煤色の霧3
血の滴る麻袋を持って押し掛けたティタンと巫女達を、ソーズマンは出来るだけ丁重に迎え入れた。
ティタンは寒さに少し震えた。身を清めたばかりでまだ少し身体が濡れている。この凍てつく風の中では酷な状況だ。
暖炉の前で襤褸布を借りて頭を拭きながら、ティタンは麻袋を蹴り転がした。
「どうしたティタン。その袋は? 床を汚しやがって。おまけに酷い臭いだ」
人間の死体から発せられる腐臭は山の上から麓にまで届くと言う。そう言った類の強烈な臭いが麻袋からはしていた。
ティタンは答えず、ソーズマンが探っている筈のベニシオ商会について尋ねる。
「その前にベニシオについて聞きたい」
「……向こうさんとの話し合いの場を設けた。今日の夜だ。そこで有意義な話が出来ればそれでよし、ダメなら……まぁ相応の報いを受けさせる」
「具体的な話がまだ進んでいないならそれで良い」
ティタンは背後のアバカーンに呼び掛ける。アバカーンは暖炉の前に転がった血塗れの麻袋の口を解いた。
中から出てきたのは女の首だ。くすんだ金髪と痩せこけた頬。ソーズマンは首を傾げる。
「しけた面だな。誰だコイツは」
「マダム・アントーン。正確には違うが」
「コイツがアントーン? ……コイツを殺した理由は何だ」
「まだ死んではいない。アバカーン」
アバカーンは生首を立たせ、聖句を唱えた。
途端に首だけの、どう見ても死んでいるとしか思えないマダム・アントーンが目を開き、凄まじい形相で絶叫する。
聞くに堪えない甲高い声だ。ソーズマンや周囲の部下達が耳を抑えて呻く。
「アバカーン、充分だ!」
アバカーンは腰から小剣を抜き、マダム・アントーンの脳天に突き立てる。
マダム・アントーンの首は目、耳、鼻、口から真っ黒い血を垂れ流し、絶叫を止めた。
今度こそ、死んだ。
「今日、アントーンの館に行ってきた。中はこの化物とグールどもに支配されていた。コイツはアーヴァルの従属神、悪神マトが使役する魔物だ」
「…………こいつらは暫く客を取っている様子が無かった。体を売るより薬を売っているんだろうと思っていたが、こういう事か」
「名はアングイビ。“死の仮面”や、“成りすまし”とも呼ばれる。殺した人間の面の皮を剥ぎ、ソイツに成り代わる」
「こんな酷い臭いをしていたら路地裏の乞食どもだって気付く。奴等より臭ぇからな」
「正体を偽っている時、詰まり人間の皮を被っている時はこうまで臭わない。それに奴等は、別の強い臭いを使って自分の臭いを誤魔化す。大体は、バルメロの花の甘い香りで」
ソーズマンは生首を見詰め、暫く考えた。
「……化け物どもがただの薬を売り捌く筈がねぇ。俺達が今までに集めた薬を調べる必要があるか」
筆頭が口を挟む。
「我等に任せて貰いたい。こういった邪悪な存在との戦いは、正に我等の使命だ」
「ふぅん。……パシャスの巫女様方が手を貸して下さるんなら心強い」
ソーズマンは部下のタリスにパシャスの信徒達を案内するよう命じた。
タリスに案内されてぞろぞろと部屋を出て行く信徒達。ソーズマンは難しい表情を崩さない。
「もしかして、ベニシオ商会もこうか?」
ソーズマンはおぞましい形相のまま息絶えた生首を見下ろしている。
「パシャスの巫女の一人が確認に行っている。アングイビが絡んでいる確証が得られたら、軍とパシャスの戦士達が黙っちゃいない」
「警備隊の方は? オレヴィはとっくの昔に動いているだろう」
「そちらにも人をやっている。だがもし俺達の悪い予想通りなら、彼女がまだ無事で居る保証はないな」
二人して顔を見合わせ、眉を顰める。ジタバタしても始まらないと言う事だけは分かっていた。
「正直戸惑ってる。いつも通りの縄張り争いだと思って蓋を開けたら、アングイビなんて化物が出てきやがった」
「ここはアッズワースだぞ。特に今、何と戦っているか、クラウグスは正式に声明を出してる」
「あぁそうだったな。今思い出したぜ、勇者殿」
ティタンの言葉にソーズマンは嫌味っぽく返した。溜息と共に肩を竦めるティタン。正にソーズマンの期待通りの反応だった。
「冗談は置いておく。……本当にそうなのか? アーヴァルの従属神達の攻撃だって?」
「可能性ならいつだってある。アンタが酒を飲んでいる時、誰かに暴力を振るっている時、女を抱いている時、奴等はこちらを伺っている。物欲しそうな目で、ずっとな。……何が言いたいか分かるか?」
「あぁ、断言出来ないって事だな」
ティタンは聞こえるように舌打ちした。
「オーガと戦っていた時の混乱に乗じ、怪しげな品や人物が入り込んだ。衛兵達は戦いの混乱と激務に忙殺されそれらを防げなかった」
「分かってる。その結果、訳の分からん薬の流通路が出来上がった」
「そしてそれを化物が仕切っている。裏には確実に何かの企みがあり、それは人間の物じゃない」
ソーズマンは顎に手を遣り深く熟考する。パチ、パチ、と音を立てて燃える暖炉の火を食い入るように見詰め、暫く沈黙した後漸く口を開いた。
「事は静かに運ぼうじゃねぇか。軍とパシャス教にはまだ待って貰え」
「……夜か?」
「そうだ。会合の場でベニシオを罠に嵌める。化物なら殺す。そうでなけりゃ知っている事を話して貰おう」
「協力が得られて嬉しいが、俺達はたった今悪神マトの尖兵を皆殺しにしてきた。敵は俺達の動きを探るだろう」
「例えそうだとしても、次に繋がる物は何でも欲しい状況だろう? お前は頻りにマト、マトと恋人を呼ぶように連呼するが、そのマトが何をしたいのか何か一つでも知ってるのかね?」
ティタンは小さく笑い、ソーズマンの提案を受け入れた。
「いつもの調子が出てきたようだな、ソーズマン」
――
パシャスの神殿でティタンはスワトの報告を聞いていた。ベニシオと要塞警備隊、それぞれに走らせた巫女達は忠実に命令を遂行した。
ベニシオ商会を探っていたのはスワト。彼女は人の内心を探るのが上手い。パシャスの神秘の御業を預かり、邪悪な気配を察するのとは全く別の、彼女自身の才能だ。
その彼女が力を尽くしてベニシオを探り、結果として彼等は人間である、と断言した。
「ですが会頭のウィンベルは“黒い小箱”を持っていました」
スワトが付け加えた情報はティタンに眉を顰めさせるのに充分だった。
黒い小箱。オーメルキンが盗人から奪い取り、パシャスの神殿へと届けた代物だ。
それをベニシオ商会の頭、ウィンベル・ベニッシオが持っていたと言う。
「何故だ? オーメルキンが神殿に届け、今も保管してあるのだろう?」
「一つでは無いのだと思われます」
それは愉快だな、とティタンは言った。邪悪な存在と交信し、その使役を可能にすると言う呪いの小箱。それが複数あるとなれば事態はより難しくなる。
「一つだけで無いのなら、二つだけと言う保証も無いわけだ。無二の宝と言う訳じゃ無いようだな」
スワトに尋ねていたティタンに、筆頭が割り込む形で答える。
「小箱については更なる調査を行っていますが……製法に関しては完全に失伝してしまっています。今は邪教の司祭達にのみ伝わる秘儀のようです」
「苦しみ抜いて死んだ人間の魂と、骨、臓物の一部を閉じ込めた小箱だ。さぞや愉快な作り方なんだろう」
「知りたいとは思いませんが、対抗策は見つけなければ」
「……その小箱は、具体的に何が出来るんだ」
気になる部分だった。巫女達は黒い小箱を頻りに恐れているようだったが、ティタンはそれがどれ程の物なのか実感としては知らない。
ただ邪悪な存在を使役する、と言う話を聞くだけで危険な物なのは分かる。ただの魔物達とは一味違う、人の魂を食い物にするような霊的な存在が小箱の力で闊歩するようになれば、アッズワースは大混乱に陥るだろう。
「闇の神々や、それだけに限らず多くの神秘との交わりを可能にする小箱です。小箱は契約を交わした神と強力に繋がり、神は小箱を通して大きな力を振るうことが可能になります」
「それはもう聞いた。だがアッズワースでは今の所……神々がそう言った力を示したと言うような、馬鹿げた話は聞かない」
「……アッズワースはパシャス様が加護を与えてくださっています。此処はパシャス様の領域、如何な神であろうともパシャス様の許しなく、アッズワースに踏み入る事も、権能を届かせる事も出来ません。しかし充分に準備し、供犠を行えば……」
「だから具体的に頼む。例えばお前なら、小箱を使って何が出来る」
巫女は青褪めながら言った。
「えぇと……一つ二つでは足りません。幾つもの小箱を集めてレイス達を召喚し、アッズワース要塞に溢れさせます。……それだけでは終わりません。
それらを死者達に取り付かせ、死霊の軍団を作り上げる事すら出来るでしょう。そしてマトからの悪しき加護を受け入れれば、闇に関する様々な邪法は思いのままです。
……それらを用いてパシャス様の神殿が破壊されたとしたら、後はマト自身がアッズワースに打って出てくれば良いだけです。我等は為す術もなく北の大地を失います」
「成程な。矢張り悪い予想と言う奴は面白いモンだ。死霊の軍団だと? 三百年前にもそんな事をした怪物が居たぜ」
だが、クラウグスはそれにすら打ち勝った。
三百年前にも死者達を操る忌まわしき敵は居た。ウルルスンが地獄の底で激しい戦いを繰り広げているとされる強力な三邪霊が内の一つ、カルシャ。
背に腐ったコブを持ち、腸の中に人肉を好む数千の蝿を飼い慣らす、巨大な猪の姿の怪物だ。混乱するクラウグスに顕現し、死者達の肉体に僕を乗り移らせて手勢とした。
しかし結局は竜狩りケルラインとインラ・ヴォア、そしてとあるレイヒノムの司教によって討ち取られた。
死者の魂を弄ぶ存在を、クラウグスは決して許さない。
「大きな戦乱と蘇る死者達。成程、昔を思い出す。だがあの時ほど辛くはないし、そのようなふざけた真似はさせん」
何もかもが一斉に襲い掛かってくる訳ではないからな。ニタニタと笑うティタン。
ふと、黒檀の扉の向こう側が騒がしくなる。皆が視線を向ける中、扉が開かれて巫女の一人、タボルが入ってきた。
タボルは右手に縄を握っていて、その縄の先には縛り上げられた騎士オレヴィが居る。オレヴィは大声でタボルを罵りながらも、信徒達に追い立てられ、神殿へと引き摺り込まれた。
タボルはオレヴィをティタンの目の前へと突き飛ばし、自身も跪く。
「ティタン様」
タボルの声は震えていた。普段穏やかで慈愛に満ちた彼女の顔は、悲痛な色に染まっている。
「ティタン殿、これはどういう事だ」
オレヴィがティタンを睨みながら怒声を上げる。縛り上げられ、転がされた彼女は、身を捩らせて縄から抜け出ようとしている。
ティタンと巫女達が一斉に眉を顰める。ティタンはその腐臭に、巫女達は邪悪な気配に。
「隠し切れない臭いがある。だが一応聞いておく。……タボル、コイツがこんな有様だと言う事は、詰まりそういう事で良いんだな?」
ティタンは凍える視線でオレヴィを見下ろしながら言った。
タボルは目を閉じ、聖句を唱えた後に答えた。
「彼女は善良な人間でした。彼女は私の友人でした」
「友を失うのは辛い事だ。その死が、こんな不名誉な事に利用されていれば尚の事」
「何だ? 何の話をしている! 例えティタン殿やパシャスの巫女様方であろうとも、こんな仕打ちは許せん!」
ティタンは剣を抜いていた。タボルは決定的な一言を口にした。
「肥溜めに沈められた彼女の亡骸を見つけました。顔を剥ぎ取られていました」
途端オレヴィが、オレヴィに成りすましたアングイビがその擬態をかなぐり捨てて吼えた。耳を劈く甲高い悲鳴だ。
手を拘束していた縄を引き千切り、獣のように身を跳ねさせる。
しかしティタンが逃がす筈も無い。アングイビに体当りし転倒させると、胴体を踏みつけながら頭蓋を叩き割った。
黒い血と脳症を撒き散らすアングイビ。その身体は大きく痙攣した後動きを止め、全身の皮膚が溶け始める。
同時に猛烈な腐臭が漂う。ティタンは不快な返り血を拭い、雄叫びを上げると共にオレヴィの為に祈る。
「Woo Van!! 騎士オレヴィに名誉あれ! 彼女は大いなる邪悪と戦い、死んだ!」
『名誉あれ!』
「タボル、彼女の亡骸は?」
「別室にて洗い清めております」
「その名誉に相応しい葬儀と埋葬を行え。……俺も彼女の気性を尊敬していた」
筆頭とアバカーンが身を清める為の水壺と香油壺を持ってきた。ティタンは身体についた酷い臭いのする血と肉を手早く洗い流し、香油を適度に振り掛ける。
香油は魔除けの為の品だった。呪文、紋章など、数ある魔除けの内の一つだ。
「戦いの準備を整えろ。……唾棄すべき卑怯者め。ツケを払わせてやる」
ソーズマンが探りだした薬を仕切る者達の内、娼館と警備隊はアングイビの手に落ちていた。
だが残るベニシオ商会のウィンベル・ベニッシオは間違いなく人間だとスワトは言った。
ならばそのウィンベルか、ウィンベルの背後に居る者は悪神マトの下僕だ。
――
「おいロールフ! 林檎は買ってきてくれた?」
漸く腫れの引いた顔に軟膏を塗り込んでいたロールフは、オーメルキンの言葉を一蹴した。
「自分で行け」
「ロールフの番だろ、この前はあたしが行ったんだから」
「外に出るのが怖いんだろう」
肩を竦めて見せるロールフ。オーメルキンは図星を突かれ、口をへの字に曲げる。
二人して屋敷の暖炉の前に陣取ってぎゃあぎゃあと言い争いを始める。攻めるオーメルキンと受け流すロールフ。
オーメルキンは打つ手なしと悟ったのか、大きな溜息を吐いて観念した。
「……ロールフだってあの箱を見てれば絶対に怖がるよ」
「あのなぁ」
「見てないから言えるんだ」
「馬鹿言うな。マトだか何だか知らないが、俺達が今まで何と戦ってきたか思い出せ」
アーマンズが階段の上に現れる。彼はロールフの言葉に関心を示し、階段を下りながら言った。
「ゴブリン、オーク、砂トカゲ、オーガ、ワーウルフ、グール、何とでも戦ったし、これからも戦う」
「アーマンズ」
「アーマンズの言う通りだ。戦いの度に死を覚悟したし、実際死にそうになった事も沢山ある」
「メル、この馬鹿を殴って良いぞ。俺やメルが居なかったら少なく見積もっても五度は死んでる筈だが、その事をすっかり忘れてるようだ」
アーマンズは青痣の出来た頬を気にしつつ、飄々と笑う。どうやら話す度に痛むようだ。
ロールフは鼻を鳴らす。
「忘れちゃいない。……俺の言いたい事は詰まりそれなんだ。“同胞に忠誠を”」
「忠誠を」
「あぁ、忠誠を」
ロールフの忠誠の言葉にオーメルキンとアーマンズも応える。
「俺達は戦士だ。敵に恐れをなせば、それは恐れを知らずに死んでいった同胞達への裏切りだ。……それに、全てのヴァノーランはお前を守る。お前も、全てのヴァノーランを守れ。そうすりゃ恐くなんてない」
オーメルキンとアーマンズは顔を見合わせた。いつもいつも生意気で全く素直で無いロールフが、嫌に殊勝な事を言っていた。
「ティタンはちょっと違う事言ってたけど」
「何て?」
「恐れを知り尚恐れるなと」
「同じだろ。克服しろって事だ」
「まぁ、そうなんだけど……」
軟膏を塗り終えたらしいロールフは立ち上がり、広間の長机へと向かう。
机の上には大きな皿と、それに盛られた沢山の果物。ロールフは其処から林檎を一つ掴むと、オーメルキンに投げ渡した。
「クソったれのマトになぞビビるんじゃねぇ。俺達ヴァン・オウル・アッズワースはどんな敵とも戦う。これまでそうやって勇気を証明してきた。
さぁそろそろ出撃だ! 準備は出来てるんだろうな? 今回も勝ち取るぞ、黄金と名声を!」
――
夜、ソーズマンの屋敷は厳重に監視された。内には熾烈な牙傭兵団に扮したヴァノーラン、パシャスの信徒、そして政庁から派遣された精鋭が潜み、外にも幾つかの拠点に兵達が待機し、合図一つで飛び出せる手筈を整えている。
「お前の部下達が見当たらないようだが?」
「もう少ししたらベニシオ商会の関係者や資産を押さえる為に動く手筈だ」
「何?」
ティタンはソーズマンの手駒である熾烈な牙傭兵団の者が殆ど居ないことを訝しがり、ソーズマンはその疑問に平然と答えた。
「ウィンベル・ベニッシオは俺を殺すか、そうでなくても事を構える覚悟を決めている筈だ。マトやアングイビなんて化物の事は抜きで考えても、俺は連中の商売を許す気は無いんだからな。
なら戦うしかない。ウィンベルはこの会合で俺を殺し、熾烈な牙を混乱させ、そこを制圧しようと考えている。……だから先手を打つ」
「……何故断言出来る」
「俺なら、そうする」
会合の為に準備された広間でソーズマンは何枚もの羊皮紙を一枚ずつ深く読み込んでいた。時折彼の連絡員が広間を訪れ、短い遣り取りの後再び何処かへと走る。
幾つもの燭台を使って屋敷は昼の如く明るい。その中でゆったりと構え、噛みタバコを口に含むソーズマンには、成程と頷きたくなるような雰囲気がある。
「ウィンベルはこちらに向かっている。……だが妙だ。警戒している様子がない」
「俺達が待ち構えている事に気付いていない?」
「そうだな、それぐらいの間抜けか、或いはお前のように肝が太いか」
「……パシャスの信徒から小箱の話は聞いているか?」
「ソイツで俺を殺すと? ふん、それならその“黒い小箱”とやらは、お前達でなんとかしてくれ」
ソーズマンと暫く話し合っていると、ウィンベル・ベニッシオが到着した。
ティタンは巫女達と共に広間の隣室に移る。狭苦しい待合室なのだが、壁に掛けられた裸婦画の目の部分が覗き穴になっていて、其処から広間が窺えるようになっている。
悪趣味な奴、とティタンは言ったが、ソーズマンは毛ほども気にしていなかった。ティタン達はいつ事が起きても良いように得物の具合を確かめ、その中で一人スワトが覗き穴へと張り付く。
「始まりました」
小声で報せるスワト。広間では大きな円卓を囲み、ソーズマンとその部下達がベニシオ商会と睨み合っている。
双方油断ならぬ気配。互いに互いの隅々まで視線を走らせ、警戒している。
「会話の内容はどうだ?」
「流石にそこまでは。……一つ違和感があります」
スワトはベニシオ商会の監視についていた巫女だ。ウィンベル・ベニッシオが小箱を持っていると言ったのも彼女だ。
その彼女はウィンベルが持つであろう小箱について言及した。
「ウィンベルから箱の臭いがしません。昼には感じた、あの邪悪でおぞましい気配が無い」
「……ウィンベルは小箱を持ってきていないと?」
「私が奴を監視していた時は片時も手放そうとしませんでした。奴は小箱の力と重要性を理解している筈です」
「スワト、私が代わる」
筆頭が名乗り出て、スワトは裸婦画の前を譲る。
筆頭は覗き穴にへばりつくと息を潜め、気配を探ることに集中した。
そして、断言した。
「……ウィンベル・ベニッシオは箱を持っていません」
筆頭を退かし、今度はティタンが裸婦画の前へ。覗き穴の狭い視界から広間を見る。
如何にもあらくれ、と言った風情の者達が集まっていた。その中で卓に着きソーズマンと向かい合う馬面の男がウィンベルらしい。
二名の腹心を左右に座らせ、四名の護衛を背後に立たせている。ウィンベルは商会の頭という肩書には不釣り合いな鍛えられた身体をしている。
「商人には見えん。腕に覚えがあるようだな」
「ベニシオ商会など聞いたことも無い名前です。そんな無名の商会が熾烈な牙と渡り合っている。でっち上げの隠れ蓑でしょう」
「……ウィンベルが箱を持っていないのなら、奴は何故のこのこと此処に現れた? 奴は切り札の一つも持たずたった七人で敵中に飛び込んできた事になる」
疑問について深く話し合う時間は与えられなかった。ティタンが様子を窺う中で、ソーズマンが手を高く上げたからだ。
勢い良く円卓を殴りつけるソーズマン。大きな音がティタンのところまで響く。
「奴を這い蹲らせて話を聞くか」
ティタンは乱暴に扉を開け放って広間に突入した。
ソーズマンの合図で待機していた者達が三つの扉を開く。足音高く広間に雪崩れ込み、ウィンベル達を取り囲んだ。
「どういう事だ、ソーズマン」
ウィンベルが低い声で唸る。動揺する部下達とは違い、彼は余裕を持って構えている。
ソーズマンは円卓に頬杖を突きながら首を鳴らした。如何にも楽しそうな薄気味悪い笑みを浮かべている。
「白々しいんだよ、ウィンベル。俺を殺すつもりだったんだろう? ……俺もそうだ」
ウィンベルの護衛達が得物を抜く。しかしウィンベル達は七名、対する此方側は四十名近い。
戦士の質から見ても勇猛で鳴らすヴァノーラン、魔物との戦いの為に訓練を積んだパシャスの信徒、アッズワース要塞の戦力から派遣された精鋭と、間違っても傭兵崩れやゴロツキに遅れを取る事はない。
過剰な戦力だった。ウィンベルが本当に小箱を持っていないのならば。
ティタンはフードの中から油断なくウィンベルを見つめる。馬面をくしゃりと歪めながら顎を掻いている。そこに焦りといった物は見られない。
明らかにこうなる事を予想していた。ならば切り札がある筈だ。
「残念だな、ソーズマン。仲良くやれると思っていたのに」
ウィンベルの言葉に、ソーズマンは心底驚いた風な顔を見せる。
「そうなのか? 済まんが、だとしたらお前は正真正銘の馬鹿だな」
ウィンベルが剣を抜いて立ち上がる。同時に彼の腹心二名も立ち上がり、抵抗の意思を見せる。
そしてウィンベルは左手を懐に突っ込み、周囲を睨み付け凄んで見せた。
「この間抜けが! 俺が何の準備も無くのこのこ現れると思ったのか!」
引き抜かれた左手には黒い小箱が握られていた。
ウィンベルを取り囲んでいた者達は身を固くする。黒い小箱が危険な物である事は彼等にも伝えられていた。
だがティタンとその背後の巫女達は何の気負いも無く構えていた。
どうにもウィンベルの持つ黒い小箱に、危険な気配を感じられなかったのだ。
「…………どうやら偽物ですね、あの箱は」
筆頭の言葉にティタンは頭を振る。とんだ茶番だったと言う訳だ。
「ウィンベル、やりたい事があるなら今の内にやれ」
「何だお前は?」
「俺としてはその箱を捨て、剣で戦うことを勧める」
「哀れな奴め! お前如きがこの箱の何を知っていると言うんだ!」
ウィンベルはティタンの言葉を一蹴して小箱を掲げた。
大声で何らかの呪文を叫ぶ。隣でタボルが見た事も無いような形相になった。
「悪神を称える古い呪文です。愚かで、下劣な、救いようの無い的外れな賛美の言葉です」
普段のタボルからは想像も出来ない剣呑な言葉だ。ティタンは肩を竦め、ウィンベルの為に少しだけ待ってやる事にした。
望み通りの結果が得られなかったらしいウィンベルは顔色を変える。
「……馬鹿な、何故何も起こらないんだ?」
「もう良いか?」
「ふざけるなよ、舐めやがって」
ウィンベルはもう一度小箱を掲げ、呪文を唱える。
当然のように何も起こらない。周囲を取り囲む戦士達も呆れたような空気を醸し出している。ロールフなどは短槍の穂先を革鞘に納め、欠伸までしている。
「もう、良いんだな?」
「……やれ! お前ら!」
ウィンベルは小箱を投げ捨て部下に命令した。しかし五倍の数に取り囲まれた状況で何を出来る筈もない。
完全に白けきったティタンはフードを脱ぎ、ウィンベルの部下達に言う。
「俺を見ろ」
効果覿面である。今まで売りに売った風評は、ウィンベルの部下達の萎えた戦意を完全に圧し折った。
「ヴァノーラン……」
「ティタンだ。あの化物だ」
ティタンは溜息と共にフードを被り直した。
「分かったら跪け」
その言葉に逆らう者は居なかった。
ウィンベル達が拘束されるのを眺めながらティタンは椅子に座る。何とも詰まらない事になった物だと眉を顰めた。
ソーズマンは片目を閉じて皮肉を言う。
「聞いた通り危険な代物だったな、あの小箱は。笑い過ぎで顎が外れるかと思った」
当然ながらソーズマンは笑い声など欠片も発していない。
「偽物だ。面倒な事になった。すり替えた奴が居る」
「あの馬鹿が最初から勘違いしてたんじゃ?」
「巫女スワトの言葉を信じるなら今日の昼までは確かに本物を持っていた」
「……ならウィンベルは奴を操っていた存在に切り捨てられたんだろう。この分じゃ有益な情報を持っているかも怪しいな」
視線を交わし、暫し沈黙する。
大きな溜息を吐くソーズマン。ガリガリと頭を掻きながら彼は言った。
「俺の目的だけなら達した。もう余所者にでかい面はさせん」
「だがもっと大きな問題が、アッズワースの何処かに潜んでいる」
「そうなんだよなぁ……。仕方ない。俺ももう少し協力しよう」
ティタンは何も言わずソーズマンを見詰めた。
「騎士オレヴィが死んだのは、熾烈な牙としてはともかく、俺個人としては残念だ」
「……意外だな」
「奴の事は嫌いじゃなかった。奴がもう十年早く生まれていれば、アッズワースももう少しまともだったろう」
「人間は生まれを選べない。選べるのは生き方と、死に方だけだ」
「話を聞く限りじゃ、騎士オレヴィはそのどちらも満足に選択出来たように思えないぜ」
唐突にオレヴィの名を出したソーズマンは無表情だ。そこから彼の胸中を推し量る事は出来ない。
酷く残念がっている事は分かる。それだけだった。
「ん……!」
その時、唐突に耳鳴りがした。ソーズマンとの会話を中断し、ティタンは頭を押さえる。
甲高い怒りの声がティタンの頭の中に鳴り響く。ティタンはクソ、と悪態を吐いた。キンキンと煩い怒声はパシャスの物だった。
『ティタン! ティタン! 我が子、我が娘らよ! 何をしている!』
「何だ煩い! ……どういうつもりだ!」
唐突に大声を上げたティタンに視線が集中する。ソーズマンも流石に驚いたようで若干仰け反っている。
ティタンの元に巫女達が集まった。彼女達もパシャスの声を聞いたようで、不穏な気配に表情を曇らせている。
『我が神殿に不浄の者が踏み入った! 汚らわしい、許し難い者が我が領域を侵した! 許せぬ! 許せぬ!』
「何だと……?」
『探せ! 探し出せ! 我が名の許に報復せよ! 愚かな行いの報いを受けさせるのだ!』
クソ喧しい奴め。ティタンは一言吐き捨てて立ち上がる。唖然としていたソーズマンは漸く気を取り直したようでティタンに問い掛けた。
「ティタン、どうした。小箱の呪いで気が狂ったか?」
「無礼者! 戯けた事を抜かすな!」
アバカーンが激昂する。パシャスの怒りの声にあてられ、彼女も気が動転していた。
ティタンは忌々しげにウィンベルを見下ろす。ティタンの殺気の篭った視線を当てられ、ウィンベルは震え上がる。
「ウィンベルは囮だった」




