第二話「神父アーサーと白い〝野獣〟」②
森で出会った不思議な気配を意識し始めてから、アーサーにとって夜の訓練の意味が少し変わった。
こうやって一人で夜の森に居ることで、あの白い人影が現れてくれないかと思うようになった。
あの白い人影を待っているからと言って、別にトレーニング内容が変わったわけではない。だが、何だか気持ちがソワソワして、祈るような気持で時間が少し長引くようにはなった。
お陰で、普段から短い睡眠時間が更に減り、日中にふと意識が遠のくほどの睡眠不足に拍車がかかったが、暫くは挫けずに出会えるチャンスを待って森へ通った。
しかし何日経っても白い人影がアーサーの前には訪れず、湿った夜風に肩をすくめて帰路につくばかりだった。
そんなある日の日中。
この日は信徒からの相談が少なく、家を訪問する予定も無かったので、アーサーは自主的に教会周りの墓地の整備を手伝うことになった。
五月だというのに空はどんよりと低く、先日までの温かな陽気が嘘のように消え失せてしまい、異常な冷え込みのせいで、まるで冬のような刺すような冷気が肌を刺した。
アーサーは墓守アリスター・クックから借りた、使い込まれて硬くなった革の前掛けを締め、泥と格闘していた。
手に持つスコップは、重い樫の木を削り出したものだ。刃先にだけ補強の鉄が打ち付けられており、突き立てるたびに「カチッ」と石に当たる鈍い感触が手に響く。
「司祭様、そこだ。春の雨で土が沈んだところには、水が溜まる。一刻も早く埋め戻さんと、中が腐っちまう」
「っはい。く、泥が重いな……」
寡黙なアリスターの指示は短く、容赦がない。アーサーは薄手のチュニックの袖を捲り上げ、水を含んで底なしに重くなった泥をスコップで運んでは、自らの靴で一歩一歩踏み固めていく。
ふと顔を上げれば、ノヴァが高い木の枝からその様子を静かに見下ろしていた。普段と違う、泥にまみれた格好のアーサーを不思議そうに眺めていたが、ふと視線を外して飛び立ち、高くピィピィと鳴いた。
アーサーが腰を伸ばし、ノヴァが飛んで行った方へ目を向けると、アリスとルーシーがリネンの布を被せたバスケットを抱えてやって来るのが見えた。
「アーサー様、クックさん。お疲れ様です」
アリスが声を掛けると、アーサーが盛った土を「タンパー」と呼ばれる重い木の棒でドスンドスンと叩き固めていたアリスターも、ようやく動きを止めた。
「アーサー兄様、アリス姉様のお母さんのエディス様から、差し入れを頂いたのでお持ちしました」
「それは有り難いね。それじゃあ、まずはクックさんに持って行ってあげて」
ルーシーはアーサーの指示に頷くと、大きな道具を抱えて待ち構えているアリスターの方へ歩み寄った。
「クックさん、これ……」
籠を差し出すと、アリスターが泥のついた手でリネンをめくり、中から包みを取り出した。包まれていた布を開くなり、彼はその無愛想な目を驚きで見開いた。
「ほう、白パンじゃないか。流石は粉ひきの家だ。こんな上等な品を寄越すとは気前が良い。しかもバターにドライフルーツ、干し肉まで……! こりゃ食べた分、しっかり働かんといかんな。アリス、ミルナーの旦那によろしく伝えておいてくれ」
普段の彼からは想像もできないほど上機嫌な声だ。アリスターは山羊の乳が入った革袋を手に取ると、栓を抜いてぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。鼻をくすぐる山羊乳特有の野性味のある香りが、冷えた墓地に漂う。
ルーシーは今度はアーサーの方へ駆け寄り、バスケットを差し出した。
「ありがとう。本当だ……僕が普段食べているものよりずっと良いパンじゃないか」
アーサーが手にした包みからは、まだ確かな温もりが伝わってきた。小麦の香ばしさが、泥の匂いに慣れた鼻を優しく刺激する。
「教会の焼き窯を借りて温め直したから、焼き立てよ。アーサーは私達とこっちで食べましょ」
アリスに促され、アーサーは教会の裏手にある大きな切り株へと向かった。
そこは以前、立派なケヤキの大木があった場所だ。だが、教会の後援権がペンストレイトからアーサーの実家であるクロムウェルに変わった際、整備の一環で伐採されてしまった。
残された巨大な切り株は、今では天然のテーブルのようになっている。幼い頃のアーサーはここでアリスやルーシーとお茶会ごっこをしたものだ。
「アーサー、どうぞ」
ルーシーが地面に清潔な布を敷き、アーサーを座らせた。人目がなくなると、二人は幼馴染としての砕けた様子に戻り、手際よく準備を始めた。
「わあ、三人でこうやるのは久しぶりだね」
「アーサーが今日は墓地の整備をするって聞いたから、急いでママにお願いしたの。教会の食事は量が少なくて、体を壊さないか心配なんですもの」
アリスがそう言いながら、手際よくパンにバターを塗り広げる。黄色いバターがパンの熱でじわりと溶け、艶を帯びる。
「ありがとう、アリス。本当に助かるよ」
三人で囲む、温かいパンと山羊乳。それは伯爵令息という立場を捨て、司祭として孤独に聖務に励むアーサーにとって、何よりも心の寒さを溶かす時間だった。
和やかにお茶をしながら、ふと、アーサーは胸に引っかかっていた流浪人のことを思い出した。
「ねえルーシー。あれから例の流浪人さんと話したりした?」
その問いに、パンを食べ終えて乾燥イチジクとナッツを摘んでいたアリスの手が止まった。
「……流浪人? ルーシー、まさかあの方と関わっているの?」
ルーシーが流浪人と関わりがあると聞いて、アリスが驚いて詰め寄る。
「関わりって程じゃないのよ。前に村の男の人達に囲まれて困ってた時に助けてくれた事があって。後、私が薬草採取している付近に彼がキャンプしてるから顔を合わせる事があるってだけで……」
アリスの勢いにルーシーは少し驚いてしまうが、アリスはルーシーを妹のように思っているので、流浪人と言う不審者とのかかわりに不安を感じて心配してしまうのは当然の事だった。
「十分関わってるじゃない。その話、他で話したりした?」
「してない。ちゃんと話したのはアーサーと今、アリスにだけだよ」
「そう、気を付けなさいよ。ただでさえルーシーは孤児ってことで目立つのだから……その上、流浪人と結託してるとか思われたらどうなるか分からないわ。私、ルーシーが教会に裁かれて連れていかれるところなんて見たくないの」
そう言ってアリスは、心配そうに自分の頬に手を当てた。
「気を付ける。心配させてごめんね、アリス……」
ルーシーは自分の軽率な発言を反省し、しょんぼりしながらアリスに謝った。
「そうだよね……流浪人さんが良い人でも、村の承認を得てないと関わるの難しいよな」
アーサーもルーシーにつられて自分の軽率さに流浪人と関わりたいと思った事を反省する。それでも、せめてもう少し流浪人の話をルーシーから聞きたかったが、アリスの話を聞いている内に、そろそろ作業に戻るタイミングになってしまった。
そうしてお茶会は解散となり、アーサーは再び墓地の整備作業へ向かい、アリスとルーシーも自分の持ち場に帰って行った。
昇天祭から十日余り──五月も末、サマセットの地は夏を告げる六月の聖ヨハネ祭を間近に控えているというのに、空の暗い日が続いていた。
陽光は厚い雲に遮られ、長袖を重ね着しなければならないような寒さが大地を、村を覆っていた。そんな不安定な空気が、ついに牙を剥く。
夜明け、一人の羊飼いが息を切らせて教会へ駆け込んできた。
「ブリストル海峡の向こう、南西の空が死んだような色をしていやがる。嵐が来るぞ。それも、村を呑み込むようなやつだ」
その警告は瞬く間に村を駆け巡った。朝のミサは中止となり、村中が水害対策の熱狂に包まれる。
その差し迫った状況は、教会も例外ではなかった。男手のほとんどは現場へ借り出され、残ったのは司祭のアーサー、墓守のアリスター、書記のピーター、そして女性使用人たちだけだった。
「アーサー様、私はアリスターと一緒に鐘楼へ。貴方はこの聖堂で、嵐を退ける祈りをお願いします」
ピーターの言葉に、アリスターが付け加える。
「鐘楼にはピーター、お前が先に行け。俺は教会周りを点検してから追う」
「分かりましたよ、アリスター」
古来より嵐は「空の悪魔」の仕業とされ、それを払うには聖別された鐘の音が唯一の武器になると信じられていた。
しかし、巨大な鐘を嵐の間中鳴らし続けるのは、屈強な男二人でも血を吐くような重労働だ。
「わかった。二人とも、どうか気を付けて」
アーサーが見送る中、二人が動き出そうとしたその時、教会の重い扉が乱暴に開かれた。村の男、キャスパーが転がり込んでくる。
「アーサー様! すまねぇ、空の動きが早すぎる。このままじゃ川の堤が持たねぇ。申し訳ないが、教会からもう少し人を出せねぇかい。あの雲の重さ、下手すりゃ雹も来るぜ」
緊迫した沈黙の中、ピーターが真っ先に手を挙げた。
「私が行きましょう」
「その方が良いな。力仕事なら俺の方が慣れてる。必要とあらば、一晩中だって鐘を叩いてやるから、ピーター、お前は村を頼む」
「……分かりました。では、ここはお願いしますよ、アリスター」
アリスターは不敵に笑い、ピーターの中肉中背の肩を力強く叩いた。
「助かるぜ、書記殿!」
キャスパーが安堵してピーターを促したその時、静かだが凛とした声が響いた。
「わたくしも、参りますわ」
一同が振り返ると、そこにはアーサーの母、エレインが固い決意を宿した瞳で立っていた。 「母さん……!? 行くって……!」
「エレイン様、いけません! 一歩外へ出れば、嵐が過ぎるまで戻ることは叶わないのですよ」
慌てて止めるピーターに、彼女は微笑んで首を振った。
「皆さんが泥にまみれて戦っているのに、私だけが温かい部屋に引き籠もっているなんて、出来ません。そうでしょう、アーサー?」
母からの予期せぬ問いかけに、アーサーは胸を突かれた。
「え……あ、はい。そうです。僕もしっかりと神に祈ります。だから、母さんも、村の力になってあげてください」
母の意図が、痛いほど伝わってきた。新米司祭である自分の立場を、母としての行動で少しでも良くしようとしてくれているのだ。
「決まりだ。村じゃ女たちも当たり前に奔走してる。エレイン様が来てくれりゃあ、皆喜ぶでよ」
「分かりました。では、私の目が届く範囲でお願いしますよ、エレイン様」
ピーターは酷く心配そうだったが、一行はキャスパーに連れられ、嵐の中へと飛び出していった。
アーサーは三人を見送った。
残されたアーサーとアリスターが顔を見合わせると、アリスターは「良い母ちゃんを持ったな、司祭様」と言って、一人鐘楼の方へと上がって行った。
一人礼拝の広間に残されたアーサーの心は、情けなさと悔しさでひどく疼いた。
二十歳を過ぎてなお、母にこれほど気を遣わせてしまうなんて……。
先日、昇天祭を無事に司ったとはいえ、世間から見れば自分はまだ「庇護されるべき半人前」に過ぎないのだ。
(だったらせめて、お祈りだけでもちゃんとしなくちゃね……)
自分を鼓舞するように、頭上から腹の底に響くような重厚な鐘の音が鳴り始めた。
ガラン、ゴロンと鼓膜まで抜けるような力強い音は、アリスターが「もっとしゃんとしろ」と自分を叱咤しているようにも感じられた。




