第7話「ひまわり市、防衛予算を組む!」
◆ひまわり市役所・異世界経済部 朝
開庁前のフロアは、まだ人の声が少ない。コピー機の予熱音と、廊下のワックスの匂いだけが、いつもどおりの「役所の朝」を作っている。
けれど、異世界経済部の島だけは別だった。席に着いている全員の視線が、机の上の資料の束に吸い寄せられている。
束の背表紙には、マジックで大きくこう書かれていた。
『異界対応・生活影響まとめ(暫定)』
暫定、と書いてあるわりに、厚い。
昨日一日で、どれだけ「暫定」が積み上がったのか。勇輝は黙ってページをめくり、まとめ担当の美月を見た。美月はタブレットを抱えたまま、すでに観念した顔をしている。
「じゃ、確認しよう。被害というより……生活影響のほう。順番に」
「はい。まず“下水詰まり”が二十三件。次に“温泉街の排水口へスライム侵入”が五件。
それから“学校に迷いドラゴン”が一件です。場所は市立ひまわり第一小、時間は午後三時十六分」
淡々と読み上げたのに、最後だけ妙に具体的で、余計に現実味が出た。
隣で加奈が手帳に目を落としたまま、苦笑する。
「……“一件”って言い方が、もう普通の案件みたいに聞こえるのが怖いね」
「ほんとそれ。昨日までの私なら、先に声が裏返ってたはずなんですけど」
美月が自分で言って、肩を落とした。「裏返る余裕がなかった」みたいな落ち方だ。
勇輝は、資料の端を指で押さえながら、ゆっくり息を吐いた。
怒鳴りたい気持ちは、朝の空調より先に消しておく。ここで声が荒れると、場の温度が固定される。
「……学校の件、詳細は」
「はい。教頭先生いわく、最初は“転校生の見学”だと思ったそうです」
「思える?」
「思えたみたいです。というか、校門の前にドラゴンの子がいたら、誰だって“そういう見学のやつ”だと思いたくなるじゃないですか」
「願望を事実にしてはいけない」
加奈が小さく笑い、ページをめくった。
書き込みのある箇所に付箋が貼ってある。
「その子、帰り際に黒板へ書き残していったって……これ?」
付箋の下から出てきた写真には、チョークで丁寧に書かれた字が写っていた。
『夏の自由研究:ひまわり市の学校制度(仮)
・授業は鐘で始まる
・先生は怒らない(注意はする)
・給食はおいしい
・保健室が安心』
「……観光っていうより、文化交流が勝手に進んでる」
美月が、笑うのを諦めた顔で言った。
「それが一番怖いんだよ。勝手に進むやつは、だいたい後で制度が追い付かない」
そこへ、椅子を引く音がひとつ。
市長が、資料の束を一枚だけ抜き取り、ゆっくりと机に置いた。口調はいつも通りで、肩に力も入っていない。けれど目だけが真剣だった。
「今の問題を“防衛”と呼ぶなら、剣と盾の話じゃない。生活を守る仕組みの話だ」
誰も反論しない。
この三週間で、ひまわり市は「異世界の出来事」をニュースの見出しじゃなく、日々の業務として受け止めるようになっている。
その現実感が、良い方向に働くときもあれば、怖い方向に働くときもある。
勇輝が、机の上のペンを回しながら確認した。
「つまり、警備員を増やすとか、見回り強化とかじゃなくて?」
「もちろん、それも必要だ。だが現場が困っているのは、もっと地味なところだろう。
詰まる。溢れる。迷い込む。間違える。分からない。
そういう“日常の穴”を塞がないと、町は回らない」
加奈が頷き、手帳を閉じた。
彼女の声は、柔らかいのに芯がある。喫茶のカウンターで鍛えられた「相手の顔を見て言う」声だ。
「困る人が増えたとき、誰に言えばいいか分からないのが一番きつい。
異界の人も、市民も、同じところで立ち止まっちゃうから」
「それ。相談窓口が先に必要。あと、今の下水は“水が流れる”前提で設計されてる。
そこに“流れない生き物”が混ざると、もう想定外です」
美月がタブレットを軽く叩く。「数字で言うと、想定外の頻度が上がりすぎてます」
勇輝は頷き、資料の表紙に赤ペンで丸をつけた。
「じゃあ、結論。防衛予算って言葉が大きすぎるなら、名前を変えよう。
でも予算は要る。人も道具も、手順も要る。
……市長、“組む”ってことでいいですか」
市長は迷いなく頷いた。
「補正でいく。議会へ出す。
名称は“多種族共生・生活安全整備事業”。その中に、下水と学校と温泉と、相談体制を入れる」
「かっこよく言うとそうなるんだ……」
美月がぼそっと言って、すぐにメモを取る。「でも書類のタイトルはそれが正しい」
「正しい言葉は、まず書類の上で町を守る」
勇輝は、少しだけ笑った。笑える余裕が戻ったなら、次に進める。
そのとき、ドアの向こうから小さな足音が近づいた。
ノックの代わりに、ドアがすっと開く。
真紅ではないけれど、存在感だけは同じ。
第二魔王リリアが、覗き込むように顔を出した。
「ねえ。朝から“下水”って言葉が飛び交ってたけど、あなたたちの町は、そこから世界を守ってるの?」
「世界っていうか、靴の裏を守ってる」
勇輝が返すと、リリアは眉を上げた。
「靴の裏?」
「詰まると、溢れて、においも出るし、困る人が増える。
困る人が増えると、町がぎくしゃくする。
ぎくしゃくすると、観光も暮らしも一緒に止まる。
だから最初に守るのは、ほんとに靴の裏みたいなところなんだ」
リリアは、少しだけ口元を緩めた。
「……言い方は地味だけど、嫌いじゃないわ。
魔界でも、派手な魔法より、最後に残るのは“掃除できるか”だもの」
加奈が、自然に笑う。
「それ、魔界でも同じなんだ」
「同じ。だから――下水の件、私も見に行っていい? スライムって、私の世界では“水精族”に近い」
美月が顔を上げる。目が、仕事モードの光を帯びた。
「水精族! それ、分類できます? っていうか、話が通じるんですか?」
「通じるかどうかは分からないけど、怖がらせるより先に“居場所”を作る方がうまくいく。
魔界の水路で学んだ」
勇輝は、心の中で小さくガッツポーズした。
異界の人材が、現場の解像度を上げてくれる瞬間がある。政治でも外交でもなく、下水で。
「よし。午後、下水処理場へ。……その前に、学校の件も現場を押さえたい。
美月、教頭先生に連絡。加奈、保護者向けの一枚だけ先に作れる? 不安が広がる前に、言葉を置きたい」
「うん。短く、でも冷たくならないように書く」
加奈は即答した。「“安心してください”だけじゃなく、何をするかまで」
「頼む。市長は……議会の根回し、お願いします」
「任せろ。議会には“数字”と“生活の絵”を持っていく」
市長が立ち上がり、資料を抱えて部屋を出る。
その背中を見送ってから、勇輝は改めて言った。
「じゃあ、今日の現場。行こう。防衛予算は、現場の靴の裏から作る」
◆市立ひまわり第一小学校 午前
校門の前は、夏の名残の蝉がまだ鳴いていた。
低学年の子どもたちが体育館へ移動する時間らしく、廊下の窓越しに小さな頭が流れていく。
その「いつも」の風景の中に、昨日の「迷いドラゴン」が混ざっていたことが、逆に怖い。
応接室に通されると、教頭が深々と頭を下げた。
「昨日は……大変失礼しました。私どもも、まさか……あの、大きさで“子ども”とは思わず」
「そこは謝らなくて大丈夫です。むしろ、落ち着いて対応してくれたのが助かりました」
勇輝が言うと、教頭は目を丸くした。
「落ち着いて……いえ、あれは、落ち着いていたというより……先生たち全員、現実から目をそらしていたんだと思います」
隣で美月が、うっかり笑いそうになって、口元を押さえた。
加奈は、机の上の湯飲みに視線を落としながら、丁寧に言葉を選ぶ。
「子どもたち、怖がりませんでしたか?」
「不思議なことに……怖がる子もいましたが、すぐに“見学の子”として受け入れた子が多くて。
先生が“教室に入る前に靴をそろえようね”と言ったら、ちゃんとそろえたんです。
尻尾で」
尻尾で靴をそろえる光景が、頭に浮かぶ。
勇輝は、真面目に頷いた。
「ルールが伝わったんですね。なら、今後は“伝えるルール”を先に用意しないといけない」
「それです」
教頭が、机の引き出しから一枚の紙を出した。「昨夜、先生たちで作りました」
そこには、手書きの大きな文字。
『異界のお客様が学校に来たら
①教頭室へ(案内)
②子どもは廊下へ出ない
③市役所へ連絡』
簡単で、迷いがない。
勇輝は、胸の中が少し軽くなるのを感じた。
「すごくいい。これ、町の“標準手順”の雛形にしましょう。
学校だけじゃなく、図書館でも体育館でも、似た形で使える」
「標準……それなら、先生たちも安心します。
今は、何が正解か分からないまま、全部現場判断なんです」
「現場判断は尊いけど、続くと疲れます」
加奈が頷く。「判断を守るための型が必要です」
美月がタブレットでメモを取りながら、教頭に向けて言った。
「保護者向けの周知、今日中に一枚出したいです。
“ドラゴンの子が来た”だけが独り歩きすると、明日からの登校に影響が出ます」
「お願いします。子どもたちの会話って、広がるのが早いので」
そのとき、廊下の向こうで、楽しそうな声がした。
「ねえねえ、ドラゴンくんまた来るかな!」
「次は給食のパン、持って帰ってもいいって言ってたよ!」
勇輝は、天井を見上げた。
来ないでほしい、と言い切れない自分がいるのが、また厄介だ。
交流は町の強みだ。けれど、強みは管理されないと事故になる。
「……“また来る”が現実になってもいいように、ちゃんと道を作りましょう」
勇輝は静かに言った。「学校は、町の中心ですから」
◆ひまわり市・下水処理場 午後
処理場は、町外れの河川敷にある。
金色がかった空の下、コンクリートの四角い建物が並び、低い機械音が絶えず響いていた。
普段なら、ここを訪れる市民はほとんどいない。
けれど今日は、入口に“見学者”がいる。
真紅ではないけれど、存在感だけは同じ。
リリアが、腕を組んで水路を覗き込んでいた。
「……なるほどね。水が“流れる”前提で作られてる。
そこに、流れないものが居着くと、詰まりは当然」
隣で、下水担当の係長が恐縮しながら頷く。
「はい。異界のスライムが“清掃”のつもりで入り込んでる可能性もあるんですが……
こちらから見ると、ただの塊で……」
「塊って言い方はやめてあげて」
加奈が小声で言うと、係長は慌てて言い直した。
「……生き物、です。はい、生き物。生き物が詰まってます」
美月がタブレットを構え、係長に確認する。
「二十三件の内訳、生活影響はどのくらい出ました?」
「昨日は、住宅地のマンホール周辺で水位が上がったのが四件。
温泉街のほうは観光客が多いので、早めに対応しました。
ただ、吸引車が通常仕様なので、粘性が高いと詰まってしまって……」
「通常仕様」
勇輝が繰り返すと、係長は苦笑した。
「はい。人間の世界の想定で作られてますので……」
リリアが、足元の地面に指先で円を描いた。
魔法陣、と呼ぶほど派手なものではない。淡い光が一度だけ走り、すっと消える。
「スライムはね、“怖いもの”じゃない。
住みやすい場所がなくて、流れに乗って、ここへ来てるだけ。
たぶん、温泉街の排水が暖かいから」
「それ、観光地の強みが裏目に出てるやつだ……」
美月が呟く。
「裏目じゃない。調整すれば、味方になる」
リリアは即答した。「水精族は、水をきれいにするのが得意」
「得意?」
勇輝が問い返すと、リリアは頷いた。
「魔界の水路は、油断すると一晩で汚れる。
でも水精族の“居場所”を作ると、勝手に守ってくれる。
つまり、あなたたちの町は、追い出すんじゃなくて“住み分ける”を選べる」
勇輝は、係長の顔を見た。
係長は、困ったように笑いながらも、目が真剣になっている。
「住み分け……具体的には、どうすれば」
リリアは、処理場の一角を指差した。
古い貯水槽の横、空きスペースがある。
「そこに“マナ槽”を置く。
水精族が落ち着ける水と、少しの魔力。
要は、ここを“住む場所”として認めるの。
そうすると、彼らは流路に出てこなくなる。
それと、入口に“嫌がる香り”を置く。薬剤じゃなく、彼らにとって不快な草の匂い。
強制じゃなく誘導」
加奈が、首を傾げる。
「嫌がる匂い……草?」
「魔界の水精族は、辛い香りが苦手。
この世界の言葉で言うなら……ミントとか、生姜とか、そういう“すっとするやつ”」
「それなら、町の園芸部の人たちが協力してくれそう」
加奈が言うと、美月がすぐにタブレットを叩く。「園芸部、ここ数日で異界植物にも詳しくなってるし」
係長が、恐る恐る尋ねた。
「その“マナ槽”って、予算はいくらくらい……」
「今ある貯水槽を改修すればいい。魔石は、……うちの側が持つ」
リリアはさらっと言い、「ただし」と付け足す。
「交換条件があるわ」
勇輝が身構えるより先に、リリアは肩をすくめた。
「難しいものじゃない。
水精族を“害獣”扱いしないこと。
掲示も、言葉を選ぶこと。
彼らは言葉を理解しないようで、雰囲気を読む。
雰囲気で追い払われると、反発する」
加奈が、すぐに頷いた。
「それ、守れるよ。私たちの町、言葉に気をつけるのは得意だから」
「観光地の矜持ですね」
美月が真顔で言い、係長が妙に納得した顔をした。「確かに、うちは“お客様”に慣れてる」
勇輝は、口元を少しだけ緩めた。
この町の強みは、やっぱり接客なのかもしれない。下水の現場でも。
「じゃあ、提案としてまとめる。
“下水スライム対策”じゃなく、“水精族住み分け整備”。
予算は、マナ槽改修と誘導香の設置、加えて吸引車のフィルター改修。
それと、住民向けの注意喚起を一枚」
「注意喚起は、“見つけたら追い払う”じゃなくて“触らず連絡”だね」
加奈が言うと、リリアがうん、と頷いた。
「触られると、彼らは驚く。
驚くと、増える。増えると、あなたたちが困る。
だから、驚かせない」
「分かりやすい。けど怖い」
美月が言うと、リリアは少しだけ笑った。
「怖いのは、管理しないことよ。
管理すれば、ただの“住民”になる」
係長が、深く頭を下げた。
「……助かります。
現場の人間は、正直、追い出すしか方法がないと思ってました。
でも、追い出しても、また来る。
なら、住んでもらう方が早い」
勇輝は、その言葉に頷いた。
今日の議会に持っていくのは、こういう現場の実感だ。数字だけじゃなく、言葉の温度がある。
◆ひまわり市議会・臨時会 午後
議場の空気は、いつもより張り詰めていた。
“防衛予算”という言葉が、議員たちの背筋を勝手に伸ばしている。
けれど、傍聴席には、エルフの商人が一人、ドワーフの職人が二人、そして魔界の関係者らしい影も見える。
この町の議会は、もう町内だけの会議じゃない。
壇上の市長は、いつもの落ち着きで資料を広げた。
最初に見せたのは、派手な数字ではなく、町の地図だった。
「本日は補正予算の審議をお願いします。
内容は“多種族共生・生活安全整備事業”。
観光客の増加に伴うインフラ負荷、公共施設への迷い込み、生活情報の共有不足に対し、自治体として必要な整備を行います」
議員の一人が、すぐに手を挙げた。
「市長。名前は立派だが、要は“魔物対策”なのか?」
市長は、ゆっくり首を振った。
「魔物、という言葉は便利だが、全部を一緒にしてしまう。
実態は、来訪者も住民も増えただけだ。
増えた分、道とルールが足りなくなった。
だから、足りないものを足す。
町の仕事は、恐れることではなく、整えることだ」
勇輝は、傍聴席の端に座り、加奈と美月の顔を横目で見た。
二人とも、緊張しながらも、どこか「この言い方なら届く」という表情をしている。
市長が次の資料を映す。
「具体策は三つの柱です。
一つ目、下水・排水の住み分け整備。
二つ目、公共施設の来訪者対応手順の標準化。
三つ目、相談窓口の拡充と周知。
この三つを同時に進めます」
別の議員が、眉を寄せた。
「相談窓口? それは、今の窓口では足りないと?」
勇輝が立ち上がり、マイクを受け取った。
議場で話すのは、慣れているようで慣れていない。けれど、今日は逃げられない。
「足りません。
今の窓口は、異界関連の相談と、通常の生活相談が混ざってしまってます。
内容も、下水、学校、温泉、契約、住民票の扱いまで全部一緒です。
担当が分からないと、たらい回しになります。
たらい回しになると、不安が残ります。
不安が残ると、噂が増えます。
噂が増えると、現場が疲れます。
だから、最初に“ここへ”と言える場所を増やします」
議場が、しんと静かになった。
市長がすかさず補足する。
「もちろん、人員だけ増やすのではなく、手順を整え、案内を一本化します。
広報は“ひまリス”にも手伝ってもらいます」
どこかで小さな笑いが漏れた。
笑いが起きるということは、空気が破裂していないということだ。
この町は、笑って進む。
そして、肝心の数字。
市長は、資料を一枚めくった。
「予算総額は、二千八百万円。
内訳は、下水・排水の改修と機材更新に一千二百万円。
公共施設の標準手順整備と表示の更新に六百万円。
相談窓口の拡充と周知、翻訳・ピクト整備に一千万円。
なお、一部は異界側からの協力を得られる見込みです」
「協力?」
議員が眉を上げる。
「魔王領からは、住み分け整備に関する技術支援。
王国側からは、翻訳と用語統一の支援。
ただし、受け取る以上、町のルールを先に決めます。
何を支援にし、何を協定にし、何を寄付にするか。
用語から曖昧にしない」
議場の空気が、少しだけ前向きになった。
言葉が具体的だと、人は「やれるかもしれない」と思える。
それが行政の強みだ。
最後に、議長が言った。
「採決に入ります。
多種族共生・生活安全整備事業補正予算案、賛成の方は挙手を」
手が上がる。迷いが少ない。
この町は、もう戻らない。でも、戻れないなら、前へ整えていくしかない。
可決。
それを告げる木槌の音が、議場に落ちた瞬間、勇輝はようやく肩の力を抜いた。
◆市民講習会・公民館 数日後
公民館のホールには、折り畳み椅子がずらりと並び、壁際にポスターが貼られていた。
『異界の来訪者と暮らすために(まず知っておくこと)』
絵の中には、ひまリスがヘルメットを被り、指を三本立てている。
その隣に、エルフがうなずき、ドワーフが腕を組み、スライムがぷるんと弾む。
可愛いのに、どこか頼もしい。
市役所の広報が、ようやく「可愛い」と「役に立つ」を両立させ始めた証拠だ。
司会を務めるのは、美月だった。
今日の美月は、笑いを取りにいかない。
声の明るさはそのままに、言葉の順番がきちんとしている。
「本日はお忙しい中、ありがとうございます。
最初に結論です。
異界の来訪者を見かけたら、追い払わないでください。
触らないでください。
そして困ったら、相談窓口へ連絡してください。
この三つだけ、まず覚えてください」
会場の空気が、すっと整った。
“結論から言う”だけで、人は安心する。
それを、ひまわり市はこの数週間で学んだ。
次に登壇したのは、下水担当の係長。
以前なら緊張で声が震えそうな場面なのに、今日は表情が少し明るい。
「スライム、というと怖く聞こえますが……本日は“水精族”と呼びます。
彼らは水が好きで、温かい流れに寄ってきます。
だから、寄ってきても困らないように、処理場に居場所を作りました。
町の中で見かけた場合は、触らず、通報してください。
こちらで安全に誘導します」
ざわめきが起きる。
ざわめきは不安の兆しでもあるけれど、今日は質問の兆しだった。
「誘導って、どうやって?」
係長が答える前に、リリアが前へ出た。
今日はドレスではなく、町内会の帽子。似合っているのがずるい。
「香りで誘導する。
彼らは刺激の強い匂いが苦手だから、そこから離れていく。
追い立てるんじゃなく、道を示す。
それが一番争いが起きない」
会場の誰かが、小さく息を呑んだ。
魔王の妹が、こんな真面目な話をすると思っていなかったのだろう。
リリアは気づいていても気づかないふりをして、続けた。
「共存って、きれいな言葉だけでできない。
でも、“嫌だ”を先に出すと、もっと難しくなる。
だから、嫌なことが起きたときの手順を決める。
あなたたち、もうそれをやってる。
私は、そのやり方を評価してる」
拍手が起きた。
リリアは少しだけ目を逸らし、ヘアバンドを直した。
照れているのが分かって、会場の空気がさらに柔らかくなる。
最後に、加奈がマイクを持つ。
喫茶ひまわりの看板娘として、普段から人の前で話すことには慣れている。
でも、今日は接客じゃない。
町の暮らしの話だ。
「異界の人が増えると、町は賑やかになります。
楽しいことも増えるけど、困ることも増える。
困ることが増えたとき、誰かだけが抱えないようにしたい。
だから、私たちは“相談していい場所”を増やしました。
それは弱さの印じゃなく、町が続くための仕組みです。
迷ったら、遠慮なく聞いてください」
勇輝は、最後列からその言葉を聞きながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
行政の仕事は、紙を出すことでも、予算を取ることでもなく、最後はこういう言葉に帰ってくる。
会場の出口では、ひまリスの着ぐるみがパンフレットを配っていた。
子どもが笑いながら受け取り、大人が真面目な顔で読んでいる。
その光景が、町の今を象徴していた。
◆ひまわり市役所・屋上 夜
夜風が、温泉街の湯けむりを薄く運んでくる。
屋上から見下ろす町の灯りは、以前より少し増えている。
露店の明かり、異界の人が泊まる宿の明かり、夜間の見回りの車の明かり。
賑わいは、いい匂いだけでできていない。
それでも、灯りが増えること自体は、町が生きている証だ。
手すりにもたれているリリアの横に、勇輝が並んだ。
今日は、妙に疲れが静かだった。
やることは山ほどあるのに、心が散らばっていない。
決まったからだ。やる道筋が。
「……ねえ」
リリアが、夜景を見たまま言う。「あなたたち、本当に“町”をやってるのね」
「やってるよ。たぶん、無意識に」
勇輝は笑った。「町って、止め方を知らないんだ。止めると明日が困るから」
「魔界は、止めるときはいつも派手だった。
壊して、勝って、終わる。
でもあなたたちは、壊れたら直す。
それを、当たり前みたいに言う」
「当たり前にするために、予算を組むんだよ。
派手じゃないけど、必要」
リリアは、少しだけ口元を引き上げた。
「……派手じゃないのに、強い。
その強さ、ずるいわ」
「ずるくてもいい。町はずるく生き残る」
勇輝が言うと、リリアは小さく笑い、「それ、好き」とだけ言った。
屋上の扉が開き、加奈と美月が顔を出す。
手には、印刷したばかりの一枚紙。
「できた。明日から配る“困ったときの一枚”」
加奈が差し出す。
紙の一番上には、太字でこう書かれていた。
『困ったら、ここへ。ひまわり市・異界対応相談窓口』
その下に、電話番号と場所、そしてピクトで三つの行動が描かれている。
話す。待つ。案内される。
それだけ。
美月が、少しだけ誇らしげに言った。
「ね、派手じゃないけど、ちゃんと届くやつ。
これ、広報課とも揉んで、言葉を削りました。
削るの、めちゃくちゃ難しかったですけど……」
「削れたなら、強い」
勇輝が言うと、美月は照れたように肩をすくめた。
リリアが、その紙を指先でなぞった。
文字を読むというより、紙の手触りを確かめるみたいに。
「これが、あなたたちの“防衛”ね」
「うん。町の防衛は、戦うことじゃなく、迷わせないこと」
加奈が答え、美月が頷いた。
遠くで、温泉街の花火が一発だけ上がった。
季節外れの小さな花火。誰かが試し打ちをしたのだろう。
光はすぐに消えたが、町の灯りは消えない。
勇輝は、手帳に挟んだ議会資料を指で叩いた。
今日決まったのは、予算だけじゃない。
この町が、どんなふうに暮らしを守るか、その姿勢だ。
「よし。明日からが本番だ」
美月が、うんざりした顔を作りながらも笑った。
「本番が毎日更新されるの、異世界自治の癖ですよね」
「癖って言うな。慣れると危ない」
勇輝は返し、加奈が「でも慣れないと続かないよ」と柔らかく言った。
リリアが、夜風に髪を揺らしながら、静かに言う。
「次は、誰が来るの?」
その問いに答えるように、屋上の端で市長のスマホが鳴った。
市長は電話に出て、短く相づちを打つ。
そして通話を切って、こちらへ振り向いた。
「王国と魔王領の合同視察団が、来週来る。
議会の傍聴だけじゃ満足しないそうだ。
市役所の会議も見たいらしい」
美月が、すっと真顔になる。
「……プレゼン資料、作り直しですね。
しかも“ゆるキャラ”の扱いも含めて」
加奈が小さく笑う。
「会議にひまリスを入れるかどうかで、揉めそう」
勇輝は夜空を見上げ、ゆっくり息を吐いた。
疲れはある。けれど、逃げたい感じではない。
町が回るなら、仕事は続く。
続くなら、整えていける。




