プロローグ
朧げながら、しかし輪郭だけはハッキリと覚えている──あの匂いのことを。
白い髪をしたケモノは、いつもと変わらぬ穏やかな口調でゆっくりと口を開いた。
「ルウ、無理してブラックを飲まなくてもいいよ。ミルクや砂糖を入れてごらん」
ルウは目に涙を滲ませながら、小さく首を振った。
「やだ……匂いが変わっちゃうもん」
白い髪のケモノは呆れたように眉を下げながらも、愛しい娘の顔を心配そうに覗き込む。
「そんなにブラックがいいのかい? かなり苦そうにしてるけど」
「だって……」
ルウはそれきり言葉を詰まらせ、少しのあいだ俯いた。それからゆっくりと顔を上げ、涙に潤んだ瞳を白い髪のケモノへと向ける。
「この匂い、お父さんの匂いだなって感じがするもん!」
短い沈黙が落ちた。白い髪のケモノは少しのあいだ難しい顔で何かを考えるように黙り込んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「……どうやら、ルウに寂しい思いをさせてしまっているようだ」
そう言って、白い髪のケモノはルウの頭にそっと手を乗せた。大きな手のひらが、ゆっくりと、愛おしむように動き始める。
「ほわっ」
思わず小さな声が漏れる。けれど、こんなに優しくて温かい撫で方には、どうしたって抗えない。
「次の出張から帰ったら、コーヒーの淹れ方を教えてあげるからね。いつでもお父さんの匂いが側にあると思えるように」
その日を最後に、コーヒーの匂いは消えてしまった。
*
──現在。
よく晴れた午後の公園、木漏れ日の差し込むベンチに、一匹のケモノの少女が座っていた。
身の丈はおよそ百二十センチ。ちょこんと腰かけたその足は地面に届かず、所在なげにぷらぷらと揺れている。 少しだれたシャツの袖から覗く手も、膝が見える短パンから伸びた脚も、まだまだ幼さを残して頼りない。けれど何より目を引くのは、頭と同じほどもあろうかという大きな耳だった。 もふもふと柔らかそうな毛に覆われ、その先端だけがくたりと折れ曲がっている。風が吹くたび、折れた先がふわりと揺れた。
目を細め、鼻をひくひくとさせながら、周囲の空気をゆっくりと嗅いでいる。木漏れ日を受けたウルウルの瞳が、しっとりと潤んで光を弾いていた。
「あのケモノ、ラーメン食べたのかな〜。醤油とニンニクの匂いがする〜」
視線の先には、スーツを着たサラリーマン風のケモノが足早に歩いていた。 ルウはそのケモノを目で追いながら、独り言のようにつぶやき続ける。耳の先がぴくりと反応し、匂いを追うように小さく動いた。 昼下がりの公園には、さまざまなケモノたちが行き交い、思い思いの時間を過ごしている。
また別のケモノに視線を移し、ルウは小首を傾げた。傾いだ拍子に、大きな耳が片方だけくたんと垂れる。
「あっちのケモノは……チョークの匂い? 学校の先生かなぁ〜」
ゆっくりと顔を空に向け、目を閉じる。長いまつ毛が頬に影を落とし、もふもふの頬がふにゃりと緩んだ。周囲に漂うあらゆる"匂い"を、存分に嗅ぎ分けていく。
「みんな、いろんな匂いがするな〜」
匂いは、なんだって教えてくれる。
そのケモノが今日どこにいたのか。そのケモノが何を好きなのか。そのケモノが何を隠しているのか。
この世界は匂いで満ちている──他のケモノの嗅覚を遥かに凌駕する、ルウの鼻にとっては。
「あ……コーヒーの匂い」
風に乗って、ふわりと鼻先に触れる香りがあった。ルウはそれを手繰り寄せるように、より深く、丁寧に嗅ぎ分けていく。
「ふむふむ……コーヒーと、男のケモノと……なんかいい匂いの石けん?」
匂いの流れを遡るように視線を動かし、ルウはその源流を探し当てた。
「あのケモノだ!」
視界に飛び込んできたのは、ピンクと黒のフリルがあしらわれたロリータ服をまとった一匹のケモノだった。クリーム色の艶やかなボブヘアー、その頭の上には猫であることを主張するモフモフの耳。整った顔立ちと、パッチリと大きく開いた瞳。誰もが思わず足を止めて振り返ってしまいそうな、絶世の美女がそこに立っていた。
「……男のケモノ?」
ルウは、混乱の中に取り残された。




