宴
のどかな午後の公園には、子供たちの無邪気な笑い声が響いていた。色とりどりのシャボン玉が春の風に乗り、高く、低く、空を舞う。ブランコが揺れる規則正しい音だけが、平和な時間の象徴のように聞こえていた。
そんな光景に、ひどく不釣り合いな二人の男がベンチに座っていた。
一人は、どこか虚無的な瞳をした灰色の髪の男。もう一人は、目元を深く目隠しで覆った男。
灰色の髪の男は、足元で遊んでいた幼い子供の頭を、慈しむように優しく撫でながら口を開いた。
「……ねぇ。結局、あいつらも時間の無駄だったでしょ? 期待するだけ無駄、やるだけ無駄。そんなこと、最初から分かってたんじゃない?」
その声には、生物としての温かみが一切欠落していた。
目隠しの男は表情を変えず、ただ前を見つめたまま静かに返す。
「……やってみなければ分からないこともある。私と君とでは、どうやら根本的な価値観が合わないようだ」
その言葉を聞いた瞬間、灰色の男は心底退屈そうに、深い、深い溜息をついた。
「価値観、ねぇ……」
次の瞬間だった。
男が優しく撫でていたはずの子供の頭が、熱せられた飴細工のように、ドロリと形を失って溶け落ちた。
叫び声をあげる暇さえない。肉も骨も服も、すべてが汚泥となって地面に広がる。それまで笑っていた周囲の子供たちは、その悍ましい光景に絶叫し、蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ惑った。
「価値観が合わないだとか、そういうカッコつけた言い回し、もうやめようよ。安居院。」
灰色の男は、自分の掌を眺めながら、吐き捨てるように言い放った。
阿鼻叫喚に包まれた公園の中で、安居院だけは微動だにせず、ベンチの脇に落ちていたシャボン玉の吹き口を拾い上げた。
安居院が静かに息を吹き込むと、透明な球体がいくつも生まれ、空へと放たれる。
「…………」
シャボン玉は、狂気に満ちた地上から逃げるように高く、高く舞い上がり――そして、何かに触れることもなく、パチンと静かに弾けて消えた。
それは、これから始まる更なる混沌と、神格者たちの戦いの激化を予兆するかのような、儚くも残酷な静寂。
灰色の男は、先ほど子供だった「泥」を靴の先で無造作に弄びながら、事も無げに言葉を続けた。
「……それで? 肝心な話はこれからでしょ。宵宮はいつ殺すんだよ~。あの女が生きてるだけで、俺らの計画は全部台無しになるんだからさ」
その問いに対し、安居院はシャボン玉の吹き口を置き、しばらくの沈黙を置いてから、重々しく口を開いた。
「宵宮は、然るべき時と場所で確実に対処する。焦る必要はない。……そもそも、彼女がこの世に生を受けたその瞬間から、世界の均衡が大きくズレ始めたのだからな」
安居院の声は、まるで冷徹な預言者のように響く。
「彼女という存在に呼応するように、邪神たちは活発になり、かつてないほど強力な邪神を宿す適性者たちが現れ始めている。……この混沌の加速、その全ての源流は彼女にあると言っても過言ではない」
その言葉を聞いて、灰色の男は本日何度目か分からない深い溜息を吐き、ベンチに深く背もたれを預けた。
「あーあ、また始まったよ。安居院の難しい話。ぶっちゃけさ、そんな難しく考えないで、隙を見つけてパーっと殺っちゃえばいいじゃん。そっちの方が楽でしょ」
男のあまりにも軽薄で短絡的な提案を、安居院は完全に無視した。
風に流されたシャボン玉が、男の頬の横で虚しく弾ける。
二人の視線の先には、先ほどまでの平和な公園の面影はなく、ただ静まり返った遊具と、逃げ遅れた誰かの靴が一つ、寂しげに転がっているだけだった。
灰色の男は、まるで退屈な授業を聞かされている学生のように、大きく背伸びをしながらあくびを漏らした。涙目に浮かんだ涙を指先で拭い、薄笑いを浮かべる。
「はぁ、相変わらず安居院は気が長いねぇ。で、その『確実な対処』ってののために、具体的にどうするつもりなのさ」
安居院は、目隠しに覆われた顔を微かに動かし、遠くの地平線を見据えるように口を開いた。
「……そのために、永遠の眠りについている『クトゥルフ』の適性者を手に入れる。それが第一段階だ」
その名が出た瞬間、周囲の空気がわずかに重くなったような錯覚を覚える。序列一位、大いなるクトゥルフ。
「もし、現時点で誰の魂にも宿っていないのだとしたら……クトゥルフを受け入れるための、特殊な適性を持つ人間をこちらで用意し、強制的に受肉させるまで。」
その言葉に、灰色の男は呆れたように肩をすくめた。
「ははっ、相変わらず無茶苦茶言うよね。そんな都合のいい人間、そんなに簡単に見つけれんの~? 砂漠でコンタクト探すより難しそうだけど」
灰色の男は、子供だったモノを眺めながら、半信半疑といった様子で問いかける。安居院の返答は、どこまでも平坦で、揺るぎない確信に満ちていた。
「見つけるまで探すだけだ。……辛抱強くな」
安居院の手から放たれた最後のシャボン玉が、ひときわ高く空へ昇っていく。
「それが、この歪んだ世界を『あるべき姿』へと戻すための唯一の道だ。ナイアルラトホテップの器が現れた今、我々にもはや猶予はない」
夕闇が迫る公園に、二人の影が長く伸びる。
『4番目』を手に入れたAegis。そして、禁忌の『1番目』を求めて動き出した不穏な影。
宵宮を巡る運命の歯車は、シンの知らないところで、より深く、より残酷な音を立てて噛み合い始めていた。
一方、拠点では――。
シンは今、人生最大の絶頂と崩壊を同時に味わっていた。
「桼から報告は聞いたわ。……凄いわね、シン君。初任務でそこまで動けるなんて、私の期待以上よ」
任務から帰還した宵宮が、柔らかな笑みを浮かべてシンの目を真っ直ぐに見つめる。その美しい唇から零れた称賛の言葉は、シンの脳内麻薬を一気に沸点まで押し上げた。
「あ、あ、あひ、あざっす……! 宵宮さん……へへ、へへへ……」
シンの精神は、確実に「壊れて」いた。もちろん、邪神の侵食によるものではない。あまりの幸福感に、顔の全筋肉が弛緩し、もはや自分が何者かも忘れるほどに、悪い意味でトんでしまっていたのだ。
今夜は、新人であるシンの大金星を祝う、ささやかな宴が開かれていた。
共用スペースのテーブルには、珍しくまともな肴が並び、桼や尖崎、そして冥ら「大人たち」が、思い思いに酒を酌み交わしている。
「おい、藍原。お前の前にあるのはそれだ。間違えて酒に手を出すなよ」
桼が、自分のビールを煽りながら、シンの前にある湯呑みを指さした。そこには、お祝いの席にはあまりに渋すぎる「濃い緑茶」が注がれている。
一方、サキはといえば、祝杯という名目で既に一升瓶を半分空けており、もはや背景の一部と化して床に転がっていた。
「……本当に、素晴らしい才能だわ。ねぇ、シン君? また次も、私にいい報告を聞かせてくれるかしら?」
宵宮は、目の前の少年が「ぐへへ」という声を漏らしながら魂を飛ばしていることなど露ほども気づかず、慈愛に満ちた聖母のような表情で褒め続けた。
「はいっ……! 俺、一生ついていきます……! 宵宮さん…じゃなくて、Aegisのためなら、邪神でもなんでもボコボコにしてきます!!!」
緑茶で酔いしれるシンの背後で、桼が「あいつ、もう手遅れだな」と言わんばかりに冷めた視線を送る。
平和と狂気が入り混じった拠点の夜。
シンは、自分を狙う不穏な影のことなど微塵も知らず、ただただ憧れの女性の言葉に溺れ、幸せな「壊壊」へと沈んでいくのだった。
───宵宮に心ゆくまで褒めちぎられ、昇天しかけていたシンだったが、ようやく少しだけ正気を取り戻すと、隣でジョッキを傾けている桼の横に腰を下ろした。
「……なぁ、桼。俺もお前の『ハスター』みたいに自分の邪神を好きな時に外に出して戦わせてみたいんだけど……やり方とか教えてくんね?」
シンの言葉に、桼はジョッキをテーブルに置いた。少しだけ顔を赤くした彼は、面倒くさがりながらも「教育係」としての顔を見せ、説明モードへと入る。
「……顕現のことか。だが、お前のナイアルラトホテップがどのタイプか分からない以上、すぐできるとは断定できない」
「タイプ? 邪神にも種類とかあんの?」
「ああ。大きく分けて3つだ」
桼は指を一本ずつ立てながら説明を続けた。
「一つ目は、顕現と変異の両方ができる『両立タイプ』。二つ目は、自分の外側に邪神を呼び出して戦わせることに特化した『召喚タイプ』。そして三つ目は、邪神が常に肉体に宿り、体の一部を変化、もしくはその能力を駆使して戦うしかない『一心同体タイプ』だ」
桼は親指で、少し離れた席で静かに酒を飲んでいる冥を指した。
「あいつの邪神は『召喚タイプ』だ。本体はひ弱だが、与えた血の量に比例して、より先の未来を見れる。で、俺のは『両立タイプ』だ。……変異っていうのは、こういうのを言う。」
桼がそう言った瞬間、彼の右腕が、骨の鳴る音と共に触手へと変貌した。それを見たシンは「それ変異って言うのか……」と目を輝かせた。
「だが、一番厄介なのは『両立タイプ』なんだ」
桼は触手を腕に戻すと、少し忌々しそうに吐き捨てた。
「当たり前だが、邪神にも意志がある。両立タイプの中でもタチが悪い奴は、こっちが顕現の合図を出しても無視して出てこなかったり、機嫌が悪けりゃ能力を貸さなかったりする。……お前の宿してるナイアルラトホテップは、その中でも最高に性格が歪んでる。使いこなせるかどうかは、お前とそいつの『仲』次第だ」
シンの脳裏に、あの嘲笑うようなナイアルラトホテップの声が響く。
果たして自分は、あの「這い寄る混沌」を自分の意志で戦場に引きずり出すことができるのか。シンは自分の掌を見つめ、緑茶を飲み干した。




