第一話 死人の出ぬ陣立て
元亀三年、早春。
日向国真幸院、飯野城下の外れ。
朝靄がまだ晴れきらぬ野に、竹刀と木槍を手にした若者たちが列をなしていた。外城衆中の子弟、およそ三十人。誰もが元服前後の年頃で、頬にはまだ幼さが残っている。
有村誠之助は、その最後列に立っていた。
十五歳。島津家に仕える下級武士、有村家の嫡男。
——そして、前世で会社員だった男の記憶を持つ者。
物心ついた頃からずっとそうだった。忘れたことも、思い出したこともない。前世の記憶は、誠之助という人格の底に、最初から流れる水のようにそこにあり続けている。満員電車の匂い、会議室の蛍光灯、深夜まで残業した後のコンビニの明かり——そうした記憶と、飯野城下の土の匂いは、矛盾なく同じ自分の中に同居していた。
前世の趣味は、戦国時代の歴史を調べることだった。中でも、島津家は特別だった。九州の片隅から、寡兵で大軍を打ち破り、関ヶ原では敵中を正面突破して生き延びる——その泥臭さと、合理性と、最後まで折れない粘り強さに、誠之助は前世で何度も心を動かされた。
だから、自分がこの家に、この時代に生まれ変わったと悟った時、誠之助は運命だと思った。
——ならば、今度はただの傍観者ではいられない。
島津の天下統一。それが、誠之助が誰にも語らず、胸の内だけに抱いている目標だった。史実では、島津は関ヶ原の後、徳川の世で薩摩一国に押し込められる。だが、この時代にいる自分になら、その先を変えられるかもしれない。何百年も先の未来から見た「結果」を知っている自分になら。
そのために、まず必要なのは力だ。武功でも、信頼でもいい。この身分のまま朽ちるわけにはいかない。
「今日は模擬合戦を行う」
指揮役の郷士が声を張った。
伊東の間者が真幸院の境まで入り込んでいるという噂が絶えず、若い衆にも実戦さながらの心構えを叩き込む必要がある——というのが表向きの理由だった。
だが誠之助は、そこに滲む焦りを見逃さなかった。去年、当主・島津貴久公が身罷って以来、日向の伊東義祐は明らかに兵を動かし始めている。史実で言えば、あと二月もすれば木崎原で伊東と義弘公がぶつかるはずだ。この演習は、遊びではない。
「谷を挟んで、赤白に分かれよ。赤は攻め、白は守る。守り切れば白の勝ち、突破すれば赤の勝ちじゃ」
誠之助は赤組、攻め手に回された。谷の向こうには、小高い丘を背にした白組の陣。守り手の頭目は、同じ組の中でも腕自慢で通る次郎太という若者だった。
「正面から押し崩す。数で押せば必ず抜ける」
次郎太の声が谷を渡って聞こえてくる。赤組の年長の指揮役もそれに頷き、一斉突撃の構えを取らせようとした。
誠之助はそれを一歩下がって眺めていた。
——丘の背後は、白鳥山に続く緩やかな斜面だ。木々が疎らで、迂回するには時がかかるが、不可能ではない。谷の水量は、朝方の霜が溶けきっていない今なら、まだ少ない。
前世なら、こういう時はまずリスクを洗い出す。正面突破は、成功すれば早いが、失敗した時の損失が大きい。プロジェクトの進め方と、そう変わらない。数で押すのは、根性論で乗り切ろうとする無理な計画と同じだ。
「しばし、待たれよ」
誠之助が口を開くと、周りの視線が集まった。年長の指揮役が眉を寄せる。
「何じゃ、有村。臆したか」
「臆してはおりませぬ。ただ、正面から押せば、こちらの損が増えるだけかと」
「損など構わぬ。数で押し切れば良い」
「数で押し切れる保証はござらぬ。丘の上から石を落とされれば、谷を渡る間にこちらの列は崩れましょう。それより——」
誠之助は地を指し示した。
「五人ほど、丘の裏手に回らせてくだされ。木々が薄く、時はかかりますが、気取られずに背後へ出られます。正面は十人ほどで見せかけの攻めを行い、白組の目をそちらへ引き付ける。背後の五人が動いた頃合いで、正面が退くふりをして一度下がる。白組が追ってくれば、そこを横から突く」
「……絵空事を申すな。人数を割けば、正面の勢いが削がれる」
「勢いだけで攻めれば、我らの列が先に崩れます。崩れれば、模擬合戦とはいえ怪我人が出ましょう。少ない人数で確実に頭目を落とす方が、双方の傷は浅うござる」
年長の指揮役は苦い顔をしたが、時が惜しいと見たか、しぶしぶ許した。
誠之助は五人を選び、迂回の道筋を短く指示した。声を荒げることも、勇ましい言葉を並べることもしない。ただ淡々と、誰がどこに立ち、いつ動くかだけを告げた。
こういう時、前世なら「なぜそう考えたか」を丁寧に説明するべきなのだろう。だが、この時代でそれをやれば、ただの理屈屋だと煙たがられるだけだ。理念は語らない。結果だけを見せればいい。それでいずれ——誰かが気づく。
半刻ののち、正面の十人が谷を渡り始めた。
次郎太は待ってましたとばかりに丘の上から采配を振るい、白組を前へ押し出す。誠之助の指示通り、正面の赤組はほどよく押され、じりじりと後退を始めた。
「怯んだか、赤組!このまま押し切るぞ!」
次郎太の声に白組がどっと沸き、追撃の構えを取る。丘を駆け下り、谷底の赤組に迫った——その時だった。
丘の裏手から、五人の赤組が姿を現した。守り手が手薄になった丘の上、次郎太のすぐ背後だ。
「な——!」
次郎太が振り返った時にはもう遅い。背後を突かれた白組の陣形は瞬く間に乱れ、退いていたはずの正面の十人が反転する。挟まれた白組は、なすすべもなく崩れ落ちた。
「勝負あり。赤組の勝ち」
指揮役の声に、谷にどよめきが広がった。
だが、それは喜びの声ではなかった。
「有村の策か……」
「正面からぶつからず、裏をかくとは」
「なんだか、武士らしくないな」
そんな囁きが、あちこちから漏れ聞こえてくる。誠之助はそれを黙って聞き流した。何かを言い返す気にもならない。ただ、崩れた白組の中に、大きな怪我をした者がいないことだけを確かめた。
——それでいい。
正面からぶつかっていれば、誰かが骨を折っていたかもしれない。誉れがどうのという話より、そちらの方がよほど大事だった。それに、自分が知る歴史の中で、島津の兵は決して無尽蔵ではない。この先、義弘公が寡兵で大軍を破る戦を、何度もすることになる。一人でも多くの兵を、無駄に損なわせるわけにはいかない。
——まだ誰も知らない。この国が、あと三十年足らずで、豊臣に、そして徳川に飲み込まれていくことを。
誠之助だけが、その未来を知っている。だからこそ、変えたい。
谷の縁、少し離れた場所に、旅装束の武士が一人立っていた。
供の者を数人だけ連れ、演習の一部始終を静かに眺めていたその男は、誠之助の名も、有村家のことも知らぬ様子だった。周りの郷士たちも、深くは詮索しない。真幸院にはこうした形で領内を検分に回る者が、時折現れる。
男は、崩れた白組の陣と、平然とした顔で立つ誠之助とを見比べた。
やがて、口の端をわずかに上げる。
「……面白い若造だ」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
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あとがき
第一話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、誠之助の内面にもっと踏み込んで書きました。前世の記憶がいつも彼の中にあり、島津家への思い入れと「天下統一」という胸の内の目標が、彼の一つ一つの判断の裏側に流れているように意識しています。ただし、それを他人には決して語らない——行動でしか示さない男、という核があります。
「理念は語らず、行動で示す」という信念と、「前世の記憶を常に持っている」という設定は、一見両立しにくいところがありました。今回は、地の文の独白でだけそれを見せる、という形で折り合いをつけています。




