第75話「効果が出たら拡大:『結界を全庁舎に』という暴論が出る」
中間報告を掲示した翌日から、窓口の空気が少しだけ変わった。
紙の前でため息をつく人が減った、とか。
列の途中で引き返す人が少なくなった、とか。
それは目立つ変化じゃない。けれど役所の一日は、小さな変化の積み重ねでできている。
掲示板の前で立ち止まった年配の男性が、「前より聞きやすかったよ」と職員に言ってくれた。
別室に案内された若い女性が、帰り際に「助かった」と短く頷いてくれた。
そんな場面が、ぽつぽつと増えていく。
「主任、今回のまとめ、思ったより反応いいです」
美月がタブレットを掲げながら言った。画面には、公式SNSの返信と、窓口アンケートの自由記述を抜粋した一覧が並んでいる。
いつもなら紙束で突撃してくる美月が、今日は端末ひとつ。だから余計に嫌な予感がした。
「いい反応はありがたい。……で、次の問題は?」
「来ますよね、こういう時。ええ、来ました」
美月は、指先で画面を上に払った。
そこにあったのは、庁内チャットのスレッドの見出しだった。
【提案】全庁舎に静けさ対策(結界)を適用しては?
勇輝は、声に出さずに二回読み直した。
読み直したところで文字は変わらない。むしろ二回目の方が、頭の中で太字になる。
「……全庁舎」
「はい、全庁舎です。『効いたなら広げよう』っていう流れは、たぶん自然なんですけど――」
「自然だけど、雑だ。雑なまま進むと後で困る」
そこへ加奈が紙袋を抱えて入ってきた。
今日の紙袋の口から覗いているのは、耳栓と、のど飴、それから小さなメモ帳。
耳栓は分かる。会議が長くなると、声も気配も疲れる。のど飴も分かる。言葉が増える日は喉が乾く。メモ帳は――まあ、加奈はいつも最後に必要なところへ辿り着く。
「『静けさを増やしたい』って言葉だけなら、すごく分かりやすいよね。怖い人が多いほど、分かりやすい言葉に寄ってくる」
「……怖い人?」
「苦情が怖い人、怒鳴り声が怖い人、列が怖い人。来庁者も職員も、両方いる」
加奈は耳栓を指先で軽く弾いた。
「でも、静けさって、便利な反面、使い方を間違えると“言わせない力”にもなる。そこだけは外しちゃいけない」
勇輝は頷いた。
ここまで積み上げてきたのは、怒りを消す仕掛けじゃない。
言葉が届くための下敷きだ。言葉が届けば、手続きは進む。手続きが進めば、不安はひとつ減る。
「今の結界は“目的限定”でやってる。相談の場が潰れないように、こちらの受け止め方を整えるために」
「それが効いたから、『全部に張れば全部解決』って言われるわけだね」
「解決しない。というか、解決したように見せるだけの危険がある」
そのタイミングで、廊下から足音が近づいてきた。
市長だ。今日は朝から庁内を歩き回っているらしく、袖口に少しだけ埃がついている。現場を見てきた証拠みたいで、妙に頼もしい。
「聞いたぞ。全庁舎に結界を、という提案だな」
「はい。今、まさに」
勇輝が答えると、市長は腕を組んで、会議室の方向を顎で示した。
「意見が出るのは悪いことではない。問題は、そのまま走り出すことだ」
「走り出しそうなんです。庁内チャットの勢いが」
「なら、止めるのは君たちの役目だ。止めると言っても、叩くのではない。方向を付ける」
加奈が小さく笑う。
「市長、今日は珍しく言い方が優しい」
「普段から優しいつもりだが?」
「“つもり”なのが怖いって言われるんですよ」
「……努力はする」
美月がすかさず言う。
「努力ポイント、今つくんですか? 庁内ポイント制度、作ります?」
「制度を増やすな」
「増やしません! 冗談です!」
冗談が挟まるのは、まだ余裕がある証拠だ。
余裕があるうちに、枠を作っておく。枠を作らないと、議論は広がる。広がった議論は、回収に人手がかかる。
勇輝は立ち上がった。
「会議を開きます。拡大は否定しません。ただし“全庁舎”という言葉のままでは扱えない。必要なのは、目的と場所の整理です」
「了解。私も出る。空気を締める役が必要だろう」
「締める役は、言葉を締めてください。人を締めないで」
「心得た」
――本当に心得てくれればいいのだが、と勇輝は心の中だけで付け足した。
――――――――――
会議室:拡大派と慎重派、そして“回したい人たち”
会議室のホワイトボードの前に、いつもの面々が集まった。
いつもの、というには少し顔ぶれが違う。今回は「窓口が楽になった」という手応えが、別の部署にも伝染している。
前方の席に庁舎管理の担当者が二人。警備担当も一人。苦情対応を担当している職員もいる。
向かいには住民課の窓口班、福祉相談の担当、学校連携の職員。
そして、どちら側にも属しきれない人たち――「とにかく現場を回したい人たち」が、壁際に腰掛けている。
美月は資料を投影しながら、小声で勇輝に言った。
「主任、これ……議会っぽい空気になってます」
「議会っぽい、って言い方が怖いな」
「でも大丈夫です。今日は“数”があります。数があると、少しだけ落ち着きます」
「少しだけ、な」
勇輝は、まず冒頭を丁寧に作った。
ここで最初に“勝ち負け”の空気を出すと、全員が自分の旗を掲げ始める。
旗が立つと、降りなくなる。降りない旗は、現場を疲れさせる。
「今日は、“全庁舎に結界を”という提案について、目的と影響を整理します。
誰が正しいかを決める会議ではありません。どこを守りたいのか、何が不安なのかを、まず分けます」
庁舎管理の担当が、真面目な顔で手を挙げる。
「主任、いまの試験運用、確かに効果がありました。窓口の中断が減り、職員の体調不良も減っている。
なら、広げた方がいい。廊下やロビーで大声が出ると、窓口が落ち着いていても一気に流れます」
それを聞いた住民課のベテラン職員が、慎重に言葉を選びながら返す。
「広げたい気持ちは分かります。ただ、全部を静かにすると、来庁者が“ここはしゃべってはいけない場所”だと感じる可能性がある。
相談が必要な人ほど、そういう空気に弱いんです」
福祉相談の担当も続く。
「私たちは、声が出しにくい人を“声が出せる場所”に案内するために別室を使っています。
もし庁舎全体が同じ雰囲気になると、別室の意味が薄れます。選択肢が減るのが怖い」
警備担当が、少し低い声で言う。
「ただ、怒鳴り込みが起きたとき、止めるのは私たちです。現場が壊れる前に抑えたい。
結界があれば、最初の火花が散りにくいのは確かです」
――両方正しい。
勇輝は頷きながら、全員の言葉を受け止めた。
正しい言葉が並ぶときほど、会議は崩れやすい。自分の正しさを守ろうとして、相手の正しさを削ってしまうからだ。
美月が隣で、耳栓を指で挟みながら囁く。
「主任、加奈さんの耳栓、早めに配りたい気持ちになってきました」
「配るな。会議の前提が崩れる」
「ですよね。はい、我慢します」
庁舎管理側の職員が、さらに踏み込んだ。
「怖いんです。怒鳴り声が出ると、机が震えるみたいに感じる。
自分は大丈夫でも、隣の新人が固まってしまう。新人が固まると、窓口が詰まる。詰まると列が荒れる。
結界があると、その連鎖が切れる。なら、全部に張って連鎖を根元から切りたい」
その“怖い”は、軽く扱えない。
勇輝は、すぐに否定しなかった。否定すると、相手はさらに強い言葉を探す。強い言葉が出ると、議論が固くなる。
「怖いのは分かります。怖さを減らすのは、私たちの仕事です。
ただ、怖さの原因が“音”だけなのか、“行為”なのか、“見通しのなさ”なのか。そこを分けたい」
加奈が、背筋を伸ばして言う。
「静けさが欲しい、って言葉の裏に、“安心したい”がある。
でも安心の作り方は、静けさ一つじゃないよね。たとえば『ここで話していい』って掲示があるだけでも違う」
市長が、ここで口を挟んだ。
「今の結界は、“話せる場を壊さないための静けさ”だ。黙らせるための静けさではない」
市長は視線を一巡させ、落ち着いた声で続ける。
「全庁舎に広げる案が、後者に寄るなら、私は賛成しない。だが、前者を守るための工夫なら、試す価値はある」
場の空気が、少しだけ整った。
市長が結論を押し付けていない。方向だけを置いている。
勇輝はその隙に、ホワイトボードへ二本線を引いた。
――――――――――
勇輝の整理:結界は“防災の道具”であり、“日常の壁”ではない
ホワイトボードに書いたのは、二つの定義だ。
結界=安全確保の運用(防災)
結界=感情を止める壁(統制)
「この二つが混ざると、危ないです。
今やっているのは前者。窓口の混乱を減らし、説明が通る状態を作るため。
けれど“全庁舎”と言った瞬間、後者――黙らせる壁に見えやすくなる」
住民課の職員が頷く。
「来庁者が黙ると、問題が消えるんじゃなくて、持ち帰られる。後で別の形で出てくるんです」
庁舎管理側の職員は、慌てて首を振った。
「黙らせたいわけじゃないです。本当に、そうじゃない。
ただ、怖い。怖いのを減らしたいだけなんです」
勇輝は、すぐに頷き返した。
「分かってます。だから“怖さを減らす”ために、結界以外の手も同時に使う。
結界を広げるかどうかを決める前に、怖さの内訳を分けましょう」
美月が資料を切り替え、前回のトラブル分類を映す。
あの「事故・意見・要望」という分類だ。
「怒鳴り込みは、“感情”というより“行為”です。
行為はルールと動線で止める。静けさの膜で包む話ではありません。
逆に、意見や要望は“言っていい”が前提。静かにしすぎると、言う道が消える」
加奈が頷いて、柔らかく補足する。
「怖いのを減らすのは大事。でも“怖いから黙って”って空気になると、今の成果がひっくり返る。
話しやすくなった、っていう声を守りたい」
市長は短く言った。
「守りたいものを、先に言葉にする。それが政策だ」
勇輝は、ここから結論へ飛ばなかった。
全否定もしない。全面賛成もしない。
その代わりに、「全庁舎」という曖昧な塊を、場所と目的に分ける。
――――――――――
解決策:全館適用ではなく「ゾーニング」と「条件付きの拡大」
「提案を“全庁舎”のまま扱うと、誰も納得しません。
なので、庁舎をゾーンで考えます。結界は“必要な場所の傘”にする」
勇輝は、庁舎の簡易平面図をホワイトボードに描き、四つの区分を作った。
【庁舎ゾーニング(暫定案)】
1)相談ゾーン(結界あり)
相談窓口、福祉相談、別室対応室
→ 感情が荒れやすい場所。刺さりを減らし、言葉を通すための静けさ
2)手続きゾーン(結界弱め/時間限定)
住民課、税務、証明発行のカウンター
→ 説明が通る程度に。無音にしない。混雑ピークだけ運用
3)議論ゾーン(結界なし)
会議室、意見交換、説明会会場
→ ここは“言う場”。丸めない。質問も苦情も受け止める
4)待機ゾーン(結界なし+動線・掲示強化)
ロビー、廊下、入口付近
→ 静けさで縛らない。生活音を残す。迷子を出さない工夫を優先
美月が頷きながら言う。
「これなら、“全部に張れ”っていう勢いを、“必要なところだけ”に持っていけます。
しかも議論ゾーンを明確に“なし”って書くの、効きます。『黙らせない』って宣言になる」
住民課側の職員が、少し安心した顔になる。
「議論ゾーンがなしなら、説明会は守れますね。『質問したら静かにしてください』みたいな空気にならない」
一方、庁舎管理側の職員はまだ不安そうだ。
「でもロビーで怒鳴られたら、結局そこから火が回るんじゃ……」
勇輝は即答した。だが声は強くしない。現場の不安を叩かない。
「ロビーでの怒鳴り込みは、結界ではなく、庁舎管理と警備の動線で止めます。
入口からの導線を整え、声が大きくなる前に“案内”で吸収する。
それでも行為として危険なら、ルールで止める。感情を止める話ではなく、行為を止める話です」
警備担当が頷いた。
「動線とルールがはっきりすれば、こちらも動きやすい。曖昧だと、いつも“様子見”になって遅れる」
加奈がメモ帳を開き、さらりと書き足した。
「ロビーの掲示も変えよう。“静かにしてください”じゃなくて、“困ったらここで言ってください”。言葉の出口を作る」
市長が短く言う。
「良い。静けさは目的ではない。目的は“話が進むこと”だ」
勇輝は、次のページをめくるように話を繋げた。
「そして、ゾーニングを“絵”で終わらせないために、条件付きで拡大を試します」
――――――――――
条件付きの拡大:評価とセットで「試験」に戻す
「拡大をするなら、監査の宿題――期限と評価指標をセットにします。
やりっぱなしにしない。数字で追える範囲だけ試す」
勇輝は、具体案を読み上げた。
・期間:追加で2週間(ピーク時間帯を含める)
・対象:相談ゾーンは継続+手続きゾーンの一部(混雑ピークのみ)
・指標:前回と同じ(中断、一次完結、再来庁、呼び出し、職員負担、アンケート)
・運用ルール:
「意見・要望は歓迎」
「別室対応はいつでも選べる」
「黙らせる目的で使わない」
この三点を掲示し、職員側の対応フローも確認する
美月がすぐに手を挙げる。
「これ、前回のフォームとチェック表、そのまま使えます。
新しい紙は増やしません。増やさないで、比較できます」
「ありがとう。そこが大事だ」
勇輝は頷いた。
「拡大が“勢い”のままだと、全員が疲れます。けれど評価で追えるなら、ただの思いつきじゃなくなる」
住民課の職員が、控えめに言う。
「評価って言葉、現場は身構えます。でも“現場を守るための評価”なら、まだ受け入れられる」
加奈がすかさず続ける。
「評価で誰かを責めるんじゃなくて、どこがしんどいかを見つけるためのもの、って最初に言おう」
庁舎管理側の職員も、少しだけ肩の力が抜けた。
「……全庁舎じゃなくても、怖さが減る方向に進むなら、納得できます。
ただ、実際にロビーが荒れたときの手順は、先に確認しておきたいです」
「もちろん。先に作ります」
勇輝はその場で、ホワイトボードの端に手順の骨格を書いた。
・入口での一次案内(混雑時の声かけ)
・ロビーでのエスカレーション基準(危険行為の判定)
・別室誘導の導線(迷子を出さない)
・警備連携の連絡手順(“様子見”を減らす)
・記録は最小限(丸を一個)
美月が「丸を一個」と口の形だけで復唱した。
勇輝はそれを見て、少しだけ笑った。
――――――――――
ひと呼吸:結界の“持ち主”を思い出す
議論が一段落したところで、勇輝はふと、結界を張っている本人――守護竜の存在を思い出した。
結界は便利な機能ではない。誰かの負担で成り立っている。
そこを忘れると、“全部に張る”が簡単に見えてしまう。
「一点、確認したい。結界の強さと範囲は、無限に増やせません。
守護竜の負担もあります。だからこそ、ゾーンと時間を限定する」
市長が頷き、会議室の全員に向けて言った。
「便利なものほど、裏側がある。裏側を見た上で使うのが、役所の責任だ」
庁舎管理側の職員が、小さく頷いた。
「……確かに。効いたから、つい“もっと”って思いました」
勇輝はその言葉を、責めない。
「思うのは自然です。だから、自然な欲を、運用に落とします。無理のない形で」
――――――――――
現場確認:図面の線を、庁舎の足音に合わせる
会議が終わったあと、勇輝は「じゃあ実際に歩こう」と言った。
ゾーニングの図は便利だ。けれど、図の上では人は息をしないし、子どもは泣かないし、靴音も反響しない。
現場を歩くと、言葉が具体に変わる。具体に変わると、対策は“机上の勝ち”ではなく“現場の助け”になる。
庁舎管理の担当者が、鍵束を鳴らしながら先導する。
「主任、正直に言うと、ロビーはずっと悩みの種でして。音が抜けるんです。窓口の声も、廊下の声も、全部ここに集まる」
「集まる場所は、荒れやすい。だから“結界で黙らせる”に寄ってしまう」
「はい……寄りやすいです。簡単そうに見えるから」
ロビーに出ると、ちょうど午前の来庁者が入り始める時間だった。
自動ドアが開くたび、外の冷たい空気がすっと入り、足音と一緒に小さなざわめきが流れ込んでくる。
完全な静けさではない。むしろ、生活の音が薄く漂っている。
「この音、全部なくす必要はないよね」
加奈が言う。
「なくしたら、来た人が“自分だけ音を立ててる”って気持ちになる。そうなると、話しかけるのが怖くなる」
美月がタブレットにメモを取りながら頷く。
「だから待機ゾーンは“生活音あり”でいい。代わりに、迷いが出ないようにする。迷うと声が大きくなるし」
「そう。迷いは不安になる。不安は声になる」
勇輝はロビーの掲示板を見上げた。
そこには、いつから貼られているのか分からない“お知らせ”が、紙の層みたいに重なっている。
「まず、入口の情報を整理しよう。ここが混乱の入口だ」
「紙の層、剥がしたい……」
美月がつい口に出し、庁舎管理の担当者が苦笑した。
「剥がすと『あのお知らせはどこへ行った』って言われるんですよね……」
「言われますね」
勇輝は頷いた。
「だから“剥がす”じゃなくて、“まとめる”。情報を減らすんじゃなく、入口に出す情報を整理する」
加奈が、メモ帳に短い案を書いて見せる。
「『困ったらここへ』が一番上。次に『相談は声に出していい』。
それから『別室があります』。最後に、手続きの矢印」
「いい。言っていい場所だって先に言うのは、静けさの副作用を打ち消す」
庁舎管理の担当が、ぽつりと尋ねた。
「でも主任、実際に怒鳴り声が出たら……掲示で止まりますか?」
「掲示だけでは止まりません。掲示は“最初の摩擦”を減らす。
止めるのは、案内の動きと、ルールと、連携です」
勇輝は、受付カウンターの位置、警備の待機位置、別室への導線を指で追いながら、現場の目線で手順を組み直した。
角を曲がるところで人が詰まる。詰まったところに声が溜まる。声が溜まると、誰かが苛立つ。
その連鎖を、道具ではなく構造で切る。
市長は、黙って歩きながら要所で短く頷いている。
口を挟まない。だが見ている。
その“見ている”が、職員にとっては背中を押す力になる。
別室の前に来ると、福祉相談の担当が言った。
「ここが相談ゾーンの核になります。静けさは欲しいけど、閉じ込める感じにはしたくない」
「扉に張り紙を工夫しよう。“静かにしてください”じゃなく、“ここなら落ち着いて話せます”。
目的は、音を消すことじゃなく、言葉を通すことだから」
美月が、思いついたように言う。
「あと、結界の表示も“結界あります”って書くと強すぎるんですよ。なんか、選ばれし場所みたいになる。
『落ち着いて相談できる時間帯があります』の方が、角が立たない」
「それ、採用。言葉の圧は、できるだけ下げる」
庁舎管理の担当が、少しだけ笑った。
「主任、結界って言葉を、ここまで役所の日本語に変換できるんですね」
「変換しないと運用できない。運用できないと、守れない」
ロビーに戻ったところで、外から低い影が差した。
庁舎前に、守護竜がいる。今日も当然のように、そこにいる。住民の視線が一瞬そちらに流れ、そして日常に戻る。
“いる”こと自体が、もう町の風景になっていた。
勇輝は窓越しにその姿を見て、心の中で線を引き直す。
負担を前提にしてはいけない。便利さを当然にしてはいけない。
だからこそ、限定する。評価とセットにする。庁舎全体の壁にはしない。
「……図面の線、現場で太くなりました」
美月が言う。
「会議室で引いた線より、こっちの線の方が、ちゃんと人の足音に沿ってます」
「それでいい。足音に沿う制度は、続く」
加奈がホットミルクの入った紙コップを配りながら、ぽつりと笑った。
「静けさの話なのに、結局“人が歩ける道”の話になるんだね」
「役所の仕事って、だいたいそれだ」
勇輝が言うと、市長が肩をすくめる。
「広場を守るのは、道を守ることだ」
「市長、また最後だけ格好つける」
「最後だからだ」
――――――――――
結論:結界は“全庁舎の壁”ではなく、“必要な場所の傘”
会議の最後に、勇輝は全員へ改めて言った。
ここだけは、曖昧にしない。曖昧にすると、後から一番弱い人が困る。
「結界は、庁舎全体を覆う壁にはしません。
必要な場所に、必要な強さで、必要な時間だけ。
そして、言葉を止めない。――この前提を守った上で、条件付きで拡大を試します」
拡大派も慎重派も、完全に満足した顔ではない。
けれど、“話が前に進んだ”顔はしていた。
役所の会議でそれは、十分に良い着地だ。
市長が立ち上がり、机の端を軽く叩いた。
「庁舎は城ではない。来る者が話し、去る者が安心して帰れる広場だ。
静けさは、その広場を守るための道具にする」
「さっきから城って言葉が出てくるけど、別に城じゃないですからね」
美月が思わず突っ込み、会議室に小さな笑いが起きる。
笑いが起きたのは、良い。緊張が解けた証拠だ。
加奈は耳栓を机の端に置いたまま、ホットミルクの粉を紙袋から取り出した。
「会議用の耳栓、今日は出番が少なくてよかった。代わりに、息を整えるやつ。飲み物、作ってくる」
「作ってくれるなら助かる」
勇輝が言うと、美月がすぐに後を追う。
「私も行きます。今日の会議、声の強さじゃなくて、言葉の筋で勝った感じがします」
「勝ったとか言うな。今のは“整った”だ」
「整った、ですね。了解です」
市長は、廊下へ出る前に振り返った。
「勇輝、次は庁内の公平が課題になる。
結界がある窓口とない窓口で、気持ちが揺れる。先に言葉を用意しておけ」
「……はい。たぶん、そこが一番ややこしい」
「ややこしいほど、先に整える」
「市長、今日は良いことを言う日ですね」
「毎日そうでありたいものだ」
ひまわり市役所。
今日も通常運転。
ただし、うまくいき始めた瞬間に、話は次へ進む。進むからこそ、置いていかれないように道筋を作る。




