一章 1
一
1
出かける支度を整えた少年は、出入り口の扉の前で吹き抜けの上階へ声を投げた。
「それじゃあリムさん、行ってくるから」
相手は気分屋で、気が向いたときしか姿を見せないので返事は期待していなかったのだが、二階の回廊の手摺りから、ひょこりと少女が顔を覗かせた。
「雪が降ってきたわ」
「え、もう降ってきた? 帰れなくなったらどうしよ」
「今回のはそんなに積もる感じじゃないから、帰れなくなることはないと思うけどね。日暮れまでには建物に入った方がいいわよ」
「はいはい」
母親のようなことを言うリムに苦笑し、少年は外に出た。彼女の言うとおり、空を覆った分厚い雲から白いものが降りてきている。周囲は既に白で覆われており、本当に積もらないのだろうかと心配しながら扉を閉めた瞬間、横から声がかかった。
「あ、あの!」
「あん?」
振り返った少年は、旅装束を纏った女が立っているのを見て、返事をしたのを後悔した。防寒のためだろう、明らかに着膨れしている若い女は白い息を吐きながら歩み寄ってくる。
「あの、ここ、『繕工の塔』ですよね、メルヒオールさんのお宅ですよね。あの、お仕事をお願いしたくて。メルヒオールさんはご在宅……」
「今日は休みだ。帰れ」
「え?」
ぽかんとする女を放って少年は歩き出した。しかし、すぐ我に返ったらしい女が追いかけてくる。
「そ、そんな! あの、わたし、もう、メルヒオールさんしか頼る人がいないんです!」
「気のせいだ。他に頼りになる奴は山ほどいる」
「あの、でも、わたし、本当に困ってるんです。お願いです、取り次いで――」
「俺も本当に困ってるんです。出がけに変な女に呼び止められて、俺の都合はそっちのけで話を聞けって言われてて」
口調を真似てやると、女は鼻白んだようだった。しかし、食い下がってくる。
「そんな言い方……あの、わたしは、ここからずっと北のパンターノから、メルヒオールさんに会うためだけに、ここまできたんですよ。知ってます? パンターノ」
「長旅お疲れ」
無感動に言い捨てれば、今度は腕を掴まれた。驚いて振り返ると、女は逃がすものかとばかりに縋ってくる。
「あの! 待ってください! 引き受けて貰うまでは帰れないんです! 取り次ぎを!」
「やっと仕事が一段落ついたんだ、買い出しに行くには今日しかないんだ。ここは雪が降ったら動けなくなるんだよ。あんたは俺に仕事だけして、飢えて凍えて死ねって言うのか?」
「そんなことは……え? まさか、あなたがメルヒオールさん本人なんですか?」
目を丸くする女の手を、舌打ちを堪えて振り解き、少年は止まった足を動かす。
「二度言わせんな。帰れ」
女は追ってこなかった。存外根性のない、と鼻を鳴らす。すると、眼前に上下逆さまのリムの顔が現れた。
「うおっ」
「ちょっと可哀想だったんじゃなあい?」
自称「地霊」であるリムの神出鬼没は今に始まったことではないので、少年は気を取り直して歩みを進める。
「俺が客に同情っぽいこと言うと、情に流されると面倒だのなんだの言うくせに」
「あら、時と場合によるわ。あなたこそ、さっきは随分と乱暴だったじゃない。振り払っちゃって」
「ああいう、自分だけが困ってて可哀想だから、他人は自分の話と頼みを聞いて当然だって思ってる奴は嫌いなんだ。つか、リムさん出てきていいのか?」
傍らをふわふわと着いてくるリムは、少年の問いには答えずに、くるりと上下を元に戻して顎に人差し指を当てた。
「ま、あの子は最初から足りなかったんだけど」
「足りない?」
「伝説に関わるにはそれなりの資質と理由が必要なのよ」
「……あっそ」
リムは時々わけのわからないことを言う。質しても回答らしい回答が得られた例しがないので、今はもう流すようにしている。
「とにかく、留守番よろしく」
「わかってるわ。足下、気を付けてね」
一言残してリムは姿を消した。少年は首を傾げながら顔を正面に戻し、
「足下? ――おわ!」
何かに躓いて思い切りつんのめった。踊るように数歩、どうにか転ぶのは堪え、改めて自分が躓いたものを見下ろす。雪に覆われたそれは、歪な丸太に見えた。
「……なんだこれ」
丸太だとしても、周辺に大きな木は生えていないので、ここにあるのは不自然だ。正体を探るために適当に爪先で雪を払うと人の形が現れ、彼はぎょっと目を見開いた。慌てて地面に片膝をつく。
倒れているのは若い男のようで、手で雪を落とせば凍りついた黒髪と蝋のように白い肌が露わになる。死んでいるのかと思いきや、弱々しいが脈があった。しかし、触れた首筋はぞっとするほど冷たい。
「おい……、あんた。おい」
急いで残りの雪を払って揺さぶっても反応はなく、男の左肩には折れた矢が二本突き刺さっている。周囲に残った黒い染みは、元は赤かったのかも知れず、尋常ではない。思わず顔を上げて周囲を見回すが、リムの姿はない。警告を残して行ったのだから、人が倒れていることは彼女にはわかっていたはずだ。
「……くっそ」
今のうちに冬籠もり用の物資を買い出しに行かないと、早晩、飢えて凍える事態になる。ついでに納品もするつもりで、今日を逃せば、場合によっては春まで滞ることになる。しかし、このままでは確実に死ぬであろう相手を放っておけるはずもない。
「くっそー!」
もし飢えるか凍えることになったらリムを恨もうと八つ当たり気味に思いつつ、少年は瀕死の怪我人を抱き起こした。
* * *
揺すり上げられるような感覚で、彼は目を覚ました。
「……う……」
半ば無意識で呻くと、それで気付いたらしい相手の声が耳元でする。
「あれ、起きちまったのか。寝てた方が楽だったのに」
「……?」
聞こえたのは若い男――少年の声で、状況が飲み込めず彼は目を瞬いた。すると、目の前に丸めた布が差し出される。
「これ噛んどけ。多分、物凄く痛いぞ」
彼が返事をする前に、口に布をねじ込まれた。わけがわからず、されるがままの彼の身体を片腕で支え、少年は彼の左肩から突き出ている何かに手をかける。
「身体に力入れんなよ。――せーの!」
「――――!!」
左腕の付け根に激痛が走り、彼は絶叫した。しかし実際は布に阻まれて、くぐもった呻きにしかならない。耐えがたい痛みはなかなか終わらず、彼は強く目を閉じる。
永遠に続くかと思われた、深い傷を更に抉るような苦痛は唐突に止んだ。口から布を外され、緊張を解すように軽く背中を撫でられる。
「抜けた。大丈夫か?」
荒い息をつき、ぐったりとしたまま首を左右に振ると、彼の身体から手を離した少年は小さく苦笑した。
「だよな。ったく、どこで射られたんだ? 手当くらいしろよな、もう少し遅かったら切らなきゃいけなかったとこだぞ。さすがに俺も、そこまで本格的な医術の心得はないんだ」
ぼやくように言い、少年は手にした矢を金属製の皿に放り出した。それは半ばから折れ、鏃は赤黒く汚れている。同じような矢がもう一本あった。
少年は血で汚れた手を拭いながら肩を竦める。
「まあいいや。でかい傷は塞いどいたから、あとは自然治癒ってことで。治癒術ってのは案外、身体に負担がかかるんだ」
言い、少年は彼に向かって払うように片手を振った。
「とりあえず少し寝ろ。喉が渇いたなら水はそこにある。トイレは一階。食事は後で持ってくるから」
少年に促されて初めて、彼は自分が寝台の上で半身を起こしているのだと気付いた。
「あ……」
「話は後。ここがどこかとか、今の状況とか教えて欲しかったら、まずその棺桶に両足突っ込んだような顔をどうにかするんだな。もう少し見られる顔色になったら教えてやるよ」
口を開きかけた彼を遮り、一方的に告げて手早く道具を片付けて、少年は部屋を出て行った。それを、ただ見送って、彼は改めて己の手に視線を落とした。そろそろと身体を探ってみると、動かない場所も酷い異常を訴えてくる場所もない。少年の言葉通り、覚えている限りの大きな傷は全部塞がっており、軽い怪我はきちんと手当てをされて包帯が巻いてある。矢傷も塞いでくれたらしく、ずっと使い物にならなかった左腕が痛まず動いた。
(生きている……)
ようやく実感が追いついて、彼は大きく息を吐きだした。死ぬわけにいかないと思いながら死を覚悟したのが、遠い昔のように思える。実際、どれくらい時間が経ったのかもわからない。
今のところ、情報源はあの少年しかいない。今がいつで、ここがどこで、自分はどうなっているのか知りたかったら、彼の言うとおりに休んで回復させるしかないのだろう。
彼はゆっくりと身体を横たえ、意識して全身の力を抜いた。少年に礼を言うためにも、早く回復しなければならない。
* * *
「ねえ、エルト。この人、魘されてるわ」
唐突に声が振り、見上げればリムが天井から逆さまに生えていた。少年――エルトは軽く肩を竦め、青年の額の布を取り上げた。絞り直しても、すぐに温くなってしまう。大きな怪我を治して、その後は一昼夜ほど昏々と眠っていたので、発熱する余裕ができたらしい。
「これだけ熱があれば無理もないさ。悪い夢でも見てんだろ」
「起こしてあげた方がいいんじゃない?」
「寝かせとけって。身体を治すのが先だ」
リムはくるりと身を翻し、エルトの向かいに降り立った。不満げに唇を尖らせる。
「冷たいわね。酷い悪夢を見てるかも知れないのに、放っておくのは可哀想よ」
「とかなんとか言って、リムさんはこいつと喋りたいだけだろ」
桶に浸した布を絞り直して額に戻すと、青年が薄ら目を開けた。しかし、完全に覚醒はしていないのか、目の焦点が合っていない。
「気がついたみたいよ」
「あん? 寝てろ寝てろ。熱下がるまで起きんな。あ、でも意識あるなら水飲め。起きられるか? ……無理か」
当然だが返事はない。エルトは、清潔な布に水差しの布を含ませて青年の口元に宛がった。青年が微かに息をつき、瞼が閉じる。呼吸が深くなったのを確認して、エルトは上掛けを青年の口元まで引っ張り上げた。ここにいてはリムが話しかけてくるだろうし、今度は魘されないようなので、一旦、外に出ることにする。
「なんだかんだ言って面倒見がいいわよね、エルト」
「ちーがーうー。惰性だ惰性。助けちまったんだから、面倒見るしかねえだろ」
放り出して死なれては寝覚めが悪い上、助けたことが無駄になってしまう。それはエルトとしても本意ではない。
「リムさんは立ち入り禁止だかんな」
「ええ? どうしてよ」
「近くで騒がれたら治るもんも治らないだろ」
「騒いだりしないわよ。失礼ね」
頬を膨らませ、リムはぷいと姿を消した。機嫌を損ねてしまったようなので、もしかすると数日は出て来ないかも知れない。
(……まあいいか。怪我人にちょっかいかけられるよりは)
一つ息をつき、エルトは仕事部屋へ向かうことにする。納品の目処は立っていないが、仕事を進めておくに越したことはない。




