24 直貞親王
そっと近づいてくる黒い束帯姿を目にした瞬間、綾は動けなくなった。
少しずつ綾との距離がなくなっていく。綾は後ずさりしながら衣から目が離せない。心の臓は高鳴り、これから起こることに密かな期待と不安が混じっている。
気がつくと綾の袴が相手の両足で抑えられていて動くことが出来なくなっていた。こんなに積極的に迫られるなんて。綾は期待の方が上回っているのに気づく。
綾の体は仰向けに倒れて、その上に覆いかぶさるように男の顔が迫ってきた。
とうとう、東宮様に!
「くっ、苦しい」
はっ。
目を開けると、直貞親王の幼い笑顔があった。
綾の胸の上に乗りニコニコ笑みを見せるが態勢を崩し頭がゆらゆらと揺れた。
危ない!と思ったが遅かった。綾は直貞親王に頭突きを食らった。
おまけに倒れてきた時に直貞親王の手は綾の首元を抑えていた。
ゲホゲホ。
足をばたつかせながらなんとか息をする。
「あらあら、こんなところまで」
笑いながら直貞親王を抱き上げたのは結月だ。
麗景殿で直貞親王を匿っていることは隠している。
鳴き声などが漏れて知れ渡るのではないかと心配していたが、どういうわけか、直貞親王はあまり泣くこともなく。時々、綾の元へ来ては笑顔を振りまいていく。
結月曰く、藤壺では常茂に怯えていた女御様から離して生活させていたので、女房達との生活の方に慣れていたのではないかと言っていた。
「東宮妃様、そろそろ夕餉の刻限ですよ」
綾から引きはがされた直貞親王はむずかるのを結月があやしている。
香奈に助けてもらいながら体を起こして、夢だったのかと落胆する。そういえば、東宮は来ることが出来ないと言われていたのだ。
急にやることがなくなった綾は部屋から出るなと言われていたので、久しぶりに昼寝を堪能していたのだが。まさか、夢にまで東宮が出てくるとは思ってもみなかった。
欲求不満なのかしら?
夕餉と言われても昼餉を食べてから今まで眠っていたのであまりお腹もすいていない。
どうしようかと迷っているうちに綾の前には食事が並べられていた。こんな生活していたら、太ってしまうと珍しく自分の体形を心配する。
実家にいたころは毎日昼寝していたのだ。ただし、母様の訓練が終わってからだが。
今はその訓練すらしていない。それでいて食べて寝るだけの生活はこれほどつまらないものだとは思ってもみなかった。
並べられた食事に手を付けると、自分でも驚くほど食が進む。
美味しい。
駄目だ、止められない。
綾の欲求は食欲へと変わっていた。
次々と箸を進めていくうちに部屋の外に誰かが来たようだ。
今度は誰だろうと一瞬考えたが、無視を決め込んで食事をつづけた。
結月は中務卿と共に今、帝のところへ行っている。
今夜、直貞親王を藤壺に戻す話をするために。だから、中務卿でないことは分かっているが。それ以外に誰が来るというのだ。
「ひ、姫様」
香奈が文を手に綾に近づいてくるがその手が震えていた。
「なに、こんな時間に」
今度はどんな問題が起こったのかと思って、そのまま食事を続けていると、香奈に茶碗を取り上げられた。
「あぁ、まだ、食べている途中!」
「そんなことより、早くこの文をお読みください」
ずいっと目の前に差し出されて、仕方なく文を手に取った。
文を広げて思わず顔を近づけた。
(庭の嵐で花が舞い散る。今宵も貴方に会いにいけない私を許してほしい。 敦成)
「か、香奈?」
綾は香奈に声をかけたが返事はなかった。
その代わり、別の者が綾の前に現れた。
「東宮妃様。急ぎ東宮様からの文をお届けしました。どうかこのことは内密に」
束帯姿の頭中将が綾に伝えたのは思いもよらないことだった。今夜は宿直ではないのかと一瞬考えたが、護衛をすると聞いていたので、これから着替えでもするはずだ。
「分かりました」
「中務卿や結月殿にも秘密にしていただきたいのです」
「どうして?」
不思議なことを言う。どうして中務卿にも秘密にしなければいけないのか。
「東宮妃様があの日、藤壺に行かれたのを知っていた者がいます」
そういうことか。
何処から話が漏れているのだ。東宮はそれを暴こうとしている。
「分かりました。それと、お願いがあります」
今夜、結月が藤壺に直貞親王を送り届けることになっている。そして、結月はそのまま中務邸へ戻ることが決まっていた。
丁度よかったと頭中将に伝えた。
中務卿と結月が戻るころ、綾も食事が終わってくつろいでいた。
「東宮妃様。帝からのお許しが出ましたので、今夜、直貞親王様は藤壺に戻られます。先日のこともありますので、私と結月で直貞親王様を藤壺に送り届けます。それで、この結月はこの任を解いて、屋敷に返します」
「分かりました。今までご苦労様です」
綾は結月に抱かれた直貞親王様を見る。
東宮様に似ていると言われる子。いつか自分にも子が出来たらこんな顔をしているのだろうかと思いを馳せた。
直貞親王は綾の顔を見て笑顔を振りまいている。
この子を守るためにも自分もしっかりとしないといけないと改めて思った。
「藤壺女御様にはどうかよろしくとお伝えください」
綾は中務卿と結月、直貞親王を見送った。
どうか、ご無事で。




