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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第77話「結界を嫌がる住民:『役所が魔法を使うのは怖い』と抗議が来る」

◆朝・庁舎前広場から住民課へ続く通路(不安は、声になる前から空気を変える)


 朝の庁舎前には、だいたい似た顔ぶれが集まる。開庁前から番号札の列を気にする人、通勤の途中で証明書だけ取りに来た人、相談内容を頭の中で何度も並べ替えている人、そして付き添いとして一緒に来た家族や友人。そういう人たちが、それぞれの生活を抱えたまま、少しだけ緊張した顔で自動ドアの前に立つ。その光景はひまわり市が異界に浮いたあとも、大枠では変わっていなかった。耳の形や肌の色が違う来庁者が増えたこと、窓口の案内が二言語三言語になったこと、相談内容に“魔力”や“変身”や“真名”みたいな単語が混ざるようになったことは確かに変化ではあるが、それでもなお、人が役所へ来る理由の中心にあるのはいつだって生活だった。


 だからこそ、その生活を預かる建物の前に、妙な種類の緊張が漂っているとすぐ分かる。


 庁舎一階へ上がる階段の途中で、住民課の係長が足を止めた。片手には茶色い封筒。もう片方の手は、その封筒を渡すべきかどうか一瞬だけ迷っているように見えた。紙で来る抗議は軽くない。電話やSNSの書き込みより、書いた本人の覚悟が乗る。覚悟が乗った不安は、正面から受け止めないと長引く。


「主任、開庁前に投函されていました。差出人は連名で、文面もかなり整っています。怒鳴り込みではありませんし、罵倒も少ないです。ただ、そのぶん“きちんと怖がっている人たちがいる”という感じが強くて、私はたぶん、こういう紙の方がこたえます」


 勇輝は封筒を受け取って、その重みを手の中で測るみたいに少しだけ持ち直した。薄い。けれど、薄いから軽いという話でもない。こういう紙は、中身の言葉が重い。


 ちょうどそこへ、美月がタブレットを抱えて走り込んできた。今日は珍しく、いつもの勢いの前に少しだけためらいがあった。興奮ではなく緊張の顔をしている。


「主任、SNSの方も同じ流れが出てます。『役所が魔法を使うのは怖い』『結界って結局、気分操作じゃないの』『苦情を丸めて、最後は納得した顔で帰らされるだけじゃないの』っていう感じで、断定と疑問が混ざった書き方が増えてます。完全に燃えてるとは言わないんですけど、火のつく前の乾いた草みたいな空気です」


 勇輝は封筒を開いた。中には二枚の紙が入っていた。文字は読みやすく整っている。書き殴りではない。推敲している。だから一文ごとの角が丸く見えて、かえって逃げ場がない。


『役所が魔法を用いて来庁者の感情に作用することに強い不安を覚えています。』


『結界の目的が“負担軽減”であっても、作用を受ける側からすれば、“気分を整えられる”“怒りを弱められる”という説明は、十分に怖いものです。』


『子ども、高齢者、異界の文化に不慣れな住民に対して、どのような説明と同意がなされているのか、また不利益なく拒否できるのかを知りたい。』


『役所が魔法を使うこと自体を否定するわけではありませんが、手続きの場で用いるなら、せめて根拠、範囲、責任、拒否の方法を明確にしてください。』


 読み終えた時、勇輝は紙を机に叩きつけたい気持ちより先に、小さく息を吐いていた。これは、叩き返す類の抗議ではない。怖いと感じる理由が整いすぎている。しかも、その怖さはかなり妥当だ。


 加奈が喫茶ひまわりの紙袋を抱えてやってくる。今日はティッシュの箱と、蓋つきの紙コップに入った温かいお茶が見えた。心が冷える話をする時は、喉を先に冷やすなということなのだろう。


「外でも、似た話が出てたよ。結界のある窓口で助かったって言う人もいるけど、その一方で“助かったってことは、何か作用してるんだよね”って不安になる人もいて、特に子どもやお年寄りが使う場所に広がるんじゃないかって、そこを気にしてる声が多かった。怖いって言葉は便利だから大きく見えるけど、でも今回の“怖い”は、想像だけで膨らんだやつじゃなくて、ちゃんと理由がある怖さだと思う」


「そうだな。否定から入ると一番まずい種類のやつだ。しかも“役所が魔法を使ってる”って、字面だけなら確かに強い。こっちに理屈があっても、相手の不安が先に立つのは当然だ」


 背後から市長が下りてきた。今日は笑みが薄い。こういう時の市長は、だいたい本気だ。


「恐れは敵ではない。説明不足の影だ。影なら、照らして輪郭を出せばいい。ただし、照らし方を間違えると今度は眩しさで嫌われる」


「その言い方は嫌いじゃないです。今日は“透明性で殴る”んじゃなく、“透明性で包む”方向にします。怖いと言ってきた相手を、“魔法嫌いの保守派”みたいに雑に分類した瞬間に負けるので」


 美月がすぐに頷く。


「じゃあ、やることは三つですね。いま何が起きているかを公開すること、結界でできること・できないことを切り分けること、あと“嫌なら選ばなくていい”を制度として見せること」


「その三つでいく」


 勇輝は封筒を持ち直した。今日は外からの攻撃を防ぐ日ではない。不安に言葉を与えて、それでもなお使う理由があるなら、根拠ごと差し出す日だ。


◆午前・異世界経済部会議スペース(魔法を使う役所は、仕様書で戦う)


 会議スペースに集まったのは、勇輝、美月、加奈、市長、それから住民課の係長と庁舎管理の担当、福祉相談窓口の職員だった。結界の試験運用は相談窓口、学校の相談室、福祉の一部で動いている。つまり、不安を受け止めるためには現場側の認識も揃えなければならない。


 勇輝は最初にホワイトボードへ大きく書いた。


 結界に対する住民の不安は正当である。


 美月が目を丸くする。


「主任、それ最初に書くんですか。役所の会議で“相手が正しい”から始めるの、かなり勇気が要るやつじゃないですか」


「勇気が要るけど必要だ。ここを曖昧にすると、“説明会”じゃなくて“説得会”になる。説得会は、怖がってる人には一番効かない。怖さを捨てさせるんじゃなくて、怖さごと使える制度へ変えるのが先だ」


 加奈が静かに頷いた。


「うん。“そんなの怖がらなくていいですよ”って言われるの、いちばん嫌だもんね。怖いと思った自分の感覚を否定された気になるから。人って、そこで一回心を閉じると、次は言わずに離れていく」


「だから先に認める。その上で、“怖い”と“危ない”と“禁止すべき”を分けていく」


 市長が腕を組む。


「良い。役所が新しい力を使うなら、普通の商売より厳しい説明責任がある。住民は納税している。黙って付き合え、は通らん」


「今日は市長がずっと正しい側にいるので、ありがたく利用させてもらいます」


「今日は、か」


「そこは拾わないでください」


 勇輝は資料の骨格を作り始めた。名前は固い方がいい。変にやわらかくすると魔法商品みたいになる。


【資料案】

『窓口・公共施設の安心確保対策(異界対応)における結界の試験運用について』


 そこへ、さらに細かい項目を切っていく。


 一つ目。目的。

 結界は何のために置いたのか。

 → 窓口混乱の軽減、職員と来庁者双方の心身負担の軽減、説明が通る環境の確保。


 二つ目。効果。

 何ができるのか。

 → 感情の“刺さり”を弱める、過剰な緊張や怒りで会話が壊れるのを減らす、場を少し落ち着かせる。


 三つ目。限界。

 何はできないのか。

 → 考え方を変えない、記憶を操作しない、意見を消さない、同意を強制しない、真名や本当の姿を暴かない。


 四つ目。範囲。

 どこで使っているのか。

 → 相談窓口の一部、学校相談室など限定。ロビー、会議室、説明会場、議論の場には原則使わない。


 五つ目。拒否の方法。

 使いたくない人はどうするのか。

 → 別室対応、結界なし窓口への案内、書面相談、予約時間の調整。


 六つ目。安全管理。

 誰が見ているのか。

 → 異世界経済部、住民課、庁舎管理の共同管理。違和感や体調変化があれば即中止。試験運用期間を明示し、評価と監査の対象とする。


 美月が書きながら言った。


「“できないこと”を真ん中に大きく置くの、いいですね。みんな、そこを一番気にしてるから。逆に、“できます”を先に出すと、何でもできる魔法だと思われますし」


「できることばかり並べると、魔法の売り込みになる。今回は逆だ。不安を減らす資料にする」


 福祉相談窓口の職員が、おずおずと手を挙げた。


「ひとついいですか。現場としては、“落ち着きやすくする”という表現も、受け取る人によっては“気持ちを変える”と見えるかもしれません。もっと具体的に、“怒鳴り声や強い感情で会話が壊れにくくなるよう補助する”みたいにした方が、誤解が少ないかも」


「採用します。抽象を減らして、行動に寄せる。役所の文章って、やさしそうな抽象語の方が危険な時があるから」


 加奈がそこで紙コップのお茶を勇輝の前に置いた。


「あと、“子どもに使うのが怖い”って声には、ちゃんと別枠で説明が要ると思う。子どもは自分で違和感を言葉にしにくいから、大人の側が勝手に“落ち着いてるから大丈夫”って判断してないか、そこは親も気にするはず。相談室で泣かなくなった、黙った、座っていられた、それだけで“改善”に見えたら一番怖い」


「そこも入れる。学校については、相談室限定、先生と保護者の事前共有、違和感があれば即停止、記録を残して共有。少なくとも“いつの間にか子どもにかかっていた”にはしない。子どもの場合は“嫌だったと言えない”の可能性を前提にした運用にする」


 市長が頷く。


「よい。選択権と記録があれば、怖さはだいぶ薄まる。魔法が怖いのではない。勝手に使われるのが怖いのだ」


 その言い方は、封筒の中の文面とかなり近かった。怖がっている人たちは、魔法という単語そのものではなく、自分の知らないところで何かが作用していることを恐れている。ならば、“勝手にしない”を制度の形で見せるしかない。


◆午前遅め・庁舎裏手の植え込み脇(善意に依存しすぎない、を本人にも伝える)


 資料と広報の骨格が見えたところで、勇輝は一度だけ庁舎の裏手へ出た。そこには、相談窓口に張る結界の調整を終えたばかりのグラン=ドゥルがいた。でかい影が植え込みの向こうで身じろぎすると、葉が一斉に揺れる。いつ見ても存在感が物理だ。


「呼んだか」


「少し話したい。住民の抗議が来た。内容は“役所が魔法を使うのは怖い”で、かなり真っ当だ」


 ドラゴンはすぐに頷いた。怒らないし、拗ねもしない。こういう時の反応が早い。


「理解する。守るための力でも、知らぬ者にとっては刃に見える。特に、役所の入口ならなおさらだ」


「助かる。あと、もう一つ確認したい。今の結界の説明で、“グラン=ドゥルが守ってくれているから大丈夫”に寄せすぎるのは避けたい。個人の善意に依存しすぎると、制度として弱いし、もしあなたが不在になった時に全部が崩れる」


 グラン=ドゥルは、少しだけ首を傾けてから、低い声で答えた。


「それは正しい。俺は手を貸すが、町は俺がいなくても回るべきだ。守る者が一人に固定されると、その者が倒れた時に全員が倒れる。竜の里でも同じだ」


「だったら説明会でも、そこをはっきり言う。結界は補助。主役は交代制と別室と手順。あなたの力は、その中の一つ」


「よい。俺を大きく言いすぎるな。子らが安心する時は役に立つが、大人の制度は大人が立てるべきだ」


 その答えに、勇輝は思わず笑いそうになった。この町、ドラゴンの方が制度感覚があることが時々ある。


「ありがとう。あと、説明会の会場には結界を使わない」


「当然だ。言葉をぶつける場に静けさの膜を張るのは、守りではなく壁になる」


「ほんと、あんた役所向きだな」


「書類は嫌いだ」


「そこは知ってる」


 短いやり取りだったが、この確認は大きい。住民へ説明する前に、使っている本人——本人という表現が適切かはともかく——の認識とずれていないと意味がない。制度は、善意の持ち主が暴走しないことも前提にしないといけない。


◆昼・庁舎前掲示板と公式アカウント(見えないものは、見える紙で中和する)


 昼前には、庁舎前の掲示板と公式アカウントに出す文案が整った。勇輝が最後まで削ったのは“善意の熱”だった。善意は時々、人を怖がらせる。役所の文章は熱が少ないくらいでちょうどいい。


【お知らせ】結界(静けさ対策)の試験運用について

役所では現在、窓口の混乱を減らし、来庁者と職員の負担を軽くするため、限定した場所で結界の試験運用を行っています。

一方で、「役所が魔法を使うのは不安」「気持ちに作用するのではないか」という声を受けています。こうした不安は当然のものと考えています。

そのため、以下を明確にします。

・結界は意見や考えを変えるものではありません

・苦情、不満、意見は言ってよく、別室での対応も選べます

・ロビーや説明会場など、意見交換の場には原則使いません

・違和感や体調不良があれば、すぐに中止し、別の方法に切り替えます

・試験運用の範囲、期間、評価方法を公開します

詳しい説明資料と説明会の案内を本日公開します。


 美月が読み上げたあと、勇輝へ視線を向けた。


「これなら、“怖いって言っていい”も、“だから全部やめろとも限らない”も両方入ってます。しかも怒ってる人を敵にしてない」


「うん。あとは画像。図で見せたい。言葉だけだと、“結局どういうこと”が残る」


 そこで加奈が付箋を使って、図解のラフを作り始めた。役所の図は分かりやすい方がいい。凝らない。丸と矢印で十分だ。


 中央に“結界あり窓口”。そこから左右に矢印。

 左は“通常対応”。

 右は“別室対応(結界なし)”。

 下に“書面相談”“予約相談”。

 さらにその下へ、“苦情・不満・意見 → 受け付けます”。


「これなら、“一回入ったら終わり”じゃないって伝わる。選べるって見えると、人はだいぶ落ち着くよ。あと、苦情が“通らない”じゃなく“ルートがある”って見えるのも大きい」


 美月が嬉しそうに頷く。


「加奈さん、図がうまい……。しかも、言葉が少ないのに伝わる」


「喫茶のメニュー表だって同じだよ。読みづらいと誰も頼まないし、頼んだあとに“思ってたのと違う”になるから。制度だって、それで嫌われる時があるでしょ」


「それ、行政にも刺さるやつだ」


 市長が、その図を覗き込みながら言った。


「よし。これはいい。町の説明は、町の言葉でやるのが一番強い」


「市長、今日は広報会議で余計な装飾を入れなかったので、褒めておきます」


「装飾を入れたくはあった」


「危なかった!!」


 さらに勇輝は、掲示板用にもう一枚、“結界を使わない場所”一覧を作らせた。大会議室、ロビー、一般待合、説明会場、税務相談の通常窓口、住民課の別室対応室。使う場所より、使わない場所の方を大きく書く。怖がっている人には、その方が効く。


 庁舎管理の担当がその一覧を見て言った。


「普通、サービスって“使える場所”を前に出したくなるんですが、今回は逆なんですね」


「今回は“使われない自由”の方が価値になるから。説明がサービスより大きくなる回です」


◆午後・市民説明会(質問が鋭い時ほど、役所は逃げてはいけない)


 説明会は、庁舎の大会議室で開かれた。ここだけは結界を使わない。議論と質問の場に静けさの膜を張るのは、どんな理屈で飾っても筋が悪い。だからロビーの案内にも、扉の前にも、はっきり書いた。


この会場では結界を使っていません。


 最初に、その一文が効いた。入ってきた住民の肩が少しだけ下がる。全部を信じたわけではないにせよ、“聞く気があるなら隠さないのかもしれない”と思わせるだけの効果はある。


 市長は約束どおり、開会で余計な比喩を使わなかった。


「心配は当然です。役所が新しい仕組みを使うなら、不安が出るのは自然です。今日は、“怖い”を否定する場ではなく、何をしていて、何をしていないのかを隠さず話す場にします」


 そこから先は勇輝が引き取った。資料をスクリーンに映し、目的、範囲、限界、選択肢、評価方法までを順に説明する。いつもより声を落ち着かせるのは、穏やかに見せたいからではなく、聞き漏らしがないようにするためだ。


 質問の一人目は、封筒の連名のうちの一人らしい中年の女性だった。きっぱりした顔をしている。


「結界が“考え方を変えない”というのは、誰がどう確認しているんですか。役所が“変えてません”と言っても、私たちには測れません。そこがいちばん不安です」


 鋭い。だが正しい。


 勇輝はすぐに答える。


「完全に個人の心の中を測ることは、役所にもできません。だからこそ、外から確認できる指標と、選択の仕組みを置いています。具体的には、結界を使う場所を限定し、別室対応を必ず用意し、同じ相談内容でも“結界なし”で受けられる選択肢を出しています。また、苦情・要望の件数、別室対応の利用数、アンケート結果、体調不良の記録などを集計し、数字で“言えなくなっていないか”を見ています」


 女性は資料へ目を落とし、なお問いを重ねる。


「では、気の弱い人が“別室を選びたい”と言い出せない場合はどうするんですか。選択肢が書いてあるだけでは、不十分かもしれません」


 ここは加奈が前へ出た。


「それ、すごく大事です。だから今、窓口では最初に“ここでは話しにくい内容なら別室にできます”を職員から言うようにしています。利用者がお願いする形だけじゃなくて、役所側から選択肢を出す。それなら、言い出しにくさは少し下がるから」


 会場の空気が少し動く。役所の説明だけでは届かない部分を、加奈の言い方がつないだ。


 二人目は、小学生の子どもを持つ父親だった。


「学校の相談室にも一部使っていると聞きました。子どもは大人と違って、自分の感覚をうまく言えません。落ち着いて見えても、実は嫌だったかもしれない。そこをどう扱うんですか」


 勇輝は資料の該当ページを開く。


「学校での運用は、今のところ相談室と保健室の一部に限っています。授業やホームルームには使いません。先生と保護者の事前共有を行い、使った日の記録を残し、子どもの様子にいつもと違う点があればすぐ停止します。また、学校側だけで判断せず、教育委員会と連携して、試験期間中は件数も時間も絞っています」


 市長がそこで短く付け足した。


「子どもに関しては、役所側の便利だけで広げぬ。それは約束する」


 会場の後方で、小さく頷く人がいた。


 三人目は、逆方向の質問だった。相談窓口で実際に助かったらしい高齢の男性が立ち上がる。


「わしは正直、前より話しやすくなったと思ってる。前は怒ってる人の声が横から刺さって、自分の話を忘れてしまったことがある。今はそういうのが少ない。だから全部やめろとも思わん。ただ、使ってるなら使ってるで、はっきり書いてくれというだけなんだ」


 その意見は大きかった。怖いと言う声だけではなく、助かった声も存在する。だから議論が難しい。勇輝は男性へ頭を下げた。


「ありがとうございます。おっしゃる通りで、“助かった人がいるから説明はいらない”でも、“怖い人がいるから全部やめる”でもなく、使うなら見えるようにし、嫌なら避けられるようにする。その両立を続けます」


 四人目は、商店街の若い店主だった。


「役所の結界が“洗脳”に見えるって噂が広がると、今度はうちの店で貼ってる『静かにお願いします』みたいな掲示まで“気分操作”って言われそうで怖いんですよ。つまり、役所が一歩やると、町全体の基準がズレる。その責任ってどこまで考えてますか」


 これも重い。けれど、逃げられない。


「役所が使う仕組みは、町の基準に見えやすいです。だからこそ、“何でも魔法で解決するわけではない”を先に示す必要があります。今回も、結界だけを広げるつもりはありません。交代制、別室、掲示、支援ルート、そういった魔法ではない守りを併せて整えているのは、そのためです。店や民間が“役所もやってるから”で同じことを始められると困る部分は、今後さらに明記します」


 美月が小声で補った。


「なので、後日“役所がやっていること/民間が勝手にやらないでほしいこと”の整理も出します。勝手翻訳シールの時みたいに、“善意の拡大解釈”が一番危ないので」


 会場の端で、何人かがメモを取っていた。質問が質問を生んでいる。炎上ではなく会話になっているなら、まだ戻せる。


 そこで、後方の席から別の手が挙がった。異界側の住民らしい、細身の男性だった。声は低いが、慎重に言葉を選んでいる。


「私は逆に、結界が少し助かっている側です。人の怒りが強い場所だと、こちらはそれだけで疲れてしまうので。ただ、その助かりが“他人の気分を丸めた結果”なら、気持ちよく使えない。役所は、その葛藤をどう扱っていますか」


 会場が静かになる。助かった側の罪悪感、という論点だ。勇輝は一瞬、資料から目を上げて男性を見た。


「正直に言うと、そこは私たちも気にしています。助かる人がいることと、怖い人がいることは両立します。だからこそ、結界を“便利だから広げる”ではなく、必要な場に限定し、嫌な人は避けられる形にしている。全員に同じように効かせることが正しさではないと考えています」


 加奈がさらにやわらかく言う。


「助かった側が遠慮しすぎる必要もないし、怖かった側が我慢する必要もない。その間に制度を置くのが役所の仕事なんだと思う。だから、気まずさも含めて今は試してる最中なんだよね」


 男性は、ゆっくり頷いた。


「それなら、まだ見ていられます」


 次は、小学校の子を連れた母親だった。説明会の間じゅう、ずっと腕を組んで聞いていた人だ。


「子どもに対して“今日は結界のある相談室だよ”って説明しても、意味が分からないと思うんです。結局、大人が決めるしかない。だったら、親としては“使わないでほしい”って言いたくなる。その場合、学校や役所は嫌な顔をしませんか」


 勇輝は首を振った。


「しません。むしろ、その意思表示は重要です。使わないでほしい、別の方法でお願いしたい、そういう希望があること自体が運用の前提になります。選ばないことが不利益にならない、というのは説明会の場だけでなく、実際の運用でも守ります」


 市長もそこはすぐに続けた。


「“同意しないなら協力的でない”とは見なさぬ。それをやれば、もはや説明会を開く意味がない」


 その言葉は効いた。市長の声には、こういう時だけ変な重みがある。


 最後に、封筒の差出人の一人であるらしい年配の女性が言った。


「今日の話を聞いて、全部安心したとは言いません。でも、“怖がったこと自体を馬鹿にされなかった”のは助かりました。役所が魔法を使うのが怖いなんて言ったら笑われると思っていたので」


 その一言で、会場の空気が少しだけほどけた。勇輝はその人へ向かって、まっすぐ答えた。


「笑いません。怖いと思うのは自然です。だからこそ説明しますし、選べるようにします。怖いから反対、助かったから賛成、その両方が町の声です。どちらかだけを住民らしいと言うつもりはありません」


◆夕方・庁舎一階別室前(信頼は、大きい拍手じゃなく小さい選択で戻る)


 説明会が終わっても、庁舎はまだ開いている。窓口の一部は時間延長の相談対応をしていた。勇輝が一階へ下りると、住民課の別室前で、小さな列ができているのが見えた。長い列ではない。だが、その中には説明会に来ていた人の顔も混ざっていた。


 結界のある通常窓口ではなく、別室対応を選んだ人たちだ。


 係長が、少し驚いたような、少し嬉しいような顔で近づいてくる。


「主任、説明会のあと、“今日は別室でお願いします”って言う人が続きました。しかも、“結界をやめろ”じゃなくて、“自分はこっちで受けたい”って言い方なんです。拒否というより、選択肢として使ってる感じで」


「それならいい。全部を同じにしなくても、“選べる”が機能してるなら大きい」


 別室の扉が開き、一人の女性が出てきた。説明会で最初に質問していた、あの中年の女性だ。表情はまだ硬いが、来た時の棘だけの顔ではない。


「主任さん」


「はい」


「今日は、ここで手続きしてみました。まだ結界のことを全部信用したわけではありません。でも、“嫌なら別室でいいです”を本当に選べるなら、少なくとも“逃げ道のない仕組み”ではないんですね」


「そうです。そこだけは、制度として崩しません」


 女性は一拍置いてから続けた。


「怖さがゼロになったわけじゃありません。でも、ゼロじゃなくても来られる、というのは大きいです。役所って、全部納得してからじゃないと来ちゃいけない場所じゃないんですね」


 勇輝は、そこでようやく今日一日の芯に触れた気がした。


「全部納得してなくても大丈夫です。不安が残っていても来られること、その上で手続きや相談が止まらないこと、それが役所の役目ですから」


 女性は小さく頷き、帰っていった。劇的な和解ではない。賛成に転んだわけでもない。だが、足を運ばなくなる方向からは戻った。それだけで十分だった。


 そこへ、説明会には出ていなかったらしい高齢の男性が、掲示板の前で足を止めていた。庁舎管理の担当が案内しようとすると、男性は少し気まずそうに言う。


「わしは、こういう魔法の話になるとついていけん。ただ、最近耳が遠くて、怒鳴り声の飛ぶ窓口はしんどかった。……別室って、静かなだけか?」


 勇輝は歩み寄って答えた。


「静かですし、結界は使っていません。必要な説明を一つずつ確認するための部屋です。魔法が嫌なら、そちらで受けられます」


 男性は掲示をもう一度読んでから、ゆっくり言った。


「じゃあ、そっちがいい。わしは怒鳴るのも怖いし、怒鳴られるのも怖い。だが、魔法で気持ちを整えられるのも、やっぱりまだ怖い」


「それで大丈夫です」


 そのやり取りを聞いていた住民課の若手職員が、あとでぽつりと呟いた。


「主任、“結界が嫌”って言われると、こっちを否定されたみたいに感じる人もいたと思うんです。でも、今の見てると、否定じゃなくて“選びたい”だけなんですね。そこを混ぜると、たしかに余計こじれます」


「そう。結界の賛否に見える話の半分くらいは、本当は“選べるかどうか”の話なんだと思う」


 加奈がその背中を見送りながら、紙袋の中のティッシュ箱を軽く叩く。


「今日の勝ちは、拍手じゃなくて“別室を選んで、それでも役所から帰らなかった人がいた”ことだね。ああいうの、地味だけど一番強い」


「うん。全部を好きになってもらう必要はない。嫌でも怖くても、それでも使える制度であることの方が大事だ」


 美月が、タブレットを抱えたまま壁にもたれた。


「主任、今日の反応、完全な鎮火じゃないです。でも“炎上”じゃなくて“質問”で続きそうです。これ、悪くない流れですよね」


「悪くない。質問は、まだこっちの返事を聞く気があるってことだから」


 市長が、今日は最後まで静かな調子で言った。


「魔法を使う町は、魔法そのものより説明責任で試される。今日のひまわり市は、そこから逃げなかった」


 勇輝は庁舎の自動ドアの向こうを見た。夕方の光が、広場の端を薄く染めている。怖いという言葉は消えないだろう。明日もまた、別の角度から来る。けれど、それでいいのだと思えた。怖いと言える町は、まだ壊れていない。黙って離れていく方が、ずっと怖い。


 別室前の案内札には、小さくこう書き足されていた。


結界が不安な方は、こちらでも対応できます。遠慮なくお申し出ください。


 誰が書いたのかは聞かなかった。たぶん住民課の誰かだろう。役所の言葉が、ようやく“制度の説明”から“来ていいよ”へ近づいた証拠だった。


◆夜・庁舎一階ロビーの消灯前(怖さがゼロでなくても、町は回る)


 閉庁後のロビーは、昼間より広く見える。人がいない分だけ、床の反射も、掲示板の白も、椅子の並びも、妙に整って見える。整いすぎた庁舎は、時々少し怖い。そこへ人が入ってきて、迷って、怒って、困って、質問して、ようやく“町の建物”になるのだと、勇輝は最近よく思うようになっていた。


 住民課の係長が、最後の施錠前に説明会の質問票を束ねていた。枚数はかなりある。批判だけでも、賛成だけでもない。線を引いてほしい、子どもの扱いを詳しくしてほしい、別室の場所が分かりにくい、結界の範囲をもっと見えるようにしてほしい、学校への説明は保護者会で別にやってほしい——そういう具体の紙が、何枚もある。


「主任、これ、全部読むんですよね」


「読みます。今夜全部は無理でも、順番に。こういうのを読むために説明会をやったので」


「疲れますね」


「疲れます。でも、怖いって言われるより、“どうすれば使えるか”に変わってるなら、読む価値はあります」


 美月が、庁内用と住民向けの更新案を二つ並べて見せた。


「住民向けは、今日のQ&Aを整理して明日出します。庁内向けは、“怖さを否定せずに別室へつなげた事例”として共有したいです。結界の有無で揉める話が庁内にも残ってるので、外向けだけじゃなくて中にも効かせたい」


「いい。庁内も住民も、情報の出し方を変えるだけで空気が変わる時期だから」


 加奈は椅子に腰かけたまま、空になった紙コップを見つめていた。今日はさすがに少し疲れた顔をしている。それでも目元はやわらかい。


「ねえ、勇輝。怖いって言われるの、やっぱりしんどい?」


「しんどいよ。役所側は“助けるためにやってる”って気持ちがあるぶん、余計に。でも、そのしんどさに逃げて“そんな心配しなくていい”って言い返したら、たぶん今日よりもっと壊れてた」


「うん。今日はそれをしなかったから、大丈夫なんだと思う。説明会って、納得させる場所じゃなくて、“怖いままでも残っていい”って確認する場所になる時があるんだね」


 市長が、消灯前のロビーを見回しながら言った。


「町が新しい力を持つたびに、誰かは助かり、誰かは怖がる。その両方を見て、なお進めるか止めるかを決めるのが行政だ。助かった声だけで進むのも、怖い声だけで止まるのも、どちらも雑だ」


「今日はずっと雑じゃなかったですね」


「私は本来、雑ではない」


「そこは意見が分かれます」


 誰も大きく笑わなかったが、小さく空気は緩んだ。そういう終わり方でいい夜だった。全部が解決した日の笑いではなく、明日も続く仕事の前に少しだけ肩を下ろすための笑いだ。


 勇輝は最後に、庁舎前の掲示板を見に行った。昼間に貼った説明の横へ、誰かがもう一枚、小さな紙を追加していた。


不安がある方は、不安があるまま来てください。方法は一緒に選べます。


 役所の正式文書ではない。きっと庁内の誰かが、帰る前にそっと貼ったのだろう。正式な掲示としては甘い。だが、今日のひまわり市には必要な一文だった。


 勇輝はその紙を剥がさなかった。明日の朝、正式な文言に直す必要はある。でも今夜だけは、そのままでいい気がした。


 怖さがゼロにならなくても来られる町。

 納得が全部そろわなくても手続きが止まらない庁舎。

 魔法を使うなら、使わない道も一緒に見せる行政。


 そこまで辿り着けるなら、まだこの町は大丈夫だ。


 ひまわり市役所。

 今日も通常運転。

 ただし、魔法を使うなら、逃げ道まで含めて公開しなければならない。

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