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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第81話「水道が聖水認定!? ただの水が神格化した日」

◆朝・ひまわり市役所(開庁前)


 朝のひまわり市役所は、いつもと同じ匂いがした。

 コピー機が立ち上がるときの、わずかに熱を帯びた風。長年使われて角が丸くなったファイルの紙の匂い。廊下の隅にある給湯室から漂ってくる、誰かが一度淹れて置きっぱなしにしたコーヒーの香り。

 外の世界がどれだけ変わっても、役所の朝だけは変に頑固だ。転移してからの「いつも」は塗り替えられるばかりなのに、ここだけはいつも通りで、だからこそ油断してしまう。


 勇輝は自席で湯のみを持ち、窓の外の空気を眺めながら、ぼんやりと口に出してしまった。


「……今日も平和だな」


 言ってから気づく。

 役所で「平和だな」を口にした瞬間、平和ではなくなる。ジンクスというより、役所の法則だ。


 その証拠に、次の瞬間。

 ドアが勢いよく開き、足音が廊下から飛び込んできた。


「主任ぉぉぉっ! 緊急事態ですっ!」


 美月だった。両手にスマホを掲げ、息を切らし、なぜか目がきらきらしている。

 緊急なのに嬉しそうな顔をしているときは、だいたい「危ない」種類の緊急だ。


「まず深呼吸。転んだら増える仕事は、うちの担当じゃなくなる」

「転びません! でもこれ、放っておくと増えます! 人が! 来ます!」

「人が来るのは観光には大事だけど、増え方ってものがある。で、何が起きた」


 勇輝が椅子の背を押して立ち上がる間にも、美月は画面をぐいっと差し出した。


「見てください。異界の……『聖泉の巡礼団』ってアカウントが……うちの水道水を」


 美月は一瞬、間を置いた。自分でも「言っていいのか」を確認する間だ。

 その間が嫌な予感を濃くする。


「……“聖水”認定しました!」


「……え?」


 声が抜けた。

 理解が遅いのではない。受け止め方を探している。受け止め方を間違えると、そのまま事件になる。


「うちの、水が?」

「そうです。しかも、うちの蛇口です。ちゃんとうちの背景が写ってます」

「水道水だぞ。ごく普通の。生活の。……聖水って言い切るの、重い言葉だな」


 美月は勢いよくスクロールした。

 そこには、金色の縁取りがついた瓶の写真と、やたら荘厳な文章が並んでいた。文章のテンションだけで、今にも鐘が鳴りそうだ。


『異界より来たりし我ら、地上の町にて奇跡の泉を見出す。

 透明なる水、口に含めば胸が澄み、魂が軽くなる。

 これは聖なる水なり。』


「言い回しが強い……」

「強いです。しかもコメント欄が、もう巡礼ルートの相談で埋まってます!」

「相談すんな。ルート作るな。道路はうちの管理だ」


 勇輝が半分笑いそうになって、すぐに真顔に戻る。笑いに逃げると、現場は逃してくれない。


「この投稿、どれくらい回ってる」

「いまこの勢いなら、今日中に“見たことある人”が町に着きます。異界の移動手段って、速度だけは妙に速いので」

「妙に速いの、もう慣れたのが怖いな」


 そこへ、軽いノックの音。覗き込んできたのは加奈だった。紙袋を抱えている。朝の喫茶の仕込みから、そのまま寄ったらしい。


「おはよ。朝から声が大きいけど、何かあったの?」

「加奈、うちの水が聖水になった」

「……寝ぼけてる?」

「寝ぼけてない。現実の方が寝ぼけてる」

「それ、いちばん厄介だね」


 加奈はスマホを覗き込み、目を丸くした。目の丸くし方が、驚きと笑いの中間になっている。こういうときの加奈は、状況を飲み込むのが早い。


「え、これ、ほんとにうちの給水塔写ってる」

「写ってる。背景で確定するタイプのやつだ」

「うわ……。それって、嬉しいニュースなの? それとも、今から走るやつ?」

「走る。たぶん水道課が先に走る」


 言い終わる前に、廊下が少しざわついた。

 足音が近づき、扉が開く。


「異世界経済部、いるか!」


 市長だった。背筋がしゃんとしていて、朝なのにもうスーツが完璧に整っている。表情は真面目だが、目だけが少し楽しげに光っている。こういう光り方をするときの市長は、だいたい「可能性」を見ている。


「おお、聞いたぞ。うちの水が聖水らしいな」

「情報が早いですね」

「町の噂は早い。役所の承認は遅い。だから先にここへ来た」

「嫌な正論をさらっと言わないでください」


 市長は椅子に腰掛け、机の上のメモ帳を指で軽く叩いた。


「で、対応はどうする」

「いま整理します。問題は二つ。供給と混乱です」

「供給量の方が先に来るな」

「そうです。水は生活の土台です。観光より先に、住民の蛇口が止まったら終わりです」


 加奈が頷く。


「勝手に汲みに来る人も出るよね。公園の水場とか、どこでも」

「出ます。たぶん、もう出てます」

「もうって……」


 美月が画面を差し出したまま、別のコメントを読み上げる。


「ほら、ここ。『採取ポイントは役所裏の蛇口が最適』って……誰が言い出したんですかこれ」

「役所裏、給湯室の外だろ。そこ、職員が手を洗うやつだ」

「聖具で手を洗われたら困るね」


 加奈が冗談みたいに言いながらも、目は真面目だ。困る未来が、普通に見えている。


 市長が腕を組む。


「しかし、異界的には“浄化の力がある”のだろう? うちの水が澄んでいるのは事実だ」

「衛生処理がきちんとしてるだけです。褒め言葉として受け取るなら、そこに落とします」

「落とす?」

「『ひまわり市の水道は安全基準で管理されています』に落とします。宗教的な真偽には触れない」

「否定もしないのか」

「否定すると燃料になります。肯定すると制度が崩れます。間の道を歩きます」

「行政らしい、細い橋だな」

「細い橋でも落ちないように歩くのが仕事です」


 美月が手を挙げた。


「主任、ここで公式発表しませんか。『ひまわり市の水道水は聖水ではありません』って、きっぱり」

「きっぱり言うほど、向こうは『隠してる』って言う。反論が伸びる形は、伸びる」

「伸びるの、欲しいんですけど」

「今日だけは要らない。今日だけは、静かにしたい」


 加奈が口を挟む。


「じゃあ『聖水かどうかはともかく』って言う?」

「それも言い方次第だな。ともかく、って軽く受け取られると反発が出る。まずは困りごとに絞る」

「困りごとって、列と水圧とマナー?」

「それと、勝手な“寄付”だ。絶対出る。たぶんもう出てる」


 そう言った瞬間、内線が鳴った。

 表示は水道課。タイミングが、仕事を分かりすぎている。


 勇輝は受話器を取り、声のトーンをいつもより一段落とした。焦ると、焦りが相手に伝染する。


「異世界経済部・勇輝です」

『主任! ……すみません、朝から。もう列ができてます!』

「列?」

『庁舎前の外水栓に! バケツと瓶と……あと、なんか……儀式っぽい道具を持った方が……』

「儀式っぽい道具」

『はい。あと水道課の窓口の前に、寄付箱が置かれました……』

「置かれた?」

『市民の方が“観光税みたいなものだろ”って……いや、私も止めたんですけど、勢いで……』


 勇輝は一度、胸の奥を落ち着かせた。ここで声を強くすると、相手が縮こまって情報が遅れる。


「分かりました。まず寄付箱は撤去。撤去の理由は丁寧に。制度がないものは受け取れない、でいい。列は、生活用の蛇口を守るために採水場所を分ける。いますぐ現場に行きます」

『主任、ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……』

「大丈夫。水道課が悪いわけじゃない。現場を守るための動き、こちらで増やします」


 受話器を置くと、美月がすでに次の投稿を見つけていた。


「主任……今、『ひまわり市の聖水で呪いが解けた』って投稿が……」

「呪いが解けたって、何が」

「肩こりが軽くなったって……泣いて喜んでます」

「肩こりは水だけで解けないけど、温泉と気分で軽くなることはある。そこは否定しない。否定すると揉める。揉めると列が増える」

「列が増えるんですね」

「増える。水は物理だから」


 加奈が勇輝の背中を軽く叩いた。


「落ち着こ。いつものやつ。言い返したくなるの、分かるけど、今日は言い返すより先に“守る”だね」

「うん。ありがとう。方針、行く」


 勇輝は市長を見る。


「市長、方針です。聖水の真偽には触れません。水道水の安全性と、採水マナーと、採水場所の指定だけ出します。生活用の供給を最優先にして、観光はその次」

「よい。宗教論争は避けろ。行政が扱える範囲で、確実に整えろ」

「はい。そこだけに集中します」


 市長は立ち上がった。


「私は現場へ行く。列を整理する。説明もする」

「ありがとうございます。あと、現場で“祝福”とか言わないでください」

「言わぬ。水がうまいとは言う」

「それは言っていいです。事実です」


 美月がニヤッとしそうになって、すぐに真面目な顔に戻った。


「主任、私も現場行きます。動画で現場の案内、撮って……」

「撮るなら、煽らない角度で。人の顔が写るなら許可。できれば掲示板と案内中心。コメントで言い争いが始まりそうなら、返信はしない。公式ページに誘導だけ」

「はーい。今日は真面目担当で行きます」


 加奈も紙袋を抱え直した。


「私は喫茶の方で、来た人の動き見てくる。水を求めてる人は、だいたい食べ物も求めるから。屋台も喫茶も、巻き込まれるよね」

「巻き込まれる。けど、加奈の観察は助かる。困ってるのが水だけじゃないって、現場が一番早く教えてくれる」

「了解。……あ、でも“聖水ラテ”は」

「作らない。名前が火種になる」

「名前だけ変えたら?」

「それも危ない。今日は普通にコーヒーで勝負して」


 加奈は笑って頷いた。笑いながら、引くところは引けるのが加奈の強さだ。


「じゃ、行ってくる。転ばないでね」

「転ばない。転んだら水がこぼれる」


◆水道課・窓口前(開庁直後)


 水道課のフロアに入った瞬間、空気がいつもより濃かった。

 人の密度というより、期待の密度だ。言葉にしづらい高揚が、壁に張り付いている。


 窓口の前には、本当に寄付箱が置かれていた。段ボールに「聖泉維持費」と手書きで書かれている。維持費の字が妙に丁寧で、書いた人の善意が透けるぶん、厄介だ。


 佐伯課長が青い顔で駆け寄ってきた。青いと言っても、倒れそうな青ではなく、全身で仕事を抱えている青だ。


「主任……すみません、こんなことに……」

「謝らなくていいです。まず状況。列はどこまで」

「外水栓が人気で……庁舎前まで伸びてます。あと、窓口で“聖水の証明書”を求められました」

「証明書は出せません。出せない理由は丁寧に。今日は“証明しない行政”でいく」


 勇輝は寄付箱を見て、言葉を選んだ。


「これ、撤去します。代わりに、寄付したい人の気持ちは受け止める。受け止め方を用意します。いまは制度がない。制度がないものを窓口が受け取ると、後で困るのが水道課です」

「はい……。助かります」

「助けます。水道課はインフラの要です。インフラが揺れると全部揺れます」


 市長が横から静かに言った。


「寄付箱は、善意でもルールがないと揉める。ここは行政の筋を通す」

「ありがとうございます。市長、いい言い方です」


 美月が、窓口の掲示を見て顔をしかめた。


「主任、いまの掲示だと『採水は禁止』って読めちゃいます。禁止って言葉、刺さります」

「そうか。禁止じゃなくて、案内にしよう。『生活用の蛇口を守るため、採水は指定場所へ』に変える。目的が先」

「目的が先、ですね」


 加奈がいない分、加奈の代わりに“言葉の温度”を美月が拾ってくれる。美月が成長していることに、勇輝は内心で少しだけ救われた。


◆庁舎前・外水栓(現場)


 外に出ると、列は想像以上だった。

 異界の衣装は色が派手で、布の揺れ方も違う。ローブ、マント、金属の装飾。手には瓶、壺、皮袋、そして確かに“聖具っぽい”もの。小さな鈴や、木でできた杖の先に輪がついたものまである。


 ただし、雰囲気は荒れていない。

 むしろ静かだ。敬意がある。だからこそ「止める」のが難しい。悪意がない列ほど、丁寧な言葉が必要になる。


 市長が一歩前に出た。声は大きすぎず、小さすぎず。役所の朝礼で鍛えた声だ。


「皆さん、ようこそ、ひまわり市へ。本日はお集まりいただきありがとうございます。まずお願いです。ここは庁舎の生活用の水栓で、職員と施設の運用に使います。採水は、指定の場所をご案内します」


 列の先頭にいた異界の男性が、深く頭を下げた。顔には誠実さがある。


「我らは巡礼の者。聖なる水をいただくため、礼を尽くして来た。定めがあるなら従おう」

「ありがとうございます。礼を尽くしていただけるなら、こちらも礼を尽くして案内します」


 勇輝が続ける。


「この水は、私たちの生活を支える水です。大切に扱っています。だから、皆さんにも大切に扱ってほしい。採水の量と場所にルールを作ります。守っていただけると助かります」


 すると、別の巡礼者が不安そうに言った。


「定めとは、禁じることか。聖なるものに触れぬ者を作るのか」

「禁じたいわけじゃありません。生活が止まると困る人が出るので、守るための順番と場所を作ります。触れてはいけない、ではなく、ここで触れてください、という案内です」


 言葉の変換は、小さな作業に見えて、現場では大きい。否定で押し返すと波になるが、案内で曲げると流れになる。


 美月が小声で囁いた。


「主任、いまの言い方、良かったです。『触れてはいけない』を、ちゃんと『ここで触れてください』に変えた」

「ありがとう。現場の言葉は、短いほど強いから、慎重に選ぶ」


 勇輝は周囲を見渡した。

 列の後ろには、異界の子ども連れもいる。荷車もいる。瓶が大きい人もいる。放っておけば、どこかで水がこぼれ、転び、揉める。


「市長、列の誘導ロープ、持ってこられますか。あと、採水ステーションを別に立てたい。水道課の裏手の作業スペースを一つ借りる。水圧に影響しにくい場所に」

「よい。庁舎管理に連絡する。いまここは、止めるより流す方が安全だ」


 市長の判断が、珍しく現場寄りで早い。祭りの件を経て、現場での“流し方”が身についているのかもしれない。


◆臨時対策ミーティング(庁内・水道課会議スペース)


 いったん庁内に戻り、勇輝は最小限の打ち合わせを組んだ。

 長い会議は現場を止める。短く、決める。役所の会議の理想形だ。


 参加は水道課、庁舎管理、観光担当、異世界経済部。必要な人だけを呼び、必要なことだけを話す。


「方針を確認します。第一に生活水の確保。第二に安全。第三に観光対応。ここを順番にしません」


 水道課の担当が深く頷いた。


「生活用の供給が落ちると、住民の方から一気に電話が来ます。今日はまだ持ちますが、採水が続くと昼過ぎには厳しいかもしれません」

「なら、採水量の上限を設ける。一本あたりの量を決める。時間帯も決める」

「上限、守ってくれますかね……」

「守ってもらえる形にします。守れる理由を作る。守らない人が出たときの対応も決める」


 観光担当が言った。


「でも、“聖水”って言葉が一人歩きすると、上限に納得されないかも……」

「だから、聖水の真偽の話はしません。代わりに“安全に提供できる量”の話をします。提供できない量は、提供できない。それだけ」


 庁舎管理が手を挙げた。


「採水場所、庁舎前の外水栓は止めたいです。庁舎利用者が転倒したら危ない」

「同意です。採水場所は移します。誘導は掲示と案内係で。列はロープで整えます」


 美月が口を開いた。


「広報、二本立てにします。住民向けと来訪者向け。言い方を分けます。住民向けは『水圧低下を防ぐためのお願い』、来訪者向けは『採水の案内』。同じ内容でも、入口が違うと刺さり方が変わるので」

「いい。やって」


 市長が静かに言う。


「寄付の話はどうする」

「寄付箱は撤去。『水道は料金制度で運用しており、窓口での寄付は受け取れません』で統一。代わりに、どうしても支援したい人がいるなら、公式の寄付先を後日検討します。いまは増やさない」

「増やさない、が正しい。今日制度を生むと明日揉める」


 短い会議で、決めるべきことは決まった。

 残るのは、現場に落とす作業だ。行政はここが長い。だが、今日は現場が急かしてくれる。


◆採水ステーション設置(午前)


 庁舎の裏手、作業用の水栓があるスペースに、即席の採水ステーションが作られた。

 ロープで列の形を作り、案内板を置き、足元に滑り止めのマットを敷く。バケツの水がこぼれても転びにくいように。誰かが拭けるように雑巾とモップも置く。地味な備えが、派手な事故を防ぐ。


 案内板には、勇輝が美月と一緒に考えた文言が書かれている。


【採水のご案内】

・生活用の水を守るため、採水はここでお願いします

・お一人につき容器二本まで(大きさは手で持てる範囲)

・混雑時は時間を分けてご案内します

・祈りや儀式は、他の方の通行の妨げにならない場所でお願いします

・水は大切に扱っています。こぼした場合はスタッフへ声をかけてください


 最後の一文は、加奈がいたら言いそうな言葉だった。命令ではない。お願いだ。お願いは、相手を人として扱う。


 市長が現場の先頭に立ち、案内係と一緒に、巡礼者へ説明した。


「ここで採水できます。列はこのロープに沿ってお願いします。生活用の水を守るため、量に上限があります。ご協力ください」


 巡礼者たちは驚くほど素直に頷いた。礼を尽くしたい人は、ルールがある方が動きやすい。ルールがないと、不安で暴れることがある。今日の相手は、ルールを待っていた側だったのかもしれない。


 ただ、問題は必ず残る。

 列の中ほどで、巨大な壺を抱えた男性が現れた。壺の口が広い。明らかに二本どころではない。


「これは家の者の分も含む。遠くより来た。ここに来ることは二度とできぬかもしれぬ」


 勇輝は、その言葉にすぐ返せなかった。

 情が乗っている。事情がある。そういう言葉は、制度だけでは押し切れない。


 勇輝は相手の壺を見て、次にその背後の列を見た。列の後ろには、子どももいる。待っている人がいる。


「遠くから来たことは尊いです。だからこそ、今日のルールは守ってください。壺いっぱいを一人が持ち帰ると、後ろの人が一滴も取れない」

「だが……」

「代わりに、明日も採水の時間を作ります。今日取れない分を、明日取れます。町として“続ける”ことを約束します。続けるために、今日の上限が必要です」


 “続ける”という言葉に、男性は壺を抱えたまま黙った。続けるなら、焦って奪う必要が減る。希望は、渇きの形を変える。


 市長が横で、補うように言った。


「明日も来られるよう、案内を整える。今日だけの奇跡にしない。生活の水だからこそ、続けられる形にする」


 男性はしばらく考え、やがて壺を置いた。代わりに小さな瓶を二本取り出す。


「……ならば、これで」

「ありがとうございます。協力があるから、町は続けられます」


 美月が少し離れた場所で、掲示板と案内の様子を動画に撮っていた。顔は映さない。声も必要最低限。代わりに看板の文字と、列が整っていく様子を映す。これなら誤解が増えにくい。


「主任、動画のタイトル、『採水のお願い』で行きます。聖水って単語、入れません」

「それでいい。単語に引っ張られない」


◆喫茶ひまわり・街の横波(昼)


 加奈は喫茶ひまわりに戻り、現場の“横波”を見ていた。

 水を求めて来る人は、必ず何かも求める。休む場所、食べるもの、トイレ、地図、そして誰かの言葉。観光の渦は、水道だけで終わらない。


 案の定、昼前には異界の巡礼者が店先に現れた。

 店の前で立ち止まり、看板を見上げ、恐る恐る扉を開ける。


「……ここは、祈りの場か」

「喫茶だよ。お茶と甘いものがある。祈りは、心の中でどうぞ」


 加奈は笑って答えた。笑いは軽いが、相手をからかっていない。そういう笑い方ができるのが、加奈の得意技だ。


「聖水をいただいた。だが、体が冷えた。温かいものはあるか」

「あるよ。しょうが湯、はちみつ入り。喉が楽になる。水が澄むのとは別の方向で」


 巡礼者は頷き、席に座った。店の隅に置かれた観光マップを手に取り、指でなぞる。


「採水の場所は、定められた。良きことだ。だが、町の者は怒らぬのか」

「怒る人もいる。でも、怒る前に“守る”って決めた人たちが動いてる。役所の人たちがね」

「役所……。定めを作る者か」

「そう。定めを作って、町を続ける者」


 加奈はカップを置きながら、勇輝の顔を思い浮かべた。いま頃、看板の文言を何度も読み直し、現場の足元を見ているはずだ。派手な成果ではなく、転ばないための布とロープを整えるために。


 店の常連の市民が、こっそり加奈に言った。


「加奈ちゃん、今日、人多いねえ。水が聖水って噂、ほんと?」

「噂は噂。うちの水は、ちゃんと管理されてる水。だから飲める。飲めるってだけで、もう十分すごいよ」

「たしかにね。昔、断水したとき、ほんと困ったもんね」

「だから今日は、困らないように役所が頑張ってる」


 加奈は、余計な飾りを言わなかった。

 今日の一番の仕事は、盛ることじゃない。落ち着かせることだ。


◆夕方・庁内広報の仕上げ(異世界経済部)


 夕方、勇輝はようやく自席に戻った。朝の湯のみは冷めていたが、冷めたことがむしろ救いだった。温かいままだったら、今日の時間感覚が壊れていた証拠だ。


 美月が、作成した広報文を二本並べて見せる。

 住民向けと来訪者向け。内容は同じだが、入り口の言葉が違う。


「主任、これでどうですか。刺激の強い単語、避けました。『聖水』も『巡礼』も、本文には最小限です」

「見せて」


 勇輝は一文ずつ確認した。行政文は硬くなると距離ができ、柔らかすぎると誤解を生む。今日はその中間が必要だ。


【住民の皆さまへ】

 本日、水道水の採水希望者が増えています。生活用の水圧低下を防ぐため、庁舎周辺の採水場所を指定し、量と時間のご案内を行っています。ご不便をおかけしますが、生活インフラを守るための対応です。ご理解とご協力をお願いします。


【来訪者の皆さまへ】

 ひまわり市の水は、生活を支える大切な水です。皆さまに安全にご利用いただけるよう、採水は指定の場所で、量と時間を決めてご案内しています。案内に沿ってご協力ください。困ったときはスタッフへお声がけください。


「いい。困りごとと手順だけだ」

「返信は、どうします?」

「個別返信はしない。案内ページへ誘導だけ。質問フォームは作れる?」

「作れます。短いのにします。『採水場所』『時間』『量』『マナー』の四択で」

「いい。答えが用意できる質問だけを受ける」


 市長がドアを開けて顔を出した。表情は少し疲れているが、疲れ方が悪くない。現場で動いた人の疲れだ。


「列は落ち着いた。だが、明日も来るな」

「来ます。来る前提で、続ける形にします」

「寄付箱は」

「撤去しました。代わりに『お気持ちはありがたいが、制度がないので受け取れない』で統一しました」

「よい。筋が通った」


 市長は机の端を指で軽く叩いた。


「今日の成果は、奇跡を否定しなかったことだな」

「否定しない代わりに、生活を守りました。奇跡を言葉で争うより、蛇口を守る方が役所の仕事の筋です」

「その筋を続けよ。町は続けば強い」


 勇輝は頷いた。

 続ける。今日だけの騒ぎにしない。生活の水を、生活のままに保ちながら、観光の波も受け止める。難しいが、役所がやるべき仕事だ。


 美月が、机の上に小さな案内カードの試作を置いた。

 絵は入れていない。文字だけ。けれど読みやすい。


「主任、現場で配るカード作りました。『採水はここ』『二本まで』『困ったら声かけ』。短いです」

「短いのが正義の日だな」

「短いと、私も落ち着きます。今日は長いと誤解が増える」

「学んでるな」


 勇輝はようやく笑えた。

 笑いは軽く。現場を見た後の笑いは、ちゃんと意味がある。


◆終わり・ただの水が、ただのままに(夜)


 夜、庁舎の窓から外を見ると、採水ステーションの周りは静かになっていた。

 ロープは片付けられ、看板だけが残っている。看板の文字は、派手ではない。ただ、明日も同じように立てられる形をしている。


 加奈からメッセージが届く。

「喫茶、混んだけど荒れなかった。みんな“案内”があると落ち着くみたい。しょうが湯が意外と人気。あと、聖水ラテは言ってない。えらい?」


 勇輝は思わず指が止まった。

 返事は短くしない。短くすると、冷たく見える。今日はそれを学んだ日でもある。


「えらい。助かる。明日も波が来るから、無理しないで。しょうが湯、在庫見ておいて。必要なら市役所から追加の仕入れ先探す」


 送ってから、湯のみを手に取った。今度は新しく淹れたお茶だ。温かい。今日は温かいまま飲める。そこだけで、少しだけ勝った気がした。


 ただの水が、勝手に神格化する。

 そんな世界で、役所はただの蛇口を守り続ける。

 それは地味で、派手さもないが、町を続けるには必要な仕事だった。


 勇輝は小さく息を吐き、明日のメモを一行だけ書いた。


 採水は続く。生活も続ける。

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