第三話「アーサー・ドミニク・クロムウェル、正気じゃないな」①
低くくぐもった男の呻き声が、空気の澱んだ蠟燭の明かりが灯る薄暗い室内に漏れている。
男は一見すると老婆のような長く白い髪をしているが、髪の隙間から覗く体は若く逞しく鍛えられていた。
彼の透き通るような白い肌には荒縄が食い込み、縄の縁を彩るように肌が赤く擦れ、鬱血していた。
長い白髪の合間から、憎しみに赤く光る眼差しが覗いている。
それに対し、優雅な男の声が恍惚とした語り口で嘲った。
──「ウルフ……呼び名の通りまるで北方の狼みたいに美しい体だな。全く、大人しく御されるなら戦闘奴隷などではなくちゃんと可愛がってやったものを」
その愉悦に満ちた不愉快な笑い声が、ウルフと呼ばれた男の中にいつまでも響いていた。
「ハッ……!」
ウルフはゆっくりと目を覚ますと、荒い息を吐きながら、夢の中と同じように苦く憎しみに満ちた声で「フィッツアラン……」と呟いた。
男はかつてウルフと呼ばれ、戦場で恐れられたケルトの末裔であり、彼は未だに過去の傷に心を苛まれていた。
〝フィッツアラン〟は、そんなウルフの悪夢の源泉であり、彼とその一族の運命を弄び、残酷な主としてウルフの上に君臨していた男の名であった。
それは、村で異形の流浪人として疎まれている男の、知られざる苦悩の一端であった。
「え、あの噂の流浪人に会ったの? 教会の中になんて入れて、よくバレなかったわね」
礼拝の広間で掃除をしていたアリスは、手を動かしながら交わしていた何気ない会話に挟まれた、彼からの衝撃の告白に驚いた声を出す。
「うん。嵐でみんな村の手伝いに行っていて、誰も居ないから、つい……」
アリスの勢いに押されてしどろもどろになりつつ、アーサーは言い訳交じりに流浪人を教会に匿った弁明をする。
申し訳なさそうな割に、その瞳の奥では反省してなさそうな若い司祭の様子に、アリスは頭を抱えた。
「もう……一人で何て危ないことを。アーサー、あなた自分の立場分かってるの?」
「そんなこと言ったって、嵐に困ってる人は放っておけないよ。教会は本来全ての人のためにあるワケだし」
「確かにそうだけど、世間はそうもいかないわ。特に、あの人と関わったことをトーマスさんが知ったら良い顔はしないでしょうね。不祥事にでもされてあなたのお父様と、あなたを預かってるペンストレイトとの全面戦争にでもなったら……こんな村、すり潰されて消えちゃうわよ」
本来、アーサーが何らかの不祥事を起こせば、このアッシュワース村という荘園を監督し、アーサーの教育係をしている代官の監督不行き届きとしてトーマスも罰せられるはずだ。
だが、狡賢い彼は『未熟な司祭が素性の知れない人間を教会に招き入れた』という蟻の一穴を知れば、見逃さず利用するだろう。
戦争が起こるというのは言い過ぎにせよ、アーサーの名誉や純真が悪意で傷つけられるようなことになって欲しくないとアリスは案じていた。
「……旦那様は、この教会の後援権が守れたら、僕みたいな出来損ないなんかどうなっても良いって思ってるさ」
ふと視線を落として零したアーサーの自嘲に、アリスは手を止めた。
「うーん。私はあなた達親子の事は良く知らないけど、少なくともあなたがこの村から消えちゃうのは嫌だわ。だから、あんまり無茶なことしちゃ駄目よ」
アリスに貴族の世界は分からない。だが、アーサーには幸せになって欲しいし、出来ればアリスの目が届くこの村にずっといて欲しいと願っていた。
「ごめん、心配かけてばっかりで」
「取り敢えず、何もなくてよかったわ。流浪人、異教徒だったんでしょ?」
「うん。でも、多分優しい人だよ……だって彼、ルーシーを助けてくれた恩人なんだ。それに僕にも……お礼をくれたし」
「お礼?」
「これだよ」
アーサーはポケットから流浪人の男に貰ったエスニックなペンダントを出してアリスに見せた。
「ナニコレ、すっごい!」
アーサーの手の中にある、金の針が混じった水晶と深みのあるメノウが繊細な金細工で飾られた見事なペンダントに、アリスは感嘆の声を上げる。
紐こそ革製だが、それは庶民が普通に生きていたら、先ずお目にかかれないクラスの宝飾品だった。
「すごいだろ。僕の宝物だよ」
「これに付いてる小さな宝石の一つでも売ったら、あの日に消えた毛布とぼろ布が一体何枚買えるかしら」
嬉しそうにしているアーサーには悪いが、いまいち物事の捉え方が軽い彼に、アリスは敢えて意地の悪い言い方をする。
「ほ、施し自体は、求めてきた人にあげたって正直に報告しただろ!」
「施しの相手があの流浪人だったとは、言ってなかったでしょ?」
「それは、そうだけど……だからアリスにだけは教えただろっ」
「司祭様、懺悔は懺悔室でお願いいたします。でも私は女の子だから司祭の真似は出来ないし、困っちゃうわ?」
「アリスー。もう、許してよー!」
からかわれたせいでアーサーはタジタジになってしまうが、そんな彼の愉快な様子にアリスは満足し、話を切り替えることにした。
「まあいいわ。で、私に何してほしいの? アーサーがこんな大事な話をただ世間話で私にしてる訳じゃないでしょ」
アーサーはアリスの問いに気まずそうにしつつも、促されるまま本題を告げた。
「あ、えっと。うん、実は……また彼に会いたいんだ。それでルーシーに相談したいから、みんなで森に集まりたい」
アーサーの発言に、アリスはあっけにとられてしまい、暫し言葉に詰まりつつ問い返した。
「……呆れた。私の話聞いてた? 流浪人にはもう関わっちゃダメって言ったでしょ」
「聞いてたよ。でも会いたいんだ……彼はきっと大丈夫だよ。本当に危なかったらすぐ逃げるし」
「彼が危ないとかじゃなくてね……」
メチャクチャなことを言うアーサーを、アリスは何とか諫めようとするが、彼はアリスの手を取り真剣な眼差しでなおも縋る。
「お願い。こういう時に頼れるのはアリスだけなんだ」
「……わかったわ。ダメって言ったらきっと勝手に会いに行っちゃいそうだから、私たちも一緒に行くなら考えるわ」
アリスは自分を見つめるアーサーを見て、これ以上彼を押し止めるのは難しいと悟った。
どうしても止めようとするなら、アーサーよりも力のある人に相談しなくてはいけないだろう。そうなれば、秘密がバレる確率が上がってしまう。
秘密がバレる先にトーマスが居ると思うと、ある程度のことは自分の目が届く範囲で好きにさせておくしかないとアリスは覚悟を決めた。
「いつもありがとうアリス」
「いーえ、私もあなたのお目付け役の一人ですから。でも、ちゃんとパパとママには内緒にしていてあげる。後で先に森の中で待ってて直ぐに追い掛けるから。取り敢えず、教会の掃除を終えちゃいましょ」
「うん!」
ごり押しとは言え、協力者を得て喜色満面のアーサー。
彼の行いはいつも危ういが、この無邪気な笑顔を見せられるとアリスはどうにも弱い。
普段は完璧な司祭を装ってるアーサーが、アリスとルーシーと一緒に居る時だけ見せる、成人年齢に似合わない無垢な子供っぽさをどうにか守ってあげたい気持ちになってしまうのだ。
(貴族のしがらみのせいで自由に友達も作れないなんて、淋しいに決まってる……)
アリスも平民なので本来はアーサーとは表立ってはあまり仲良く出来ないはずなのだが、アリスの生家であるミルナー家が粉挽きという村でも立場ある家のため、黙認に近い形で親交を許されている事情があった。
しかし、二人と仲の良いルーシーは孤児という村でも特に立場が低い下層民のため、アーサーとルーシーの二人だけで行動するのははばかられてしまう。
だが、アリスとルーシーは同じ平民の女同士として行動が許されているため、いつのころからかアリスが仲介となることで、この三人ならひっそりと行動を黙認されやすかった。
とはいっても、アリスが居たとてアーサーとルーシーが一緒に居るのは外聞が悪いため、込み入った話をするときは村人が許可なくやって来ない、教会の息がかかった裏手の森をよく利用していた。
この森はかつて、元気だった頃のジャイルズ司祭長が、逃げ場の無いアーサーのために一人になれる場所として表向き精神集中の場をという理由で教会や伯爵に掛け合ってくれた、特別な「聖域」だった。
おかげでアーサーは今でも森に自由に出入りして毎晩特訓をしたり、三人の会合場所にしたりしているのだ。
それから三人は森で密談を済ませると、ウルフのいる場所にこっそり行ってみることになった。




