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第三の条件  作者: コバヤシ
14/22

第14話 速水と一ノ瀬の邂逅

 現代文


 教壇に立つ老教師の声が、教室の空気に溶け込むようにして響いていた。


 黒板に書かれたのは夏目漱石の『こころ』。既に何度も教科書で扱われてきた定番の一篇だ。


「先生と私」の距離が、いつまで経っても埋まらない。


「いいか、この“先生”は、他人に本音を見せない。だが同時に、“私”にも心を開かせているように錯覚させる。なぜだと思う?」


 教師の問いに、クラスの空気が一瞬だけ緊張する。


 速水は窓の外に視線を流した。山の輪郭が朝靄に滲んでいる。


 鳥が飛ぶのが見えた。一羽だけ。群れから離れて、独りで、直線を描くように。


 “私”に心を開かせたように錯覚させるのは、“私”の希望的観測だろ。


 信じたいものを信じる。それが人間の限界だ。


 真実なんて、見たい形にしか見えない。


「速水。お前、どう思う?」


 速水はゆっくりと前を向いた。


 何人かの視線が、速水に集まるのがわかる。


 先生の目は細く、だが確かに速水を見ていた。


「“私”は、先生に心を開かれていると信じたかったんだと思います」


「ふむ。なぜだ?」


「孤独だったから。理解されたいし、他人を理解したいという欲求があった。でもそれは、実際の“先生”ではなく、自分の中で作り上げた像に過ぎなかったんじゃないかと」


 教師は軽く頷いた。


「なるほど。そういう読みも、面白いな。よし、他に意見がある者は?」


 声が後ろに流れていく。


 速水の頭の中では、すでに次の授業の内容が回り始めていた。次の授業は生物「神経伝達物質」。速水にとっては復習に過ぎない。


 セロトニンは今、安定している。


「また始まったよ、ハヤミンの哲学講座」


 夏海玲奈。案の定、速水の発言を茶化す。


 速水は振り返らなかったが、彼女の顔が容易に想像できた。にやけた目と、肘を机についた気の抜けた姿勢。


「ハヤミンは考えすぎだって。先生は、ただの面倒くさい人でしょー」


「お前は考えなさすぎだろ、夏海」


 今度は高嶺悠真の声。


 高嶺は相変わらずまっすぐで、歯切れがいい。


「ねーナナちゃんはどう思う?」


 玲奈が、斜め前の七瀬柚葉に振った。


 七瀬は一瞬言葉を探し、それから控えめに答えた。


「うーん……“私”は、自分のことしか考えてなかったようにも見えるけど…でも、それも自然なのかも。先生の過去を知らないまま、関わるしかなかったんだから」


 …意外な答えだった。


 彼女の口調は柔らかく、感情の芯を突くような静けさを持っていた。


 速水はその一言に、ほんの少しだけ意識を引き戻される。


 理解したいという欲求は、本当に“自己”のためだけなのか。それとも、“他者”を救いたいという衝動も、そこに混じっているのか。


 「…よし、いい意見だな」


 教師の言葉が打ち切りの合図だった。


 誰もが、ホッとしたように視線を教科書へ戻す。


 速水も、再び窓の外へ意識を返した。


 けれど、さっきの七瀬の声だけが、胸のどこかに引っかかっていた。それが何なのか、まだ言葉にできなかった。


「…さて、“先生”の心の中には、どんな葛藤があったのか。遺書を通して語られる“懺悔”には、どんな意味があると思う?」


 教師が教室を見回す。


 黒板にチョークで書かれた「懺悔」「良心」「死」の文字。誰も手を挙げない。しんとした空気が流れる。


「じゃあ…速水、お前もう一回、答えてみろ」


 (またか)そう思いつつ、声を出す前に一瞬だけ思考を走らせる。


「“先生”は、自分の行動に対して、罪悪感を感じていたんだと思います。けれどそれは“相手”への思いではなく、“自分が傷ついた”ことへの怒りと後悔が混ざっていた」


「つまり自己憐憫だと?」


「はい。懺悔という形をとっているけど、最後まで“自己の内面”に閉じていた気がします」


 教師が口元に手をやって考え込む素振りを見せた。しばらくして。


「ふむ、なるほどな。…他に異論のある者は?」


「はいっ」


「じゃあ、そこのお前」


 手を挙げたのは、ある男子生徒だった。


 生徒会に近く、常に何かを測るような目をしている男。


「速水の意見は、分析としては面白い。でも、それじゃ“人間の弱さ”を一方的に切り捨ててる気がします。先生が苦しんだのは、“良心”を持っていた証拠じゃないでしょうか。そうでなければ、わざわざ遺書なんて残さない」


 静かに、だがはっきりとした声。


 教室の空気が、わずかに揺れるのがわかる。


「…感情の起点は“良心”かもしれません。でも、“自分を守るため”に言葉を使うのが人間です。遺書もまた、“自分がどう思われたいか”という欲求の表れでしょう」


 そう返すと、“そこのお前”は少しだけ笑った。


「君、なんでそんなに冷たいの」


 速水は答えない。


 代わりに、背後から声が飛んだ。


「ハヤミンは合理性の権化だからねー」


 また夏海玲奈だった。


 今度は笑い混じりじゃなく、どこか本気で楽しんでいる声。


「…でも、ちょっとだけわかる気がするよ。うちも昔、誰かに謝った時、本気で反省してたわけじゃないかも。ただ、怒られたくなかったからって時あったし」


「素直でいいな、お前は」


 と、ぽつりと呟いたのは高嶺悠真だった。


 速水の視界の端で、高嶺は机の上に腕を置いたまま、微笑んでいた。


「でも速水、たまには相手の“痛み”に共鳴してみたらどうだ?」


 冗談半分の口調。けれど、含みのある視線。


 速水は、わずかに眉を動かした。


「…必要があれば、そうするよ。演技として」


 誰かが笑った。


 空気が少しだけ緩んで、チャイムが鳴った。


 授業、終了。


 誰もが教科書を閉じて、日常のざわめきに戻っていく。


 だが、速水の中にはまだ、先ほどの「良心」という言葉が残っていた。


 プリントを片づける者、スマホを取り出す者、隣の席に話しかける者。


 それぞれが、それぞれの「日常」を取り戻す。


 速水は教科書を閉じて、静かに筆箱をしまった。


 窓の外、山の輪郭が先ほどよりもくっきりしている。空気が、微かに夏の匂いを含んでいた。


 “そこのお前”の言葉。「良心」「共鳴」


 そんなもの、必要なら演じればいい。ただ、それだけのこと。


「…ねえ、さっきの、すごかったね」


 ふいに声がして、振り返る。


 七瀬柚葉が立っていた。速水の席と自分の席のあいだ、わずか半歩分の距離。


 姿勢は控えめなのに、目だけはまっすぐ速水を見ていた。


「すごかった…って、どのへんが?」


「全部」


 即答だった。


 でもその声に、揶揄も賛美もなかった。ただ、事実を伝えるような音の並び。


「…速水くんって、感情を捨てたみたいに話すよね。でも、本当は、いろんなこと考えてるんだろうなって」


 速水は黙った。その言葉の裏を読むには、少し時間が必要だった。


「…必要な時に、考えるだけだ。無駄な共感はしない」


「それって、“共感する余裕がない”ってことなの?」


 彼女の声は柔らかかったが、芯があった。


 まるで速水の中の、見せたくない部分を指先でなぞるような口ぶり。


 速水は、思わず目を逸らした。


 外の風が一陣、窓ガラスをかすめる音がした。


「…さあな」


 それだけ言って、速水は席を立った。


 七瀬はそれ以上なにも言わず、ただ微かに笑ったように見えた。


 振り返らず、廊下へ出る。


 足音と笑い声の混じる昼前の空気が、肌に少しだけまとわりついた。


 廊下に出た瞬間、背後から声が飛んできた。


「おーいハヤミン、逃げたな~」


 夏海玲奈だ。声だけで誰かすぐにわかる。


 振り返ると、いつものごとくスカートのポケットに手を突っ込みながら、ふてぶてしい歩き方で近づいてくる。


「“必要な共感しかしない”とか、“演技としてならできる”とか…。それ、彼女に言ったら秒速でフラれるやつだよ?」


「心配するな。俺にはその予定がない」


「うっわー、冷った。真冬の日本海より冷たいじゃん、それ」


 玲奈は肩をすくめ、わざとらしく体を震わせてみせた。その後ろから、高嶺悠真がゆっくり歩いてきた。


「お前さ、ちょっとは手加減しろよ、玲奈。速水のことオモチャにすんなって」


「だってオモチャにしても壊れなさそうなんだもーん。ね? ハヤミン」


「…壊れたらどうする」


 冗談めかして返すと、玲奈は「え?」と一瞬きょとんとして、次の瞬間に吹き出した。


「やだ、こわ! ハヤミンがそんなこと言う日が来るなんて。…ちょっとゾクッとしたわ」


「それ、どういう意味だ?」


「うーん、褒めてはいないかな」


 玲奈が笑う。その横で高嶺が溜息をひとつついた。


「…でも、速水。さっきの授業で言ってたこと、俺は結構わかる気がする。人間なんて、そんな立派なもんじゃない。自分のために謝るし、自分のために懺悔する。でも、だからって相手への思いを全部否定しちゃうのは、ちょっと寂しいかな」


「寂しい、ね…」


 その言葉が、思いのほか胸に引っかかった。


 高嶺の言葉には理屈じゃない実感があった。


 速水のように、思考の末に出した答えではなく、経験から滲み出るようなもの。


「…お前は、共感の塊みたいな男だもんな」


「おう。共感力だけで生きてるって言ってもいいぞ」


「バカのくせに妙に説得力あるのが腹立つよねー」


「玲奈、てめえ」


 ふざけ合う二人の間に、速水はひとつ息を吐いた。


 人間関係とは、こうやって作られていくものなのかもしれない。


 互いにぶつけ合って、茶化して、意味もない言葉を重ねながら。


 そしてその中で、ふとした一言が、心の奥まで入り込んでくる。


 ー良い、な


 速水はそう思ったが、言葉にはしなかった。


 休み時間・廊下にて


 自販機の前で水を買って戻ろうとしたとき、曲がり角で立ち止まっている人影が見えた。


 ジャージの上を羽織った男、一ノ瀬一。通称ニコイチ。


 目が合った瞬間、一ノ瀬は鼻で笑った。


「おう、“合理主義者”さん。相変わらず、冷てえこと言ってたな、授業中」


「聞いてたのか。興味なさそうな顔してたくせに」


「興味ねえよ。…けどな、ムカつくんだよ。お前の言い方が」


 その目は、昔と同じだった。


 人を値踏みする目。自分が信じられるものだけを残して、それ以外は全部敵にするような目。


「“共感は演技でできる”? 上等だな。じゃあ今から演技でキレてみろよ、速水」


 声が低くなった。周囲の雑音が遠ざかって聞こえる。


「…演技で怒るのは簡単だ。でも、演技で傷つくのは無理だ」


 そう言った速水に、一ノ瀬の口角がわずかに吊り上がった。


「お前、ほんと嫌な奴になったな。中学のときから頭は切れてたけど、今は、人間やめてんじゃね?」


「お前も相変わらず“感じたままに吠える”だけだな。自分の傷には敏感で、他人の意には鈍感なまま」


 空気がきしむ。


 互いに一歩も引かない立ち位置で、視線だけが交錯していた。


 このままなら、何かが始まりかねない。


 だが、先に目を逸らしたのは一ノ瀬のほうだった。


「…チッ。つまんねえ」


 舌打ちして、肩をぶつけるようにして通り過ぎていく。


 背中を見送る速水の胸の奥に、わずかに残った熱があった。たぶんそれは、“かつての何か”がまだ残っている証だった。



 あれは、中学二年の冬だった。


 放課後の体育館裏、空気が濁っていた。


 雪はまだ降っていなかったが、灰色の空と冷たい風が、何かを予感させていた。


 一ノ瀬一。


 当時から腕っぷしの強さで有名だった。教師の言うことも聞かず、暴力沙汰の噂も絶えなかったが、妙な正義感と、筋の通った喧嘩しかしないことで、ある種のカリスマ性を持っていた。


 そんな一ノ瀬に、ある日「ある男」が喧嘩を吹っかけた。

 同じ学校の三年、佐久間。金を巻き上げ、弱い奴を殴って遊んでいた男だった。


 速水が現場に着いたときには、すでに口論は始まっていた。周囲には野次馬が数人。スマホを構える手もあった。


 速水は、その輪の外から、一ノ瀬と佐久間のやりとりを見ていた。


 先に動いたのは佐久間だった。


 右のフックが一ノ瀬の頬をかすめた瞬間、空気が変わった。

 一ノ瀬が反撃する。的確な右ストレートが、佐久間の顔面に入った。


 足がもつれ、佐久間がバランスを崩す。


 瞬間。


 後ろにあった鉄柵に、佐久間の後頭部が直撃した。


 乾いた音がして、体が崩れ落ちる。


 血が、流れて、その場にいた誰もが凍りついた。


 一ノ瀬は、動かなかった。


 ただ、自分の拳を見つめていた。まるでそれが“自分じゃない何か”のように。


  後日、佐久間は軽傷で済んだと聞いた。だが、一ノ瀬には「過剰防衛」の烙印が押された。


 停学。謹慎。教師たちは“問題児の処分”という形で、すべてを終わらせた。


 空は赤く染まり始めていた。


 校舎の裏に広がる空き地は、ちょうど死角になっていて、教師の目も届かない。


 そこに速水と一ノ瀬は立っていた。


「お前…」


 一ノ瀬の声は低く、だが怒りを押し殺しているのがわかった。その手は、もうすでに握られていた。


「佐久間の件、騒ぎになったな」


「そうじゃねぇ。俺が聞きたいのは、なんで“あの時”動かなかったかってことだよ。お前、あの場にいたよな」


 速水は黙っていた。


「正しかったかどうか、じゃねぇんだよ。あのとき、お前が一言『やめろ』って言ってたら、俺、多分止まってた。でも、お前は何も言わなかった。俺を試すみたいな顔して、見てただけだ」


「…そうだ。俺はお前が“選ぶ”のを見てた。お前が何をするか、それが、お前自身の“答え”だから」


「クソ野郎が!」


 一ノ瀬が突っ込んできた。


 拳が振るわれる。右ストレート。避ける時間はあった。だが、速水は動かなかった。


 衝撃。


 頬が揺れる。皮膚が裂ける感覚。視界が傾く。


 見上げた一ノ瀬の目に、炎が宿っていた。


「“選ぶ”ってのは、立って見てることじゃねぇんだよ。殴るか、止めるか、それとも逃げるか、自分が傷つくことも含めて、立場を取るってことだろうが!」


 今度は、速水が拳を振るった。


 これは反射じゃない。選択だった。


 拳は、一ノ瀬の胸に当たった。押し返すように。呼吸を奪う位置(鳩尾)を狙って。


 一瞬、動きが止まる。だがすぐに一ノ瀬は低く踏み込み、ボディブローを打ち込んできた。


 重い。


 速水は後退しながら、腹に受けた痛みをエンドルフィンで抑え、同時に脳内でアドレナリンを活性化させた。


 視界が鋭くなる。思考が加速する。


 次の一撃は肘で制し、踏み込んだ右足を掛けて、崩し、投げる。


 一ノ瀬は倒れ、背中を地面に打った。


「…クソが」


 地に伏せながら、一ノ瀬が呻くように言った。


「弱いな」


 しばらくの沈黙の後、奴はゆっくりと立ち上がった。


「…ふざけんな。次は、月までぶっ飛ばしてやるよ」


 それが、中学時代に交わした速水と一ノ瀬の最後の会話だった。


 拳と拳で通じ合ったわけじゃない。ただ、わかりあえなかったという事実だけが残った。

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