煤色の霧4
「パシャスめ、普段あれだけ威丈高でいる癖に自分の家の戸締まりも出来ないのか」
松明の炎を頼りにパシャスの神殿を訪れたティタンは、慌ただしく走り回る信徒達の中で舌打ちした。
神殿に詰める高位の信徒、パシャスの手勢たる神官戦士達、合わせて十名ほどが神像の前に寝かされ、治療を受けている。
目立った外傷は見られない。しかし彼等は目を見開き、身体を震わせ、歯をかちかちと鳴らしている。青白い顔に血走った目は異様な物を感じさせた。
何かの魔道の類か。状況の聞き取りを終えたらしい筆頭巫女がティタンの所に戻ってくる。
「敵の目的は?」
「小箱が奪われました。……それと」
「それと、何だ」
「歴代の巫女達の墓所が辱められました。遺骨が……少量持ち去られています」
「……何てことをしやがる。死者を辱めるとは」
パシャスが絶叫する訳だ。いや、パシャスでなくとも怒りを感じて当然だろう。
筆頭巫女はこれまで見せたことの無いような顔をしている。腹の底に怒りを溜め込んだ恐ろしい表情だ。
死者の骨が何かの儀式に用いられる事はある。大体の場合は死してなお骸まで陵辱する許し難い邪法だ。露見すれば、クラウグスの法では目を抉る重罰を与える事になっている。
しかも今回それに使われるのはパシャスが娘とすら呼んで猫可愛がりする歴代の巫女達の遺骨だ。邪悪な儀式に利用されるとなったら、パシャスも冷静では居られまい。
ティタンは露骨に顔を顰めた。神殿に侵入し小箱と骨を奪った何者かは、北を守護する女神を激怒させてまでそれを手に入れる必要性を感じていた。
今まで水面下に潜みつつ行動していた敵が大きく動いたのなら、それは大方の準備を済ませたと言う事だろう。
「手掛かりはあるのか」
「炎の魔導師ゼタを見たと言う者が」
「ゼタが小箱と骨を奪ったのか?」
「そうとしか」
ティタンは声を張る。
「パシャス! 聞こえるか!」
耳鳴りがして、直ぐ様パシャスの声が聞こえてくる。
これまで常に言葉に余裕を含ませ、人を喰ったような話し方をしていた慈愛の女神は、此処に来て激怒を隠そうともしない。
『ティタンよ! 何が聞きたい!』
「アンタの寝床に侵入したのは女か?」
『人ではない、醜い魔物だ! 汚らわしい!』
「魔物がアンタの神殿に容易に侵入出来る筈がない。一体どんな相手だ」
『……マトめの厭らしい息遣いを感じた。奴が特に寵愛する下僕であろうな』
「ならばゼタではない。パシャス、質問はそれだけだ」
『急ぐのだティタン……! お前も知っての通り我は我慢などせぬ。もはや我が娘達は取り戻せまいが、せめてマトの下僕の首級を上げよ!』
好き勝手言って居やがる。ティタンは溜息を返した。
ゼタの線は薄い。そう口に出すが、筆頭は少しも楽観しなかった。
「……彼女が既に人で無いとしたら」
「奴がアングイビにでも殺されたと?」
「彼女は魔道の徒、この世の裏側を覗き込む者です。進んで悪神と契約し、人でない物に変じたとしても……」
ティタンは牡鹿の剣を半ばまで引き抜き、輝きを確かめると音を立てて鞘に戻した。
「……その時は殺す。奴を探し出せ」
「……は」
――
異変が起こり始めたのは翌日からだった。それを目撃したのは職工街の南端に工房を構える鍛冶師だ。
彼は路地に薄暗い霧が掛かっているのに気付いた。雨よりも雪が降るこの季節、霧が出る要素など少しも無い筈だ。
鍛冶師は霧の掛かった路地を訝しみ、勇敢にもその中に踏み入った。そして鍛冶師はその中で、古い襤褸屋の壁に何度も何度も頭を打ち付ける傭兵を発見した。
傭兵の額は肉が裂けて赤黒い血を流していた。正気を失った目付き、涎を垂らしながらぶつぶつと何事か呪文のように唱えており、只事ではないと感じた鍛冶師はその傭兵を直ぐ様パシャスの神殿へと担ぎ込んだ。
傭兵は手当しようと近付いたパシャスの信徒の首を締め、絶叫と共に血を吐いて死んだ。その異常さに誰もが言葉を失った。
パシャスの信徒達は即座に厳戒態勢に入り、要塞司令ペルギスにもそれを呼び掛けた。パシャス教の要請に従い、アッズワースは警邏をする兵の数と頻度を倍にする。
しかし、敵の魔手を封じる事は出来なかった。時折人通りの少ない場所に薄暗い色の霧が立ち込めるようになり、それに巻かれた人々は正気を失い、家族や友人にすら襲い掛かるようになる。
アッズワースはあっという間に混乱状態に陥った。
「煤色の霧……」
オーメルキンは奥歯を噛み締めながら通りを歩く。そうでもしなければ歯が鳴りそうだ。
前を歩くロールフはオーメルキンの様子を歯痒く思っていた。だが今アッズワースで起きている事を思えば怒鳴りつける事も出来ない。
人の正気を奪う謎の技に、ロールフだって抗えるかどうか分かったものではない。威勢の良い事を言って強がるのが精々だった。
「メル、俺達はヴァノーランだぞ」
「馬鹿ロールフ。お前の剣もアーマンズの弓矢も霧は倒せないだろ」
「あぁそうだろうな。だが、それが何だ? 跪いてマトとやらに命乞いでもしてみるか? 冗談じゃねぇぜ」
「……早く屋敷に戻ろう。何処に居たって安心出来ない……」
今のアッズワースでは誰もが猜疑心に苛まれ、安眠を得られずに居る。衛兵が突如として発狂し市民に斬りかかる事件が立て続けに起き、混乱が急激に広まった。
市街も工房街も火が消えたようになり、雪ばかりが舞う。人々は顔を伏せ、上目遣いに周囲を警戒し、今まで気にしたことも無かった悪神マトの名に怯えている。
「マト、マトか。だが奴だって怯えてる」
「なにそれ」
「俺達が怖いのさ。奴がこのアッズワース要塞や、女神パシャスの事を何とも思ってねぇなら、こんなまだるっこしい真似はしないだろ。奴は俺達と真正面から戦う力が無いのさ」
オーメルキンは苦笑いした。ロールフはいつでもロールフだ。
この男は終始こんな調子だ。出会ったばかりの頃はただの強がりに見えることもあったが、何度も口に出して己を鼓舞する内にそれを本物としたようで、今ではロールフの勇敢さを疑う者は居ない
恐らくは死ぬその瞬間までこの調子だろう。オーメルキンはなんとなく、この男はマトと戦うべきじゃないと思った。
「……もっと嫌な奴だよ、きっと」
マトは正にロールフのような男を弄ぶのが大好きで、得意なんだろう。ティタンから伝え聞いた内容では本当に厭らしい邪悪な神だ。
力には種類がある。例え戦士の戦いに相応しくなかったとしても、この混乱はマトの力の顕れだ。
ロールフだって本当は分かっている筈だ。
「おい……これってまさか」
ロールフが唐突に立ち止まり、周囲を見回す。
いつの間にか強かった風は止み、雪も多少ちらつく程度になっている。代わりにロールフとオーメルキンは奇妙な色をした霧に取り囲まれていた。
煤色の霧だ。オーメルキンはぞっとした。この霧が出ると何かが起こる。人々は正気を失うと口々に言うが、もっと恐ろしい事が起こるのをオーメルキンは知っていた。
霧の中では何かが徘徊する。人ではない何かが跋扈し、それらは常に恨めしげにオーメルキンの事を睨み付けているのだ。
オーメルキン以外の誰もそれを見た事が無いという。オーメルキンには只管に霧を避け、女神パシャスとその巫女達が災厄を追い払ってくれるのを祈る事しか出来なかった。
「急ごう」
「“霧の魔物”か」
「冗談で言ってると思う?」
「お前は嘘を吐かない」
ロールフとオーメルキンは顔を見合わせて霧の中を走りだした。屋敷にはパシャスの祭壇と魔除けの品々が有る。それらが守ってくれる筈だった。
しかし走る内に霧はどんどん濃くなる。いつしか傍に居る筈のロールフすら見えなくなり、オーメルキンは悲鳴を上げた。
さっきまで隣を走っていたのに今では気配すら無い。背が冷たい汗で濡れる。
はぐれたのか攫われたのか、何にせよ拙い事態だ。
「ロールフ、居る?!」
返事はない。オーメルキンは泣きたい気持ちになりながら小剣を引き抜く。
霧が濃い程に“奴等”はより活発になる。オーメルキンは油断なく研ぎ澄まされた刃を引き寄せながら直ぐ側の家屋の壁に背を預けた。
「クソ、死ぬなよ馬鹿ロールフ……」
ジャラ、と鎖を引き摺る音がする。オーメルキンは息を潜め、気配を殺す。
壁と木箱の隙間に潜り込み通りを伺う。煤色の霧に包まれ夜のように暗い中を、何者かが歩いていた。
現れた。霧の魔物だ。
「シィィィィ…………」
掠れた声のような、爬虫類の威嚇のような、耳障りな声。或いは呼吸音なのかもしれない。
彼等は襤褸のローブに身を包んでいた。端々が擦り切れて穴の空いた黒いローブだ。僅かに覗く手足は枯れ木のようで、靴も履いていない。
そしてその異形の手に握られた鎖の先に怪物を繋いでいる。グールをバカでかくしたような怪物だ。
戦場跡に湧いて死体を貪るグールは人間から皮膚を引剥したような姿をしている。赤黒い肉の上に白い筋が幾つも入った嫌悪感を催す姿だ。
襤褸ローブはそのグールを大きくし、火吹き酒でも飲ませて興奮させたようなのを鎖で繋いでいるのだ。
目にするのは二度目だ。流石にアレに躍りかかる気にはなれない。
オーメルキンは彼等と怪物の動きをじっと注視し、通り過ぎて霧の向こうに消えるのを待った。それから音を立てずに家屋の屋根へと登る。
猫のように静かで素早いその動きはオーメルキンの存在を彼等に気取らせなかった。オーメルキンはほっと一息吐くと、煤色の霧に覆われたアッズワースを見渡した。
「なんだよ……ここ……」
霧中に一人。十歩先も見通せない。そこいら中に感じる息遣いは全て人の物ではなく、ジャラ、ジャラ、と響く鎖の音に怖気すら感じる。
オーメルキンは自分がアッズワースではない、何処か得体のしれない世界に迷い込んだことを悟った。
「(ロールフを探すか? それとも)」
オーメルキンは直ぐに動き始めた。視界の聞かない霧の中だが、屋根の上にいれば即座にあの不気味な怪物達と鉢合わせする事はない。
慎重に気配を探りつつ、屋根の上を飛び移っていく。
しかし直ぐに行き詰まる。広い辻に行き着き、飛び移る屋根がなくなってしまった。四方八方から鎖の音や恐ろしげな唸り声が響き、とてもではないが強行突破する気にはなれない。
方角的には、このまま真直ぐ進めばヴァノーランの拠点に帰り着く事が出来る筈だ。そも、この霧の中から無事に現世へと戻れる保証など無いが。
兎に角仲間の元に辿り着き、ロールフを探す手助けをして貰わなければ。仲間さえいれば霧の魔物とだって戦える。
裏を返せば、オーメルキン一人では何も出来ないのだ。
「畜生、恐いよ……」
どうしようか。迂回するべきだろうか。
オーメルキンは屋根の上に膝を突き、冷え切った身体を温めようと縮こまる。
全身鳥肌が立っている。必死に悲鳴を押し殺しているが、いい加減に限界だった。
畜生、何が煤色の霧だよ。
どうしてあたし達がこんな目に合わなきゃ行けないんだ。
目に涙を滲ませながら呻くオーメルキンは、背後に近付く気配に気付けなかった。
オーメルキンの口元と腹に何者かの手が伸び羽交い締めにされる。オーメルキンは悲鳴を上げるよりも先に小剣を握り直して身を捩る。
オーメルキンを拘束しようとした何者かは慌ててそれを宥めた。出来る限りの小声で。
「メル……! 止めて、静かにして……!」
ゼタだった。オーメルキンは口を塞がれていなければ大声を上げていた筈だ。ゼタは眉を吊り上げ、必死の形相でオーメルキンを押さえ付けている。
オーメルキンは身体から力を抜いた。ゼタはそれを確認すると漸くオーメルキンを開放する。
「ゼタ」
「メル、……あぁ、あぁ良かった。貴女が無事で本当に。……何とか間に合ったわ」
大きく安堵の息を漏らすゼタ。頬はこけ、身嗜みに気を使う余裕も無いのか息を呑む程に美しかった銀の髪はくすんで乱れ、指は酷く荒れている。ゼタらしくない姿だ。
彼女は怖い顔でオーメルキンを睨みつける。オーメルキンの赤らんだ頬を撫ぜる彼女の指は、氷のように凍てついている。
「ティタンから離れては駄目と言った筈よ」
「ゼタ、皆ゼタを探してる。ゼタは疑われてるんだ。分かんないの?」
「それとこれは話が別よ。アッズワースは今危険なの。直ぐに仲間達と要塞を出て」
「勝手な事ばっかり言って、自分は何も教えてくれないくせに!」
「大声を出しちゃ駄目」
声を荒げかけたオーメルキンの口が再び塞がれる。
ゼタは周囲を見回して気付かれた様子が無いのを確認すると、そっと手を離した。
「……兎に角、長居は拙いわ。此処から逃げましょう」
「どうやって? 囲まれてるのに」
「何とかするわ。言う事を聞いて」
「勝手すぎるよ……」
「信じて。貴女を仲間の所まで絶対に送り届ける」
ゼタは有無を言わせなかった。懐から革袋を取り出し中身をオーメルキンにぶちまける。
何かの灰のようだった。奇妙な臭いがする。ゼタは灰塗れになったオーメルキンを抱き寄せると何かの呪文を唱える。
やがて必要な事を終えたのか、ゼタは厳しい口調で言い聞かせた。
「ゆっくり歩いて。息も静かに。視線を上げないで、もし“奴等”と目を合わせたら、狂ってしまうわ」
「あいつら何なの?」
「マトの下僕よ。元は人間だった。奴等は貴女のように活力に満ちた生者が羨ましくて、妬ましくて仕方ないの」
「人間って……あれが?」
「……貴女のように、彼等を見ることが出来る特別な才能を持つ者は、マトの手であんな恐ろしい姿に変えられてしまうの。見てはならぬ者、呼んではならぬ者、マトの影よ」
「もし捕まったら、あたしも……」
「死よりも辛い事よ。神々の最後の戦いが起こるか、或いは世界が終わるまで、未来永劫マトの玩具にされる。……貴女にそんな事はさせないわ」
ゼタはオーメルキンを強く抱きしめた。やせ細った体だが、奇妙に温かい。
目がギラついている。ゼタも、あらゆる意味で限界を迎えているようだった。
オーメルキンはゼタを信じた。と言うよりも、本当はずっとゼタの事を信じていた。
「……分かった。助けて、ゼタ」
二人は静かに屋根から降り、息を殺して歩き始めた。ゼタは身に纏ったローブでオーメルキンをすっぽり包み込むよう肩を抱く。
霧の中から鎖の音がする。かなり近い。
五歩ほどの距離。霧の中から影が顕れ、それは掠れた呼吸音を響かせながら二人に近付いて来る。
ゼタは囁いた。
「止まって。顔を伏せて」
オーメルキンはゼタの胸に顔を埋めて息すら止める。ゼタの熱い心臓の音がする。
「……シャン・ルーイ、或いはシャライ。この娘に加護を与えたまえ」
ゼタが聖句を唱える。シャン・ルーイの名を聞いてオーメルキンは安堵した。
シャン・ルーイ、或いはシャライ。この世の何処か、人の身では辿りつけぬ場所に神聖な森があり、その中では神々の盟友である猛獣シャン・ルーイが眠っている。
猛獣は全ての不浄を退ける力を持っており、クラウグス人の祈りに応えその清き風を送ってくれる。レイス等の汚らわしい邪霊と戦うレイヒノムの神殿騎士は、皆シャン・ルーイに加護を乞う。
「シャン・ルーイ、或いはシャライ。この娘を護りたまえ」
巫女様が言うようにゼタが邪悪な魔物に変わっていたとしたら、シャン・ルーイの聖句を唱えられる筈がない。
邪悪な魔物は聖句を投げかけられるだけで身悶えして苦しむと言う。ならば、ゼタは人間だ。
あぁ、良かった。オーメルキンの瞳にじわりと涙が滲んだ。
「シャン・ルーイ、シャン・ルーイ……!」
襤褸ローブが足を二人の前で足を止めた。耳障りな呼吸音がする。
鎖がジャラジャラと鳴る先で怪物が身を揺すっているのが分かる。オーメルキンは生きた心地がしない。
襤褸ローブが二人に鼻面を寄せて来た。目を閉じていても猛烈な腐臭は伝わってくる。オーメルキンは吐き気をもよおす。
今まで腐乱死体くらい見てきたが、この襤褸ローブから感じられる邪悪さときたらどうだ。
「…………良いわ、メル。行きましょう」
暫く襤褸ローブは鼻を鳴らして臭いを嗅ぎ、ゼタとオーメルキンの様子を探っていたようであったが、やがて怪物を引き連れて去っていった。
ゼタは緊張に強張った身体を解し、オーメルキンを促す。二人は歩みを再開する
霧と、腐臭と、鎖の音。二人はその中をすり抜けて進み続けた。煤色の霧は無限に続き、最早現実の世界には帰れないのでは、と思う程だった。
しかし時間すら忘れて歩み続ける内に、霧が色を変えた。段々と白っぽくなり、普通の霧になる。
鎖の音も邪悪な気配も消え去り、オーメルキンは大きく息を吐いた。
「……もう、大丈夫?」
「えぇメル、もう良いわ」
二人は生還した安堵と喜びに、改めて抱擁し合った。
其処に乱暴な足音がした。
「何が“もう良い”んだ?」
ロールフだった。彼は父の剣に手を掛け、油断なくゼタを睨み付けている。
「探したぜメル。流石に焦った」
「ロールフ、止めろよ! ゼタは違うんだ」
「違う? 何が違うって? ……彼女が何か知ってるのは間違いないだろう」
ロールフは言いながら額の汗を拭う。オーメルキンを探すために相当走り回ったようだ。
ゼタは何処か酷薄な表情でロールフと向かい合う。オーメルキンは猛烈に嫌な物を感じていた。
「……貴方達に疑われるのも仕方ない事ね」
「アンタには借りがある。出来れば殺したくない」
「私も貴方を殺したく無いわ。このままメルを連れて帰りなさい」
その言葉をロールフは侮辱と受け取った。
ロールフは罵ることも雄叫びを上げることもせず静かに剣を抜く。
慌ててオーメルキンが飛び付いた。
「止めろって言ってるだろ!」
「メル」
「ゼタはシャライの聖句を唱えた! あたしの為に祈ってくれたんだ! ゼタは魔物なんかじゃない!」
「例の小箱は人間でも使えるんだろう」
オーメルキンは言葉に詰まる。
「アンタは持っているのか、黒い小箱って奴を」
「……知ってどうするの? 持っていても居なくても、貴方は私を斬るつもりなんでしょう?」
ロールフは腰を深く落とした。
――
「ウィンベル・ベニッシオは何か吐いたか?」
深い怒りを声に滲ませながらティタンは言った。暖炉の前で暖まりながら酒で口を濯ぐソーズマンはティタンに羊皮紙を差し出す。
「分かったことは多くないが、奴を使い走りにしていた黒幕は『国のために働かせてやる』と口走ったらしい」
「国のため?」
「あぁ、間違っても、皮肉でも、悪神の下僕が使うような物言いじゃないな」
ティタンは羊皮紙に目を通す。ウィンベルに施した拷問の内容と聞き出した情報の走り書きだ。
これを見る限りでは非常に手荒い真似をしたようだ。少なくともこれから先、歩くことすら儘ならないだろう。
「苦痛から逃れるために適当な事を言った可能性は?」
「さてな。誤魔化すにしたってもっと良い口上があると思うぜ。そもそも奴自身、大した情報を与えられていなかった筈だ。……そっちは?」
「ゼタが見つからない」
「炎の魔導師か。俺も少し、彼女と商売したことがある」
ティタンは顰めっぱなしの眉間を更に歪ませた。
しかしその話に食いついたのはティタンの傍で腕組みしていたアバカーンだ。
アッズワースが混乱し始めてからこの方、パシャス教団は様々な事柄に忙殺されている。無力な人々の保護には特に手間を取られていた。
パシャス教の庇護を受ける者達は、マトの蠢動がはっきりとした物になってから即座にパシャスの神殿に保護を求めた。
それらを見捨てる事が出来ないパシャス教は早くも現状を支えきれなくなっている。何をするにも手が足りておらず、限界が訪れるのは遠くないだろう。
アバカーンや他の巫女達はティタンを護衛する間も何事か思索を巡らせている。彼女たちははっきり分かるほどに憔悴していた。
「何故黙っていたのだ」
「巫女様、例えばアンタなら、ベラベラと客の事を話して回る輩と商売をしたいと思いますかね」
「……魔導師ゼタと具体的に何を?」
「大した事はしていない。アッズワースで右も左も分からない彼女に、鼠の出ない清潔な宿を紹介して、他の商人に顔を繋いでやっただけだ」
本当に大したことはしていなかった。手掛かりにはならない。
「シェフ」
ノックと共に男の声がした。ソーズマンが部下に目配せして扉を開けさせる。
「タリス、どうした」
「ヴァノーランが二人人来ています。ティタン殿に話があるとか」
ティタンは尋ねた。
「内容は?」
「直接話したいそうです」
ティタンは俯いて沈黙しているアバカーンの背を張り飛ばすと、ソーズマンに礼を言った。
「……ソーズマン、ここまでの協力を感謝する。これからも頼む」
「もう日も暮れる。危ない霧が蔓延しているそうだが、歩いて帰るのか?」
「コイツが居る。見た目以上にやれる奴だ」
ティタンが肩を竦めると、アバカーンは鯱張って敬礼した。
「私にお任せを」
ティタンは外していたマントを鎧の留め具に掛けると部屋を出る。薄暗い廊下は冷え切っており、途端に身体が震えた。
熾烈な牙傭兵団の屋敷の外に出れば尚寒い。日も落ちかけており、手の甲、膝頭にじわりと痛みを感じるほどの寒さだ。
屋敷の外では二名のヴァノーランがティタンを待っていた。彼等は胸に拳を打ち付けると、震える声で言った。
「シェフ……屋敷へ戻ってくれ」
「ヘクセン、ウィド、お前ら」
ヴァノーラン達の様子は普通ではなかった。とは言っても今この要塞に平静で居られる者など一人として居ないだろうが。
この二人のヴァノーランは焦燥と怒りを露わにしている。寒さではなく、怒りに震えていた。
「どうした。何があった」
「ロールフが死ぬ。最も勇敢なヴァノーランが」
ティタンは目を見開くと、むっつりと黙りこんで帰路を急いだ。
――
ヴァノーランの拠点には奇妙な活気があった。一階広間の暖炉の前でロールフが盃片手に何事が言っている。
その周りで野次を飛ばしたり、何とも言えない笑みを浮かべる隊員達。
何処か白々しい空気が有る。ティタンは肩に積もった雪を払うとロールフに詰め寄った。
「何があった」
ロールフはいつもと変わらない様子に見えた。しかしティタンは二人のヴァノーランが冗談を言ったとは思えない。
ロールフは一度肩を竦めると、服を脱いでティタンに背を向けた。
「背をやられた。黒い小箱に。巫女様の話じゃ助からんそうだ」
ロールフの背にはクモの巣状の蚯蚓腫れが走っていた。赤黒い、おぞましい有様で、その背に触れるとロールフは皮肉を撒き散らす。
「泣けるぜ。死んで骨だけになった奴の恨み言よりも、このロールフ様の方が弱いらしい」
ティタンの背後に筆頭巫女が現れる。彼女は此処暫くアッズワースに蔓延する霧を打ち払う為に駆けずり回っている。
「ティタン様」
「コイツは死ぬのか」
「……はい」
「何か方法がある筈だ」
「だとしても、私はその方法を知りません。パシャス様も」
ティタンは鼻を鳴らす。ロールフを座らせると、それと向かい合うようにティタンも座った、
暖炉の炎が揺れている。その光が作り出す陰影。ティタンは近くに転がっていた盃に酒を注ぐと、ロールフに差し出した。
「誰と戦った?」
「魔導師ゼタだ。小箱を一つ奪った」
ティタンは筆頭に目を遣る。筆頭は応えるように懐から小箱を取り出すと、直ぐ様また仕舞い直す。
「よくやったロールフ。お前は俺よりも働き者だな」
「ヴァン・オウル・アッズワースは、アンタばかりが戦士じゃねぇ」
「証明したな。墓石に刻んでやる。『真の戦士ロールフ』とな」
ヴァノーラン達はゲラゲラ笑って盃を掲げた。しかしその笑い声は、決してロールフを侮辱する物ではなかった。
「それには足りねぇ物がある」
そういうロールフの顔は真剣だった。




