第13話 九条の取材
一ノ瀬一、通称『ニコイチ』。
名前の語感からつけられたであろう、そのあだ名は愛嬌と同時に哀愁も帯びている。
しかし、この名の主は、札付きの不良でありながら、瑞峰学園ボクシング部のホープとまで呼ばれていた。
九条楓は、そのニコイチに取材を敢行すべく。ボクシング部の練習場まで来た。
ボクシング部の練習場は質素だった。
古いサンドバッグ。マットに染み込んだ汗のにおい。
その中央に、彼はいた。
ボクシングシューズの底から摩擦音が響く。
無駄のないフォーム。しかし、それは、どこか燻った熱を帯びていた。
「…記者さん? 俺に何の用?」
不意に九条を見て、一ノ瀬一が笑った。
汗に濡れた額。ぐしゃぐしゃのシャツ。バンテージだけ巻いた腕。
だが一番印象的だったのは、その『挑発的な目』だった。
「新聞部の九条楓です。君に、いくつか訊きたいことがある」
「うわ、俺、取材ってあんま好きじゃねぇけど…」
「けど?」
「おまえならいいかもな」
とぼけるように笑いながら、ベンチに腰を下ろす。
九条も向かいに座った。
レコーダーのスイッチが入る。
「まず、なぜボクシングを?」
「うーん…『殴れるから』かな」
「シンプルだな」
「だろ? でもさ、拳って正直じゃん。相手のことも、自分のことも、殴ればだいたいわかる。俺、そういうのが好きなんだよな」
「勝つため?」
「いや、別に。勝ち負けは“オマケ”みてぇなもんだな。本当に殴りたいのは、昔の自分とか、止まったままの感情とか、そういうよくわかんねぇもんでさ」
九条は観察する。
この男は、言葉を濁すのではなく、『笑いで包む』。
それが防衛なのか、あるいは攻撃なのかは、まだ読めない。
「ボクシング部では、“ホープ”と呼ばれているらしい」
「へぇ、誰がそんなこと言ったんだ? 恥ずかしいな」
「事実、君はスパーリングで誰にも負けていない。この前の大会では、顧問の判断で出場辞退。理由は『技術的には問題ないが、勝負に臨む態度に不安が残る』」
一ノ瀬は吹き出した。
「ははっ、それ書いていいぜ。むしろカッコいいわ、それ」
「試合に対してはどう考えているんだ?」
「勝ちたいよ。だけどな、俺が本当に勝ちたいのは…」
言いながら、視線をそらす。
どこか、『誰かの影』を思い出しているような目だった。
九条は訊かない。今は、まだ。
取材を終え、九条がレコーダーを止めると、一ノ瀬が言った。
「なぁ、記者さん。お前、俺に興味あるの?」
「ある。…だが、他にも興味深い人物がいる」
「……あー、なるほどね。“あいつ”のことを知りたくて、俺に話を聞きに来たってわけか」
一ノ瀬は立ち上がる。
額の汗を拭き、笑うでもなく言った。
「なら覚えとけ。俺と“あいつ”は、どっちも間違ってんだよ」
九条は、その言葉だけを静かに記録に残した。
しばらくの沈黙があった。
一ノ瀬一は、汗のにじんだタオルを首に巻いたまま、
窓の外、夕焼けに染まる校庭を見下ろしていた。
「なぁ、記者さんよ」
不意に、いつものような軽さではなく、
少し掠れた声で言った。
「お前、“あいつ”のことどこまで知ってんの?」
九条はすぐには答えなかった。
「君と同じ中学出身ていうことくらいかな」
それを聞いて、一ノ瀬は続けた。
「俺さ、昔からアイツのこと好きじゃねぇんだよ。…っていうか、嫌い」
その言い方は、冗談じゃなかった。
目も逸らさず、笑いも浮かべず、拳だけをギュッと握っていた。
「なんかこう…“優等生でござい”みたいな顔してんじゃん、あいつ」
「彼は、君を見下しているように見えるか?」
「…俺、何回あいつに本気でぶつかっても、顔色ひとつ変えさせられなかった」
拳を握る音がした。
言葉が止まった。
九条はそのまま、一ノ瀬をじっと見つめていた。
記者ではなく、人として。
そして静かに言った。
「君は、彼を“理解できない存在”として捉えている。でも本当は、“理解されたくなかった自分”を、彼に見透かされたことが許せないだけじゃないか?」
一ノ瀬は、息を止めたように黙った。
「…うるせぇな。お前、本当に記者か? カウンセラーみてぇなこと言いやがって」
吐き捨てるように言いながら、それでも笑ってはいなかった。
その瞳の奥にあったのは―勝ちたくて仕方ないのに、どうしても追いつけない悔しさと、それを認めたくないプライドだった。
「“あいつ”が何者かなんて、どうでもいい。俺が殴ってやりてぇのは、諦めちまった俺自身だよ」
そう言って、拳をそっと膝に置いた。
それは、まるで自分自身に向けた一撃のようだった。




