡明さは、養子を探していた男爵家の目に留まり、家族として迎え入れられたのだ。仲睦まじい夫婦に、歳の離れた兄。エマは男爵家の娘として、家族に恥を欠かせぬよう、一層努力した。
* * *
昨年開店したサロン『ジェロン』は、今王都で一番人気のカフェテリアだ。貴族御用達のこの店は、落ち着いた高級感漂う内装に、支配人自ら作る菓子が有名で半年先まで予約で埋まっている。
エマは、ジェロンのオーナー兼支配人だ。
両親と兄は男爵家の傍ら貿易業も営んでおり、昨年から王都から出て、港町を本拠地としている。元々家族で暮らしていた屋敷はエマが留守を預かった。男爵家にしては裕福な両親は、エマにも事業をするよう促した。前世調理師だったことを活かし、資金援助を受け昨年サロンを開業したのだ。
「ようこそ、ジェロンへ。お待ちしておりました。本日は貸切ですので、どうかごゆるりとお楽しみになってください」
「ふふふ、数ヶ月前から楽しみにしていたのよ。エマさん、今日のデセールは何かしら?」
「本日はティールのタルトと、フォンダンアダルマをご用意しております。他にも、ご要望ありましたら何なりとお申し付けくださいませ。」
ジェロンが人気のある理由の一つは、珍しい菓子だろう。エマは前世の記憶を存分に活かした。前世に存在していた食材が、今世にはないこともある。例えば、米や小麦粉、牛乳や卵など穀物やタンパク質は似たような名前で存在しているが、野菜や果物などは名前や形が違う。コーヒーやチョコレートなんかもない。エマは似たような食材を工夫しながら加工して出していた。
隣国と貿易している兄の力も借りて、この国にはない食材も使用することもある。富裕層である貴族御用達にしてほしいと
店ごと貸切が出来るところだとエマは考えている。従業員はエマだけだ。内緒話も噂話も、エマが他言しなければ、誰にもバレない。息の詰まる貴族社会の娯楽になればいいと彼女は考えている。
「ここは落ち着くわね。息子夫婦が結婚して日が浅いから、家にいると気を遣うの。疲れるわ」
「アレンドラ夫人のお嫁さんは可愛くて良いじゃない。私の嫁はダメ。結婚して二年になるのに子どももいないし、裁縫も下手なの」
「お嫁さんが来てくれるだけでいいじゃない。私の息子なんて、お見合いしたくないって、どれだけ薦めても断るのよ。もう、良い歳なのに」
「選り好みしてるのかしらね。困ったものね。親の気なんて子どもは知らないんだから」
貴族夫人たちの声は大きく、エマは厨房で皿に盛り付けながら、婦人会の会話を聞いていた。
ティールは桃に似た果実で柔らかく、切るのが大変だ。アダルマはチョコレートと同じ性質のため、フォンダンショコラのように温めて内側をとろりと液状化させたい。繊細な作業が必要なのに、夫人たちの会話に気を取られて手元が狂う。
(結婚も夫婦生活も、息子の勝手にさせればいいのに。どうして思い通りにしようとするんだろう)
無意識に夏帆の義母と重ねてしまっている。そんな自分に気付き、エマは慌てて考え直した。
エマにとっての結婚は、前世の苦痛の日々そのものだ。今世は未婚で生涯を終えてもいいと思っている。
しかし、男爵夫婦は彼女に結婚して家庭を持ってほしいと催促してくる。エマだって、孤児の自分を引き取ってくれた恩返しをしたい。彼女は悩んでいた。
そんなエマにとって、息子の結婚や恋愛に愚痴を言う夫人たちの会話は、耳が痛いのである。
エマは営業スマイルを顔に貼り付けて、美しく盛り付けられたケーキを夫人たちの元に運んだ。
「わあぁ〜、見た目がとても綺麗だわ。エマさん、すごく美味しそう!」
「スカーライの紅茶とお楽しみください」
スカーライは軽い口当たりなのに、香りが消えない紅茶だ。エマのお気に入りで、この紅茶に合うように菓子も作っている。
夫人たちは先程までの愚痴話などなかったかのように、菓子と紅茶に夢中になっていた。エマは紅茶を淹れて周りながら、ふとーーひときわ美しい夫人がいることに気が付いた。
白銀色のロングの髪は艶やかで、肌は白く陶器のようで少女のようにハリがある。吸い寄せられるように夫人に寄り、エマはひっそりと顔を覗いた。
ティーカップを洗練された所作で嗜む、夫人の横顔は洗練された造形をしていた。
(まつ毛も白い、瞳は淡い灰色だ。頬はピンク色ーーなんて、綺麗な人)
同じ女性であることも忘れて、エマは夫人に見惚れてしまう。
そのとき、ふいに夫人と目が合った。
ハッとして、エマは息を呑む。
(しまった。不躾に視線を送ってしまった)
慌てて謝罪の言葉を探すエマに、夫人はふわりと微笑んだ。
「あら、ごめんなさい。お茶のお代わりを持ってきてくれたのね」
エマは慌てて紅茶を注ぐ。
「この紅茶、とても美味しいわ。落ち着く雰囲気のお店ね。初めて来たのに、もうここに住んでしまいたいくらい。」
ふふふ、と夫人が笑う。その声はハーブの音色のようだった。
先程の夫人たちの会話からこの美声は聞こえなかった。きっと愚痴の言い合いには参加していなかったのだろう。
エマは返事もできず、ただ頬を染めた。
「あら、リリーバード夫人、それでは息子さんが悲しんでしまうわ。」
「そうよ、息子さんまだ独身なんでしょ。さぞかしモテるでしょうに独り身ってことは、あなたのことを心配しているのよ。」
周囲の夫人たちがからかうように言うと、夫人は肩をすくめた。
「息子は騎士寮に住んでいるもの。仕事ばかりで家には寄りつかないわ。彼は彼で勝手にやっているのよ、気楽でいいわ。」
あっさりとした物言いだったが、どこか突き放しきれていない柔らかさが残る。華やかな見た目に反して、どこかさっぱりとしている。けれど冷たいわけではない、不思議な温かさがあった。
やがてお茶会は終わり、夫人たちはそれぞれ馬車へと向かう。エマは迷いながらも、その背中を追いかけた。
「あ、あの!」
振り返った夫人に、エマは小さな包みを差し出す。
「何かしら。・・・紅茶?頂いてもいいの?」
「お好きだとおっしゃられていたので、よろしければご自宅でも」
エマが夫人に渡したのはスカーライの紅茶。夫人は一瞬驚いたように目を瞬かせ、やがて優しく微笑んだ。
「ありがとう。ご厚意に甘えるわ」
そして、エマに少しだけ身を寄せて、「……内緒にしておくわね」そう囁いて、馬車へと乗り込む。
去っていく馬車を見送りながら、エマはふと我に返った。
(常連の方を差し置いて、初めてのお客様に手土産を渡してしまった。経営者として、失格かもしれない・・・)
エマは罪悪感を抱きながらも、胸の奥に残る高揚感を否定できない。
(優しくて、綺麗で。まるで、私が夢に描いていた理想のお母さんだーー)
* * *
馬車が静かに走り出す。窓の外を流れる街並みを眺めながら、リリーバード夫人はふっと息をついた。
「……不思議な子ね」
誰に向けるでもない呟きが、馬の足音に掻き消された。リリーバード夫人は、エマの姿を思い返す。
今日集まった夫人たちは、ただの貴族じゃない。国の中枢を担っている有力者の妻たちだ。それなのに、エマは彼女たちに緊張も媚びもせず、自然に振る舞っていた。
(あの年頃にしては、落ち着きすぎている)
所作が整いすぎているのだ。まるで長年それを繰り返してきたかのように。
(……教育だけで、あそこまで自然にはならないわ)
ほんのわずかな違和感。けれど、それ以上に強く残っているものがあった。
――あの子の目。何かを諦めたような、静かな色をしていた。
「……危ういわね」
ぽつりと呟く。このまま放っておけば、いずれ消えて行ってしまいそう。あの子は、そういう類の人間だ。
差し出された紅茶の包みを、そっと撫でる。リリーバード夫人はふっと微笑んだ。
「……可愛い子」
この贈り物は、打算なのか、媚びなのか。ただ、リリーバード夫人を気に入ってくれたのか。
店内では毅然とした態度で凛とした女性の印象だった。しかし、帰り際のエマは、愛に飢えた少女の顔をしていた。
(ああいう子は、嫌いじゃないわ)
リリーバード夫人は、どこか楽しそうに景色を眺めていた。




