第14話 速水と一ノ瀬の邂逅
現代文
教壇に立つ老教師の声が、教室の空気に溶け込むようにして響いていた。
黒板に書かれたのは夏目漱石の『こころ』。既に何度も教科書で扱われてきた定番の一篇だ。
「先生と私」の距離が、いつまで経っても埋まらない。
「いいか、この“先生”は、他人に本音を見せない。だが同時に、“私”にも心を開かせているように錯覚させる。なぜだと思う?」
教師の問いに、クラスの空気が一瞬だけ緊張する。
速水は窓の外に視線を流した。山の輪郭が朝靄に滲んでいる。
鳥が飛ぶのが見えた。一羽だけ。群れから離れて、独りで、直線を描くように。
“私”に心を開かせたように錯覚させるのは、“私”の希望的観測だろ。
信じたいものを信じる。それが人間の限界だ。
真実なんて、見たい形にしか見えない。
「速水。お前、どう思う?」
速水はゆっくりと前を向いた。
何人かの視線が、速水に集まるのがわかる。
先生の目は細く、だが確かに速水を見ていた。
「“私”は、先生に心を開かれていると信じたかったんだと思います」
「ふむ。なぜだ?」
「孤独だったから。理解されたいし、他人を理解したいという欲求があった。でもそれは、実際の“先生”ではなく、自分の中で作り上げた像に過ぎなかったんじゃないかと」
教師は軽く頷いた。
「なるほど。そういう読みも、面白いな。よし、他に意見がある者は?」
声が後ろに流れていく。
速水の頭の中では、すでに次の授業の内容が回り始めていた。次の授業は生物「神経伝達物質」。速水にとっては復習に過ぎない。
セロトニンは今、安定している。
「また始まったよ、ハヤミンの哲学講座」
夏海玲奈。案の定、速水の発言を茶化す。
速水は振り返らなかったが、彼女の顔が容易に想像できた。にやけた目と、肘を机についた気の抜けた姿勢。
「ハヤミンは考えすぎだって。先生は、ただの面倒くさい人でしょー」
「お前は考えなさすぎだろ、夏海」
今度は高嶺悠真の声。
高嶺は相変わらずまっすぐで、歯切れがいい。
「ねーナナちゃんはどう思う?」
玲奈が、斜め前の七瀬柚葉に振った。
七瀬は一瞬言葉を探し、それから控えめに答えた。
「うーん……“私”は、自分のことしか考えてなかったようにも見えるけど…でも、それも自然なのかも。先生の過去を知らないまま、関わるしかなかったんだから」
…意外な答えだった。
彼女の口調は柔らかく、感情の芯を突くような静けさを持っていた。
速水はその一言に、ほんの少しだけ意識を引き戻される。
理解したいという欲求は、本当に“自己”のためだけなのか。それとも、“他者”を救いたいという衝動も、そこに混じっているのか。
「…よし、いい意見だな」
教師の言葉が打ち切りの合図だった。
誰もが、ホッとしたように視線を教科書へ戻す。
速水も、再び窓の外へ意識を返した。
けれど、さっきの七瀬の声だけが、胸のどこかに引っかかっていた。それが何なのか、まだ言葉にできなかった。
「…さて、“先生”の心の中には、どんな葛藤があったのか。遺書を通して語られる“懺悔”には、どんな意味があると思う?」
教師が教室を見回す。
黒板にチョークで書かれた「懺悔」「良心」「死」の文字。誰も手を挙げない。しんとした空気が流れる。
「じゃあ…速水、お前もう一回、答えてみろ」
(またか)そう思いつつ、声を出す前に一瞬だけ思考を走らせる。
「“先生”は、自分の行動に対して、罪悪感を感じていたんだと思います。けれどそれは“相手”への思いではなく、“自分が傷ついた”ことへの怒りと後悔が混ざっていた」
「つまり自己憐憫だと?」
「はい。懺悔という形をとっているけど、最後まで“自己の内面”に閉じていた気がします」
教師が口元に手をやって考え込む素振りを見せた。しばらくして。
「ふむ、なるほどな。…他に異論のある者は?」
「はいっ」
「じゃあ、そこのお前」
手を挙げたのは、ある男子生徒だった。
生徒会に近く、常に何かを測るような目をしている男。
「速水の意見は、分析としては面白い。でも、それじゃ“人間の弱さ”を一方的に切り捨ててる気がします。先生が苦しんだのは、“良心”を持っていた証拠じゃないでしょうか。そうでなければ、わざわざ遺書なんて残さない」
静かに、だがはっきりとした声。
教室の空気が、わずかに揺れるのがわかる。
「…感情の起点は“良心”かもしれません。でも、“自分を守るため”に言葉を使うのが人間です。遺書もまた、“自分がどう思われたいか”という欲求の表れでしょう」
そう返すと、“そこのお前”は少しだけ笑った。
「君、なんでそんなに冷たいの」
速水は答えない。
代わりに、背後から声が飛んだ。
「ハヤミンは合理性の権化だからねー」
また夏海玲奈だった。
今度は笑い混じりじゃなく、どこか本気で楽しんでいる声。
「…でも、ちょっとだけわかる気がするよ。うちも昔、誰かに謝った時、本気で反省してたわけじゃないかも。ただ、怒られたくなかったからって時あったし」
「素直でいいな、お前は」
と、ぽつりと呟いたのは高嶺悠真だった。
速水の視界の端で、高嶺は机の上に腕を置いたまま、微笑んでいた。
「でも速水、たまには相手の“痛み”に共鳴してみたらどうだ?」
冗談半分の口調。けれど、含みのある視線。
速水は、わずかに眉を動かした。
「…必要があれば、そうするよ。演技として」
誰かが笑った。
空気が少しだけ緩んで、チャイムが鳴った。
授業、終了。
誰もが教科書を閉じて、日常のざわめきに戻っていく。
だが、速水の中にはまだ、先ほどの「良心」という言葉が残っていた。
プリントを片づける者、スマホを取り出す者、隣の席に話しかける者。
それぞれが、それぞれの「日常」を取り戻す。
速水は教科書を閉じて、静かに筆箱をしまった。
窓の外、山の輪郭が先ほどよりもくっきりしている。空気が、微かに夏の匂いを含んでいた。
“そこのお前”の言葉。「良心」「共鳴」
そんなもの、必要なら演じればいい。ただ、それだけのこと。
「…ねえ、さっきの、すごかったね」
ふいに声がして、振り返る。
七瀬柚葉が立っていた。速水の席と自分の席のあいだ、わずか半歩分の距離。
姿勢は控えめなのに、目だけはまっすぐ速水を見ていた。
「すごかった…って、どのへんが?」
「全部」
即答だった。
でもその声に、揶揄も賛美もなかった。ただ、事実を伝えるような音の並び。
「…速水くんって、感情を捨てたみたいに話すよね。でも、本当は、いろんなこと考えてるんだろうなって」
速水は黙った。その言葉の裏を読むには、少し時間が必要だった。
「…必要な時に、考えるだけだ。無駄な共感はしない」
「それって、“共感する余裕がない”ってことなの?」
彼女の声は柔らかかったが、芯があった。
まるで速水の中の、見せたくない部分を指先でなぞるような口ぶり。
速水は、思わず目を逸らした。
外の風が一陣、窓ガラスをかすめる音がした。
「…さあな」
それだけ言って、速水は席を立った。
七瀬はそれ以上なにも言わず、ただ微かに笑ったように見えた。
振り返らず、廊下へ出る。
足音と笑い声の混じる昼前の空気が、肌に少しだけまとわりついた。
廊下に出た瞬間、背後から声が飛んできた。
「おーいハヤミン、逃げたな~」
夏海玲奈だ。声だけで誰かすぐにわかる。
振り返ると、いつものごとくスカートのポケットに手を突っ込みながら、ふてぶてしい歩き方で近づいてくる。
「“必要な共感しかしない”とか、“演技としてならできる”とか…。それ、彼女に言ったら秒速でフラれるやつだよ?」
「心配するな。俺にはその予定がない」
「うっわー、冷った。真冬の日本海より冷たいじゃん、それ」
玲奈は肩をすくめ、わざとらしく体を震わせてみせた。その後ろから、高嶺悠真がゆっくり歩いてきた。
「お前さ、ちょっとは手加減しろよ、玲奈。速水のことオモチャにすんなって」
「だってオモチャにしても壊れなさそうなんだもーん。ね? ハヤミン」
「…壊れたらどうする」
冗談めかして返すと、玲奈は「え?」と一瞬きょとんとして、次の瞬間に吹き出した。
「やだ、こわ! ハヤミンがそんなこと言う日が来るなんて。…ちょっとゾクッとしたわ」
「それ、どういう意味だ?」
「うーん、褒めてはいないかな」
玲奈が笑う。その横で高嶺が溜息をひとつついた。
「…でも、速水。さっきの授業で言ってたこと、俺は結構わかる気がする。人間なんて、そんな立派なもんじゃない。自分のために謝るし、自分のために懺悔する。でも、だからって相手への思いを全部否定しちゃうのは、ちょっと寂しいかな」
「寂しい、ね…」
その言葉が、思いのほか胸に引っかかった。
高嶺の言葉には理屈じゃない実感があった。
速水のように、思考の末に出した答えではなく、経験から滲み出るようなもの。
「…お前は、共感の塊みたいな男だもんな」
「おう。共感力だけで生きてるって言ってもいいぞ」
「バカのくせに妙に説得力あるのが腹立つよねー」
「玲奈、てめえ」
ふざけ合う二人の間に、速水はひとつ息を吐いた。
人間関係とは、こうやって作られていくものなのかもしれない。
互いにぶつけ合って、茶化して、意味もない言葉を重ねながら。
そしてその中で、ふとした一言が、心の奥まで入り込んでくる。
ー良い、な
速水はそう思ったが、言葉にはしなかった。
休み時間・廊下にて
自販機の前で水を買って戻ろうとしたとき、曲がり角で立ち止まっている人影が見えた。
ジャージの上を羽織った男、一ノ瀬一。通称ニコイチ。
目が合った瞬間、一ノ瀬は鼻で笑った。
「おう、“合理主義者”さん。相変わらず、冷てえこと言ってたな、授業中」
「聞いてたのか。興味なさそうな顔してたくせに」
「興味ねえよ。…けどな、ムカつくんだよ。お前の言い方が」
その目は、昔と同じだった。
人を値踏みする目。自分が信じられるものだけを残して、それ以外は全部敵にするような目。
「“共感は演技でできる”? 上等だな。じゃあ今から演技でキレてみろよ、速水」
声が低くなった。周囲の雑音が遠ざかって聞こえる。
「…演技で怒るのは簡単だ。でも、演技で傷つくのは無理だ」
そう言った速水に、一ノ瀬の口角がわずかに吊り上がった。
「お前、ほんと嫌な奴になったな。中学のときから頭は切れてたけど、今は、人間やめてんじゃね?」
「お前も相変わらず“感じたままに吠える”だけだな。自分の傷には敏感で、他人の意には鈍感なまま」
空気がきしむ。
互いに一歩も引かない立ち位置で、視線だけが交錯していた。
このままなら、何かが始まりかねない。
だが、先に目を逸らしたのは一ノ瀬のほうだった。
「…チッ。つまんねえ」
舌打ちして、肩をぶつけるようにして通り過ぎていく。
背中を見送る速水の胸の奥に、わずかに残った熱があった。たぶんそれは、“かつての何か”がまだ残っている証だった。
あれは、中学二年の冬だった。
放課後の体育館裏、空気が濁っていた。
雪はまだ降っていなかったが、灰色の空と冷たい風が、何かを予感させていた。
一ノ瀬一。
当時から腕っぷしの強さで有名だった。教師の言うことも聞かず、暴力沙汰の噂も絶えなかったが、妙な正義感と、筋の通った喧嘩しかしないことで、ある種のカリスマ性を持っていた。
そんな一ノ瀬に、ある日「ある男」が喧嘩を吹っかけた。
同じ学校の三年、佐久間。金を巻き上げ、弱い奴を殴って遊んでいた男だった。
速水が現場に着いたときには、すでに口論は始まっていた。周囲には野次馬が数人。スマホを構える手もあった。
速水は、その輪の外から、一ノ瀬と佐久間のやりとりを見ていた。
先に動いたのは佐久間だった。
右のフックが一ノ瀬の頬をかすめた瞬間、空気が変わった。
一ノ瀬が反撃する。的確な右ストレートが、佐久間の顔面に入った。
足がもつれ、佐久間がバランスを崩す。
瞬間。
後ろにあった鉄柵に、佐久間の後頭部が直撃した。
乾いた音がして、体が崩れ落ちる。
血が、流れて、その場にいた誰もが凍りついた。
一ノ瀬は、動かなかった。
ただ、自分の拳を見つめていた。まるでそれが“自分じゃない何か”のように。
後日、佐久間は軽傷で済んだと聞いた。だが、一ノ瀬には「過剰防衛」の烙印が押された。
停学。謹慎。教師たちは“問題児の処分”という形で、すべてを終わらせた。
空は赤く染まり始めていた。
校舎の裏に広がる空き地は、ちょうど死角になっていて、教師の目も届かない。
そこに速水と一ノ瀬は立っていた。
「お前…」
一ノ瀬の声は低く、だが怒りを押し殺しているのがわかった。その手は、もうすでに握られていた。
「佐久間の件、騒ぎになったな」
「そうじゃねぇ。俺が聞きたいのは、なんで“あの時”動かなかったかってことだよ。お前、あの場にいたよな」
速水は黙っていた。
「正しかったかどうか、じゃねぇんだよ。あのとき、お前が一言『やめろ』って言ってたら、俺、多分止まってた。でも、お前は何も言わなかった。俺を試すみたいな顔して、見てただけだ」
「…そうだ。俺はお前が“選ぶ”のを見てた。お前が何をするか、それが、お前自身の“答え”だから」
「クソ野郎が!」
一ノ瀬が突っ込んできた。
拳が振るわれる。右ストレート。避ける時間はあった。だが、速水は動かなかった。
衝撃。
頬が揺れる。皮膚が裂ける感覚。視界が傾く。
見上げた一ノ瀬の目に、炎が宿っていた。
「“選ぶ”ってのは、立って見てることじゃねぇんだよ。殴るか、止めるか、それとも逃げるか、自分が傷つくことも含めて、立場を取るってことだろうが!」
今度は、速水が拳を振るった。
これは反射じゃない。選択だった。
拳は、一ノ瀬の胸に当たった。押し返すように。呼吸を奪う位置(鳩尾)を狙って。
一瞬、動きが止まる。だがすぐに一ノ瀬は低く踏み込み、ボディブローを打ち込んできた。
重い。
速水は後退しながら、腹に受けた痛みをエンドルフィンで抑え、同時に脳内でアドレナリンを活性化させた。
視界が鋭くなる。思考が加速する。
次の一撃は肘で制し、踏み込んだ右足を掛けて、崩し、投げる。
一ノ瀬は倒れ、背中を地面に打った。
「…クソが」
地に伏せながら、一ノ瀬が呻くように言った。
「弱いな」
しばらくの沈黙の後、奴はゆっくりと立ち上がった。
「…ふざけんな。次は、月までぶっ飛ばしてやるよ」
それが、中学時代に交わした速水と一ノ瀬の最後の会話だった。
拳と拳で通じ合ったわけじゃない。ただ、わかりあえなかったという事実だけが残った。




