前編
断頭台の刃が振り下ろされる、その瞬間。
ひどく冷静な自分がいたのを覚えている。
一度目は、必死だった。
自分が乙女ゲーム『星降る夜空のロマンス』の悪役令嬢オリヴィア・ヴァーミリオンに転生したと気づいた時、血の気が引く思いと共に、どうにかして破滅エンドを回避しようと足掻いた。
ゲームの知識を総動員し、ヒロインとの接触を避け、善行を積み、婚約者である第二王子セドリックとの協力体制構築を図った。けれど、駄目だった。
まるで大きな見えない力――『世界の強制力』とでも呼ぶべきものに引きずられるように、物語は破滅へと突き進んだ。
私がどれだけヒロインを避けようと、なぜか彼女は私の行く先に現れ、些細なことで難癖をつけられているように見えた。私がどれだけ善行を施しても、それは裏のある偽善だと噂された。
そして何より不可解だったのは、婚約者であるセドリック様の態度だ。原作の彼は、悪役令嬢であるオリヴィアにべったりで、共にヒロインを陥れる共犯者のような存在だったはず。 それなのに、一周目の彼は、私に対して驚くほど冷淡だった。まるで、どこか遠い存在を見るような、温度のない瞳。関係構築どころか、まともに会話すら成り立たなかった。
結局、私はヒロインであるリリアへの数々の嫌がらせの首謀者として糾弾され、公衆の面前でセドリック様から婚約破棄を突きつけられ、謂れのない罪を着せられた挙げ句が断頭台の上。皮肉なことに、原作通りの結末を迎えたのだ。
努力は、無駄だった。
知識も、無意味だった。
悪あがきは、滑稽だった。
だから――すべてを諦め受け入れた私は、ひどく穏やかな気持ちだった。
ああ、また死ぬのか、と。それだけ。
来世はこんなわけのわからないことに巻き込まれないといいな、と思う私に、刃がきらめき、振り下ろされる――。
「………………は?」
次に目を開けた時、視界に広がっていたのは見慣れた豪奢な天蓋だった。
ふかふかのベッド。シルクのシーツ。微かに香るローズの香り。
ここは……ヴァーミリオン公爵家の私の部屋だ。
「……また、これか」
思わず乾いた笑いが漏れた。
状況を理解するのに、時間はかからなかった。一度経験しているからだ。
神様だか世界の力だか知らないけれど、ご丁寧に時間を巻き戻してくださったらしい。悪役令嬢オリヴィアとして、転生したばかりの頃に。
「もう……いい加減にしてほしいわ……」
ベッドから起き上がる気力も湧かない。
どうせまた、何をしても無駄なのだろう。
どれだけ足掻いても、あの断頭台にたどり着くのだ。ヒロインに憎まれ、婚約者に冷たく突き放され、民衆に石を投げつけられながら。
もう、疲れた。
頑張ることに、意味なんてない。
世界の筋書き通りに断罪されるというのなら、せめてそれまでの時間くらい、穏やかに過ごしたい。
ただ、「今回で終わり」とは限らないだろう点は気になった。
前回、首を刎ねられた瞬間に私は戻った。
二回目となる今回もまた、処刑された瞬間に時が戻るのだろうか。
さて。私はそれを何度繰り返せばいい? 十? 百? 千回?
何度も何度も、無限地獄のように繰り返すのだろうか。
……だが、もういい。すべてがどうでもいい。
たった一回の試行で、もはや私には、世界に、運命に立ち向かう気力は微塵も残っていなかった。
そうだ。寝て過ごそう。
余計なことを考えず、誰とも関わらず、ただ静かに、その時が来るのを待とう。
悪役令嬢? ヒロイン? 婚約破棄? 断罪?
もう、どうでもいい。
私は侍女のマリアを呼び、体調が優れないからしばらく部屋で休む、とだけ告げた。心配する彼女の声も、今はただただ億劫だった。
ふかふかのベッドに再び潜り込み、目を閉じる。
今の私にとっては幸いなことに、「オリヴィア」にはあまり体が丈夫ではない、という設定があった。しばらく寝ていても、誰も咎めはしないだろう。
二度目の人生は、おやすみモードでいこう。
これから訪れるであろう断罪処刑までの長い時間を、ただ横になってやり過ごすのだ。
*
それからどれくらい経っただろうか。
私は宣言通り、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。食事は侍女が運んでくるものを最低限口にし、あとはひたすら眠るか、ぼんやりと天井を眺めるか。
侍女たちは心配して医者を呼ぼうとしたり、両親に報告しようとしたりしたが、私は「ただ少し疲れているだけ。心配いらないわ」と繰り返して、なんとか誤魔化していた。幸い、両親は多忙で、娘一人が少し引きこもったくらいでは、まだ大きな騒ぎにはなっていなかった。
そんなある日の午後。
眠りと覚醒の狭間を漂っていると、部屋の外が少し騒がしいことに気づいた。侍女の慌てたような声と、聞き覚えのある、けれど今は聞きたくない男性の声。
「オリヴィア嬢は部屋にいるのだろう? 少し顔を見せていただきたい」
「セ、セドリック殿下!? し、しかしお嬢様は……」
「構わない。少しでいいんだ」
(……セドリック様?)
なぜ、彼がここに?
一周目のこの時期、彼が私を見舞うことなど一度もなかったはずだ。彼は私に興味など欠片も示さなかった。冷たい瞳で、義務的に挨拶を交わすだけ。それだけの間柄だったはずなのに。
……面倒だな。会いたくない。
どうせまた、あの温度のない瞳で見られるだけだ。
居留守を使おうか。いや、もう部屋の前まで来ている。
諦めて溜息をつくと、控えめなノックの後に扉が開き、キラキラと輝く金髪と、整いすぎた顔立ちを持つ――セドリック王子が入ってきた。
前回目にした通り、彼は冗談みたいに美しい男だった。けれど、その美しさが、今の私にはひどく色褪せて見えた。
「……殿下。ごきげんよう」
ベッドから起き上がろうともせず、私は気怠く挨拶した。どうせ嫌われるのだ。愛想よくする必要もない。
「オリヴィア。……具合が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
セドリック様は、私の予想に反して、心配そうな表情を浮かべていた。澄んだ青い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
一周目では見たこともない、優しい眼差し。
(……は? なに、この反応?)
戸惑いを隠せない私に、彼はさらに近づき、ベッドのそばに膝をついた。
「顔色が悪いな。本当に大丈夫なのか? 何かあったのなら、私に話してくれないか?」
信じられない言葉だった。
一周目、私がどれだけ悩みを抱えていても、彼がこんな風に心配してくれることなど、決してなかった。彼はいつも、私のことなど意にも介さず、ただ自身の公務や、あるいは他の誰か (今思えば、あれはヒロインだったのかもしれない) に意識を向けていた。
「……別に、何もありませんわ。ただ少し、疲れているだけです」
「疲れている……?」
彼は何かを考えるように、わずかに眉を寄せた。そして、次の瞬間、彼は私の手をそっと握り、驚くべきことを口にしたのだ。
「……すまなかった、オリヴィア」
「……え?」
「前……いや、これまでは、君のことを誤解していた。君がどれほど苦しんでいたか、気づけなかった。だが、もう大丈夫だ」
セドリック様は、握った私の手に少し力を込めて、真っ直ぐに私を見つめ返した。
「今度こそ、私が君を守る。何があっても、必ず」
(……は?????)
私の頭は完全にフリーズした。
誤解? 守る?
何? 突然何を言っているの、この人?
混乱する私をよそに、セドリック様はどこか決意を秘めたような、それでいて少しだけ切なそうな、複雑な表情を浮かべていた。
「だから、安心してほしい。もう君を一人にはしない」
訳が分からない。
全くもって、意味不明だ。
けれど、反論する気力も、問い詰める気力も、今の私にはなかった。
「……そうですか」
私はただ、力なくそう答えることしかできなかった。
握られた手は、なぜか少しだけ温かかったけれど、それすらも今の私には、どうでもいいことのように思えた。
(どうせ、これも何かの間違いだわ……)
きっとすぐに、またあの冷たい彼に戻るのだろう。
期待するだけ、無駄だ。
私はそっと彼の手を振りほどき、再びベッドに身を横たえた。
「申し訳ありません、殿下。やはり少し体が怠く……」
「……ああ、そうか。すまない、長居をしすぎたな」
セドリック様は少し名残惜しそうな顔をしたが、素直に立ち上がった。
「また来る。……ゆっくり休むんだぞ」
そう言い残して、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞きながら、私は再び深い溜息をつく。
(やっぱり、疲れる……)
二度目の人生は、ただ眠って過ごすと決めたのに。
どうして、こうも面倒事が舞い込んでくるのだろうか。
あの婚約者の変化は、一体何を意味するのか。
……まあ、いいか。
どうせ私には関係ない。
私は傍観者だ。何が起ころうと、ただ寝ているだけ。見ているだけ。
そう自分に言い聞かせ、私は再び意識を眠りの淵へと沈めていった。
*
セドリック王子の突然の訪問と不可解な宣言から数日。
私は相変わらず、ベッドの上で無為な時間を過ごしていた。侍女たちの心配は日に日に増しているようだったが、もはや気にする気力もない。どうせ最後は断罪されるのだから、今さら体裁を取り繕う必要も感じなかった。
そんな私の予想に反して、セドリック様は本当にまた来た。
それも、ほとんど毎日のように。
最初は花束を持ってきたり、珍しいお菓子を持ってきたり。私が相変わらずベッドから出ず、気のない返事しかしないと分かると、今度は本を持ってきては、そばの椅子に座って静かに読書をしたり、あるいは王国であった出来事を淡々と語ったりするようになった。
「今日は隣国からの使節団が来てな。少し込み入った話になったが、父上がうまくまとめてくださった」
「王立学園で新しい魔法薬学の教授が就任したそうだ。なかなか面白い講義をするらしい」
「庭園の薔薇が、見事に咲いていたぞ。君も気分が良くなったら、見に行くといい」
その声は穏やかで、一周目の彼からは想像もつかない響きを持っていた。
私はほとんど返事をせず、ただ聞いているだけ。時には眠ってしまっていることもあったが、彼は気にした様子もなく、一定の時間が経つと静かに退出していった。
(なんなの、この人……)
内心の戸惑いは、日増しに大きくなっていた。
一周目の彼は、私との婚約などまるで意に介していないようだった。公の場でのエスコートも最低限、会話も儀礼的なものだけ。私が何か話しかけても、上の空で聞いているか、あるいは「忙しい」と一蹴されるのが常だった。
あの冷え切った関係は、一体どこへ行ったのだろう?
彼の言う「守る」という言葉が、どうしても頭から離れない。
まさか……彼も、私と同じように、あの断罪の記憶を持ってここに戻ってきたとでもいうのだろうか?
もしそうだとしたら、なぜ? 原作のセドリックは、悪役令嬢の言いなりになるような、ある意味で単純なキャラクターだったはず。こんな風に、思慮深く、そして……優しくなるなんて、ありえない。
(いや、考えるだけ無駄か……)
そんなことはあり得ない。どうせこれも、何かの気まぐれだ。あるいは、世界の強制力が、また別の方法で私を破滅させようとしているのかもしれない。期待すれば、また裏切られるだけだ。
そう思おうとするのに、毎日のように飽きもせず訪れる彼の存在は、私の決意を少しずつ揺さぶり始めていた。
そんな日々がしばらく続いたある日。
侍女のマリアが珍しく慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
「お、お嬢様! 大変ですわ!」
「……なに? 静かにしてちょうだい」
「そ、それが……その、お嬢様が貧しい人々に寄付をされたという話が、街で評判になっているそうで……!」
「……はあ?」
意味が分からず眉をひそめる。寄付? 私が? 寝て過ごしている私が、どうやって?
「わたくしが寄付など、するわけないでしょう?」
「で、ですが! 確かにヴァーミリオン公爵令嬢オリヴィア様の名前で、多額の寄付が貧民街の教会になされたと……! 皆、お嬢様の慈悲深さに感動していると……!」
侍女は興奮気味にまくし立てる。
その言葉を聞いて、私の脳裏に一人の人物の顔が浮かんだ。
(……セドリック様?)
まさか、彼が? 私の名前を使って?
何のために?
その疑問は、翌日訪れたセドリック様によって、あっさりと肯定された。
「寄付の話、君の耳にも入ったかな?」
彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべて、紅茶を一口飲んだ。
「……殿下が?」
「ああ。君が体調を崩す前に、準備を進めていたことだろう? 私が代わりに手配しておいた。君の優しい気持ちが、多くの人を救っているぞ」
しれっと言う彼に、私は言葉を失った。
前回、私は確かに「オリヴィア」のイメージアップのためにいくつかの慈善活動を計画していた。けれど、それらは全て「偽善」「売名行為」と揶揄され、逆効果に終わったのだ。
それなのに、今回はなぜ?
「……余計なことを」
思わず、低い声が出た。
セドリック様は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「余計なことではないさ。君の本来の優しさが、正しく伝わるようにしただけだ」
「……優しさ、ですって?」
鼻で笑ってしまった。この私が、優しい? 何も知らないくせに、よくそんなことが言えるものだ。
「こんな……寝てばかりいる怠惰な鼻摘み者の私に、そんなものがあるとでも?」
「……オリヴィア」
彼は少し悲しそうに私の名前を呼んだ。
「君は怠惰などではない。少なくとも、私の知る君は……とても不器用で、寂しがりで、そして誰よりも優しい心を持っていたはずだ」
(……なにを、言っているの……?)
彼の言葉は、私の心の奥底に、チクリとした痛みを与えた。
不器用? 寂しがり? 優しい?
そんな風に、私を見ていた人がいたなんて。
「……殿下は、本当に殿下、なのですか?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
セドリック様は私の問いに少し驚いたようだったが、すぐに真剣な眼差しで私を見つめ返した。
「ああ、そうだ。私はセドリック・アシュフォード。君の婚約者だ」
そして、彼は小さく付け加えた。
「……そして、君の幸せを、誰よりも願っている者だ」
その言葉は、嘘には聞こえなかった。
けれど、素直に受け入れることもできない。
私は混乱し、返事もできずにいると、彼はそっと立ち上がった。
「今日はもう下がろう。……だが、どうかこれだけは覚えておいてほしい。私は、君の味方だ」
そう言って部屋を出ていく彼の背中を、私は呆然と見送ることしかできなかった。
(私の、味方……)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
一周目、私の味方など、どこにもいなかった。両親でさえ、最後は私を見放した。信じていた侍女にさえ裏切られ、唯一の心の支えだったはずの婚約者には、冷たく突き放された。
それなのに、今、彼は「味方だ」と言う。
(……信じられるわけ、ないじゃない)
そう結論づけたはずなのに、心のどこかが、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。
それからも、セドリック様の不可解な行動は続いた。
私が関与していないところで、私の評判は勝手に上がっていく。
以前、私が庭師にこっそり渡した傷薬が「令嬢の優しい心遣い」として美談になったり、私が読書好きであることを知った彼が「学問を奨励する聡明な令嬢」という噂を流したり。
もちろん私は何もしていない。ただ寝て、食べて、最低限の応答をしているだけだ。悪役令嬢どころか、貴族令嬢らしい振る舞いすらできていないのに。
極めつけは、王立学園に関する出来事だった。
原作では、オリヴィアがヒロインに対して、学園内で様々な嫌がらせを行うことになっている。もちろん、二周目の私は学園になど行く気はさらさらない。いずれ両親に引きずり出される日が来るかもしれないが、それまでは部屋で寝ているだけだ。
当然、ヒロインや他の原作登場人物とのとの接触もない……はずだった。
しかし、ある日、セドリック様が少し困ったような、それでいてどこか楽しそうな顔で報告してきたのだ。
「リリア・ウッドワード嬢が、君に会いたがっているそうだ」
「……リリア?」
その名前に、思わず体がこわばった。
(ついに来たか……)
この学園ファンタジー乙女ゲーム『星降る夜空のロマンス』の、紛れもないヒロイン。リリア・ウッドワード男爵令嬢。
そして、一周目、私を破滅へと追いやった張本人。
なぜ、彼女が私に?
「なんでも、君が体調を崩していると聞いて、心配しているらしい。それに、君が寄付した教会で奉仕活動をしているとかで、そのお礼も言いたいそうだ」
(……は? ボランティア?)
教会でボランティアなんて、原作のリリアにはそんな設定はない。前回だってそんな様子は見せなかった。それに、私にお礼? あのリリアが?
「……会いませんわ」
即答した。関わるだけ無駄だ。どうせまた、何か面倒なことになるに決まっている。
「そう言うと思ったよ」
セドリック様は苦笑した。
「だから、丁重にお断りしておいた。『オリヴィアはまだ療養が必要な身だ。今はそっとしておいてほしい』とね」
「……そうですか」
「だが、彼女は諦めていないようだったな。『オリヴィア様は素晴らしい方だと聞きました。ぜひ一度お話してみたいです』と、熱心に言っていたよ」
(……おかしい)
何もかもが、おかしい。
リリアの態度も、セドリック様の対応も。
前回とは、何もかもが違いすぎる。
私が寝て過ごしている間に、一体何が起こっているのだろう?
セドリック様は、一体何をしているのだろう?
「……殿下は、一体何がしたいのですか?」
私は掠れた声で尋ねた。
「私の評判を上げたり、リリア嬢を遠ざけたり……。そんなことをして、何になるというのです? どうせ最後は――」
「最後など、来させはしない」
セドリック様は、私の言葉を遮るように、きっぱりと言い切った。
その強い意志のこもった瞳に、私は息を呑んだ。
「私がいる限り、君を悲しませるような未来は、決して迎えさせない。たとえ、運命に逆らうことになったとしても」
(運命……?)
やはり、彼は知っているのか……?
この世界が、ある種の物語に沿って動いていることを。そして、その結末を。
「……なぜ、そこまでして私を?」
「言っただろう? 君の幸せを願っている、と」
彼は少し寂しそうに微笑んだ。
「それに……守りたいものがあるんだ。今度こそ、ね」
その言葉の意味を、私は測りかねた。
彼が守りたいものとは、一体何なのか。私自身なのか、それとも別の何かか。
分からない。
分からないことだらけだ。
けれど、彼の言葉には、無視できない力があった。
(……もしかしたら)
ほんの少しだけ、そう、砂粒ほどの小さな期待が、心の隅に芽生え始めていた。
(もしかしたら、この二周目は、違う結末を迎えられるのかもしれない……?)
いや、だめだ。期待しては。
そう首を振ろうとした時、ふと気づいた。
セドリック様が、私に何か小さな包みを差し出していることに。
「これは?」
「君が好きだと言っていた、湖畔の街の焼き菓子だ。侍従に頼んで、買ってきてもらった」
「……私が、好きだと?」
そんなこと、彼に言った覚えはない。一周目も今回も、彼に、私の好みなど話したことすらなかったはずだ。
セドリック様は、私の疑問に気づいたのか、少し照れたように視線を逸らした。
「……いや、その、君が侍女と話しているのを、偶然、耳にしたことがあってな」
(……偶然?)
本当に、そうだろうか。
まるで、私のことをずっと見てきたかのような口ぶり。
私は無言で包みを受け取った。ずしりとした重みと、甘い香りが鼻をくすぐる。
「……ありがとうございます」
掠れた声で、なんとか礼を言う。
セドリック様は、私の返事に少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして。……ああ、そうだ。そろそろ夜会の季節だな」
彼は窓の外に視線を向けた。
「今年の建国記念の夜会は、例年より盛大に行われるらしい。……もし、君の気が向くなら、だが……私と一緒に出席してくれないだろうか?」
夜会。
原作では、その夜会でオリヴィアがヒロインにワインをかける (濡れ衣を着せられる) というイベントが発生するはずの場所。一周目も、私はそこで決定的な失態を演じ、破滅への道筋を確固たるものにしてしまった。
行きたくない。絶対に。
そう断ろうとした。
けれど――。
私の隣で、期待と不安が入り混じったような顔で答えを待っているセドリック様の姿を見ていると、なぜか「嫌だ」とは言えなかった。
(……この人の隣にいれば、本当に、何かが変わるのかもしれない)
そんな、馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「……考えて、おきますわ」
それが、今の私にできる、精一杯の返事だった。
*
セドリック様からの夜会への誘い。
それは、私の「寝て過ごす」という決意を、いよいよ揺るがすものだった。
夜会。
思い出すだけで胃がキリキリと痛む。一周目のトラウマが鮮明に蘇る。
ヒロインのリリアに、わざとらしくぶつかられ、手に持っていた赤いワインが彼女の白いドレスにかかる。周囲の驚愕と非難の視線。弁解しようとしても、誰も聞く耳を持たない。そして、セドリック様からの冷たい一瞥――。
(行きたくない……関わりたくない……)
けれど、セドリック様のあの真剣な眼差しが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼もまた、記憶を持っているのだとしたら。
あの夜会で何が起こるかを知っているはずだ。それでもなお、私を誘うということは、何か考えがあるのかもしれない。
(……考えすぎだわ。どうせまた、同じことの繰り返しよ)
そう自分に言い聞かせる。期待は禁物だ。疲れるだけだ。
それでも、心のどこかで、セドリック様の言葉を信じてみたいと思っている自分もいた。あの温かい手、優しい眼差し、そして時折見せる、どこか必死なような表情。あれは、演技なのだろうか?
悶々とした日々を過ごすうちにも、セドリック様は相変わらず私の部屋を訪れた。彼は夜会のことを急かすでもなく、ただ穏やかに、他愛のない話をして過ごした。その態度が、かえって私の心を乱した。
「オリヴィア、庭の白いライラックが満開だぞ。窓から見えるかい?」
「……ええ、少しだけ」
「そうか。君は白い花が好きだったな」
「……私が、いつそんなことを?」
「ん? ……ああ、いや、なんとなく、そう思っただけだ」
まただ。彼は時々、私が言ったこともないはずの私の好みを知っているかのような口ぶりをする。そして、指摘すると慌てて誤魔化すのだ。
(やっぱり、何か知っている……? 私のこと、一周目のこと……?)
疑念は深まるばかりだった。
そんなある日、侍女が興奮した様子で、一通の手紙を持ってきた。差出人は、なんとリリア・ウッドワード嬢からだった。
「お嬢様! リリア様からのお手紙ですわ! なんて書いてあるのかしら?」
「……開けなくていいわ」
反射的にそう言ったが、侍女は「でも!」と食い下がる。仕方なく、私は重い溜息をついて手紙を受け取った。
封を開けると、そこには丁寧な文字で、私の体調を気遣う言葉と、先日セドリック様を介して断られた面会を、改めてお願いしたいという旨が書かれていた。そして、最後にこう付け加えられていた。
『もしご迷惑でなければ、近々開かれる建国記念の夜会で、少しだけでもご挨拶させて頂けませんでしょうか? オリヴィア様の素晴らしいお噂はかねがね伺っております。ぜひ、直接お目にかかりたいのです』
(……素晴らしい、噂?)
セドリック様が裏で手を回している、例の「評判アップ作戦」のことだろうか。それにしても、あのリリアが、私にそんなことを言うなんて。一周目の彼女は、私に対していつも怯えたような、あるいは敵意のこもった視線を向けていたのに。
(これも、セドリック様の仕業なの?)
だとしたら、彼は一体どこまで計算しているのだろう? リリアを懐柔しようとでもしているのだろうか?
いや、原作のリリアは、そんなことで靡くような単純なヒロインではなかったはずだ。
むしろ、高位貴族からの不当な扱いに反発し立ち向かう、芯の強い少女だった。
(……もしかして、リリアも……?)
ありえない、と思いつつも、その可能性を完全に否定できない自分がいた。この世界では、何が起こっても不思議ではないのかもしれない。
手紙を握りしめたまま、私は考え込んだ。
夜会。リリアからの接触。そして、セドリック様の存在。
点と点が、繋がりそうで繋がらない。
もし、本当にセドリック様が私を守ろうとしてくれているのなら。
もし、リリアの態度も、彼の働きかけによるものだとしたら。
そして、もし……万が一、一周目とは違う未来があるのだとしたら。
(……試してみる価値は、あるのかもしれない)
寝て過ごすだけでは、何も変わらない。
どうせ断罪されるのなら、最後に一度だけ、この不可解な状況に身を任せてみるのも……。
「……マリア」
「はい、お嬢様」
「夜会に出るわ。準備をしてちょうだい」
「えっ!? よ、よろしいのですか!?」
驚く侍女に、私は頷いた。
「ええ。少し、気が変わったの」
この決断を、後で後悔するかもしれない。
でも、今はもう、ただ傍観しているだけではいられなくなっていた。
のちに私の返事を聞いたセドリック様は、一瞬、信じられないというように目を見開いた後、破顔した。それは、今まで見たどんな笑顔よりも、心からの喜びを表しているように見えた。
「本当か、オリヴィア! ああ、嬉しい……! 必ず、素晴らしい夜にしてみせるよ!」
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけた。その熱のこもった眼差しに、私は少し気圧されながらも、不思議と嫌な気はしなかった。
夜会当日まで、セドリック様は甲斐甲斐しく準備を手伝ってくれた。ドレス選びからアクセサリーの選定まで、彼は驚くほど的確なアドバイスをくれた。まるで、私の好みを完全に把握しているかのように。
「この青いドレスなどどうだろう? 君の白い肌によく映えると思うのだが」
「こちらのパールのネックレスは、君の瞳の色と合っていて素敵だ」
その度に、私は「なぜ私の好みを?」と問い詰めたくなる衝動に駆られたが、その度に彼は「君に似合うと思っただけだ」と、はにかむようにはぐらかすのだった。
そして、迎えた夜会当日。
用意されたのは、夜空のような深い青色のシルクのドレス。繊細な銀糸の刺繍が施され、星屑を散りばめたようにキラキラと輝いている。アクセサリーは、彼の言った通り、月の光を思わせる柔らかな輝きのパールを選んだ。
鏡に映る自分の姿は、一周目とはまるで違うように見えた。あの頃は、派手で威圧的なドレスばかりを着せられていた。けれど、今の姿は、どこか儚げで、それでいて凛とした気品を感じさせる。
(……悪くない、かもしれない)
隣には、白銀の軍服に身を包んだセドリック様が立っている。普段の穏やかな雰囲気とは違い、王子らしい威厳と華やかさを纏っていた。彼は私の姿を見ると、感嘆の息を漏らした。
「……綺麗だ、オリヴィア。まるで、夜空の女神のようだ」
その真っ直ぐな称賛に、私の頬が少し熱くなるのを感じた。
会場へと向かう馬車の中で、私は緊張を隠せずにいた。
「大丈夫だ」
セドリック様は、私の手をそっと握りしめた。
「今夜は、私がずっとそばにいる。何があっても、君から目を離さない」
その温かさと力強さに、私は少しだけ、心を落ち着けることができた。




