第二十八話 最も九州に近づいた日
岩屋城陥落の後、島津軍は、紹運の実子・立花宗茂が守る立花山城へと矛先を向けた。
義誠もまた、この攻城戦に加わっていた。三千余の兵で籠る宗茂は、父に劣らぬ気概で、島津の大軍を幾度も押し返した。
「父を失ってなお、これほどの粘りを見せるか」
義誠は、城を見上げながら、そう呟いた。岩屋城で見た、あの恐れを知らぬ忠義の血が、確かにこの城にも流れている。
高鳥居城に布陣し、城を包囲しても、宗茂は決して怯む様子を見せなかった。むしろ、寄せ手の油断を突き、幾度も夜討ちを仕掛けてくる。義誠は、その采配の鋭さに、内心で舌を巻いていた。
——紹運殿の子だけのことはある。恐れも、損得も、この親子には効かぬらしい。
だが、島津軍の足を止めたのは、宗茂の奮戦だけではなかった。
「秀吉方の援軍、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春らが、すでに赤間関まで来ておるとの由」
物見からの報せに、義誠は、静かに目を閉じた。
——史実の通りだ。豊臣の先鋒が、ついに動き始める。
これ以上、この城に拘泥すれば、豊臣本隊との対峙が、より不利な形になりかねない。島津軍は、立花山城を落とすことを断念し、薩摩へと兵を引いた。
「落とせなかった城は、これで幾つ目だ」
蔵人が、苦い顔で呟いた。義誠は、それに答えず、ただ、これまでの快進撃に、初めて影が差し始めたことを、静かに受け止めていた。
だが、島津の勢いが、そのまま止まったわけではなかった。
紹運の死により、大友方の筑前勢の脅威が薄れたことで、島津は態勢を立て直し、天正十四年十月、義弘の三万が肥後路から、家久の一万が日向路から、それぞれ豊後へと侵攻を開始した。
義誠は、義弘の軍に従い、豊後の地を、南から着実に侵していった。
「入田義実殿、志賀親度殿、いずれも大友を見限り、我らの先導役を買って出ておりまする」
義誠の報告に、義弘は満足げに頷いた。
「大友の屋台骨も、いよいよ崩れ始めたか」
高城、鳥岳城、津賀牟礼城、高尾城——大友方の諸城が、次々と島津の手に落ちていった。豊後の本拠、府内にまで、島津の軍勢は迫っていた。
大友宗麟は、すでに秀吉の元へ助勢を求めていたが、間に合う様子はなかった。府内はやがて、島津の手中に落ちた。
義誠は、府内の焼け跡に近い高台から、豊後の地を見渡していた。
——薩摩、大隅、日向、肥後、肥前、筑後、そして筑前の大部分。そして今、豊後の大半も。
九州のほとんどが、島津の勢力下に入っていた。木崎原の谷で、初めて策を口にした、あの日から数えて、十五年近い歳月が流れている。
——あと僅かだ。あと僅かで、九州は一つになる。
だが、義誠の胸には、達成感よりも、静かな緊張の方が強く残っていた。立花山城で見た、豊臣の援軍の影。岩屋城で見た、恐れを知らぬ忠義。そのどちらもが、これから訪れる、これまでとは次元の違う戦いを、予感させていた。
「これが、島津の最も九州に近づいた日、ということになるのかもしれぬな」
義誠は、誰へともなく、そう呟いた。
蔵人が、隣に並んだ。
「弱気なことを申すな。あと一息ではないか」
「弱気ではない。ただ、あと一息のところこそ、最も足元を掬われやすいと、知っておるだけだ」
蔵人は、それに何も返さず、ただ黙って、義誠と同じ方角を見つめていた。
九州統一という文字は、今や、手を伸ばせば届くところにあった。だが、その手の先には、これまで見たことのない、巨大な影が、すでに差し始めていた。
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あとがき
立花山城での撤退から、豊後侵攻、府内制圧までを、史実に沿って一気に描きました。義誠にとって、これまでで最も「九州統一」が現実味を帯びた瞬間であると同時に、豊臣の援軍という、初めての「押し返される」感覚を味わう回でもあります。
達成感と緊張感が同居する、この微妙な均衡を、義誠の内面を通して描いたつもりです。次話ではいよいよ、豊臣方の先遣隊との初めての激突——戸次川の戦いを描いていきます。
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