昏き繭の中、その神は確かに「滅び」を呼んだ その5
遅くなりました...
先ほどヒゲの下等生物が「ジュウ」と呼んでいた武器はアトラの肩を撃ち抜くほどの威力を秘めていた。もしアトラを殺すのであればさらに強いジュウなのだろう。あの武器はアトラですら反応できないほどに早く、鋭い。だが避ける術がなくとも封じる術はあるのだ。アトラは成功した時の結果を思い浮かべて心の中で笑い、策を実行する。
『踏み躙られた空』の発動と、継続的な『肉体の解放』によってアザトースの魔力は底を尽きようとしていた。MPの減少による疲労感は瞬間的に消費したわけでは無いので薄かったが、それでもアザトースの体を苛んでいる。しかし目的の時間稼ぎには成功している。後数秒の間、このままアトラの気を引き続ければアンドレが仕留めてくれるはずだ。アトラの周りで円を描くように走り回りながらそう考えていると、アトラは急に動き出した。これまではずっとアザトースの方を向いていたがいきなりアザトースに背をむけて走り出す。その先にはアンドレの姿があった。アトラはアザトース達の作戦に気づいていたのかとアザトースは思い、己の方には目もくれずにアンドレを殺そうと進むアトラを背後から追いかける。背後からの攻撃をすれば怯むだろう。そうすれば残りわずかな時間を稼ぎ、後はアンドレがなんとかしれくれるはずだ。なけなしのMPを注ぎ込んで『肉体の解放』の出力を上げる。足で地面を勢いよく踏みつけ加速する。短剣をぎゅっと握りしめて真っ直ぐにアトラの背後へ進む。たった一つの違和感には目を背けて。
蜘蛛という生き物はハエトリグモを除きその見た目に反して視力がかなり弱い。八つも目があるせいで逆にピントが合わないためだ。しかしその代わり彼らは振動を感じ取る能力に非常に優れている。地面を踏み締める振動を、大気が揺れる振動を、自らの糸や体で確実に感知するのだ。アトラは蜘蛛神でありまた常に薄暗い場所に住んでいるため、同様に大気の振動からものを感知する能力に優れている。これまでの戦いでも蜘蛛の体の生えている黒い毛と地面に張りつけられた細い細い糸を用いることで下等生物二人の行動をほぼ正確に理解できていた。そして先ほど目への攻撃を避けたことで少女の方に目でものを認識していると誤認させていた。つまり、今少女が後ろから襲いかかってきているこの状況は完全にアトラの目論見通りだった。
たった一つの違和感。それはなぜ今アンドレに襲い掛かるのかだった。もし最初から気づいていたのならアザトースの持っていた強化棍を奪い取った時に先にアンドレを殺しに向かえばよかったのはずなのに、なぜかアザトースを執拗に狙い続けた。神の傲慢といえば片付くのかもしれないが、それでもやはり納得はいかない。そしてそのなんともいえないような感覚は最悪の形で的中した。
アトラの蜘蛛の部分の尻がヒクヒクと震えると、先端から白い糸が束になってアザトースに向けて放出される。咄嗟に回避することも叶わず、アザトースは糸に捉えられてしまう。粘ついた糸が体に張り付き動きを封じる。いまだに蜘蛛の尻と繋がっている糸をしっぽのように器用に扱いながらアトラは自分の手前までアザトースを持ってくるとそのままマントの首元を掴んで盾にするように前へ突き出す。アザトースには何がしたいのかいまいちわからなかったが、アンドレには効果がはっきりと現れていた。ジュウを構えたままの姿勢で固まり、その顔の眉間に青ざめていて、口元を悔しげに噛んでいる。妙に甲高い女の笑い声がアトラの方から聞こえると、アザトースにもアトラの目的がようやくわかった。この神はどうやらアザトースを盾にしてアンドレの攻撃を防ぐらしい。しかし死んでも蘇る『人でなし』を盾にしたところでなんの意味もないはずだ。そのままアンドレがアザトースごと撃ち殺しておしまいのはずだが、アンドレは撃とうとしなかった。
「......うって。わたしごと」
アザトースがそう伝えてもアンドレは撃たなかった。引き金に指をかけたが、それまでだった。彼の手はブルブルと震え、顔から汗が吹き出していた。たとえ生き返ると知っていても、ヒトはヒトを殺せぬものなのか。それはアザトースにとって新発見だった。しかしこのままではアザトースたちの敗北が確定してしまう。挑んだのがアザトースだけなら死んだ後にもう一度蘇ってリベンジすればいいだけだが、アンドレが死ぬのは非常にまずい。繭の塔までの道のり、罠の察知、蜘蛛の見張りの処理などは全てアンドレのおかげでうまくいった。彼がいなければアザトースがもう一度繭の塔にたどり着けるかどうかさえ怪しい。それに彼はコウタと同じ、アザトースの力を見てなお好意的な数少ない存在だ。死なせたくはない。ならばどうするか、この事態を解決できそうなさまざまな魔術をアザトースは思い出すが、どれもこれもMP不足で使えない。今はもうMPなどないに等しい。アトラから逃げ出すような魔力など残ってはいない。ぐるぐると回り続ける思考の中、ふとアンドレを見ると彼の目はアザトースの方ではなく、アザトースの足の辺りに向いていた。なぜ?アザトースが自分の足の方を見ると、その理由はすぐにわかることになった。そしてこの状況を突破する糸口も。