第八話「正しき立場」③
その日の晩。司祭館を抜け出したアーサーは、昼間のトーマスとのやり取りをウルフに報告した。話を聞き終えたウルフは、みるみるうちに顔を紅潮させ、怒りに任せて声を荒げた。
「ふざけるな! 勝手に俺を教会の『慈善の庇護下』に入れるんじゃない! 償いだと? 俺は貴様の教会に施しを受ける筋合いも、頭を下げる謂れもない!」
普段無口なウルフが、怒りのあまり尾を踏まれた狼のように声を上げ、その怒気が夜の森をざわつかせる。アーサーは子犬のように肩を落とすが、それでも目を逸らさなかった。
「俺は誰の飼い犬でもないのに、貴様は俺の行動に『教会の公的な必要性』という鎖を掛けた。……おかげで、あの代官の監視を正面から受けることになったんだぞ。これで俺の居場所は、かえって危うくなったんだぞ!」
これまで距離を測られるに過ぎなかったウルフの存在は、アーサーの一言によって、公然と監視の対象へと引き上げられた。静かに暮らしたいという望みからは、最も遠い位置に追いやられたに等しい。
「ごめんよウルフ。君が憤るのも当然だと思う。僕も本当は君の自由を勝手に縛るような言葉を使いたくはなかった。でも、あの場は仕方なかったんだ」
アーサーは一度息を整え、言葉を選びながら続ける。
「代官殿は、君を『領民の恐怖の源』として攻撃し、そこから僕を追い詰めようとした。だから僕は逆に、『君は教会の慈善の対象であって、私情ではない』と位置付けた。あれが唯一の論理的な盾だったんだ。……君とルーシーを守るためには」
ウルフはすぐには返さず、低く息を吐いた。怒りは消えていないが、ぶつける先を見失ったように背を向ける。
アーサーはその前に回り込み、真っすぐ目を見て言った。
「その代わり、犬の件では譲歩を引き出せた。これは時間稼ぎだ。僕たちには、まだやるべきことがあるはずだろ」
胡坐をかくウルフの膝に置かれた大きな手に、アーサーはそっと自分の手を重ねる。
「今のうちに体調不良の本当の原因を突き止めよう。流浪人の呪いでも、バートンの警備犬でもないと証明できれば、君への干渉の口実は消える」
ウルフは一瞬その手を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
「……む」
「そうなれば、代官殿も教区の者も、もう君に手出しはしづらくなる。君の自由を取り戻すには、これしかない」
ウルフは不機嫌そうに手を振り払ったが、言葉の筋は理解したらしく、小さく頷いた。
「……しかし教会の庇護、か。吐き気がするな」
吐き捨てるように言いながらも、視線は逸らさない。その瞳の奥にあるものは読み切れないが、完全な拒絶ではないと分かり、アーサーは内心で小さく息をついた。
「ありがとう、ウルフ」
そう言ってアーサーが優しくほほ笑むと、ウルフは気まずそうに視線を逸らした。アーサーはそれ以上踏み込まず、話題を切り替える。
「そうだ。これ、持ってきたよ」
「何をだ」
アーサーは足元の包みから紙を数枚取り出してウルフに差し出す。
「ルーシーが診療所で患者から聞いた体調不良の詳細と、直前の行動をまとめたものだよ。ルーシーだけじゃなくてアリスも他の証言を集めてるところだから、そっちも分かり次第まとめて持ってくるつもり」
「イタリア渡りの紙か……。それをそんな風に使えるとは、やはり貴様はボンボンだな」
焚火の光に透かすと、簀の目が薄く浮かぶ厚手の紙を、ウルフは一枚手に取り、興味深そうに眺めた。羊皮紙ほどではないにしろ、質の良い紙は安くなく、その紙束からアーサーの立場の高さがにじんでいた。
「僕がここに居られる時間は限られるからね。文字は、読めるんだろ? じゃなかったらごめんだけど……」
「文字くらい読める。地元ではウェールズ語だがこの通りイングランド語も喋ってるし、ラテン語もフランス語も支障ないぞ」
教養を疑われたことにウルフはむっとして言い返す。
「そ、そうなんだ! なんでそんなに……」
「そんなことはどうでもいいだろ。しかし、俺に言われる前にここまで思い至るとはお前もやるじゃないか」
予想外の教養に、アーサーは思わずウルフを見た。ラテン語やフランス語まで扱うその教養は、流浪人のものではない。むしろ――教育を受けた者のそれだ。彼がどこでそれを身につけたのか、出自への疑問が胸に浮かぶ。だが、今は踏み込むべきではないと判断し、口には出さなかった。
「ありがとう。僕に出来ることは多くないけど、分かってることを共有すれば違うと思って」
アーサーは少し照れたように笑う。
ウルフは軽く鼻を鳴らし、紙に目を落とす。数枚をざっと見ただけで要点を掴んだのか、口角をわずかに上げた。
「……使えるな」
「ふわぁ……」
アーサーは思わず大きなあくびをした。ウルフの疑いを晴らすべく、皆で体調不良の原因を調べ始めてから、前にも増して寝不足だ。
夜、司祭館を抜け出す理由はウルフとの打ち合わせだけでなく、日課の肉体鍛錬もなるべく欠かさないようにしているからだ。多少寝不足でも、それを怠れば彼を助けるどころではなくなる。
そんな調子で、午前中の戸別訪問を続けていたアーサーは、その足で村の外れへと向かった。ウィンドル川のほとりでは、数人の村人がそれぞれ作業をしている。
籠に入れた野菜を川水で洗っている女が上流側におり、少し下ったところでは、別の者が洗濯物を岩に打ちつけていた。日差しを受けた水面が穏やかに揺れ、静かな音が辺りに広がっている。
「こんにちは。今日の具合はいかがですか」
アーサーが声を掛けると、女は手を止めて振り返り、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「司祭様。ええ、だいぶ楽になりましたよ。まだ少し体が重いですけどね」
「それは何よりです。無理はなさらずに」
言葉を交わしながら、アーサーはふと女の手元に目をやった。水に浸された指先は赤く、ところどころ荒れている。
「冷たくありませんか」
「ええ、少し。でもこのくらいなら慣れたものですよ」
そう言って女が笑うのを見て、アーサーも小さく頷いた。
そのまま何気なく、流れに手を差し入れる。
初夏の水はひやりとして、指先を包む。特別冷たいわけでもない。だが、引き上げたあとも、指の表面に何かが薄く残るような、わずかな違和感があった。
アーサーは手を振って水を払う。
(川の水、か……)
ふと、ウルフに渡した報告書の内容が頭をよぎる。
(っと……次の訪問があるんだった。本当に考えることが多いな)
「では、私はこれで」
「はい、司祭様もどうぞお気をつけて」
アーサーは川辺から立ち上がると、村人の女に軽く会釈を交わし、再び歩き出す。
川のせせらぎは変わらず穏やかで、背後で続く作業の音も、いつもと同じように耳に届いていた。
【続く】




