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ティタン アッズワースの戦士隊  作者: 黒色粉末
猛き風、真紅の太陽
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猛き風、真紅の太陽6


 光の中でティタンはマトの悲鳴を聞いた。

 かの悪神は悲鳴すらも楽しげに放つ。ティタンには理解できない。


 マトには何処までも余裕があるように思えた。そんな筈はない。

 笑いたければ笑っていればいい。牡鹿の剣が貴様を貫くその瞬間まで。



 地面が激しく揺れた。先程まで踏みしめていた場所が崩れた。


 激しい轟音。ティタンは隣のゼタの腕を握り締めたまま何処までも深く転がる。


 光は失われ闇が満ちる。何も見えない一面の虚無の中を、只管に落ちていく。


 『あはは、あはははァーッ!!!』


 喧しい哄笑だった。ゼタが喚いた。


 「落ちる! ここは何処?! 私達は一体何処へ?!」

 「知るか! マトと戦えるならば何処へだって落ちてやる!」

 「マトの世界は、地獄の穴とも繋がると!」

 「向かう先が地獄であろうと、英霊達が共に戦ってくれる!

  うおあぁぁぁぁぁ!!」


 どれ程深くまで落ちたのだろうか、もしこれほど高い谷があったとしたら、五体が砕け散るであろう程の高さを落ちた。


 落下は唐突に止まった。着地したような感覚は無かった。


 一瞬前まで強い風を全身に感じていたのに、気が付けばティタンは膝を着いていた。


 急激な状況の変化に脳が混乱していた。無理に立ち上がったティタンは思わずよろめく。


 「墜落死なんて間抜けな死に方じゃなくて良かった」


 しかしこれは……。

 闇だ。それだけだ。


 ティタンは闇の中に立ち、闇を踏み締めていた。そうとしか言い様が無い。

 それ以外の何も、此処には存在しない。地面すら定かでなく、ただ何となく平行だと感じるだけだ。


 ぼんやりとティタンとゼタの身体が光を放つ。

 ティタンは息絶え絶えなゼタを立たせ、周囲を見渡した。


 「マト」


 ずるずると何かが動く音がする。

 湿った音だ。蛇の腹が濡れた土を擦る時の音に似ている。


 『ティ・タン』

 「……追い詰めた」


 ティタンは声の聞こえて来た方向に向き直った。

 己の血に濡れた紋章旗を左手に纏わせ、盾のように構える。


 「やっとな」


 紋章旗の放つ光に照らされ、マトは姿を現した。


 闇の中でのたうつ、全貌明らかならぬ蛇。しかし爬虫類めいた艶かしさは無く、鱗はからからに乾き切り、罅割れている。


 頭の位置に女の上半身が佇んでいて、それはティタン達を挑発している。


 髑髏の兜。裂けた口。六つの腕。裸体は煤を摺り込んだかのように黒く汚れている。


 異形であったが、ティタンは寧ろ拍子抜けした。

 蛇女。充分人間に想像し得る化物だった。


 煤色の霧は払われた。”密議、姦計、策謀の神”と言う幻想はその正体暴かれたのだ。後は滅びるのみ。


 「お前の姿を記した文献は多くなかった。そしてその僅かな文献も、間違いだったようだな」

 『人間は、マトを見る事など出来ない。マトは霧。マトは覆い隠し、誘う者。マトは……闇』

 「闇? 太陽は闇を駆逐した。古き神アーヴァルの死と共に。お前では務まらん」

 『お前達はそう信じている。お前達にとってはレイヒノムの言葉こそが全て。だがマトは知っている、神々の愚かな約定を』

 「……何を言ってる」


 ゼタが膝を笑わせながらティタンの傍に立った。


 「あれの言葉に耳を貸しては駄目」

 「どのような言葉も、謀りも、俺の剣を止められん」


 うふ、うふふ、とマトの裂けた口から漏れる薄笑い。


 『太陽はいつまでも天に無い。アーヴァルは己の役目を忘れていない』

 「首だけになった闇の神に何が出来る。まさか甦るとでも?」

 『マトはほんのひととき、その権能を預かっているに過ぎない』

 「これは驚きだ」


 言葉を通り受け取るならマトはアーヴァルの権能を受け継いでいる事になる。


 闇の権能と言ってもティタンはそれがどのような物なのかは知らない。

 しかし天を突く巨神アーヴァルの口腔が異世界へと繋がっており、そこから己の手勢を次々吐き出したと言う神話は知っている。


 マトの、いや、マトのみならずシンデュラ、カヴァーラ達の異様な攻め手。

 その権能あっての物か。


 「”愚かな約定”とは何だ」


 マトの裂けた口がギィィと歪んだ。


 『お前達は只管に滑稽だ』

 「直ぐに笑えなくしてやる。……答えろ」

 『何を案じる事も無い。これ以上は知ってもどうにもならない』

 「この蛇女……勿体ぶっておいて」

 『だってお前達は、マトの人形になるのだ。

  幸福の内に千年の時を戦い、マトを楽しませる、可愛い人形に。

  そうして、そうして、その先に、お前達は漸く、お前達の住まう大地がどう言う物なのかを目にする事が出来るだろう』


 ティタンは大きく息を吸い、吐いた。

 戯言は充分過ぎる程に聞いた。挙句この言い草。


 「お前は必死に余裕を取り繕っている。無駄な虚勢を。

  まやかしも、虚言も、俺には通じん」


 もう沢山だ。


 「女神パシャスと、英霊達の加護ぞある!」

 「ティタン」

 「やるぞ、ゼタ!」


 剣を一振りし、身構える。

 紋章旗は力強く光り輝いた。


 ティタンは駆け出した。一歩一歩大きな歩幅で、半ば跳ねるような走り方だ。


 マトは少しも動かない。裂けた口を歪め、ティタンを嘲笑うばかり。


 多くの神々よ、多くの英霊よ。

 そしてヴァン・オウル・アッズワース、同胞よ。

 血の繋がらぬ兄弟よ、生まれも育ちも違う家族よ。


 ティタンは祈り、闇を踏み締め、高く飛んだ。


 「Aaaaaaaa!!」


 目に見えぬ壁がそれを阻む。衝撃も何も無く、空中でティタンは身体の自由を奪われた。


 「小賢しい!」


 ティタンの背が熱を持つ。パシャスの吸い付いた痕が身体を疼かせる。

 進め、進め、と誰かが命令している。


 力任せに身を捩れば、ティタンを束縛していた”何か”が霧散した。


 『お前に』


 何か口走るマトの左の乳房向けて牡鹿の剣を突き出す。

 マトの六腕の内、一本がそれを遮るように振り下ろされた。


 剣はマトの手を貫通するも、その心臓を目前にして止まった。

 マトに残された五本の腕がそれぞれティタンを締め上げる。


 『流れるのはパシャスの血か。漸く分かった』

 「かぁッ!」


 背が燃える。旗が震える。ティタンは気勢と共に剣に力を込めた。


 マトの指が飛ぶ。抉られた掌から溢れ出すのは、血ではなく泥に似た何かだ。


 『ひああ! あははぁ!』

 「この蛇女! お前など恐れないわ!」


 悲鳴か哄笑か分からない声を上げるマト。ゼタが残された僅かな力を振り絞り、炎の蛇を操った。

 それはティタンを締め付けるマトの腕を焼き焦がす。


 『嘘だ』


 ティタンを放り出し、マトは抉られた手に長い舌を這わす。

 そこから溢れる泥のような何かが盛り上がり、指が復活した。


 他の腕も同様だ。じゅくじゅくに爛れた腕が一瞬にして元通りになる。


 『お前はマトが恐ろしいのだ』

 「何を」

 『でもお前は、自分の娘の事をもっともっと恐れている』

 「煩い!」


 炎の蛇が荒れ狂う。ゼタの額には脂汗が滲み、息は上がり、膝は震えている。


 しかしゼタの執念は尽きない。罅割れた頬から肌の欠片が落ちる。

 絞められた鶏のような声でゼタは鳴いた。


 「お前達なんて!」


 ゼタは再び猛烈な吐き気を催していた。


 こいつが!

 こいつらが! 私の娘を死後まで苦しめた!

 やっと安らげたシグを! 邪悪で下劣な魔術具に!


 燃えろ、燃えろ、とゼタは叫んだ。燃えて消えろと、只管に憎悪を込めた。


 『お前は娘から愛していると言われた事が無いのだ』


 その声は背後から聞こえた。

 ゼタは混乱した。マトは自分とティタンの目の前で、炎に炙られて踊り狂っている筈だった。


 「ゼタ、惑わされている!」


 ティタンが怒声を上げてゼタに走る。ゼタは背後から六本の腕に抱き締められていた。


 マトは、私の記憶が読める。

 それを理解した時、ゼタの全身に怖気が走った。


 「……私の中に入らないで!」

 『お前の魔力は常に娘を苦しめた。シグは思っていた、痛い、恐いと』

 「ソイツの言葉に耳を貸すな!」

 『お前はいつ、シグの母親だったのだ?』


 ティタンがマトの脇腹を狙う。矢張りマトは避ける事すらせずそれを受けた。


 マトの右脇腹に深々と突き刺さる剣。悲鳴のような哄笑。或いは哄笑のような悲鳴。

 兎に角耳障りに鳴いて、マトはゼタを解放する。ティタンの剣などまるで気にする事もないと言いたげだった。


 だが、それも虚勢。

 最初の一合、マトは明らかに急所を庇った。


 「ゼタ! シグがお前を愛さなかった筈はない!」


 ティタンの背後に庇われながらゼタは嘔吐した。この短時間に、何度目かも分からなかった。


 『お前達が身悶えするのが、堪らぬ。

  お前達が泣き叫ぶのが、堪らぬ。

  ティタン、今度は、お前の啼く声が聞きたい』

 「俺が泣くとしたら、貴様を殺し喜びに咽ぶ時だ!」

 『ほぅ』


 ティタンの目の前でマトは六腕を大きく開き、そしてそれを打ち合わせた。

 拍手の音が三つ響く。ティタンは訝しんだが直後マトの行動の意味を理解した。


 全ての音が消えていた。自らの呼吸音や心臓の音まで。

 背後を振り返ればゼタが何事か叫んでいる。当然のようにそれも聞こえない。


 如何なる幻惑の魔術か。


 「(惑うな。地に足を着けろ)」


 にやにや笑うマトを睨み据え、ティタンは無音の世界で剣を構え直す。


 「ティタン、久しいな」


 そしてその無音の中にぽつりと声が響いた。忘れようの無い声だ。

 ティタンの目の前で泥が蠢き人型になる。


 ティタンはほぅ、と息を吐き、次いで歯を剥き出しにした。


 密議と姦計を司る神とはこのような下策を弄するのか。


 「私だよ」


 流れる蜂蜜色の髪。きりとした眉。凛々しい笑み。


 アメデューだ。記憶の中の美しい姿のまま。


 そしてティタンはアメデューが更に何か口にする前にその首を刎ねた。


 途端、ティタンの世界に音が戻る。崩れ落ちるアメデューの身体は泥の塊に変わっていた。


 「俺には通じん」


 彼女の魂は英霊の座に昇った。

 もしかしたら、この紋章旗と共にあるかも知れない。惑いはしない。


 だがこの俺に。

 他でもない彼女に、剣を向けさせたな。


 『少しも怒らないのか? もっともっと、マトが憎いと思わないのか?』


 ティタンはずしりと一歩踏み出す。マトはもう一度手を打ち鳴らす。


 再び音が消え、目の前で泥が蠢く。


 生意気そうな傷面が苦しげに歪んでいた。生前、奴はこんな情けない表情をした事は無い。


 ロールフよ。


 「冗談じゃねぇ、痛ぇ」


 膝を突いたロールフ……に擬態した泥は、みっともなく喘いだ。


 「こんな筈じゃ無かった。俺は、まだ」


 その先を言う前にティタンは喉首を貫いた。泥はロールフの形を失い闇の中に消える。


 再び音が戻る。ティタンは更に一歩踏み出す。ロールフが意地でも弱音を吐かないのを、ティタンはよく知っている。


 「どれ程怒りを感じても、切先が震える事はない」

 『そうか。お前の言葉は本物だ。お前は躊躇しない。恐れもしない。お前は只管に恐れられる側だ』


 では、と更にマトは六腕を広げる。


 『お前が剣を向けているのは誰だ?』


 ぱちんと妙に軽い音の直後、みたび無音の世界が訪れる。


 ティタンは一瞬だけ平衡感覚を失った。すぐさま体勢を立て直すも状況の異常さに気付く。


 目の前には這い蹲り、唖然とティタンを見上げるゼタが居た。ティタンはゼタに向かって剣を向けていたのだ。


 背後を振り返れば闇の中にぼんやりと浮かび上がるマトが見える。マトは矢張りにやにやと笑っている。


 『お前は誰を殺すのだ?』


 ティタンはゼタに向き直り全く躊躇せず牡鹿の剣を繰り出した。


 ゼタの胸を貫く剣。奇妙な音がしてまたもやティタンは平衡感覚を失う。


 何とか踏み止まり、目の前に居たのは煤で汚れた異形の女。

 ゼタを貫いた筈の剣はマトの腹に突き刺さっている。


 その悪神の口は唖然と開かれていた。ティタンは髑髏の兜に隠された奴の驚愕の表情を見たくて見たくて堪らなかった。


 『な……』

 「何度言えば分かる」

 『何故、惑わない』

 「お前の詐術、俺には通じんと!」


 ティタンは深々と突き刺さった剣に力を篭め、上へと薙いだ。


 マトは絶叫した。これまでの哄笑交じりのそれとは明らかに違う悲鳴だった。


 『おぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 「さぁマト、悲鳴を上げろ……! お前は刺客が現れるたびに期待したと言ったな?

  喜ぶがいい、俺達は必ずお前を殺す!」


 何時の間にかゼタがティタンの傍に這いずって来ていた。

 彼女はティタンを支えに立ち上がり、ぼろぼろになった手を牡鹿の剣に添える。


 「この世の誰も、お前の存在を許さないわ……!」


 紋章旗が青い光を放つ。ティタンとゼタは同時に力を篭めた。


 『人間の刃でマトは!』

 「そうだ、死ぬ!」

 『そんな訳が無い! パシャス、奴の水の流れを感じる! 忌々しい竜眼の旗! レイヒノムめ!』

 「多くの神々は傲慢と侮りから敗れ去った! マト、お前もその仲間入りだ!」


 おぎゃぁ。マトは再びそう啼いた。煤塗れの身体から霧が溢れ出す。

 しかしゼタが小箱を掲げる。小箱は激しく震えたかと思うと、ティタンとゼタを取り巻こうとした霧を吹き飛ばした。


 マトは身を捩る。六腕がティタンを打ち据える。

 怯みはしない。必ず殺すと誓った相手が必殺の距離に居る。

 例え八つ裂きにされたとしても、剣を手放す事は出来ない。


 『マトは、マトは』


 マトは蛇の尾を撓らせ身悶えし、激しく暴れて逃げ出そうとする。


 紋章旗が瞬く。青白い影が飛び出してマトを拘束した。


 『ティタン様、貴方の御傍に』


 筆頭巫女だった。ティタンは更に気勢を上げ、更に強く力を篭め、更に深く剣を突き刺した。


 『マトは霧! マトは闇! マトは! ウルルスンですら、マトを殺せないのに!』


 ティタンは声を出して笑った。


 マト? 霧? 密議と姦計の神? 自信と言う物を持たないだと?


 死ぬが良い! この世に永遠不滅の物は無い!

 お前の薄ら笑いこそ、お前の死の原因だ!


 己が権能に酔い、戦士の剣を侮ったが為に、お前は滅びる!


 『おぎゃぁぁ! マトは、今!』


 闇の世界が激しく揺れた。縦も横も無い世界のあちこちに亀裂が入っていく。

 マトの領域が罅割れ、闇が暴かれていく。


 そして亀裂からは青い炎が噴き出した。その罅割れは広がり続け、青い炎が世界を満たす。


 『死者の川よ、溢れ出よ!』

 「ゼタ! これは?!」

 「地獄の最も深き谷の青い炎よ! マトの伝承は真実だった! この世界は地獄の奥底に通じている!」

 「竜のブレスだ!」

 「竜?!」


 マトは啼いた。啼いて、啼いた。

 己が魔力を叩きつけようと腕を振り上げるのだが、青い光が瞬いたかと思うとマトの力を跳ね返す。


 古来よりあまねく生者を己が思い通りにしてきた魔力と権能が通用しない。


 マトはもう一度啼いて、そしてティタンとゼタを抱きすくめた。

 この二人を、地獄の穴への道連れにしようと。


 『何も変わりはしないのに! マトが死んでも闇は消えない!

  太陽ある限り、レイヒノムある限り! 人は結局、我等神々の人形に過ぎない!』

 「お前の御託は聞き飽きた!」

 『お前も所詮はパシャスの玩具!』


 ティタンとゼタは剣を更に上に引き上げた。引き裂かれた柔肌から毀れ出る泥と神の臓腑。


 硬い物を圧し折る感触がした。神にも骨はあるのだな、と思った。


 そして剣が心臓に達する。マトは無様に泣き叫ぶ。


 『――マトが死ぬならお前達も死ね!』


 そうして、マトの闇の世界は崩れ落ちた。



――



 きゃらきゃらと子供の笑い声が聞こえた。



 ティタンは目を開いた。水の中をたゆたっていた。


 邪悪な物は感じなかった。しかし現実とは思えない、夢中を彷徨う感覚。


 これはパシャスの水か? 優しげに身体を撫ぜる水流。薄暗い中、頭上に光が見える。


 ティタンはその光に手を伸ばした。水流が彼の身体を持ち上げ、現世へと引き戻した。


 「駄目よ、シグ」


 ゼタの穏やかな声がする。今までに聞いた事が無い様な、甘い声だ。


 果たして其処はパシャスの聖域で間違いない。聖水を湛えた水の祭壇と薄暗い部屋。


 周囲の石床に水が飛び散っている。薄暗闇の中に目を凝らすと、銀の髪の親子がじゃれあっていた。


 「ほら、ね? 良い子だから」


 パシャスは何処だ。気配はあるが、姿が見えない。


 ティタンは水の祭壇の縁に手を突き、身を起こす。


 「…………マトは殺ったのか?」


 手応えはあった。奴の悲鳴を間違いなく聞いた。


 しかし自分達はどうやってあそこから生還した? そもそもマトは本当に死んだのか?

 呆気ない戦いでは決してなかった。しかし一抹の不安も確かにあった。


 だが何にせよ


 「……ゼタ、死者と戯れるな」


 ゼタは応えない。ティタンは祭壇に広げられた紋章旗に気付く。


 竜眼の紋章旗には、死者の魂に関わる全く偉大で不可思議な神秘が篭められている。

 旗の青き光が、シグの存在を許しているのか。


 「ゼタ」


 銀の娘シグが水の祭壇の中で跳ね回り、ゼタに向かって水を掛ける。


 それを笑って浴びながら泣き笑いの表情でゼタは言う。


 「叱れないの」


 水飛沫に紛れて眦から涙が零れた。黒ずみ、枯れ、罅割れた彼女の全身。

 其処を伝って水の祭壇へと吸い込まれていく。


 「この子が笑う所を見ていたら」

 「……シグをあるべき所へ。あるべき姿へ」

 「駄目なの。この子が真直ぐ私を見上げてきたら、何でも言う事を聞きたくなっちゃうの」


 水を波立たせ、ティタンはゼタへと近付いた。


 途端にシグが豹変する。目を赤く輝かせ、歯を剥き出しにし、ティタンを睨みつける。


 黒い霧がティタンを襲った。まず左手が急激に重くなり、蜘蛛の巣状の蚯蚓腫れが走る。


 ……が、かかる端からそれは消え去る。ティタンの中を流れるパシャスの水が、如何なる呪いも跳ね返すのだ。


 「駄目! シグ、止めなさい!」


 ゼタがシグを押し倒した。水の祭壇の中でゼタは泣き、シグはそれを見上げている。


 ティタンは怒鳴った。


 「パシャス! お前は見ているだけなのか! こいつは契約を果たした」


 パシャスは直ぐに顕現した。余裕の表情だった。


 シグを抱き締めて泣くゼタの背を、まるで母のように抱き締め、パシャスは囁いた。


 『我に任せよ。お前の娘、決して悪いようにはせぬ。必ずやお前と再会させよう』


 ゼタの罅割れた頬からぼろぼろと肌の欠片が剥がれ落ちる。

 マトから受けた呪いは特に左半身が酷い。左手の中指と薬指は、とっくに崩れ落ちて無くなっている。


 『お別れを言いなさい』


 ゼタはカチカチと歯を鳴らしながらシグに言った。


 震えていて、最初は殆ど言葉になって居なかった。


 「――ごめんねぇ」

 「ごめんねぇ、守ってあげられなくて、一緒に居てあげられなくて、ごめんねぇ」


 シグは真直ぐゼタを見詰めていた。



 「普通に産んであげられなくて、ごめんねぇ」



 シグは何故かにっこり笑い、ゼタに向かって何事か言う。


 そして、水に溶けて消えた。


 「あぁ、あぁぁ……! うわぁぁぁぁ!!」


 泣きじゃくるゼタの背を、パシャスは暫く撫でていた。


 そしてゼタはティタンに微笑み掛ける。


 「ありがとう、ティタン。そして偉大な女神よ」

 「ゼタ、その時が来た」

 「決して忘れないわ。……貴方達がしてくれた事を」


 祭壇の水底から黒い小箱が浮き上がってくる。

 それを丁寧に掬い上げるパシャス。ゼタは目を閉じ、ティタンの前にボロボロの裸体を曝け出した。


 ティタンは剣を構えた。



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