クサヅよいとこ 一度はおいで 1
光が消失した途端、身体を浮遊感が襲った。すぐに重力に引かれて落下を始め、大きな水飛沫を上げる。熱い液体に包まれ、空気がなくなった。腕の中にいるハルナが藻掻き始めたので、レイは大慌てで身体を起こした。
「ぷはっ」
咳き込むハルナの背中をさすりながら、レイは周辺をざっと見回した。湯気に包まれているせいでほとんど見えないが、人の気配はない。ひとまずは安全のようだ。
落ち着いてきたハルナは涙なのかお湯なのか、目に溜まったそれを指で拭う。
「大丈夫か?」
「ええ、まだ少し喉が痛いけれど」
微笑んで見せるハルナ。だが、次の瞬間にはその表情を強ばらせ、不安に揺れる瞳でレイの胸に手を当てた。
「レイ、怪我は!?」
「よく分からないが治った」
その言葉の真偽を確かめるように、ハルナはレイの身体を入念に触った。そして、本当らしいということが分かると、大袈裟に思えるほどの安堵の息を漏らし、レイの身体に寄りかかった。
「ごめんなさい。私のせいで怪我を……それに、ケンタウロスのときも」
「気にしなくていい」
「けれど、あの方たちが来ていなかったら、レイは…………」
湯に浸かっているというのに、ハルナの身体は極寒の中で凍えているかのように震えていた。
「私、わたし……」
レイは躊躇いがちに伸ばした腕をハルナの背に回す。手を添えるようにして抱き、滴に濡れた白銀糸を撫でる。
「いいんだ。ハルナがいたから、俺はまだ生きてる」
「レイ……」
湯で体温が上がっているせいか、ハルナの火照った顔が妙に色っぽく見えた。桜色に染まった艶めかしい唇から漏れる吐息。
正常な判断ではない。そう思いながらも、レイは湧き上がった衝動を止めることができなかった。
きっと抱き締めるだけでは足りない。
「――んっ、レ、――」
離れようとする彼女の後頭部を引き寄せて、レイは唇を重ねた。初めは抵抗していたが、すぐに力が抜けて身を委ねてきた。
「……悪い」
自分が無理矢理したことをようやく自覚したレイは、慌てて彼女から離れようとする。だが、その前にレイの首へ彼女の腕が絡んだ。
「――もっと」
今度はハルナの方から迫る。二人は白い靄の中で何かを確かめるように、何度も何度も唇を重ね合わせた。
唇が離れ、引いていた糸が切れる。ハルナは目を伏せ、額をレイの胸に押し当てた。
「ごめんなさい。私、はしたないわ」
「そんなことは」
「だって、私、今……」
ハルナは胸の前で両手を包むように握り締める。
落ちたときに着崩れしたのだろう。彼女の法衣の前がはだけ、肌着が見えていた。たっぷり湯を含んだそれはハルナの肌にピタリと張りつき、肌色が透けて見える。彼女の大きめな胸の形がありありと浮かび上がり、レイは音速をも超える速度で顔を背けた。
「レ、レイ? どうしたの?」
そのことに気づいていないハルナは、レイの顔を覗き込もうと前屈みになる。水の重さで緩んだ肌着の胸元から艶めかしい膨らみが露わになった。
「な、何でもない」
「のぼせたのかしら? 顔が赤いわ」
「あ、ああ、そうだ。そろそろ上が――」
その言葉に反応して、ハルナは立ち上がり始める。上半身の肌着が捲れ上がっていて、くびれのある綺麗なお腹が丸見えになった。形のいいおへそは思わず見とれてしまいそうになる。だが、そんな悠長なことを言っていられる余裕はなかった。そのまま立ち上がると、透けた下半身も見えてしまう。レイはハルナの肩を慌てて掴み、肩まで沈めた。
「も、もう少しゆっくり浸かっていこう。誰もいないしな」
「それもそうね。せっかくだもの」
レイは気づかれないように頭を抱えた。
おかしい。ハニートラップの訓練は受けていたし、色欲のコントロールでは優秀な成績を収めていた。実地訓練では終始欲情することなく無反応だったせいで、相手を務めた風俗嬢を泣かせたことすらある。
にもかかわらず。ハルナに関しては肌が透けて見えただけで顔が熱くなって、心が勝手に彼女を求めそうになる。
異常なほどに心がざわつき、罪悪感が募っていく。謝りたい気持ちがせり上がるが、言えるはずもなかった。第一、言えばレイが彼女の身体に反応していたことがバレてしまう。それを知ったハルナからの視線を思うとぞっとする。
「ここのお湯はね、とっても疲れに効くのよ」
「そう言えば、ここは草津温泉なのか?」
黒ダルマにハルナが言っていたことを思い出す。改めて見回すが、黒ダルマの姿は見当たらない。
「ええ、そうよ。さっきと正反対の場所なの。こんなときに来るところではないかもしれないけれど……いいわよね。…………もう、時間がないもの」
「ん? 何て言った?」
最後の方が聞き取れず耳を寄せるレイに、ハルナはふるふると首を振った。
「草津って群馬県では一番有名な観光名所だったな」
草津といえば日本で人気上位の温泉地。群馬県の名を出せば真っ先に草津温泉が出るほど有名で、白根山まで行けば綺麗な星空を堪能することもできる。山の方にあるため、日々の喧噪を忘れ、自然の中で心を癒やすのに最適な名所だ。また、二時間ほど車を走らせれば伊香保温泉もある。こちらは知名度こそ草津に負けるが、また違った趣のある温泉街だ。温泉まんじゅう発祥の地でもある。そこにある石階段がSNS映えすると一時期話題にもなった。
しかし、群馬県が誇るはずの観光名所を彼女は鼻で笑う。
「そうね。けれど、実際は水たまりに入っているだけなのよ?」
「は?」
「言ったでしょう、群馬県はFRだって。ここクサヅをベースにした空間を投影しているだけで、地上人が浸かっているのはただの水たまりよ。こんなこと悪い子が使う言葉だけれど、いいカモなの。おかげでグンマの経済は潤っているわ」
群馬の闇を何でもないことのように語るハルナに、レイは唖然とした。
そもそも、何故わざわざ群馬県を作る必要があったのか。地上の人類を監視するためならば、観光名所を作る必要はないはずだ。
「監視するためにこそ、なの。人類がよくない方向に進もうとしたときに私たちはそれを修正しなければならない。そのためには地上に干渉する術を持つ必要があったわ。そこで祖先は真下にあった日本を窓口とすることで、世界と繋がることにしたそうよ。あまり目立つのはよくないけれど、何もないのも不自然だったから、温泉という無難な目玉にしたの。他には特筆するものはないから影が薄くなる――はずだったのだけれど。今はグンマーだとか秘境だとか言われて悪目立ちしているわね」
ハルナは憂鬱げに眉尻を下げ、ため息を漏らした。
「秘密を漏らした者がいたの。グンマのことはほとんどの政治家は存在すら知らないでしょうね。知っているのはエリート官僚の中でもごく一部。該当者はすぐに見つかったわ。すぐに消されたそうだけれど、そのときにはインターネットが普及していたから、都市伝説として拡散していった。幸い、噂を面白く思った人たちがどんどん尾ひれをつけてくれたおかげで、現実とはかけ離れたファンタジーになったわ。それがレイたちの言う、天空浮遊都市グンマーの正体」
「だから日本との関係がよくないのか」
「ええ。一度失った信頼を取り戻すのは容易いことではないわ。そのときに日本が誠意を見せてくれていれば、関係を取り戻せたかも知れない。けれど、こともあろうに、彼らはグンマを攻めてきた。仕方なく私たちは魔物やダルマたちを使って自衛しているの。本当は人類同士で争いたくないのに……」
それはレイが知っているグンマーとまったく異なる話だった。グンマーの民は好戦的で野蛮な存在。遭遇したら即刻殺せ。
それはこの真実を覆い隠すための嘘だったということか。事実を知れば、悪いのが全面的に日本だと分かってしまう。
そもそも、少し考えれば思い至ったはずだ。これほどの戦力を備えた国が地上を攻めてこないのだから、教官たちの言っていたことがおかしいと。けれど、あそこが世界のすべてだったレイたちにとって、教えられたことだけが正しかった。そのように教育されていた。都合のいいように洗脳されていた。
「なあ、ダルマってなんなんだ」
「それは戦力としてのダルマ――ではないのよね?」
「ああ。俺たちが奪えと命じられたダルマのことだ」
「日本ではどういうものだと?」
「核に代わる未来兵器。それがあれば世界中の争いが絶え、平和が訪れる。そう言っていた」
虚番はダルマが世界平和をもたらすと信じて戦っている。中にはそのことを誇りと思い、辛い訓練を耐え抜いた者もいるだろう。
ダルマを手にしたとき、虚番は役目から解放され、平和の立て役者として人間の権利を得る。そして、末代までその繁栄を約束される。命を賭ける対価として、一生遊んで暮らせる富と栄誉を与えられる。今までの苦労を帳消ししてもお釣りがごまんとくる。それくらいに名誉な役目なのだと教え込まれている。
「核を持つことのできない日本にとって、それは喉から手が出るほど欲しいものよね。けれど、それはダルマがもたらす副産物でしかないわ」
ハルナの憂いが強まる。悲しげに伏せられた眼差しが、レイの心を締め付ける。
「ダルマの正体は国王と妃、その側近にしか伝えられないことになっているから、私は知らないの。けれど、全知全能の演算器――世界の終焉まで予測できると聞いたことがあるわ。ダルマを使えば核に代わるものを見つけられるでしょうし、世界を平和にする方法も見つかるかも知れない。世界を滅ぼす方法も、ね。これを地上の一国が持つということがどれほど危険なことか。第四次世界大戦を引き起こすには十分でしょうね。そうなれば、今度こそ神々は人類を見放すわ」
世界を救おうとしていたはずが、世界を破滅へ導こうとしていた。何とも滑稽な話だった。ハルナの言う通りになるとは限らない。日本はそれを正しく使うかも知れない。けれど、間違った使い方をしたなら、人類史は終わる。その可能性だけで、グンマーの民がダルマを守る理由に値するだろう。当たり前だ。第二次世界大戦で学んだはずの悲劇を、人類は繰り返したのだから。
人の思いや願いは簡単に風化する。当時を経験したことがなければなおさらだ。
そして人は誰しも、大義名分さえあれば他人を害することを厭わなくなる。高度な文明を築き上げたはずの人類は、しかし、何一つ過去から学び取ることができていない。歴史は繰り返す。それは自滅への道に他ならない。
「今回も守り切れるのか」
「分からないわ。けれど、一つだけ確かなことがあるの。もし日本がダルマを持ち帰ったなら、それが大戦の火蓋を切ることになる」
その言葉に張り詰めた緊張感が漂う。まるで冷水に浸かっているかのような感覚に、レイは無意識に拳を握り締めた。
「それは地上の国同士ではないわ。グンマが地上を清算し、新たなる人類史を始める。神々による裁定が行われる前に、ね」
それは人類を見限ったということだ。
ゼロから始められた世界。そこにレイたちは存在しない。
「地上にとって、これが最後の機会よ。だからね、レイ。お願いよ。私と一緒に戦って欲しいの。大戦を止めるために」
真っ直ぐに向けられた眼差し。ひしひしと伝わる強い意志。
ハルナはとても優しい。彼女はまだ地上に希望を持っているのだろう。きっと正しい道を選ぶと。
大戦を止める。それはとても価値のある言葉だった。そのために命を賭せるなら、生まれてきた意味はあったと言える。
彼女の気持ちに応えたい。彼女が自分を必要としていることに、レイはこの上ない喜びを感じていた。
「レイ、お願い」
だが、レイは頷くことができなかった。




