①
「卒業式が終わったら、韓 宇辰との結婚準備を進めなさい。式の段取りはもう双方の親で決めてあるから」
ダイニングテーブル越しに投げかけられた父の声は、まるで明日の天気を話すかのように淡々としていた。向かいに座る母も、優雅に紅茶のカップに口を付けながら小さく頷くだくだけだ。そこに涼音の意思を尋ねる余地など、最初から一微塵も存在しなかった。
沈 涼音は、握りしめていたフォークをそっと皿の上に置いた。
街で第2位の富豪と呼ばれる沈家。その一人娘として生まれ、不自由のない暮らしを与えられてきた代償がこれだった。音楽大学で大好きなピアノを専攻し、どれだけ真剣に音楽と向き合っていても、両親にとって自分は家業の発展のために売り出す「商品」に過ぎない。
しかも、婚約者に指名された韓 宇辰は、誰もが知る大富豪の一人息子で、残念ながら筋金入りの浮気男だ。影で何人の女性と浮名を流しているか分からない男に、自分の人生を差し出せというのだ。
「……分かりました」
冷ややかな声で短く応えると、涼音は席を立った。両親は振り返りもせず、自社の株価や事業拡大の話へと意識を戻している。
自分の部屋に戻り、重いドアを閉めた瞬間、涼音は深々と息を吐き出した。
(私の人生は、このまま親の言いなりで終わっていくの……?)
胸の奥から湧き上がるのは、激しい絶望と、それに伴う拒絶感だった。ガラス越しに見つめる自分の姿――誰もが羨む儚げで可憐な容姿も、沈家という籠の中では何の意味もなさない。
だが、このまま黙って運命を受け入れるつもりはなかった。
(卒業までのあと3ヶ月……たった3ヶ月でいい。一度でいいから、私が本当にやりたいことを自分の意思でやってやる)
涼音が本当に心から愛しているのは、ピアノだけではない。本当は歌を愛していた。しかし、令嬢という立場から許されたのはピアノだった。作曲したり、人前で歌ったりすることは許されなかった。
それでも涼音は、今まで大学や家の防音室で、誰にも秘密で歌ったり、昨曲をしたりしてきた。
そして今は作り上げた曲を、誰かに聞いてほしかった。例え、認められなくても。
(夜のバーで、歌手としてステージに立つ)
決意した瞬間、胸の奥の重苦しい闇がすっと晴れていくような感覚がした。
もちろん、沈家の令嬢が夜の街で歌っていると知られれば大問題になる。素顔のまま出るわけにはいかない。涼音は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。
派手なメイクで目元の印象を変え、漆黒のロングヘアを覆い隠す派手な髪色のウィッグを被る。普段の儚げで大人しい「沈家の令嬢」の面影を完全に消し去り、まったくの「別人」になりすますのだ。
(待ってなさいよ、私の人生。ただの籠の鳥で終わるつもりなんて、サラサラないんだから)
こうして、卒業までの3ヶ月間限定の、涼音の密かな反逆劇が幕を開けた。




