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神父と白い野獣  作者: あともす


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第一話「これが、僕の四角い世界」④

 ミサを終え儀礼用の衣装を脱いで、普段着になったアーサーは一人、息を吐いた。

 やっと本当の意味で自分に課せられた一日の重い役目から解放されたと言う、これ以上ないほどの安堵に包まれた。

「お疲れ様です。アーサー様」

「うん、ピーターもお疲れさま。今日もありがとう」

 アーサーが着ていた儀礼服の抜け殻を抱えたピーターの労いにアーサーは上の空で頷くと、足早に教会を後にして居住区である司祭館へと向かい階段を上がる。

 向かう先は病床の司祭長ジャイルズの部屋ではなく、自室よりも奥に、隠れるように配置された小さな部屋だった。

 小窓も無い扉をノックもせずに開けて中に入ると、そこにはアーサーの母エレインが居た。

 そこは私生児を生んだ女として公式的には居ないものとされ、隠れるように暮らす事を強いられているエレインの自室であった。

 誰も来ない内に扉を閉め、背中で深く息を吐き出す。そこでようやく、アーサーは顔に張り付いていた『若き司祭』の仮面を剥ぎ取ることができた。

「ただいま、母さん」

「お帰り、アーサー」

 二人は余計な事は語らず狭い部屋に置かれた小さなテーブルの席に着いて向かい合う。

 そこには粗末ながらパンと干し肉と木の実、手のひらサイズのお椀に冷えたスープが二人分置かれていた。

 これはエレインがアーサーのために用意した家族だけの夕食だ。

 二人がこんな食事をしているなんて誰も知らないし、教会のしきたりからも切り離された、知られてはいけないものだった。

 それでも、唯一誰の目にも触れない、このささやかな夕食の時間だけは、エレインとアーサーは普通の親子に戻る事が出来るのだ。

 カトラリーもろくに揃っていないのでマナーも気にせず、アーサーはラフに干し肉を齧り、お椀に直接口を付けてスープを啜りながら、今日一日のことを二人はお互いに報告し語り合った。

 だが、二人の間で交わされる話題は明るいものばかりで、苦しい話題が上がる事は無かった。

 そんな分りきったことは、わざわざ口にする必要が無いからだ。

 今はただ、普通でありきたりの温かな親子だけがそこに居た。

 エレインもアーサーの思いを察し、余計なことは言わずにアーサーを労い、幼い子にするように頭や頬を撫でてやるだけだった。


 親子の短い触れ合いの後、何事も無かったかのようにアーサーは司祭長のジャイルズに今日の報告を済ませた。それから形式ばかりの夕食を終え、ようやく自室で自分だけの時間を迎える。

 アーサーは読書や書き物といった、これまた短い余暇を楽しみつつも、机の上に置かれた蝋燭が短くなっていくのを、彼は幾度となく気にしていた。

 やがて時が来ると、寝る前の祈りを捧げる。その最中、部屋の戸が控えめにノックされ、ピーターが顔を出した。

「アーサー、寝る準備はできていますか?」

 二人きりの場ゆえ、その口調は日中よりも幾分かフランクだ。館の見回りついでにアーサーの様子を確認するのは、教区書記であり全ての管理を預かるピーターの、夜の日課だった。

「うん。祈りも済ませたから、これから休むところだよ」

「それなら良かったです。お疲れなのですから、夜更かしせずに体を休めてくださいね」

 アーサーの世話役として彼を熟知しているピーターは、放っておくと朝まで熱心に机に向かいかねない主を、心から案じていた。

「もちろんだよ。おやすみ、ピーター」

「ふむ……おやすみなさい、アーサー」

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。  ピーターの気配が完全に消えたのを確認すると、アーサーはベッドには入らず、自分を案じてくれた彼に対して心の中で小さく詫びた。そしてベッドの下から、一着の服を取り出す。

 それは使い古されて色が褪せ、汗と土の匂いが染み付いた、粗末な麻のチュニックと革のズボンだった。昼間の華やかな礼服とは真逆の、泥臭い「男」の格好だ。

 素早く着替えを終えると、次はクローゼットの奥へと手を伸ばす。二重底に隠された板を外すと、そこには一本のロングソードが眠っていた。

「……やっぱり、格好良いな」

 鈍く光る練習用の武具を手にするだけで、アーサーの心に熱い火が灯る。

 以前、村を訪れた行商人からこっそりと買い取ったそれは、騎士が訓練で使う本格的な造りだった。粗末な村人の格好に、不釣り合いなほど立派な剣。そのアンバランスさこそが、今のアーサーの歪な正体そのものだった。

 装備を整えたアーサーは、窓をそっと開き、音もなく外へと滑り出した。

 二階からの脱出は一見無謀に見えるが、茅葺のハーフティンバー式建築で建てられた司祭館の一部は石造りになっていて、足掛かりとなる突起は多かった。多少の登り降りくらい、鍛えられたアーサーの身体能力ならば、ロープすら必要ない造作もないことだった。

 重い剣を背負ったまま慣れた動きで着地し、彼は建物の裏手に広がる深い森へと消えていった。


 暗闇に沈んだ森の中でも、アーサーの足取りは驚くほど軽やかだ。

 木々の間を縫うように数分ほど走り抜けると、不意に視界が開け、小さな広場が現れた。そこは知る者ぞ知る、アーサーだけの特訓場。

 高貴な身分や聖職にある者が、平民や兵士のように汗を流して体を動かすのは、この時代では「はしたない行為」として禁忌に近い。だからこそ、彼は誰にも内緒で、夜な夜なここで牙を研いでいるのだ。

 広場の中心にある焚き火跡に屈み込み、アーサーは火起こしを始めた。

 火口ほくちにフリントを打ち付ける。静まり返った夜の闇に、『カチッ、カチッ』という硬質な音が響き、散った火花が小さな命を宿した。優しく息を吹き育てれば、松脂の染みた炭から炎が上がり、ゆらゆらとアーサーの顔を照らし出す。  そこにいたのは、昼間の穏やかな司祭ではない。獲物を狙う、一人の男の顔だった。


 周囲数メートルが見渡せるほどに火を大きくすると、アーサーは立ち上がり、ロングソードを近くの巨石に立てかけた。  特訓の始まりは、決まって準備運動からだ。  まずは自作の、砂利を詰めた土嚢を担いで広場を走り込む。次に近くの木の枝を掴み、懸垂を繰り返す。筋肉を限界まで苛め抜いた後は、爆発的な瞬発力を養うためのダッシュ。

 全身が汗だくになり、体が芯から熱を帯びてきたところで、ようやくロングソードを手にする。

「1、2。1、2……!」

 鋭い掛け声と共に、剣を振り抜く。安全のために鞘に納めたままの剣は、その分だけ重さを増していたが、アーサーは迷いなくそれを振り続けた。

 すべては書籍から得た、独学の知識だ。

 幼い頃、ピーターに剣術の師を付けてほしいと何度も懇願したが、「アーサー様は我らが守ります。安心して学問に励みなさい」とはぐらかされるばかりだった。だから彼は、本を読み、見よう見まねでここまで来た。

 始めた当初はろくに構えることすらできなかった重い剣が、今や風を切る音を立てている。だが、実戦としての「剣術」は未だに霧の中だ。本を読むだけでは分からない、命のやり取り。

 それでも、汗を流し、筋肉を震わせている時だけは、無力な自分から別の何者かへと変わっていけるような気がした。

 アーサーは弱い。貴族としての権威もなく、司祭としても未熟で、ルーシーのような哀れな少女に手を差し伸べることすらできなかった。

 だからこそ、いつか自分の力で運命を切り開き、大事な人たちを救いたい。その切実な祈りが、彼を突き動かしていた。

 そうやって、一心不乱に剣を振っていた、その時だった。

 雲が切れ、月の光が不意に地上を明るく照らし出した。

 焚き火の明かりと合わさり、森の闇が薄れる。自分の秘密が白日の下に晒されるような、言いようのない不穏な予感がアーサーを襲った。

「……まさか、こんな夜中に誰かいるわけないよね」

 慌てて周囲を見渡すが、人の気配はない。しかし、背筋を走る嫌な汗が引かず、彼は今日は切り上げることにした。

 急いで焚き火を消し、帰りの準備をしていた時だ。

 視界の端を、何かが横切った。

 反射的に目を追うと、そこには月の光を浴びて白銀に輝く、大きな「白い影」が立っていた。

「ひ……っ」

 距離はある。顔は見えない。だが、それは紛れもなく人の形をしていた。

 白い影は幽霊レイスのように揺らめき、それでいて圧倒的な存在感でそこに佇んでいる。不意に揺らめく影の中にある赤い瞳に射抜かれ、アーサーは魔物への恐怖よりも先に、『特訓を見られた』という絶望的なショックで頭は真っ白になった。

 逃げるべきか、それとも――迷っている間に、白い幽霊のようなものは霧が晴れるように森の奥へと溶けて消えてしまった。

 ほんの数秒の出来事。一言も発さず消えたそれは、幻だったのかもしれない。

 だが、父である伯爵が送り込んだ新たな監視者である可能性も捨てきれなかった。

 アーサーは震える手で荷物を抱え、逃げるように司祭館の自室へと舞い戻った。


 その晩。彼は子供のように毛布を頭から被り、今にも誰かが部屋に踏み込んでくるのではないかと震えて過ごした。だが、結局夜明けまで誰も現れることはなく、あまりの緊張感に、彼はいつの間にか意識を失うように寝入ってしまった。

 次に目を覚ましたのは、無情にも朝の訪れを告げる、教会の鐘の音だった。

【続く】

次回更新では、「神父と神父と白い野獣」の設定資料を公開します。

1話完結ごとに背景設定の一部や中世豆知識などを載せていきたいと思っています。

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