⑧
翌日の出勤時。
迎えの車に乗り込んだ沈 涼音は、いつものざっくばらんな様子とは打って変わって、小さくなって後部座席に座っていた。
「……傅さん。昨日は、本当にごめんなさい……! お酒が入って、変な絡み方をして……その、抱きついたり、失礼なことをしてしまって……」
両手を膝の上でぎゅっと握り締め、真っ赤な顔でペコペコと頭を下げる涼音。
バックミラー越しにその様子を見た傅 墨言は、胸の奥で愛おしさが爆発しそうになるのを必死で押し殺し、冷静な声を装った。
「お気になさらず。あの状況で酒を止めきれなかった私にも責任があります。申し訳ありませんでした。ですが……今後は一切お酒を断つことをお勧めします。」
「ううん、傅さんは悪くないわ! ……何かお詫びをさせて。私にできることなら何でもするから!」
恐縮しきりの涼音に、墨言は少しだけ目を細め、口元を緩めた。
「では……今夜のステージで、私のリクエストする曲を歌っていただけますか?」
「そんなことでいいの? お安い御用よ!」
パッと表情を明るくした涼音は、快く申し出を受け入れた。
その夜のバー『LUNA』。
ステージに立った涼音は、墨言からリクエストされた哀愁を帯びたバラードを、透明感あふれる歌声で歌い上げた。
客席でその姿を見つめる墨言の胸には、甘い満足感と熱い所有欲が満ちていた。
◇
仕事を終え、帰りの車内。
後部座席でふうと息を吐いた涼音は、窓の外の夜景を見つめながら、ふと何気ない疑問を口にした。
「ねえ、傅さん……男の人って、なんで浮気をするのかな?」
親友の萌萌を傷つけた最低な元カレ。
そして、自分に押し付けられようとしている婚約者・韓 宇辰の顔が脳裏をよぎり、胸の奥がモヤモヤと苛立っていた。
すると、運転席の墨言が呆れたように低く笑った。
「浮気者の最悪な男と一緒にしないでください。少なくとも俺は、好きになった女には一途ですよ。他の女に目移りする暇などあるはずもありません」
「一途……」
墨言の迷いのない言葉が、涼音の胸にストンと落ちた。
世の中の男がみんなあのクズたちと同じわけじゃない。
そう思った瞬間、涼音の頭の中に、静かなメロディと歌詞が溢れ出してきた。
浮気への憤り、裏切られた切なさ、そして本物の愛を守る複雑な感情――。
「傅さん、お願い! あと5分だけ、このまま車を走らせてくれない!?」
思いついた旋律を今すぐ形にしたくてたまらなくなった涼音は、身を乗り出して懇願した。
「分かりました。お安いご用です」
墨言は即座に頷き、静かにアクセルを踏み込んだ。
涼音は車内に持ち込んでいたアコースティックギターを抱えると、静かに弦を弾き始めた。
車内に流れる夜景と溶け合うように、生まれたばかりの音と切なくも情熱的なの声が紡がれていく。
(……なんなんだ、この女は)
バックミラー越しに彼女を確認した墨言は、息を呑んだ。
ギターを弾きながら、目を閉じて自分の世界に没頭する涼音。
その本当に恋しげで儚げなと表情、胸を締め付けるようなかすれた吐息混じりの歌声。
(これで口説かれてないなんて……嘘だろ)
クールなはずの墨言の耳たぶが、暗がりの中でもはっきりと分かるほど真っ赤に染まっていく。
自分だけのために捧げられているかのような甘美な錯覚。
墨言は身につけた高級スーツの胸ポケットからそっとスマートフォンを取り出すと、涼音に気づかれないよう静かに録音ボタンを押した。
彼女の奏でる旋律、息づかい、そのすべてを自分の手元に永遠に残しておきたかったのだ。
涼音には絶対に悟られないよう必死で前を向きながらも、全身の血が熱く逆流していくのを感じていた。
(……絶対に、俺のものにする)
もう引き返せない。ボディガードと依頼人という一線を越え、この圧倒的な存在を自分の腕の中に閉じ込めたいという欲求が、墨言の心を完全に支配した。
◇
一瞬に永遠にも思えた数分間。
歌い終えた涼音は、すっかりサバサバとした無邪気な顔に戻っていた。
「ふぅ! 良い曲ができたわ! ねぇねぇ傅さん、今のどうだった!?」
墨言は素早くスマホをポケットに滑り込ませると、バックミラー越しに彼女を見つめた。
ギターを抱えたまま、瞳をキラキラと輝かせて感想を求めてくる涼音。
先ほどまで切なげな雰囲気を纏っていた人物と同一人物とは思えないギャップだ。
「……素晴らしかったですよ。あなたの歌声は、人を狂わせる」
墨言が素直に、そして深い意味を込めて褒め称えると、涼音は嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう! じゃあ、また次回ね!」
指定の場所で車を降りた涼音は、無邪気に手を振ると、軽やかな足取りで夜の闇の中へ消えていった。
残された車内には、まだ彼女の残香と音の余韻が色濃く残っていた。
墨言はハンドルを強く握り締め、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
胸の奥が苦しいほどに、熱い想いが渦巻いている。
墨言はスマートフォンを取り出し、今録音したばかりの音声ファイルを再生する。
胸の奥が苦しいほどに、熱い想いが渦巻いている。
「……逃がさない。必ず俺のものだ」
夜の闇の中、墨言の呟きが静かに溶けていった。




