後編
テーブルの上に揃えて置かれた、年齢の刻まれた手が微かに震えている。
未だ美しさを保ち、身奇麗に装ってはいても、手指には如実に年齢が出るものだ。おそらくは、顔には出さない積年の苦労も。
ふいに、その、齢を重ねた小さな手を取り労ってやりたい、俺の手で温めて震えを止めてやりたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばしかけて、止めた。
今の俺には、雪子に触れる権利はない。
代わりに訊ねた。
「戻ってくる気はないか?」
「ごめんなさい」
雪子は相変わらず泣きそうな顔で、それでも目を上げてはっきりと告げ、首を横に振った。
「……そうか」
もっと何か言うべきかとも思ったが、何を言っても雪子の意思が変わることはないだろうと思われた。
隣のテーブルでは、仲睦まじそうな老夫婦が、静かに語らいながら窓の外の桜を眺めている。
俺たちもあんなふうに、穏やかに寄り添いあって、いたわり合いながら共に年老いてゆけるのだと、かつて俺は信じていたのだ。
しばらく、二人とも黙っていた。やがて俺の方から口を開いた。
「そうそう、竜が結婚したんだ。相手は、素直で可愛らしい、とても良いお嬢さんだよ。竜は、独立して一家を構えた。何度か様子を見に行ったが、とても幸せそうだったな」
「……そう。よかった」
「孫も生まれたんだ。去年の夏に。竜にそっくりな男の子だ」
「まあ……。そうね、竜ももう三十を過ぎているのよね」
またしばらく黙ってから、今度は雪子が口を開いた。
「私、ずっと、竜に謝りたかったの。私ね、あの日、竜に酷いことを言ったの。あなた、竜から何か聞いてらっしゃる?」
「いや。竜は俺に、あの日のことは何も話さなかった。俺も、あいつから無理に聞き出さなかった」
「そう……。私、取り乱してしまって、たまたま居合わせただけのあの子にいろいろと心無い言葉をぶつけてしまって。何の罪もないあの子に……。あれからずっと、あの時の竜の傷付いた顔が忘れられないでいたの。竜は、今でも気にしているかしら。私を、恨んでいるかしら」
「そうだな、思春期の頃は、まあ、いろいろと思い悩むこともあっただろうが、あれももう大人だから、自分の中でそれなりに気持ちの整理がついているんじゃないかな。今はとにかく、良き伴侶と温かな家庭を得て、すっかり落ち着いているよ。……竜に、会いたいか?」
「……いいえ。会わない方がいいわ、きっと。竜が今、幸せなのなら、今さら私がもう一度心を乱す必要はないですもの」
「そうだな。俺も、そう思う。……竜の写真を持ってきた。嫁さんと孫も写っている。見るか?」
「ええ」
俺は手帳から竜と家族の写真を取り出して雪子に渡した。
そうしながら、思った。そう、俺は、雪子を失ったが、何もかもを無くしたわけではなかった。
かつて思い描いていた、そして永遠に失われたと思っていた幸せな未来は、結局、おおかた予想図の通りに実現しているじゃないか。
同居こそしていないが、竜のところに可愛い嫁は来た。夢見ていた孫も抱かせてもらった。嫁さんは屈託なく俺に親しもうとしてくれ、一度は激しくぶつかり合い決裂した竜も、温かい家庭を得た今、一人前の一家の主としてすっかり落ち着いて、俺たちは再び歩み寄りつつある。竜に家業の産婦人科医院を継いでもらうことはできなかったが、運良く他に頼もしい後継者を得て、そちらのほうもうまく収まりつつある。思えば、まずまずの晩節ではないか。……隣に雪子がいないことを除けば、ほぼ、思い描いていたとおりだ。
写真を受け取った雪子は、白いハンカチで目頭を抑えた。
「竜、立派になって……。若い頃のあなたにそっくりね」
「ああ。呆れるほど似ているな」
「それに、可愛らしいお嫁さんだこと」
「里菜さんというんだ。健やかに育ったふうな、とても気立ての良い娘さんでね。あてられるほど仲睦まじいよ。竜も、あれで案外、隅に置けないやつだ」
「まあ」
雪子はくすりと笑った。笑う姿が見られて嬉しかった。
「孫の名前は廉だ」
「そう、廉ちゃん。可愛い名前。この子、本当に竜の小さい頃にそっくりね」
「ああ、よく似ているだろう。でも、眉は里菜さんに似ているな。顎の線は少しお前に似ているような気もするぞ」
「まあ……」
雪子は目を潤ませたまま微笑んだ。
「竜は、幸せなのね」
「ああ、とても幸せそうだ」
「よかった、本当によかった……。ねえ、お願いがあるの。もしもこの先、あなたが必要だと思うことがあったら、あなたから竜に、私が謝っていたと、あの時言った酷い言葉は全部心にもないことばかリだったのだと、どうか伝えてください。もし、竜のためにそうすることが必要だと思う時がきたら」
「分かった。そうしよう。……念のため、竜の連絡先、いるか?」
「いいえ、いいわ。連絡先を貰ったら、会いに行きたくなってしまうかもしれないから」
雪子はひっそりと微笑んだ。
「そうか。じゃあ、渡さないから、また何か事情があってどうしても必要になることがあったら、お前の実家を通してでも、連絡してくれ」
「はい」
「その写真は、持っていくといい」
「ええ、ありがとう」
雪子が写真を大切そうに手帳に挟むのを見守りながら、ついでのように言ってみた。
「家の電話番号は覚えているか?」
「ええ」
「電話番号は、変わってない。だから、もし何かで本当に困った時には、連絡してくれ。遠慮なく俺を頼ってくれ」
雪子は少し逡巡してから、淡く微笑んで頷いた。
「……ええ、ありがとう」
たぶん、雪子は、何があろうと、もう俺に連絡してくる気はないのだ。
けれど、今、はっきりと俺の申し出を拒絶しなかったのは、俺に対する思いやりだろうか。俺の許に戻る気はないが、俺に、いつか雪子が自分を頼ってくる日が来るかもしれないという淡い夢を抱いたままでいさせてくれようという……。
そして、俺は、うぬぼれてもいいだろうか。その夢が、俺にとってそうであるのと同様に、雪子にとっても密やかに甘いものであるのだと。雪子も、ここではっきり拒絶の言葉を口にすることで俺との間に残された細い細い最後の繋がりを完全に絶ち切ってしまうことを、寂しく思ったのだと。二度と会うことはなくても、いつかまた会うことがあるかもしれないという淡く甘い夢だけは胸の奥にそっと抱いていたいと――雪子もそう思ってくれたのだと。
だが、もしそうだとしても、その夢はきっと、今ここで互いに口に出したら、儚く消えてしまうのだ。
俺たちは、お互い、いつの日か再びまみえると言う淡い夢を密かに心に抱いたまま、この先の人生を、このまま別々に生きてゆくのだろう。俺はきっと、人生最後のその夢を、手帳に挟んだ桜色の花びらのように誰にも見せることなく胸の奥にしまって、墓場の中まで大切に持ってゆくのだろう。
たとえもう二度と会うことはなくても、俺の妻は、生涯、雪子ただ一人だ。
しばらく、浅瀬を探るように注意深く無難な話題を選んで世間話をした後、俺と雪子は店を出て、まるでいつでもまた会えるごく普通の知人同士であるかのように挨拶を交わし、何気なくあっさりと別れた。
淑やかに会釈をして雪子が俺に背を向け、桜並木の下を歩み去る、その後ろ姿を見送りながら、俺は、ずっと雪子に言いたかったことを、結局また言いそびれたのに気がついた。
お前が俺のところに嫁に来てくれた時、俺は、本当に嬉しかったんだ。本当に、本当に、人生で一番、嬉しかったんだ。――今度こそ、そう言うつもりだったのに。
まあ、いい。今さら言っても、しかたのないことだ。
若い頃、当時の女性としてはすらりと背が高いほうだったはずの雪子が、今、長い足で颯爽と歩く今どきの若者たちの間に埋もれて、記憶にあるより小さく見える。人混みの中にまぎれてゆく小さな背中を見ていると、俺の背中で人波を掻き分けて雪子の行く手を開けてやりたい、押しつぶされそうな小さな肩を俺の身体で庇ってやりたいと、そんな気持ちが湧き上がったが、俺にはもう、そうすることは許されないのだ。
せめて俺の代わりに、誰かがそうして雪子を守ってくれることを、俺は祈った。あんなに小さく頼りなく見えても、雪子はああして巧みに人混みをすり抜けて一人で歩けるのだと、分かっていても祈らずにいられなかった。雪子の人生に、もうこれ以上、辛いことが何も起こらぬように。
桜の花びらが雪のように降りしきり、俺と雪子を隔ててゆく。
さしのべた指の先を花びらがすり抜けてゆくように、掌に受けた春の淡雪が見る間に溶けて消えるように、俺の人生から、雪子が再び消えてゆく。
薄甘い味のしそうな桜色の雪の中に立ち尽くし、俺は頭上の花枝を仰いだ。
雪子。俺はお前を、幸せにしたかったよ――。




