34 苦々しい思い出
あの男が戻ってきた。
あの男とは藤原成彰。
弓の試合で綾が打ち負かし出家した男だ。
右大臣の実弟の子息で以前の地位は近衛少将だったはず。
皇太后の権力を笠に着て好き勝手振舞っていた成彰は帝の妃の一人、更衣の産んだ沙羅内親王を望み、東宮に弓の試合を申し出るなど宮中でもかなり傍若無人な行動に出ていたようだ。
東宮が勝てばことは落ち着くとは思えず、東宮が負ければ東宮の名誉にも傷がつき沙羅内親王を降下させることになる。内親王の夫ということになると今後も優遇しなければならず、周囲はやきもきしていたようだ。
成彰は沙羅内親王を娶ることが叶わないとなると今度は有力貴族の娘を標的にした。その一人が綾だったのだ。
ただ、綾は兄に仕向けられた挑発を受けて挑んだ弓の試合はあっけなくかたがつき、藤原成彰の惨敗だった。それが成彰の自尊心を傷つけたようで、そのまま出家してしまったのだ。
「どうしてあの男が戻ってきたの?」
「どうやら皇太后様のご意向で還俗して戻ってきたようです。今は藤原彰将と名乗っているそうで……」
「新右近中将ね」
綾は香奈の言葉を引き継いだ。名まで変えて戻ってくるとはどのような考えがあってのことか。昨日と今日、あの部屋を覗いていたのには何か理由があったのか。
もしかして綾があの部屋に居ることがバレていたとか?
おそらく違うだろう。
綾があの部屋に居ることはごく少数で護衛も例の橘時平だけが知っていたはず。
頭中将は時平に綾に何かあれば桜子と合わせることは出来ないと脅していたらしい。桜子の願いを叶えるため、時平は綾を片時も離れず警護していた。他の護衛は麗景殿の女房だと聞かされていたはず。
五年、六年ほどになるのか。少し丸みを帯びた顔立ちが今ではすっきりとした顔立ちになっていた。言われてみれば面影がある。
「新右近中将様が東宮妃にご挨拶したいと以前からお話があるようですが東宮様が拒まれているそうです」
「どうしてあの男が挨拶に来るのよ!」
綾は二度と会いたくなかった男に来てもらいたくなかった。
「昔の縁を懐かしみたいと」
「縁なんか元からないわ!!」
握りこぶしを作り、必死に怒りを抑えるが声に出てしまっている。思い出したくもない男だ。まさかこんなところで会うとは思ってもみなかった。
「東宮様も姫様はお会いになりたくないだろうからと断っているそうですが、皇太后様がどうして会わせられないのかと言い出されているようです。それに他の方も東宮妃様にご挨拶したいと申されているようで」
「……」
会いたくないからと言って会わずにいられるわけではないということね。
「東宮様はどのようのお考えなのかしら」
「姫様の会いたくないと言われるなら会わなくてもいいと」
「それだと東宮様のお立場が悪くなるのでしょう」
少しだけ冷静になって考える。香奈はたぶん、頭中将から話を聞いているのだろう。東宮の立場を考えれば大臣たちの挨拶を受けないわけにはいかない。
「会うわ。挨拶でも昔話でもしてみます。ただし、桜子様のお話を先に聞きたいわ」
桜子の方がなぜか大切だと思えてならなかった。
「そう伝えておきます」
「急いでね」
除目の正式な発表は明後日に迫っている。大臣たちの挨拶はその後になるだろう。そうなればしばらくここから出ることは叶わなくなる。その前に桜子の話を聞いておきたかった。
香奈は急いでという言葉にすぐさま反応して部屋を出ていく。
綾は一旦、自分の部屋に戻ることにして、隣の部屋に居るだろう女房の一人に声をかけて部屋を出る。
麗景殿の東側の角を曲がり、もう少しで自分の部屋につくというときに後ろから声をかけられた。
「女房殿。東宮妃様にお会いしたいのだが」
綾と女房が振り返る。
綾は女房の身なりをしていたので、そのまま女房のふりをする。代わりにもう一人の女房が対応する。
「どのようなご用件でしょうか」
女房が聞いている傍で、綾は扇で顔を隠し、更に顔を伏せて出来るだけ視線を合わせないようにする。落とした視線から束帯は真新しいものだと分かり、目の前にいる人物が藤原彰将だと気づいた。
「東宮様にお願いしてもなかなかお許しが出ませんのでこうして直接出向いた次第です。昔話などを少しと思いまして」
顔が引きつる。昔話だとう?
「東宮妃様は臥せっておられますゆえ、今日はお引き取りいただきとうございます」
冷たく言い放つ女房に流石だと心の中で褒める。自分なら怒り出しているかもしれない。母様からはこういうことが出来るようにと常日頃から言われていたと今更ながら思い出す。
「残念です。では、またの機会にでも」
するすると衣擦れの音をさせながら彰将は帰っていく。綾はそっと顔をあげる。顔を見られてはいけないので扇で顔を隠しながら。
東宮が断っても直接くると言うことか。なるほどね。昔の傍若ぶりを既に発揮しているようだ。これは近いうちに必ず会わなければいけなくなるのは必至。
あの男が大人しく引き下がるとは思えない。ただ、昔と違うのは綾が東宮妃という立場にある。横恋慕うということはないだろう。それなら弓の試合で負けたことの恨みでもいいたいのか。
めんどうくさい。
出来れば会いたくないが東宮の立場を考えると綾もあまり我儘は言えない。仕方なく、部屋に戻ってから何とか言い負かすための対策を練っていた。
半刻ほどして香奈が戻ってきた。
「姫様。頭中将様からの言伝です。明日の夜、帥宮邸へお伺いするとのことです」
「えっ?」
桜子に話を聞きに行くのにどうして帥宮様が出てくるのかさっぱり分からなかった。




