36 忘れ去られた姫
頭中将と共に後宮に戻ってきた綾は誰にも見つかることなく麗景殿にたどり着くと既に丑の刻になっていた。部屋の前まで来ると部屋にはまだ灯りがついていてほっとした気分になる。
桜子の話を聞いた後、頭中将と帥宮邸にも行き話を聞いてきた。あまりにも重い話のため綾も頭中将も疲れ切っていたからだ。
「私は東宮様にご報告をしてきます。姫様も今夜はしっかりとお休みください」
「ありがとう。除目の発表はあと数刻で始まるのね。とりあえず頑張ってみるわ」
日が昇ったら東宮妃としての責務を果たさなければいけない。とにかく今は眠りたい。綾は部屋に入ろうとして御簾に手を伸ばしかけた時、中から人が出てきた。
「あっ。おかえり」
兄の良智だった。
「兄さま、どうしてここに?」
「香奈だけでは心細いだろうからと一緒に待っていたよ」
「兄さま。ありがとう」
いくら母様に鍛えられた香奈や女房たちでも高貴な方だと無下には出来ない。その点、良智は東宮妃の兄で、左近中将でもある。香奈にとっても心強かったはずだ。
「実は頭中将に頼まれたんだ」
笑いながら良智は言うと頭中将は動揺している。
「良智殿、それは言わない約束ではないですか」
「香奈には言っていないよ」
そっと頭中将を見れば口元を手で覆い、顔を赤らめていた。
心配だったんだ。
遅くまで付き合わせてしまって申し訳なかったと心の中で反省する。
「今から東宮様に報告に行くんだよね。僕もご一緒していいかな」
「もちろんです。今後のこともありますので良智殿にも聞いていただきたい」
「綾。東宮様から桃が届けられているから香奈と一緒に食べてから寝るといいよ」
良智に言われて頷いた。
少しお腹がすいていたのだ。東宮も綾のことを気遣ってくれているのに嬉しくなった。
部屋に入ると香奈が心配そうに待っていた。
「ご無事でなによりです」
「うん」
何を言っていいのか分からない。
香奈は話を聞きたそうにしているが、うまく説明できるか分からないのだ。そんな綾の不安を感じ取ったのか香奈は明るく振舞う。
「東宮様から桃をいただきました。ご用意しますね」
「香奈も一緒に食べよう」
部屋を出ていく香奈に声をかけると笑顔が返ってきた。その笑顔でここは何もなかったと分かる。
一口食べて、よく冷やされていて甘く美味しい桃だと分かる。疲れた体にこの甘さが染み渡る。心の渇きがみずみずしい桃で満たされていく。
「香奈の身に何かあっても私が守るから」
「東宮様や頭中将様、良智様も守ってくださると仰っていました」
「東宮様も?」
いつそんな話をしたのだろうか。
「この桃、東宮様自らここまで届けに来てくださいました。その時に少しお話をさせていただきました」
「東宮様はなんて?」
「姫様のことは必ず守るから安心していいと仰ってくださいました」
顔がにやけてしまう。自分を選んだために困難な問題を解決しなければいけない立場になったのにこんなにも大切にしてもらっていいのかと思うけど、やはり正直に嬉しい。だからこそ、東宮の力になりたいと思うようになっている。
今夜の話はあまりにも重苦しくて誰かに話してしまいたくなるが、それを話した途端、その者にも危険が及ぶことは必至だ。綾は香奈に話すのを躊躇した。
東宮は美和のことをどうするおつもりなのだろうか。桜子の願いを叶えることで東宮が困難な状況に追い込まれないかと心配になる。
桜子に頼まれたが自分ではどうすることも出来ず、頭中将もそのことを分かったからこそ今夜のうちに東宮に報告に行ったのだ。
陽が昇ったら、大臣たちが挨拶にやってくる。そのことも綾の気持ちを暗くさせた。




