第81話「水道が聖水認定!? ただの水が神格化した日」
朝のひまわり市役所は、いつもと同じ匂いがした。
コピー機の熱、古いファイルの紙の匂い、そして――開庁前の廊下に漂う、微妙に冷めたコーヒーの香り。
勇輝は自分の席で、湯のみを手にぼんやりしていた。
異世界に転移してからというもの、日常の「いつも」はどんどん塗り替えられているのに、役所の朝だけは頑固に変わらない。
「……今日も平和だな」
口に出した瞬間だった。
「課長ぉぉぉ!! 緊急事態です!!」
扉が勢いよく開いて、美月が飛び込んできた。
両手にスマホを掲げ、息を切らしながら、目がキラキラしている。嫌な予感しかしない。
「まず言うけど、落ち着け。今度は何が燃えた」
「燃えてないです! でも燃えます! 拡散が!!」
「それは燃えてるのと同じだろ」
勇輝がツッコミを入れる間にも、美月は画面をずいっと突き出してくる。
「見てくださいこれ! 異界の『聖泉の巡礼団』ってアカウントが、うちの水道水を……」
美月は言葉を飲み込み、間を取る。
そして、なぜか誇らしげに宣言した。
「“聖水”認定しました!!」
「……は?」
勇輝の脳が一秒遅れて追いつく。
「水道水だぞ? うちの。塩素の匂いもする、普通の水道水」
「でも異界的には“浄化の力がある”らしくて。しかも投稿が、すでに――」
美月が指で画面をスクロールする。
そこには、金色の縁取りがついたボトルの写真と、やたら大げさな文章が並んでいた。
『異界より来たりし我ら、地上の町にて奇跡の泉を見出す。
透明なる水、口に含めば胸が澄み、魂が軽くなる。
これは――聖水なり。』
「……言い回しが強い」
「しかもコメント欄が、もう“巡礼ルート”の相談で埋まってます!」
「相談すんな。ルートを作るな」
勇輝は額を押さえた。
この町が異界に転移して以来、観光客が増えるのはありがたい。ありがたいが、増え方というものがある。
そこへ、廊下から足音。
軽いノックのあと、覗き込んできたのは加奈だった。
「おはよー。なんか朝から声でかいけど、どうしたの?」
「加奈、うちの水が聖水になった」
「……寝ぼけてる?」
「寝ぼけてない。むしろ現実が寝ぼけてる」
加奈は勇輝の手元のスマホを覗き込み、目を丸くした。
「え、これ……ほんとにうちの蛇口?」
「うちの給水塔が背景に写ってる。確定だ」
「やば。……それ、嬉しいニュースなの?」
「嬉しいかどうかは、水道課が泣いてから決める」
言ったそばから、今度は別の扉が開いた。
「異世界経済部! いるか!」
飛び込んできたのは、ひまわり市長だった。
相変わらず背筋がしゃんとしていて、目がやけに楽しそうに光っている。
「おお、ちょうどいい。聞いたぞ。うちの水が“聖水”らしいな!」
「市長、楽しそうですね」
「当然だ。観光資源が勝手に生まれた」
「勝手に生むな」
勇輝が突っ込むと、市長は肩をすくめて椅子に腰掛けた。
「で? 対応は?」
「それを今から決めます。問題は――」
「供給量」
「そうです」
勇輝は、机の上のメモ帳にペンを走らせた。
頭の中で、水道課の顔が浮かぶ。課長の佐伯さん。真面目すぎて、異界案件が来るたびに胃が縮んでいく人だ。
「巡礼客が増えると、まず水道使用量が増えます。水圧が落ちる可能性もある」
「あと、勝手に汲みに来る人が出るよね。公園とかで」
加奈が言うと、美月がうんうんと頷いた。
「すでにコメントで、“聖水の採取ポイント”を探してる人がいます!」
「採取ポイントって言うな。蛇口だよ」
市長は腕組みして、面白がるように言った。
「しかし、うちの水が“浄化”されるのは事実だろ?」
「塩素で殺菌されてるだけです」
「それも浄化だ」
「言い方の問題です!」
勇輝が叫ぶと、美月がすっと手を挙げた。
「課長! ここで公式発表しませんか! “ひまわり市の水道水は聖水ではありません”って!」
「それやると、どうなる?」
「……えっと、訂正は伸びます」
「伸びるんだよ!」
勇輝は机を軽く叩いた。
SNSの炎上はいつもそうだ。否定が燃料になる。
「“聖水じゃない”って言うほど、向こうは“権力が隠してる”って言い出す」
「じゃあ、肯定したら?」
市長がさらりと言う。
「肯定したら今度は、水道料金が宗教課税みたいになります!」
加奈が苦笑する。
「喫茶でもね、“聖水ラテ”とか言い出す人、絶対いるよ」
「言い出すな。商品化するな」
「でも売れるよ?」
「売れるな!」
勇輝がツッコミで息切れしたところで、電話が鳴った。
内線だ。表示は――水道課。
嫌なタイミングで完璧すぎる。
「……はい、異世界経済部・勇輝です」
受話器の向こうから、佐伯課長の声が震えた。
『主任! 大変です! 水道の蛇口に――列ができてます!!』
「もう!? まだ開庁前だぞ!?」
『異界の方が、バケツと瓶と、なんか……聖具みたいなの持って! “祝福の水をいただく”って!』
「祝福するな! 誰が祝福した!」
『それと……水道課の窓口に“寄付箱”が置かれました!』
「置くな! 誰が置いた!」
『えっと……市民の方が“観光税みたいなものだろ”って……』
「みたいなものじゃない! 勝手に制度作るな!」
勇輝は受話器を持ったまま、机に突っ伏しそうになった。
市長が、いかにも楽しそうに言う。
「ほら、住民協力だ」
「協力の方向が雑です!」
美月はスマホを見ながら、さらに顔色を変えていた。
「課長……今、“ひまわり市の聖水で呪いが解けた”って投稿が……」
「解けてない! 気分が軽くなっただけだ!」
「でも本人は泣いてます!」
「泣いたら事実になるのかよ!」
加奈が勇輝の肩をぽん、と叩いた。
「落ち着こ。ここはいつものやつ。
“否定で燃やさない”で、“困ってることだけ先に潰す”」
「……加奈、助かる」
勇輝は顔を上げ、市長を見る。
「市長、方針いきます。
“聖水”の真偽には触れず、水道水の安全性と、採水マナーを出します」
「なるほど。宗教論争を避けるわけだな」
「はい。あくまで行政対応です」
美月がすぐ反応する。
「じゃあ広報文、私が作ります! 可愛いイラストも――」
「余計な煽りを入れるな。文章は真面目に。超真面目に」
「えー……伸びないじゃないですか」
「伸びなくていい!」
勇輝は受話器を戻し、立ち上がった。
「水道課と現場確認。加奈は喫茶のほうで、観光客が増えた時の混乱を見てくれ」
「了解。あ、でも“聖水ラテ”は――」
「作るな」
「……作らない。たぶん」
「たぶんやめろ」
市長も立ち上がり、にやりと笑った。
「私は現場に行って、列を整理してくる。
――“ひまわり市の水はおいしい”と、胸を張って言ってな」
「そこは言っていいんですか?」
「言っていい。事実だからな」
勇輝は息を吐いて、いつものスイッチを入れた。
異界対応は、いつだって突然始まる。
でも、役所は――やるべきことをやるだけだ。
「よし。今日の異界対応案件は、これだな」
美月がスマホを掲げ、元気よく宣言する。
「“聖水騒動”! いきましょう!」
「いきましょうじゃない! 止めに行くんだよ!」
こうして、ひまわり市役所の一日は始まった。
ただの水が、勝手に神格化する――そんな、いつも通りの朝で。
次回予告
「消防訓練なのに火が消えない。褒めると消える火」
訓練用の火が“自我を持つ魔法火”で消えない!
水も砂も効かない!!
どうしたらいいのか!?




