五十三、邑
霧の中を逃げているのに思うように足が進まない。
でも向こうの山麓に階段がある。
やっと辿り着くと登り始める。しばらく登るともっと濃い霧に囲まれて
後ろには誰もいないのに前には延々と続く石段にぞっとした。
まるで石段の終わりがない様に感じて
動悸がする。
右の脇腹に痛みを感じて、
そこで目が覚めた。
ふと気づくと部屋で寝かされていて、全身汗だくだった。
握りしめていた右手をそのまま額に乗せると、
遠くで雷の音が轟いて、ハッとする。
脇腹でなく右の臀部が痛い。
そうだ馬に乗っていて突然矢で撃たれた。
碧が足を押さえつけて酒を吹きかけたのを
覚えている。体も彼の体重を思い出せそうなくらい近くに彼がいた。
痛いというより熱いと思って、
その後、全身の力が抜けて、遠くで相生の声で名前を呼ばれた所までは思い出せた。
横になったまま、右手にある木製の衝立の向こうを覗くと、
誰か女性がのぞいた。
「お目覚めですか?良かった!」
ふっくらとした顔立ちの見たことのない、左衣と同じくらいの歳の女性だった。
「相生様!」
走って呼びに行くとバタバタと緊張した面持ちの相生が顔を出した。
「気がついたか?」
「はい。」
寝たまま首を横にして答える。声が少し出にくい。
「痛みはどうだ?」
「痛いですが、熱い。」声が何故かかれている事に気がつく。
「そうか。毒の類いが矢先に付いていたからな。このまま何事も無いと良いが。
碧殿が、もう一度傷を拭い直してくれた。縫うほどでは無いらしいが、動くなよ。 傷口が開く。」
何人かが顔を出して集まってくれているのに彼がいない事に気がついて、
「碧は?」と尋ねる。
「先に王廷へ走ってもらった。父に伝えてもらわねば困るからな。」
周りのみなが一瞬静かになる。宰相が動くということは小事ではない。
「動けるようになれば、一度帰ろう。」
相生はいつもの調子で穏やかに言う。
帰るとは水の里ではなく、月の根国の神祇家だな。と改めて思う。
先程から外の雨音が激しくなっていて少し腹に力を入れて
声を出す。
「綾人、様は?」
「あいつはまだ捕まえ損ねている。藤見は別室だ。」
「藤見?」
「あいつも仲間であろう。連れ去りの。」
そうか。綾人の家の敷地に連れて行ったのは藤見だった。
「けれど、仲間かどうかはわかりませんが。。」
「何にせよ、王廷に連れて帰る。
お前は斎宮なる三毛だ。そのような者を連れ去る罪は軽くはない。」
「藤見はどうなるのですか。」
凛は身体から冷や汗を感じながら、焦って聞いた。
藤見は凛に危害を及ぼしたわけではない。
あの場で、藤見は一緒に襲われたのではなかったのか。
「わからん。綾人も政の要人ならば藤見も長年神託をしてきた巫女だからな。
本当に何てことをしてくれたんだ。」
「藤見はただ、綾人様に玉石を見させてもらおうと誘っただけです。」
相生は、腑に落ちないといった様子で凛を見ると、
気がついたように言った。
「凛。矢を放ったのは藤見だ。あの場で捉えたのだから間違いない。」
凛は石で殴られた感覚で、相生の言葉を聞いた。
綾人はともかく、藤見は短い間とは言え、一緒に過ごしたのだ。
何故、自分を襲う必要があるのか検討がつかない。
藤見は凛の持っていない才を持っていて、
神の声を皆に伝えられるのだ。
その才がありさえすれば、斎宮として御山へ行ったときも
怖くはない。
「なぜ藤見が?」
「綾人の連れ去りの目的は明確だな。」尋ねるように聞かれて頷いた。
帝に献上したいと、道中言われた。
「藤見は、これは憶測だが、最近、トいが当たらんという噂がな。
その辺りの理由しか思い当たらん。」
当たっていないわけでは無いはずだ。
凛が来る前は、藤見が長い間、未然の事について占って来たはずだ。
心の中にヒタヒタと冷たい何かが動く。
「藤見と私は占いの方法が違うのです。何も。。。」悪いことはしていない。
言葉にしながら泣けて、次が続かない。
凛は横に向けていた顔を天井に向けると、相生は凛のそばに座り直して
「神に支える者は、過酷だな。神託は悪い方にも使えてしまう。
危うい。」
と、感情を表に出す相生らしく、もらい泣きをして言った。
外は嵐の雲で覆われて、雨も風も強さを増して建物に叩きつけるように
降り続いている。夏の終わり特有の雷の音が、凛の心を引き裂くように鳴って
何処か近くに落ちた。




