第98話「多言語観光案内、最後は絵本になる」
◆朝・観光課資料棚前(読まれなかった案内ほど、机の上できれいな顔をして積み上がる)
観光課の棚には、失敗した案内が残りやすい。
配れば減るはずの紙が減らないまま束になり、束になったまま日付だけが古くなり、やがて誰も触らない見本みたいな顔で端へ寄せられる。成功した案内は街へ散って消えるのに、伝わらなかった案内だけは律儀に庁舎へ残り続ける。その積み重なりを前にすると、観光行政というのは華やかな催しをつくる仕事でもあるが、同時に「読まれなかった紙」と向き合う仕事でもあるのだとよく分かる。
その朝、勇輝が観光課の資料棚の前で立ち止まったのは、まさにその“読まれなかった紙”が、いつもより露骨に増えていたからだった。
日本語版の温泉マナー案内。
英語版の駅前マップ。
エルフ語併記の商店街ガイド。
異界市場の歩き方。
写真撮影のお願い。
どれも作る時には真面目に頭を抱え、印刷して配る瞬間には少しだけ手応えがあったはずなのに、棚へ戻ってきた今はどれも静かで、静かなだけに、失敗の気配がよく見えた。
「観光課が泣いてる、って総務から聞いた時点で嫌な予感はしてたけど、これはまた景気よく戻ってきたな……」
誰に聞かせるでもなくこぼしたその一言に、観光課の担当が奥の机から顔を上げた。徹夜まではしていないはずなのに、目の下に薄い影がある。最近の観光課は、異世界転移後のにぎわいのおかげで仕事が増えたというより、「伝わらない相手にどう伝えるか」の手間が一気に厚くなっていた。
「おはようございます。見つかりましたか、墓場」
「墓場って自分で言うな」
「でも、そう呼びたくなる棚です。読まれなかった案内の見本市みたいになってるので」
「原因は?」
「翻訳です」
担当は、もはや言い切るしかない顔になっていた。
「正確には、翻訳の限界です。言葉を増やしても伝わらない。増やせば増やすほど、別の誤解が生まれる。その果てに……」
そこで観光課の会議室の方を見た。
机の上に、妙に厚みのある紙束が見える。
「最後が絵本になったわけか」
「はい」
担当は静かに頷いた。
「ついに、そこへ来ました」
◆朝・異世界経済部まわり(文字が役に立たない場面はある。だが役所は、文字の次に何を持ち出すかで毎回迷う)
美月がその報告を聞いた時の第一声は、予想どおり半分だけ喜色を帯びていた。
「来ましたね、予告回収。役所が絵本」
「そこに回収の爽やかさを見出すな」
勇輝は端末を机へ置いた。
「観光課の机にあるのは、たぶん“楽しくてできた絵本”じゃなくて、“文字でやり切れなくてたどり着いた絵本”だから」
「でも、絵本って強いですよ。子どもも見られるし、読めなくても意味が取れるし」
美月はそこで少し真面目な顔に戻る。
「異界の人相手だと、ほんとに文字が邪魔になることありますし」
「ある」
勇輝もそれは否定しなかった。
「ただ、役所が絵本を作る段階まで行くと、だいぶ追い詰められてる」
加奈が紙コップを机へ並べながら、楽しそうというより納得した顔で言う。
「でも、たぶん今のひまわり市なら、そこまで行った方が自然なんだろうね。日本語が通じないだけじゃなくて、同じ単語でも受け取り方が違うんでしょ」
「そうなんだよ」
勇輝は頷いた。
「通じない、より厄介なのは、通じた“つもり”になることだ」
そこへ市長も入ってきた。最近の市長は、異世界経済部まわりで騒ぎが起きると、執務机へ戻るより先にこの部屋へ顔を出す癖がついている。
「観光課が絵本を作ったそうだな」
「知ってるんですか」
「観光案内所の所長から聞いた。“もう文字だけでは足りない”と」
「足りないのは分かりますけど、行政の最終回答が絵本なのは、だいぶ町の進み方が独特なんですよ」
「伝わるなら形は問わない」
市長はそう言ったが、勇輝はすぐには乗らなかった。
「問います。行政なので。かわいければ正義、で終わるとあとで現場が詰む。観光客に渡すもの、宿に置くもの、事業者が説明責任を持つためのもの、その区別は必要です」
「そこまで含めて見に行くべきだな」
「そうします」
◆午前・観光課会議室(翻訳が崩れた痕跡は、失敗例を並べた時にいちばんよく見える)
観光課の会議室は、紙と付箋と色ペンで埋め尽くされていた。
壁際には地図の試作が何種類も立てかけられ、机の中央にはパンフレット、案内板、対訳リスト、指さしシート、そして最後にたどり着いたらしい厚紙の束が鎮座している。資料の量だけ見れば、ひとつの小規模イベントを走らせる直前みたいだ。けれど実際にやっていたのは、もっと根本の仕事だった。町の使い方を、来たばかりの人にどう伝えるか。その方法が揺らぐと、温泉も商店街もゴミ置き場も夜の静けさも、全部いっぺんに崩れる。
「これが、問題の絵本です」
担当が差し出してきた厚紙の束を受け取る。
表紙には、湯けむりの向こうに温泉街、商店街、ドラゴン停留所、異界市場、そして笑顔の案内係が並ぶ絵が描いてあった。
『はじめての ひまわり市
〜温泉とごはんとルールのほん〜』
「かわいい」
加奈が素直にそう言った。
「かわいいな」
勇輝もそこは認めた。
「認めるけど、観光課がここへ来るまで何があったか先に聞きたい」
担当は、もはや順番に敗北を報告するしかないような顔で、これまでの多言語案内の歴史を語り始めた。
「最初は普通の多言語パンフでした。日本語、英語、エルフ語、ドワーフ語、魔族語。最低限この五つがあれば回ると思ったんです」
「思いたい気持ちは分かる」
「ところが、“正確に訳した”のに伝わらないことが続きました」
机の上から、まず一枚の温泉マナー案内が取り上げられた。
「『入浴前に体を洗ってください』」
「基本だな」
「これを魔族語へ訳したら、“湯へ入る前に身を浄める儀式を行え”という響きになりました」
「儀式にするな」
「向こうにとっては自然な言い換えだったんです。結果、湯船の前で妙に厳かな動きが増えました。静かに祈る人まで出ました」
「真面目に守ってるのに、現場は困るやつだな……」
次に出てきたのは、商店街の歩き方ガイドだった。
「『並んでお待ちください』」
「これが?」
「ドワーフ語だと、訳し手の癖で“隊列を乱すな”に近い命令形になりまして」
「強い」
「強すぎました。屋台前で自然発生的に小競り合いが起きました。“命令される筋合いはない”って」
「お願いが号令になるのはまずいな」
さらに、写真撮影案内の一枚が机へ置かれる。
「『撮影は周囲に配慮して行ってください』」
「難しそうだな、これ」
「エルフ語だと上品にまとまったんですが、英語版と魔族語版の意味の焦点がずれました。片方は“静かに撮れ”、片方は“許可を得ろ”へ寄って、宿で説明がばらついたんです」
「同じルールのはずが、言語ごとに違うルールみたいに聞こえるわけか」
「そうです。しかも宿側は“市の紙に書いてあった”と言うので、現場で修正が効きづらい」
美月は、机の端に積まれている防水コートの小冊子へ視線を移した。
「これ、スライム用?」
「……試しました」
担当は遠い目になった。
「文字が読めないのではなく、長く触ると表面加工がぬれてにじむんです。読む以前に紙がつらい」
「紙の方が負けるのか」
「ええ。あと、スライムは文字を順に追うより、絵や色の変化で意味を取る方が早いことも分かりました」
市長は、そこでようやく絵本の表紙をもう一度見た。
「つまり、文字を増やしても、改善ではなく誤差が増えていったわけだ」
「その通りです」
担当は頷いた。
「翻訳語を増やすたびに、概念のずれを修正する注釈が必要になりました。でも注釈を足すと、今度は読まれなくなる。読まれないなら絵で示した方が早い、という結論に追い込まれました」
勇輝は、その“追い込まれた”という言葉に納得した。
絵本という形式は、可愛さの選択ではなく、翻訳の破綻を前にした現実的な迂回なのだ。
◆午前・現場聞き取り(言葉の失敗は、現場に行くと“ちょっと困った”の顔で静かに積もっている)
会議室の紙だけでは足りないので、その日のうちに現場を回ることになった。
最初は温泉街。朝の湯気がまだ通りに残っている時間帯で、宿の女将たちは湯桶を揃えながらも、役所の人間が来るとすぐに“あの紙なんだけど”という顔になる。
「前の案内、悪くはなかったのよ」
老舗旅館の女将がそう前置きした。
「ただ、魔族のお客さまが“儀式の順序はどこまで厳密か”って真顔で聞いてきてね。こっちは“いや、そんなたいそうな話じゃなくて、軽く体を流してね”って言いたいんだけど、紙が立派すぎると、その場で崩しにくいの」
「紙が現場を縛る感じか」
「そうなの。役所の言葉って、ある種の人には“正解”に見えるでしょう。だから、少し強すぎる表現が入ると、宿の説明より紙の方が偉くなっちゃうのよ」
次に行ったのは観光案内所だった。案内所のカウンターには、地図だけでなく、色分けした札や、指さし用のイラストカードがすでに並んでいる。つまり、現場は前から“絵”へ寄っていたのだ。
「言葉で説明しようとすると、どうしても止まるんです」
案内所の職員が、外国人観光客向けの紙束を揃えながら話す。
「駅から温泉までの道、河川敷の停留所、夜の静けさ、写真OKかNGか。単語だけだと足りないし、文章にすると長い。長いと途中で見るのをやめる。だから今は、まず地図に絵で印をつけて、あとで言葉を足してます」
「現場が先に絵本へ寄ってたんだな」
「絵本というより、“言葉を絵の後ろへ回す”感じですね」
異界市場でも同じだった。
市場の案内板は、文字より先に色と記号が立っている。食べ歩きOKの区域、座って食べる場所、火気注意、精霊用の小皿返却箱、写真に入れてよい店とそうでない店。あの市場が回っているのは、実は最初から“文字を信じきらない運用”がされていたからなのかもしれない。
「だったら、観光案内だけがまだ文字へ未練を持ってた感じか」
勇輝が市場から戻る道すがらそう口にすると、美月が端末を抱えたまま大きく頷いた。
「役所って、最後まで文字を信じたいですもんね」
「信じたいというか、文字は責任の置き場所になるからな」
「だから絵本にするなら、“かわいいから”じゃなくて“責任が持てる設計”にしないといけない」
「その通り」
◆昼・二層構造の発想(観光客に渡す紙と、説明責任を持つ側の紙を同じものにしないと決めた瞬間、設計が一段進む)
庁舎へ戻ると、勇輝は観光課の会議室の真ん中へホワイトボードを引っ張り出した。
そこへ迷いなく二本の線を引く。
『観光客向け』
『事業者向け』
「分けます」
そう言い切ると、観光課の担当が少し息を止めたような顔になった。
「絵本一本で全部済ませようとしてたんですけど……」
「済まない」
勇輝は首を横に振る。
「観光客が必要なのは、まず“どう動けばいいか”の最短距離だ。温泉へ入る前に何をするか、どこで待つか、どこへ捨てるか、夜に何を控えるか。基本動作だけを絵と少ない言葉で出す」
「それが絵本」
「そう」
「じゃあ、事業者向けは?」
加奈が続けるように聞いた。
「宿、ガイド、案内所、屋台、停留所係。説明する側には、例外と理由が要る」
勇輝は二本目の線の横へ書き足した。
「つまり詳細版。文字でやる。誰にでも配る必要はないけど、説明責任を持つ側には必要」
美月が、そこでようやく声の明るさを少し仕事の方へ寄せた。
「二層構造ですね。観光客には絵本。宿とガイドには詳細版。窓口にはQ&A」
「それで行く」
「だったら、“全部が絵本になる”わけじゃない」
「役所としても、その方が助かる」
観光課の担当は明らかに表情を戻した。
「かわいいだけで押し切る形じゃなくなるので」
市長は腕を組みながら、どこか満足げだった。
「よい。伝えるための紙を分けるだけだ」
「だけ、で済ませるには作る紙が増えます」
「増えても、伝わらない紙を何度も刷るよりましだろう」
その一言だけは、珍しく正しかった。
勇輝は、そこでようやく絵本の中身を本気で見る気になった。絵本自体を否定するのではなく、絵本が担う役割を限定できたからだろう。
◆午後・絵本制作会議(役所が絵本を作る時、可愛さだけではなく“誤解されにくさ”まで会議に乗る)
午後の制作会議には、観光課、広報、美月、そしてなぜか加奈まで呼ばれた。理由は簡単で、町の“普通”を一番自然に説明できる人間が必要だったからだ。役所の会議は理屈へ寄りすぎる。理屈だけで温泉マナーや夜の静けさを描くと、たいていよそよそしい紙になる。
机の上に並んだラフを見ながら、最初に問題になったのは温泉のページだった。
「最初のページ、何を一番先に置く?」
観光課の担当が色鉛筆を持ちながら尋ねる。
「かけ湯かな」
加奈が即答した。
「いきなりドボンが一番揉めるし、言葉が通じなくても、あれだけは動作で見せた方が早い」
「順番としてもいいですね」
美月のペンが動く。
「服を脱ぐ、体を流す、湯へ入る。三コマでいけます」
「タオルは?」
「別コマ」
勇輝が口を挟む。
「一緒にすると絵が混む。しかも“タオルを湯船に入れない”は結構大事だから、湯の外へ置く絵で一枚ほしい」
次に問題になったのは、夜の静けさをどう描くかだった。
日本語なら「夜は静かに」で済む。しかしそれをそのまま絵へすると、“静か”の基準が人によって違う。
「これ、“口を閉じる”絵だけだと、会話全部禁止みたいに見えるかも」
広報の担当がラフを見ながら言う。
「かといって、宿泊者が宴会みたいに盛り上がる絵を入れると、今度は“そこまではいいのか”ってなる」
「詠唱は部屋の中、が入ってると一気に異界寄りだけどな」
勇輝が苦笑した。
「でも、現実にそこが揉めるなら入れないわけにいかない」
「じゃあ、部屋の扉を閉めて、その中で小さく光る文字、外には音符にバツ、でどうです?」
美月のラフが机へ出る。
「いい」
加奈がすぐに頷く。
「“魔法全部禁止”じゃなく、“部屋の中でね”って感じが出る」
さらに難しかったのは、ドワーフ向けの“命令に見えない絵”だった。
文字で強く見えるなら、絵でも強く見える。指差しの手、腕組みの係員、赤いバツが大きすぎる構図。そういうものは全部、統制や禁止の印象を濃くする。
「禁止マークは必要だけど、前に出しすぎない方がいい」
勇輝がラフを見ながら言う。
「先に“こうしてね”を見せて、その後ろに小さくNGを置く」
「お願い顔の案内係、やっぱり入れます?」
美月が半笑いで聞く。
「必要なら入れる」
「行政がお願い顔のキャラを採用する日が来るとは……」
「自治体って、結局そこへ行くんですよ」
加奈が笑う。
「固い言葉だけで伝わらないと、最後は顔になる」
市長はそこで、わりと真顔で言った。
「ゆるキャラは自治体の武器だ」
「今日の議題、観光案内の絵本ですよ」
勇輝は返したが、完全否定もできなかった。
実際、無機質なアイコンより、案内する顔のついた小さなキャラクターの方が、命令ではなくお願いとして見えやすい。理屈ではなく、そういう視覚の癖がある。
会議は長引いたが、長引いたぶん、絵本の骨組みはだんだん役所らしくなっていった。かわいいことが目的ではなく、誤解を減らすこと。言葉を抜いても、行動が残ること。宿や案内所の説明と矛盾しないこと。その全部を満たす必要があるから、絵本なのに会議の中身はかなり行政だった。
◆午後・詳細版の整備(絵本だけでは回らない現場ほど、裏側の紙が厚くなる)
絵本のラフが固まり始めたところで、勇輝は詳細版の方も同時に走らせた。
こちらは絵本ほど華やかではない。宿向け、観光案内所向け、屋台向け、停留所担当向けの四種類に近い文書になる。だが、現場で本当に役立つのはむしろこちらだった。
「温泉のページなら、宿向けには“かけ湯の説明を求められた時の言い換え例”まで入れたい」
観光課の担当がメモを取る。
「“儀式ではなく、湯を清潔に使うための習慣です”とか」
「いいですね」
勇輝も乗る。
「写真撮影なら、“人が映る時は一声”“祭りの最中は会場ルール優先”“精霊展示は許可札がある場所のみ”まで分けたい」
「ガイド向けには、道案内でドラゴン停留所をどう説明するかも要ります」
広報の担当が資料をめくる。
「“危険だから離した”じゃなく、“広くて待ちやすい専用場所がある”へ寄せる」
「それ、昨日の広報騒ぎで散々分かったやつだな」
「だから今のうちに文字へ残します」
加奈は、その文字ばかりの紙を見ながら苦笑した。
「絵本の裏で、役所っぽい紙がちゃんと育ってる」
「役所はそこが本体だからな」
勇輝は答えた。
「表はやわらかくしても、裏の説明が弱いと現場が困る」
美月は、その両方を並べた状態に少し感心したようだった。
「表が絵本で、裏が説明責任の束。なんか、ひまわり市っぽいですね」
「妙に納得するな」
「だって、今の町って“まず伝わる形にして、そのあと制度で支える”の繰り返しじゃないですか」
「それはそうだな」
◆午後・案内所スタッフ向け読み合わせ(紙が完成しても、配る人の口が紙と違う方向を向いていたら、だいたい最初の三日で崩れる)
絵本と詳細版の骨組みが見えた段階で、勇輝はもう一つだけ足りないものに気づいた。
配る紙はできても、配る人の口がまだ旧来の言い方のままだ。観光案内所、停留所係、宿の若いスタッフ、駅前の臨時案内員。紙が新しくなっても、人の説明が古いままだと、結局は現場でまた別の翻訳が始まる。
「読み合わせをやりましょう」
会議室の空気が少し静まる中でそう切り出すと、観光課の担当が驚いたように顔を上げた。
「台本みたいに、ですか」
「台本というより、口癖の整理です」
勇輝は詳細版の一枚を持ち上げた。
「たとえば、温泉で“体を清めてから”と言う人がいる。たぶん悪気はない。でも、その言い方が魔族語の“儀式”をまた呼ぶなら、口の方も直さないと意味がない」
「なるほど……」
加奈が納得したように息をもらす。
「紙だけ変えても、案内する人の言い回しがそのままなら、またそこでずれるんだ」
その日の夕方、観光案内所の裏スペースに、宿の若い従業員や停留所の係が集められた。
机の上には絵本と詳細版。壁には、言い換え例が大きめの紙で貼られる。
『言い換え例
× 儀式をしてください
○ 先に体を流してください
× 隊列を乱さないでください
○ 順番にどうぞ
× 危険なので近づかないでください
○ こちらの場所で見ると安心です』
読み合わせは、思ったよりずっと実務的だった。
観光案内所の職員が、温泉へ向かう家族連れを想定して声を出す。
宿の若い仲居が、写真撮影の可否を聞かれた場面を読む。
停留所係が、ドラゴン観光客へ河川敷の位置を説明する。
「“禁止”から言い始めると、やっぱり空気が固くなりますね」
案内所の職員が自分で読んでみて、そう言った。
「うん」
加奈がその場にある絵本を軽く開く。
「この本も、“やっちゃだめ”の前に、“こうするといいよ”を置いてるからね。読む人の肩が上がりにくい」
「役所の言葉って、正しいだけだとたまに立ちすぎるんですよ」
観光課の担当が苦笑する。
「だから現場では、少し丸くして言ってたんですけど、それが今度はバラつきの原因になってて」
「今回はその“丸くする”を共有化する」
勇輝は答えた。
「人ごとに優しさの形が違うのはいい。でも、町のルールまで人によって違って聞こえたら困る」
読み合わせの最後、駅前の観光案内を担当している臨時スタッフがこんなことを言った。
「絵本、正直なところ最初は軽すぎると思ってました。でも、読んだあとに口で一言足すと、前よりずっと説明しやすいです」
「それです」
勇輝はすぐに頷いた。
「絵本だけで完結させるんじゃなく、“同じスタート地点”を作るための紙として使う。その先は現場の会話で補う。たぶん一番強いのはそこです」
◆夕方・駅前観光案内板前(“名所紹介の紙”から“町の使い方の紙”へ変わると、案内板の立ち方まで少し変わる)
そのまま一行は駅前へ回った。
ひまわり駅の観光案内板は、転移直後に急いで作り直したきり、継ぎ足しのような修正を何度も受けている。矢印が増え、言語が増え、注意書きが増え、今では一枚の板に町の情報を詰め込みすぎて、どこから読めばいいのか分かりにくくなっていた。
「これも、絵本に引っ張られて直した方がいいかもしれませんね」
美月が案内板の前へ立ちながら言う。
「地図は地図で要るけど、“この町で先に知っておくと困りにくいこと”が散らばってる」
「たしかに」
勇輝も看板全体を見上げた。
「名所、温泉、市場、停留所、写真、ゴミ、夜の静けさ。全部が別の紙へ飛んでる」
「観光客の頭の中では、一つの町のことなのにね」
加奈が横に並ぶ。
「案内する側だけが、課ごとに分けてる」
そこで観光課の担当が、ぽつりと漏らした。
「だから絵本になったのかもしれません」
「ん?」
「パンフも案内板も、課ごとに切り出した情報の集まりだったんです。観光は観光、環境は環境、停留所は停留所。でも来た人からすると、“ひまわり市でどう過ごすか”は一つの流れなんですよね」
「そうか」
勇輝は少しだけ目を細めた。
「絵本って、結局、情報を一冊の順番に戻してるのか」
「たぶん」
担当は小さく頷いた。
「だから役所っぽくないようで、実は今の町に一番必要な整理の仕方だったのかもしれません」
駅前案内板の端には、仮で絵本の表紙見本が貼られた。
そこへ足を止めた家族連れが、子どもに読ませるようにして開く。親は地図を見る。子どもは温泉の絵を見る。その横で、停留所を探していた異界の旅人が、ドラゴンのページに目を留める。
それぞれ見ているところは違うのに、出発点が同じ本になった瞬間、案内の立ち上がり方が少し変わる。その変化を目の前で見ると、観光課がここまで追い込まれて作った紙にも、ちゃんと意味があったのだと思えた。
◆夕方・試し配布一回目(机の上で“伝わるはず”と思ったものが、本当に伝わるかは、配った瞬間の沈黙でだいたい分かる)
試作ができた時点で、観光課は待てなかった。印刷所へ本刷りを回す前に、一度現場で反応を見る必要がある。だから夕方、異界市場の前で絵本の試作品を配ることになった。
最初に受け取ったのは、果物屋台の前をうろうろしていたスライムだった。ぷるぷるした身体の中へ、表紙の湯けむりの絵がにじんで映る。スライムは文字を追わない。けれど、絵の順番には案外素直だった。
美月が様子を見守る中、スライムは鼻先もない身体の前面で器用にページをめくった。
一枚目。温泉の入口。
二枚目。かけ湯。
三枚目。タオルは外。
四枚目。ごみの色分け。
ページが変わるたびに、スライムは小さく鳴いた。
『ぷる(温泉)』
『ぷる(かけ湯)』
『ぷる(タオルは外)』
観光課の担当は、そこで本気で泣きそうな顔になった。
「読めてる……」
「読んでるというか、動きが分かってる」
勇輝は冷静に言い直した。
「でも、それで十分だ」
次に近づいてきたのは、河川敷側から来た小型のドラゴンだった。以前の案内では「ドラゴンは読まない」と観光課がぼやいていた相手である。ドラゴンは絵本を鼻先でつつき、ぺら、と爪でページを動かした。停留所の絵が出たところで動きが止まり、河川敷の方向へ尻尾がすっと向く。
「……分かってるな」
加奈が笑いをこらえながら言う。
「読まないんじゃなくて、字だけだと読む気が起きなかったのかも」
「痛い指摘だな」
観光課の担当は本気でそう言った。
「たしかに、前の文字だらけの案内板、ドラゴンの視線の高さだと見づらかったですし」
エルフの観光客は、普通に読み、普通にうなずいた。
その“普通に”が、今はやけにありがたい。
「これは親切ですね。子どもにも見せられる」
森の民の家族連れらしいエルフが表紙を撫でる。
「字が読めない相手を前提にしているのに、読める者にも失礼ではない」
「そこ、すごく大事なんです」
美月は反射的に前へ出かけたが、今日は自分で勢いを抑えた。
「簡単にしすぎると、今度は“幼く見てる”って受け取る人もいるので」
ドワーフは、最初にページの絵柄より、案内係キャラの表情を見ていた。
「……命令しておらん」
「そこ?」
勇輝は思わず聞き返した。
「そこじゃ。顔が柔らかいと、頼まれておる感じが出る」
「顔って、やっぱり効くんだな……」
魔族の観光客は、最後までめくったあと、かなり行政的な評価を返した。
「合理的だ。禁止そのものより、なぜそれが安全につながるかを図で見せている」
「理由が欲しい傾向、本当にあるんですね」
観光課の担当が小声で漏らすと、相手は少しだけ笑った。
「理由のない禁止は、力に見えるからな」
その一言は、絵本だけでなく、最近のひまわり市の広報と運用のほとんど全部に通じる気がして、勇輝は心の中でだけうなずいた。
◆夕方・試し配布二回目(温泉と宿で通るかどうかを見ないと、観光案内は“かわいくて終わる紙”になりやすい)
異界市場での反応が悪くなかったからといって、それだけで本採用にはできない。観光案内は、温泉街と宿で詰まることが多い。つまり、旅先でいちばん気が緩み、同時に生活習慣の差が出やすい場所だ。
老舗旅館のロビーで試しに置いてみると、まず目を留めたのは子ども連れの家族だった。母親が子どもへ見せながらページをめくり、かけ湯の絵で止まる。
「ほら、最初にこれだって」
「おふろにはいるまえ?」
「そう。いきなり入らない」
女将は、その横で少し驚いたように表紙を見たあと、三ページほど読んでから息をついた。
「これなら、“紙にそう書いてあるから絶対こうです”じゃなく、“こうするとみんなが気持ちいい”に見えるわね」
「宿の説明とぶつからないですか」
観光課の担当が不安そうに聞く。
「ぶつからない。むしろ、ここまでは紙に任せて、その先の細かいところだけ口で足せる」
「よかった……」
「ただ、最後のページは変えた方がいい」
「え?」
「“わからないときは しやくしょへ!”って、観光客に市役所へ行けって言ってるの?」
「そこは修正予定です」
勇輝がすぐ答えた。
「観光案内所と宿に振りたい」
「それがいいわ。困った人が全員市役所へ行ったら、宿の仕事が消えるし、市役所も混む」
この指摘は、勇輝もすでに気になっていたところだった。役所は最後の支えではあっても、観光客の第一相談窓口になるべきではない。絵本が優秀であるほど、最後の一文の誘導先は重要になる。
別の宿では、案内係がもっと実務的な反応を返した。
「このページ、写真OKとNGのマーク、宿ごとに差し替えられます?」
「差し替え前提のデータを作ります」
美月が即答する。
「共有の基本版と、宿ごとの追記欄あり版」
「助かる。館内全部同じじゃないから」
「そうですね。“ひまわり市全体のルール”と“この宿のお願い”を重ねられる形の方が長持ちする」
勇輝もそこへ乗った。
つまり、絵本は完成品ではなく、“現場が自分の事情を足せる骨組み”である方が強い。そのことが、配ってみて初めてはっきりした。
◆夕方・最後の修正(役所を“最後の砦”にしてもいいが、最初の入り口にしてはいけない)
庁舎へ戻ったあと、勇輝は絵本の最終ページを真正面から修正した。
元の文面は、確かに気持ちは分かる。
困ったら市役所へ。行政としては頼もしく見える。だが、観光客の導線としては重すぎる。言葉が通じない人、地理が分からない人、ただタオルの扱いで迷った人まで、市役所へ引っ張るわけにはいかない。
「最後のページ、こう変えます」
赤ペンで大きく直した。
『わからないときは
かんこうあんないじょ
おやど
スタッフへ』
「市役所は?」
観光課の担当が聞く。
「裏のQ&Aと詳細版には残す。でも絵本の表には出さない」
「役所は最後の砦、ですね」
加奈が少し笑う。
「砦ではありたいけど、そこへ最初に来られると案内の役割分担が崩れる」
勇輝は言いながら、もう一つ書き足した。
「観光案内所と宿が前。市役所はその後ろ」
「順番まで絵本に入れるんですか」
美月が尋ねる。
「入れる。使い方を伝える紙だから」
市長はそこで妙に満足した顔をした。
「紙一枚にも、ちゃんと行政の動線が入るわけだな」
「そうです。だから絵本でも業務なんですよ」
「役所、絵本作家デビューですね!」
美月がまた言った。
「デビューするな。印刷部数を管理してる時点で完全に業務だ」
◆夜・印刷手配前の最終確認(配る前に“どこでなくなるか”まで考えておくと、紙は少しだけ役所らしくなる)
本刷りの手配に入る前、最後に決めなければならなかったのは印刷部数だった。
表紙が可愛く、内容も分かりやすいなら、想定以上に持っていかれる可能性がある。観光案内所で配る分、宿へ置く分、駅前に置く分、温泉街に置く分、学校の国際交流用に欲しいと言われるかもしれない分。役所の紙は、役に立つと分かった瞬間に足りなくなる。
「初版、何部にします」
観光課の担当が見積書を前に尋ねる。
「少なすぎるとすぐ切れるし、多すぎると予算がつらい」
「配る場所の優先順位を決めましょう」
勇輝は机の上へ、町の地図を広げた。
「観光案内所、駅前、温泉街、河川敷停留所、異界市場。まずここ。次に宿の共用部。イベント会場はその次」
「学校は?」
「今回は後ろ。観光案内が先です」
美月がそこで、ちょっと困った顔になった。
「主任、これ、持ち帰りたくなる見た目です」
「分かる」
「配布用と閲覧用、分けた方がいいかも」
「それも必要だな」
勇輝は地図の端にメモを書き足した。
「観光案内所と駅前は持ち帰り可。宿と停留所は閲覧用中心。なくなり方を見て増刷判断」
「役所、絵本の在庫管理まで始めた……」
観光課の担当が半分呆れ、半分安心した顔で笑った。
「そこまで来ると、もう完全に業務ですね」
「最初から業務だ」
勇輝は言った。
「ただ、見た目が少しやわらかいだけで」
印刷会社への発注書が整い、最終データが保存される。観光課の机に積まれていた“読まれなかった案内”の束はまだ消えない。でも、その横に、明日から確実に手に取られる紙が一つ加わる。その事実だけで、部屋の空気は朝より少し明るかった。
◆夜・観光課の机(文字が溶けても、翻訳がずれても、最後に残るのは“何をしてほしいか”の順番だった)
その日の最後に、観光課の机の上には三種類の紙が並んでいた。
観光客向けの絵本。
事業者向けの詳細版。
窓口用のQ&Aシート。
朝に見た、読まれなかった案内の束とはまるで違う並びだ。
こちらはまだ新しく、インクの匂いも少し残り、これから町へ出ていく紙の顔をしている。しかも、それぞれ役割が違う。観光客には動きの順番を。宿には説明の言い換えを。窓口には例外対応を。紙は増えた。確かに増えた。けれど、今回は“増えたこと”そのものが失敗の証拠ではない。むしろ一枚で全部背負わせるのをやめたぶんだけ、役割が整理されたと言ってよかった。
観光課の担当は、ようやく背もたれに身体を預けた。
「最初は、絵本にした時点で負けた気がしてたんです」
「何に対して?」
勇輝が聞くと、担当は少し考えてから答えた。
「役所は文字で説明するもの、っていう感覚です。ちゃんと文章を書いて、ちゃんと訳して、それで通すのが本筋だと思ってたので」
「その感覚は間違ってない」
勇輝は言った。
「ただ、文字で届かない相手が目の前にいて、現場が毎日困ってるなら、文字にこだわる方が本筋を外すこともある」
「そうですね」
「今回は、文字を捨てたんじゃない。役割を分けたんだ」
「絵本が表で、詳細版が裏」
「そう。だから役所らしさは残ってる」
加奈は、完成した表紙をもう一度手に取った。湯けむりの向こうに、温泉街、商店街、ドラゴン停留所、案内係の小さなキャラ。よく見ると、背景の端っこにスライム用のごみ箱まで描き込まれている。
「これ、ちゃんと“町の本”になってるね」
「観光パンフというより?」
「うん。“この町へ来たら、こうすると気持ちよく過ごせるよ”っていう本」
「それなら一番いい」
勇輝はようやく息を吐いた。
「観光案内って、結局そういうことだから。名所だけ並べても、町は回らない」
美月は、完成データを保存しながら最後に一度だけ確認した。
「SNSに出す時、どうします? 表紙だけ?」
「表紙と、中の一場面を一枚。それ以上は出しすぎない」
「炎上しません?」
「するかもしれない」
勇輝は苦笑した。
「でも今回は、“役所が絵本を作った”で笑われるより、“伝わる形を探した結果がそれだった”で理解される方へ寄せたい」
「言い方ですね」
「だいたい、最後はそこだ」
窓の外では、もう庁舎の灯りが少しずつ落ち始めていた。
役所は今日も開庁していた。翻訳という名の怪物を、完全に倒せたわけではない。英語版も残るし、詳細版の更新も必要になる。宿ごとの差し替え欄も、観光案内所の補足も、これから運用の中でまた変わっていくだろう。それでも、文字が溶けても、言葉の概念がずれても、絵の順番だけは残る。そのことを、今日の試し配布でようやく確信できた。
観光案内というのは、景色を見せる紙ではなく、町の使い方を案内する紙でもある。
だから最後に必要なのは、難しい翻訳より、誰が見ても同じ動きへたどり着ける順番なのかもしれなかった。
棚の奥に積まれていた“読まれなかった案内”は、明日もたぶん残っている。
けれど、その隣に今日の絵本が並ぶなら、観光課の仕事は少しだけ前へ進んだと言っていい。
役所は明日も開く。
文字が通じない相手にも、なるべく誤解なく町のルールを渡せるように。
そしてまた、新しい紙の形が必要になった時に、今度は最初から“何を絵にして、何を文字に残すか”を考えられるように。
ひまわり市の観光案内は、その日ようやく、言葉だけに頼らない入口を一つ手に入れたのだった。




