35 桜子の願い
カタンと牛車が止まり式部宮邸についた。
「どうぞ」
御簾が上げられ差し伸べられた手を取り牛車を降りる。
差し出された手の主をチラリと見る。今夜一緒に来てくれたのは頭中将だ。その頭中将も少し表情が硬い。
今夜、桜子と会うために出向いたのは綾と頭中将、数人の護衛のみ。
香奈は麗景殿で綾のふりをして部屋で待機してくれている。部屋付きの女房達には言い含めてあるので何かあっても香奈を綾に見立てての対応が出来るはず。
宮中では明日の除目の発表とお披露目の準備で慌ただしく、後宮を訪れる者もいないはずだ。そのどさくさ紛れて後宮から抜け出してきた。
式部宮邸の女房に先導され車宿から東対の一室に案内された。
「どうぞ、こちらでお待ちください」
案内してくれた女房にはどう映っているのだろうか。
今日の綾は女房の衣裳をまとっている。その女房が頭中将を従えている様はお忍びだと言っているようなものだ。
部屋の真ん中にしつらえらえた円座に頭中将と並んで座る。
「帥宮邸へ行くのではないのですか?」
香奈から聞いていたのは帥宮邸で話を聞く予定だったはず。
「式部卿の北の方のお話を聞いてからにしましょう」
頭中将は何か含みがあるような言い方をする。その直後、桜子が部屋にやってきた。
桜子は綾を見てすぐさま跪き頭を下げる。
「東宮妃様にお越しいただけるとはなんと光栄な」
「桜子様。先日は突然の訪問でご迷惑をおかけして申し訳ございません。今日はそのお礼を言いに来ました」
あくまでも礼を言うため言うことにした。
先日ここに来たのも内密だ。その礼をするのも内密のことになる。桜子もその意図を理解してくれたようで小さく頷く。
「お話とはどういったことでしょう」
綾にしか話せないと言っていた内容だ。その為、綾から聞いてみた。
「助けていただきたい人がいます」
「その方はどなたですか?」
桜子が言うからにはそれなりの人物だろうか。綾に出来るか分からないがその話を聞くためにきたのだ。東宮も桜子の話は聞いておきたいと考えていたようで綾が出向くと言った言葉ですぐに外出の手筈を整えてきた。
「承香殿の女房、美和を助けてください」
綾の頭の中で承香殿の女房を思い出していた。確か柾良親王の食事の世話をしていた女房が美和だったはず。
「その女房をどうして助けなければいけないのですか?」
隣で聞いていた頭中将が鋭く聞く。後宮の女房を助ける理由が見当たらない。
「東宮様が近いうちに美和を捕まえると聞きました。どうか、美和を助けてくださりませぬか」
東宮が美和を捕まえる話は初めて聞く。隣の頭中将を見ると先ほどより更に視線は鋭くなっていた。美和は一体何をして東宮に目をつけられたのか。
「その話はどなたから聞きましたか?」
頭中将の口ぶりから美和を捕まえる話は極秘なのだろう。その話の出どころが気になっている様子だ。
「それは申し上げられません」
桜子は俯いてしまった。
「お話いただけないのでしたらこの件はお断りいたします」
「待って!」
頭中将は話を終わらせようとしたのを止めた。
東宮の動きを知ることが出来る者だ。その者が信頼できるかどうかにも関わってくるが今は美和のことが気になる。
「美和は何をしたのですか?」
「柾良親王様の病は美和のせいです」
「なんですって?」
美和は柾良親王を甲斐甲斐しく世話をしていたではないのか。確か柾良親王の病は床下で砒素が焼かれていたことによるものだ。確か美和は夜も柾良親王の寝所に控えていたはずだ。
「柾良親王様の病が美和のせいだとどうして言えるのですか?」
承香殿の女房である美和が主の子息を病にする理由が分からない。
「私のせいです。あの子に帥宮様の病のことを話してしまって」
ぽろぽろ涙を流しながら自分を責めている。どうして帥宮様の病がここで出てくるのか。綾は混乱してきた。
「泣いていては分かりません。どういうことですか!」
頭中将が怒鳴る。表情は更に険しくなっていた。事は緊急を要するものらしい。美和が捕まるという近い内というのは今夜なのかもしれない。それなら尚更、はっきりと聞いておかなければいけない。
「帥宮様がまだ宮中にいたころ、病に倒れられました。それがお香に砒素が紛れていたためその煙を吸ったのが原因でした」
「お香?」
お香に紛れても分かりそうなものだが、どうして気がつかなかったのか。
「練り香に砒素が入っていたのですぐには分からなかったそうです」
帥宮は香を焚くと気分が悪くなり、香を止めると体調がよくなることから手元にあった香すべてを調べさせたらしい。その香の半分以上に砒素が含まれていた。
その直後に宮中を出ることが決まり体調は良くはなっているが、時々寝込むこともあると言う。先日、兄の良智が帥宮邸へ行ったときは体調が悪いときだったのだ。
「帥宮様の病の話を聞いたからと言って美和が柾良親王様を狙う理由はどこにあるのですか?」
頭中将が更に追及する。
確かにそうだ、帥宮の病の原因を知ったからと言って承香殿の女房が柾良親王に手を下すなど、おかしな話だ。
「美和は先々帝の女御が産んだ姫君です」
「なんですって!」
「どういうことだ!」
綾と頭中将の声が重なった。




