それから5年後
ふたりの娘を家において、クレス様と出かけた先は久しぶりの舞踏会である。
上の子が三歳、下の子がもうすぐ一歳になるが、ふたりともクレス様によく似ていてまるでお人形のような姿は本当にかわいくて、いや見た目もそうだけど純粋で元気でわがままでもうかわいいでしかない。
乳母はもちろん、侍女やメイドもいるからたくさんある人手のおかげで毎日いろんなことがあって楽しく過ごしている。周りの手を借りられる環境は偉大である。
クレス様も毎日娘たちを両手に抱きながらうれしそうにしていて、一緒に迷子になっていることもあるけれどそれも含めてなかなか賑やかな生活が続いているところだ。
子供が産まれるまでは舞踏会やら夏至祭やら生誕祭やら貴族のイベントに出席をしていたけれど、最近は大変だろうとクレス様だけが陛下のお傍に控えるだけにしてくださっていた。
本当だったらロッシュ家を継げるように男の子が望まれているのだけど。
クレス様も、お義父様たちもまったくそんなことはおっしゃらず娘たちを思い切りかわいがっている。
けれども。久しぶりの舞踏会ではそうもいかないだろう。笑顔のままじわりじわりと毒を吐いてくる貴族たちは多いだろうなあと簡単に想像できて憂鬱だ。
ふうとため息をついて、着いたばかりの会場を見渡すわたし。
するとすぐ隣に寄り添ったクレス様が不思議そうに首を傾げた。
「なにか心配事が?」
真っ青な目のほうが心配そうでわたしは思わず微笑む。
「少しだけ。こういう場は久しぶりですから」
「たしかにそうだけれど、あなたのどこにも落ち度は見当らないよ。クリーム色のドレスはよく似合っているし、まとめた髪も着飾った姿もとても綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
本当! 相変わらず! ずるい!
何年一緒にいてもクレス様はクレス様で。いつもこうしてわたしを想定外に困らせてくる。
顔が赤くなるのがわかるけど、もうどうしようもなくて。わたしはため息とは違う息を長くこぼしてしまった。
そんなわたしに、クレス様はやわらかく続ける。
「心配はいらない。フィオーラ、ロッシュ家相手に滅多なことを言う人はそうそういないし、いたとしても私がついていますよ」
わたし相手には少し話しかたが砕けてきたのに、たまに混ざる敬語もかわいいと思ってしまってだめ。
そんなクレス様は惜しげもなくまっすぐとやさしい言葉をかけてくださるから、わたしはいつまで経っても甘えてしまうのだと思う。
たしかに、ロッシュ家は公爵の位を賜っている。
大抵の貴族は顔色を窺う相手で、不興を買うことは避けたいはずだ。ただし、嫁いだわたしを値踏みする視線は多いのだけれど。
だからこそわたしは憂鬱でもあり気合も入る。侮られるわけにはいかないのだ。
陛下のご挨拶も終わって、若い人たちが中心にドレスの花を咲かせるこの光景はいつ見ても華やかで。
クレス様とお世話になっている方々に挨拶回りをして、少し料理をいただいて、いろんな思惑が交錯している会場を観察しながら情報も集める。
お仕事の話をしているクレス様相手に、謙る年配の方もいれば傲慢な態度が隠せない方もいて、わたしは微笑みながらどこのどなたがどういう方なのか記憶することに忙しい。
「フィオーラ様、お久しぶりです」
そんななか、朗らかな声がかけられてわたしの笑みは深くなる。
シルヴィス家の当主であるその方は、ご夫人をエスコートしながらわたしへ明るい笑みを向けた。クレス様が近衛隊の隊長に声をかけられて、わたしの数歩先に離れたところを見計らってというところがなかなかである。
「シルヴィス卿、お久しぶりです」
「今日はご息女はいらっしゃらないのですね」
「ええ、まだ小さいですから」
にこにこ。微笑みながら姿勢を伸ばす。
シルヴィス家は、わたしの弟のところへきてくれたお嫁さんの実家である。
悪い人ではないが、視野が狭くて悪気なく礼を欠いた言動をたまにする印象。悪い人ではない。悪事を働くという意味では。
「去年お産まれになったのもご令嬢でしたか。家のことを考えると、なかなか難しいものですね」
「わたくしも息子ができるまではとても苦労いたしましたのでよくわかりますわ。絶え間ぬ努力が必要です」
「そのとおり。――よろしければ、我々もご助言できますから遠慮なくおっしゃってください。このままではあのロッシュ家が揺らいでしまうかもしれませんから」
ご夫婦揃ってこういう調子なのである。
ユーグのお嫁さんは思慮深くて芯がとおっている素敵な方だけに、その両親がこれなのは本当に残念だと思う。彼女自身、実家に恩は感じているものの上手に距離をとっているようだし。たぶん弟が手を回しているからわたしの実家に被害もない。
それなら、こちらも律儀に相手をする必要もないわけで。
「お気遣いありがとうございます。ですが、結構です。それくらいのことで当家がご心配いただくことにはなりません」
「いやいや、フィオーラ様。それは楽観視しすぎでは」
「公爵家へお嫁ぎになったのですから、もっとご自覚をお持ちになったほうがよろしいかと」
「なるほど、わたくしは公爵家としての自覚も足りず考えも浅はかだとおっしゃりたいのですね」
にっこり微笑んで首を傾げる。するとハッとしたように卿たちの顔色が変わった。
「どうかしましたか?」
そこにクレス様がお戻りになって、わたしのすぐ側に滑り込む。ほんの少しわたしより前に立ってくださっていて、そういう気遣いに胸があたたかくなる。
「わたくしの力不足で当家に悪い影響が出るとではとご心配いただいたところです」
「フィオーラの?」
きょとんとしたクレス様に、シルヴィス卿が慌てて口を開いた。
「いや、その、差し出がましいこととは存じておりますが。ご子息に恵まれていないのはクレスフォード様がお気の毒だと心配する声も多いのです」
「ご夫人がさらにご自覚をお持ちになるのは大切ですし」
夫人まで続けた言葉に、クレス様はゆっくりと瞬きを一回。
そしてほんのわずかに首を傾げて表情に困惑を滲ませると控えめに口を開いた。
「お言葉ですが、彼女ひとりで子をなすことはできませんが」
わたしを含め、その場にいた人たちがピタリと動きを止める。それほどクレス様のこの言葉は予想外だった。
そんな異様な空気を思ってか、クレス様はもう一度口を開いてさらに続ける。
「子供とは夫婦のどちらが欠けてもできないものです。妻の努力が足りないとおっしゃるのなら、当然私の努力も足りていませんね」
「あっ、いや、あの――」
一瞬で真っ青になった卿が口をパクパクさせているのをまったく気にしないで、クレス様がどこまでも真面目な顔でわたしを振り返った。
「どうやら周りの方々は、あなたばかりに頑張らせてしまっていると思っているようだねフィオーラ。やはり私の不徳が大きいから、いっそう励ませてもらいたいのだけど」
「クレス様……」
吐息のような声がこぼれてしまった。
そんなわたしの隣に寄り添うひとは。
どこまでも真面目な声で、まっすぐと卿たちを見据える。
「当家へのご心配とご忠告ありがとうございます。娘であろうと息子であろうと我がロッシュ家の子であることは変わりなく、愛おしく大切な存在であることにも変わりありません」
しなやかで悠然とした声は小さく息をこぼした。
「卿には男児でないとお取り合いいただけないという意味であれば、今後の付き合いかたもそのようにいたしますのでご心配には及びません」
それでは、これで。
すっぱりと切ってクレス様がわたしの背中を押す。呼び止める声も聞こえたけれど、思いのほか力強い腕が守るように離れたところへいざなってくださる。
「フィオーラ、どうかしたのか」
くすくすこぼれてしまうものを我慢することができなくて。
視線を向けてくる人々なんてまったく見えていないようなクレス様が、不思議そうにわたしの顔を覗き込む。
「い、いえ、ありがとうございますクレス様」
すごく不思議そうな顔が、よりいっそうわたしの笑いを収めさせてくれない。目尻に涙が溜まってきそう。
ふるふると首を振ってわたしはとびっきりの笑みを浮かべた。
「もう、本当にクレス様には敵いません。ありがとうございます」
きれいにお辞儀をすると、たぶんあまりわかっていないクレス様はどういたしましてと頬をかいて微笑んだ。
おっとりしているからといって忘れてはいけない。貴族においてロッシュ家とは選ぶ側だ。国内では王家と他の公爵家を除けばではあるが、それでも多くの貴族より高貴な立場である。
縁ができたとはいえ気安く口を挟んでよい相手ではないのだと、これでようやくわかっただろうか。
おそらくすぐにこの出来事は弟たちの耳に入るから、あちらでも相応の対処がなされるはず。
なんだかすっきりした気持ちになって、初めの憂鬱さもどこかにいってしまった。
さて、そろそろ今夜も終わりが近づいたかなとフロアへ目を向けたとき。
こほん、とクレス様が喉を鳴らしてからふいに笑みを引っ込める。
思わず姿勢を正したわたしを前に、真剣な青い目がまっすぐと向けられた。
「フィオーラ。――久しぶりに、踊っていただけませんか」
少しだけ緊張した表情が、初めてダンスに誘ってくださったときみたいで。
わたしの目が丸くなる。
そしてすぐに笑みがこぼれた。迷うことなく差し出された手に手をのせる。
「もちろん、よろこんで」
迷いのない足取りでフロアへと導いてくださる腕に、思い切り身を任せて。
咲き乱れる花園に、クリーム色を誰よりも美しく添えられるよう背筋を伸ばした。