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煤色の霧5



 部屋の中で震えていたオーメルキンをティタンは無表情で見下ろしていた。

 毛布に包まり震える彼女をスワトとタボルが介抱している。物言いたげな筆頭の視線を無視してティタンはオーメルキンに問い掛けた。


 「霧の中にゼタが居たんだな」

 「うん」


 オーメルキンは歯をガチガチと鳴らしていた。青褪めた顔でティタンを見上げる。

 筆頭がティタンに耳打ちした。


 「……小箱の呪いをこの娘は感じ取れるのです。今ロールフ殿には小箱の贄となった者が取り憑いています。メルキンにはそれが見えてしまう」

 「それがコイツを部屋に閉じ込めている理由か」

 「ロールフ殿を神殿にお招きしたく思います。残された僅かな時間を、心安らかに……」

 「駄目だ。奴の最期は、奴に選ばせろ」


 ティタンは筆頭を下がらせてオーメルキンに近寄る。


 「ティタン」

 「あぁ」

 「ロールフが」


 オーメルキンは顔をくしゃくしゃにして泣き出した。息もまともに吸えない有様だった。


 「馬鹿ロールフが……死んじまうよ……」

 「……ゼタは奴に何をした?」


 オーメルキンの口から出たのは弁明だ。彼女はゼタが殺意を持っていなかったと信じている。


 「……弾みだったんだ。ロールフもゼタも、互いを殺す理由なんて無かった」

 「なら何故ロールフは?」

 「ロールフがゼタを押さえ付けて……、こ、小箱は二つあったんだ。ロールフがそれを取り上げようとしたら……」

 「当然抵抗する筈だ」


 ティタンの声音は常に厳しい。


 「ゼタが凄く、凄く怒ったんだ。小箱の片方を取り返そうとした。で、でももう一つの方には目もくれなかった」

 「一つだけ?」

 「ゼタが炎の魔法を飛ばす前に、ロールフがゼタの肩を斬って、そしたらゼタの持ってた小箱が鳴いた」


 鳴いた、と言う表現にティタンは眉を顰める。


 「こ、子供の声だった。泣き叫ぶ声が聞こえて、そしたらロールフが」

 「ロールフは死ぬ。ゼタのせいで」

 「…………違うよぉ……」


 オーメルキンの顔は涙と鼻水で酷い有様になっていた。ティタンはオーメルキンの意味を成さない泣き言を黙って聞いてやった。


 「や、やだよぉ……そんなのやだよぉ……」


 タボルがオーメルキンを強く抱き締めた。


 「やだよぅ……」


 ティタンは踵を返して部屋を出た。筆頭が後ろに続く。


 「後十年あれば、ロールフは優れた戦士として名を轟かせただろう。歴史に名を刻んだかも知れん」


 ティタンの唸るような言葉を筆頭は黙って聞いている。二人はヴァノーランの館の一階に降り、そのまま玄関へと向かう。

 途中、暖炉の前で変わらず酒を呑み豪放に笑っているロールフに視線をやる。傷面の戦士は目前に迫った死に怯えることもせず、只管仲間達と下品な笑い話に興じている。


 外に出れば雪と風が勢いを増していた。ティタンは夜空を睨み付け、唸った。

 奴は変わらぬ様子で平然と酒を呑んでいる。死への恐怖も、ゼタへの恨みも、欠片ほども態度に出さない。


 ティタンは知らず知らずの内に握り拳を作っていた。


 「クラウグスの戦士は」


 決意表明である。


 「必ず報復する」


 背筋に寒気を覚える程の怒りだ。それを目の当たりにした筆頭が恐れを滲ませる声で言う。


 「……我々が必ずやゼタを探し出します」

 「ゼタは霧の中に居る筈だ。マトの煤色の霧の中は、この世と異なる別の次元だと聞いた」

 「その可能性はあります。……もしゼタが未だ人間のままだったとしても、霧の中に隠れるのはマトにとって盲点の筈です」


 筆頭巫女はアッズワースに立ち込める霧を払う力を持っている。彼女は要塞の至る所を駆け巡り、霧とその中に徘徊する魔物を打ち払っているのだ。

 ティタンの要求は至極当然だった。


 「俺を霧の中へと導け。お前ならば出来る筈だ」

 「危険です」

 「この要塞に危険でない場所があるか?」

 「ティタン様、マトは貴方を目の敵にしている筈です。シンデュラの威勢を削ぎ、アークオーガを討ち取った貴方は、今やアッズワース防衛の要の一つ」


 ティタンは筆頭の言葉の裏に隠れていた事情を察した。

 これまでも薄々勘付いては居た。今更と言えば今更だった。


 「俺がマトの直接の標的になっていないのは、お前達が守ってくれていたからか」


 筆頭は沈黙する。


 「案内しろ。三度は言わない。拒むなら俺だけでも探し出す」



――



 一夜明けた。ティタンは神殿へと導かれ、そこで沐浴を行い、多くの信徒達に聖句を捧げられた。


 巫女達はティタンを裸にしてその身体に満遍なく灰を擦り込んで行く。脇の下、陰部を問わず全身に。


 「歴代の巫女達の遺灰です。霧の魔物達からティタン様を守ってくれるでしょう」

 「……申し訳ない気持ちもあるが、力を貸してもらうとするか」


 遺灰とそれに混ぜられた塩。ティタンは全身真白に染められ、その上から鎧とマントを纏い、更に其処にも灰と塩を掛けられる。


 「英霊よ、加護を与えたまえ」


 ティタンは祈りを捧げ、一欠片の骨を口に含み岩塩と共に噛み砕く。

 歴代の巫女の遺骨を利用しているのは自分もマトの下僕も同じだ。忌諱感があった。



 神殿を出て要塞西地区に赴けば奇妙な霧が立ち込めていた。周囲ではティタンとも関係の深いセリウ家ストランドホッグ兵団の者達が警備と人払いを行っている。

 パシャスの信徒達は神殿に避難してきた人々を守るので精一杯だ。ストランドホッグはティタンの要請で今回の件に協力してくれていた。


 ティタンが不気味な霧を眺めていると、ディオ・セリウが腹心のフォーマンスを伴って現れる。

 ディオは灰と塩で真白になったティタンに少しばかり驚いた様子だった。


「……古いまじないかしら。重要な情報に関して市民には箝口令を敷いていたようだけれど……貴方の様子を見る限り、それもここまでね」

 「ディオ、協力感謝する」

 「アッズワースって所は本当に退屈しないわ。黒い人狼、オーガの大群、少し暇になったと思えばこの霧。それら全てと戦ってきた我がセリウ家は……そうね、名誉功労勲章程度は堅いかしら」

 「勲章で満足か? 欲がないな」

 「ティタン、私はこの苦境を切り抜けたい。詳しい話は聞いていないけれど、今回のこれで何か成果が得られると思って良いのね?」


 ティタンは灰と塩でざらつく頬に指を這わせながらディオに問う。


 「そのつもりでいる。だがその前に、アンタにはゼタについて聞きたい」


 パシャス教は魔導師ゼタを追っていたが、それに関しては要塞でも一部の者しか知らない。

 要塞の無骨な戦士達はマトの闇の力に対して余りに無力だ。それらには常にそれ専門の者達、パシャスの神官戦士達が対峙してきた。役割分担である。


 先走った者達によって被害が増えるのを防ぐためだ。しかし事態はティタンの我慢できる限度をとっくに過ぎていた。


 「彼女は何者だ」


 存外素直にディオは答える。こういう状況で無意味な質問をする男ではないと知っているからだ。


 「……少しばかり遠いけれど親戚筋よ。セリウ傍流オラド家の出身で、幼い頃は様々な事を教わったわ」

 「娘が居たそうだな」

 「名前はシグ。残念だけれど幼いころに……。魔力を持つ者の子だけが稀に罹患する奇病らしいわ。彼女も御息女の為に力を尽くしたようだけれど」

 「助からなかったか。……ディオ、アンタから見てゼタはどんな人物だ? 悪神に魂を売り渡すような愚か者に見えるか?」


 ディオは非常に、非常に険しい顔をした。


 「彼女は理性的で、とても優しい人よ。……彼女が今の状況に関係しているの?」

 「そうだ。奴は今この霧の何処かに潜んでいる」


 ティタンとディオは霧に包まれた一帯を見回した。恐ろしげな雰囲気にストランドホッグの兵達も緊張を隠せない。


 「彼女はそんな事はしない。……と、思いたいわね」

 「……分かった。参考にする」


 ティタンは筆頭を伴い、霧の深い路地に向けて足を出す。


 背後からディオが呼び掛ける。その隣でフォーマンスが敬礼している。


 「ティタン、貴方の心配をする事が如何に馬鹿馬鹿しいか承知しているけれど、それでも言っておく」


 ティタンは振り返りもせずに肩を竦める。


 「生還しなさい。貴方抜きで悪神達と戦うなんて、寒気がするわ」


 ティタンと筆頭は霧の中に踏み込んでいく。空気が変わり、何処からか妙にねばつく視線を感じる。


 全身に鳥肌が立つ。あっという間にそこは、ティタンの知っているアッズワースでは無くなっていた。



――



 見通しの利かない煤色の霧の中を二人は進んだ。ティタンは歯を食いしばり、深い怒りを漲らせて足を進め、筆頭はその背を追う。


 霧の中には忌まわしい気配が幾つもあった。大体の場合それらはやり過ごす事が出来たが、先に進むほどに気配は多くなり、とうとう無視できない程になった。


 「鎖の音がする」

 「ティタン様、私にお任せを」

 「マトについて調べた。伝承に残るマトの影達か。……俺には見えないが、腐臭と邪悪な気配は感じる。お前には見えているのか?」


 筆頭は何かからティタンを守るように前へと進み出る。彼女は額に汗を浮かばせ、激しく疲労している。


 マトの霧を払うため昼夜なく駆けずり回り、まともに寝ていないことをティタンは知っていた。


 「指一本、触れさせませぬ」

 「下がっていろ」

 「あ……」


 ティタンは前へ出た筆頭の更に前へ足を進めた。ティタンを庇おうとする筆頭を押し退け、ティタンは灰塗れのマントを鎧から外し、前に突き出す。


 鎖の音、腐臭、そして獰猛な唸り声。ティタンの目に見えぬ邪悪な者達がそこら中に犇めき、取り囲んでいる。ティタンにはそれが分かる。


 バサリと一度マントを振り回し、ティタンは牡鹿の剣を抜いた。

 戦神ラウの祝福を受けただけでなく、裏地に魔除けの呪文を編みこんだマントだ。頼りにできる。


 「……神々よ、盟友よ、力を与えたまえ。アーダ・ウー・シャライ、アーダ・ウー・シャライ」


 握りしめたマントを突き出しながら、ティタンは一歩踏み出した。

 シャライよ、咆えよ、と言う古い言葉だ。全ての魔を退ける深き森の猛獣シャライ。その咆哮となればマトの眷属には致命的な力を発揮するだろう。


 事実、邪悪な気配が一歩退く。遺灰と塩の秘術。マントとシャライの呪文。それらを頼みにティタンは更に踏み出す。

 筆頭は最早ティタンの背後に付き従うのみだった。


 「アーダ・ウー・シャライ! アーダ・ウー! ヴァン! アリィ! サウラージ!」


 咆えよシャライ。咆えよ、戦士に宿る全て。


 「哀れな者共よ、退け。俺はティタン、寄らば斬るのみ。

  お前達が生きていようが死んでいようが興味はない。生きていれば殺す。死んでいたとしたら……

  もう一度死ぬが良い」


 ティタンはオーガのような形相でずんずんと進んでいく。周囲を取り囲む邪悪な気配はそれに追い散らされるように霧散する。


 「ティタン様」

 「…………知っている。こいつらも元は人間だった。いつの日か開放されることを願う」

 「は」


 二人は更に霧の中を進んだ。

 目的の人物を見つけるのに、大した時間は掛からなかった。筆頭はマトの領域である煤色の霧の中ですら気配を探る事が出来たからだ。


 二人が彼女を見つけた時、彼女は木箱に腰掛けて壁に背を預け、死んだように目を閉じていた。



――



 足音に彼女は目を開いた。そしてティタンの姿を認めると観念したように肩を落とす。

 紺色のローブの右肩部分が変色している。ロールフに斬られた傷だ。


 「思ったよりも遅かったじゃない」


 ティタンはゼタの胸ぐらを掴み、鼻の触れ合う距離まで顔を近付けて、瞳を覗き込んだ。


 やつれたゼタ。かつての美しさは見る影もなく、枯れ木のような印象さえ抱かせる。


 しかし瞳の奥で暗い何かが燃えている。ティタンはゼタを無理やり立たせた。


 「マトの霧の中に潜んでいるとは誰にとっても盲点だった。恐らくは、マトにとってもな」

 「……不思議な物言いね。私がマトに平伏したとは考えないの?」

 「お前が悪神に屈したなら、オーメルキンを助ける理由はない」


 ティタンはゼタを引き摺り、壁に叩きつけた。痩せ細ったゼタは異様に軽く、軽く小突いただけで吹き飛びそうだ。


 ゼタは苦しげに咳き込みながらティタンを睨みつける。


 「だが、お前のせいで俺の同胞が死ぬ。共に苦楽を分かち合い、死線を潜り抜けた名誉ある男が」

 「…………そうね」


 ゼタは目を伏せた。彼女は後悔に打ちひしがれていた。


 「御免なさい」

 「……」

 「御免なさい……。許してもらえるとは思わないわ」

 「それは正しい。……お前を殺す」


 弾みだったとオーメルキンは言った。ロールフとゼタ、互いに互いを殺すつもりは無かった。

 だが結果としてロールフは死ぬ。最早その意思があったかどうかは関係ない。


 しかしまだその時ではない。ティタンはゼタに続けて言った。


 「しかしその前に、お前には聞かなければならない事が幾つもある。……小箱を持っているな?」

 「……渡せないわ」

 「その小箱は苦しみ抜いた人間の魂を用いて作られるそうだな」


 無遠慮にゼタの懐をまさぐろうとするティタンに、当然ゼタは激しく抵抗する。


 「絶対に、渡さない!」

 「何故だ? お前は……ロールフが奪った小箱には大して興味を示さなかったと聞く」

 「何だって良いでしょう! 聞きたいのはそんな事じゃ無い筈だわ!」


 ティタンは喚くゼタを引き摺り倒し、馬乗りになって剣を突きつける。


 「その小箱の中身は誰だ? お前の娘、シグか?」


 ゼタは顔を覆って嗚咽を漏らした。


 「ゼタ、知っている事を話せ。お前の望みは何だ」



――



 ゼタはまず小箱の事を話した。


 「貴方の言う通りよ……。この子は私の娘、シグ。私はこの子を探すためにアッズワースを訪れた」

 「病気だったそうだな」

 「……ずっと、ずぅっと、熱と痛みにうなされていたわ。まるで苦しむためだけに生まれてきたみたいで……でも私は……何もしてあげられなかった……」

 「何故、そんな有様に?」

 「どういう意味? 病気の事? 小箱の事?」

 「箱だ」

 「葬儀が終わって一年程経った後、旅の神官が不思議そうに言ったのよ。『この墓の下には誰も居られぬようですが』って。

  慌てて墓を開いたわ。……シグの骨と埋葬品は、全て持ち去られていた。それからは行方を探るために何だってしたわ。……私、きっと貴方が思うよりもずっと卑怯で、悪辣な女なの」

 「……お前の娘がアッズワースにあると突き止めた時、既にマトの蠢動を察知していたのか?」

 「薄々勘付いていた。でも確信は無かった」

 「何故、己の力だけで取り戻そうとした」

 「……誰も頼れなかった。誰も信用出来なかったから。黒い小箱が欲しいのは、マトの下僕や邪教徒だけではないの」

 「どういう意味だ」

 「クラウグスだって箱が欲しいのよ。事実、私は箱を追う内に“湧水の魔法戦士団”とも争ったわ。……彼等はいつの時代でも、自分達の影響力を高めるために力を欲している。

  小箱は強力な魔術具よ。きっとシグも、取り上げられてしまう」


 ティタンは目を見開いた。暫くの沈黙の後、恐ろしげな声を吐き出した。

 湧水の魔法戦士団。クラウグスの影の影、闇の闇だ。


 「そんな事があるか。邪教徒達と戦っているのは嘗てクラウグスを統治した最も偉大な王だ。例え湧水の魔法戦士団がどのような奸智を巡らせても、クアンティン・ユージオ・クラウグスの目を逃れられる筈がない」

 「巨大な国家の王が、いついかなる時も清廉潔白で居られる筈がないわ。貴方だって分かるでしょう」


 非常に嫌な言葉だった。ティタンとしては死者への冒涜その物である小箱の存在を許すつもりはない。

 もしクアンティンがそれを欲したとしたら……。


 彼と争う。余り想像したくない展開だ。


 「…………彼は少なくとも話の通じる男だ、後に回す。……小箱についてより詳しく聞きたい」

 「小箱は……、私の娘シグを含めて、五つアッズワースに存在しているわ。西の隠者ウェルザム、バラオの風ルフラマール、私が探る事の出来た小箱の贄はその二人だけ。後の二つは何処の誰の者とも知れない」

 「余り二つ名には使われない言葉のようだが」

 「二人とも高名な魔導師よ。恐らくは、残る二つもそうでしょうね」

 「敵はそれを使って何を?」

 「それは私よりもパシャスの巫女の方が正確な答えを出せるのじゃないかしら」


 ここまででたらめ、と言う感じはしない。ティタンはゼタの上から退き開放する。

 彼女は軽く咳込んだ後、ずるずると身体を引き摺って漸くと言った具合に壁に凭れ掛かった。


 「残りの箱は何処に有る」

 「……カステヤノンと言う男が持っている。湧水の魔法戦士団だった男」

 「“だった”?」

 「カステヤノンは邪教徒と戦い、小箱に触れる内に心を侵され、闇に堕ちた。……今ではマトの人形よ」


 ティタンは背後の筆頭に目配せした。

 筆頭は難しい顔で頷く。


 「だとすると、神殿に侵入して小箱と巫女達の遺骨を奪ったのはそのカステヤノンか」

 「薬の手引も」

 「ほぉ、これは親切で分り易い話になってきたな。都合良く、小箱と薬と混乱の黒幕が現れた」

 「信じないの?」

 「いや、他に手掛かりもない」

 「……信じて貰えなくても、恨まないわ。原因は私にあるのだから」


 少し出来過ぎている……。

 いや、違う。話が早く進み過ぎだとティタンは感じた。


 「……ゼタ、俺が来る事を予想していたな。何故逃げなかった? お前の目的をまだ聞いていない」

 「シグを」


 ゼタは胸元に手を這わせる。ボロボロに荒れた指が痛ましかった。


 「シグを開放してあげたい。もし湧水なんかに取り上げられてしまったら、この子は未来永劫苦しみ続ける。……でも、私はその方法を知らない」

 「成程。パシャスならばどうなんだ?」


 ティタンは筆頭に尋ねる。


 「時間が必要になるでしょう。生半の呪具ではありません。……ですが、例え十年、二十年掛かろうと、パシャス様は必ずや我等をお救い下さいます」


 ゼタが顔を上げた。絶望の中に一筋の光明を見つけたのだ。例えそれが藁でも、蜘蛛の糸でも、ワーウルフの尻尾でも、彼女は掴むだろう。


 「もう……どうしたら良いのか分からなかった。関係ない者を傷付けてしまって、居場所も知られてしまって、……これは賭けだった。もし貴方が私をクアンティン王に引き渡したら……」

 「お前は賭けに勝った。協力して貰うぞ、ゼタ」

 「シグを救ってくれるなら何だってするわ」


 ゼタは跪いた。安堵から目に涙が滲んでいる。

 血が出るほどに唇を噛み締め、肩を震わせながらパシャスを称える言葉を口にする。


 あれほどゼタを疑っていた筆頭は言葉も無かった。女としてゼタの思いに感じる物があったようだ。

 ティタンは冷たい声音のままで筆頭に命令する。


 「……まずは裏付けを取れ。罠でないと確認出来たらカステヤノンとか言う奴を締め上げてやる」

 「は、承知しました」

 「ゼタ、マトの奸計を退けるまで、その命、預けておく」


 ゼタは何度も頷いた。彼女は今更自分の命に執着していなかった。



――



 霧を払い、帰還したティタン達。事情を把握したディオは絶句していた。

 セリウ家は即座に隊を編成しなおし警戒を深めるだろう。力の及ぶ限りティタンに協力する事をディオは誓った。


 「ティタン、私達は貴方に大きな借りがある。貴方が呼ぶのならいつでも応えるわ。覚えておいて」


 ゼタの事に関してはディオも少し物言いたげだったが、事態が自らの手の出せる場所に無い事は理解できていた。

 ディオは痛ましげな顔でゼタとぽつりぽつり言葉を交わし、振り返らずに去った。


 ティタンはパシャスの祭壇の水を浴びて灰と塩を落とし、装備と身体を清めると、真直ぐヴァノーランの屋敷に戻る。

 ティタンには予感があった。全ての灯りが落とされ、凍えるような寒さの屋敷にはただ一人アーマンズが待機しており、彼は帰還したティタンに向けて盃を差し出す。


 「シェフ。ロールフの願いを叶えてもらいたい」

 「……準備は出来ている」

 「なら行こう」


 盃を干すティタン。凍えた身体の芯が僅かに温まる。

 言葉少なくアーマンズは先導を始める。雪の降る中をアーマンズ、ティタン、そしてティタンの護衛を続ける筆頭は歩いた。


 出掛けたのは昼前だった筈だが、既に雲間から覗く太陽は燈色だった。人の気配の無いアッズワース。

 凍える風を浴びながら向かった先は、アッズワースの霊地の近く。


 ヴァン・オウル・アッズワースが団結式を行った空き地に、全ての者達は待っていた。


 ヴァノーラン達が居並ぶ中に進み出て、ティタンは口を開いた。


 「同胞に忠誠を」

 『忠誠を!』


 全ての者は唱和する。身形を整え背筋を伸ばした屈強の戦士、恐れ知らずの若者達。


 その中心にロールフは居た。傷面のロールフは完全装備だ。鎧にマント、右手には父から継承した剣、左手には小振りな手斧。

 ロールフは白い息を吐きながらぼんやりと空を見上げている。やがてその視線が降りてきてティタンを見た時、彼はにっこり笑った。


 「待ってたぜ、シェフ」


 ロールフの背に浮き出た蜘蛛の巣状の蚯蚓腫れは首を超え顎まで侵食している。小箱の呪いは凄まじい速度でロールフを蝕んでいた。


 あぁ、死ぬんだな。ティタンはそう思った。同時にロールフの考えは手に取るように分かっていた。



 戦士は戦って死ぬべきだ。その華々しく、雑多で、血生臭い生を終わらせるのは、戦いであるべきだ。

 老いでも病でもない。ましてや小箱の呪いなどと言う訳の分からない物では断じて無い。


 ロールフは既に死に方を決めていた。そして他に殉じる物を知らないこの男は、純粋無垢な子供のようにそれを成し遂げようとしている。


 ティタンは感銘を覚えた。そして彼に選ばれた事は、全く名誉な事だった。


 「シェフ。俺は小箱だなんてクソ下らねぇモンに殺されるなんざ死んでも御免だ」

 「知っている。俺だって同じように考えるさ」

 「神々の座で、俺は戦士に恥じぬ死を得たと宣言したい」

 「あぁ。……共感する」


 ロールフは冷たい空気をこれでもかと言う程吸い込んだ。

 瞳が澄んでいた。美しい傷。美しい瞳。一片の嘘も、強がりも無い、美しい言葉。


 その渾身の生き様が、ただただ眩しい。


 「トーラスが子、ヴァン・オウル・アッズワースのロールフ! 戦士ティタンに決闘を申し込む!」

 「ロンブエルが子、ヴァン・オウル・アッズワースのティタン。戦士ロールフからの決闘を受けよう」


 ロールフは唐突にからからと笑った。


 「“黄金の鬣ロンブエル”か! やっぱりアンタそうだったんだな!」

 「黙っていて悪かったな」

 「いや……構うもんかよ」


 ロールフが剣と手斧を構える。応えるようにティタンも牡鹿の剣を抜いた。


 「冥界の神ウルルスンに言ってやるさ! 俺は、クラウグスで最も偉大な戦士と戦って死んだんだと!」


 全身を撓らせ、ロールフはティタンに躍り掛る。ティタンは剣を身体に引き寄せてそれを迎え討つ。



 そして一瞬の静寂の後、ティタンは未だ熱を放つ彼の身体を丁寧に横たわらせ、吼えた。


 「………………同胞に、忠誠を!」

 『……忠誠を!』

 「我等に! お前達に!」

 『戦友達に!』


 雪が降り積もっていく。ティタンは空を見上げた。


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