第61話「本人確認が地獄:マイナンバーカードの写真が“変身”に追いつかない」
◆朝・ひまわり市役所 住民課窓口前(人の顔は、本人確認のためにあるようでいて、本当はその人の生活の履歴が少しずつ積もった結果でしかない)
住民課の朝は、だいたい紙の音から始まる。
番号札が出る小さな機械音、窓口の椅子が引かれる気配、住民票の写しがプリンターから吐き出される乾いた音。それらが重なっている限り、庁舎の朝はまだ正常だと分かる。派手な部署ではない。むしろ派手になった時点で、生活のどこかが危ない。転入、転出、婚姻、出生、世帯変更、印鑑登録、国民健康保険の資格確認。どれも一枚の紙で済みそうに見えるのに、その一枚が止まると、学校も病院も銀行も、あとで順番に詰まる。
だから勇輝は、住民課の窓口へ呼ばれた時の職員の顔色で、だいたい案件の重さが分かるようになっていた。
怒っているなら説明で収まる。慌てているなら手順で戻せる。だが、半泣きで、それでも声だけは小さくしようとしている時はよくない。窓口の向こうにいる人に失礼がないようにしながら、自分たちもどう扱っていいか分からなくなっている時の顔だからだ。
「……主任さん、少し、こちらへ」
そう呼ばれて、勇輝がカウンター脇へ行くと、若い職員が両手でカードを持っていた。マイナンバーカード。これだけなら、今日もよくある手続きの一つに見える。ところが、その横に置かれた申請書と、目の前の来庁者の顔を見た瞬間に、事情が一気に読めた。
カードの写真には、銀色の髪に長い耳を持つ若い女性が写っている。
窓口の前に立っているのは、黒髪で、耳が人間と変わらない長さの、やはり若い女性だ。
服装は落ち着いていて、姿勢も丁寧で、声も低く穏やかだった。名前も住所も生年月日も、申請書に書かれた内容はカードと一致している。だが、写真だけが別人みたいに違う。
「……お名前をもう一度お願いします」
職員が念のために尋ねると、女性は申し訳なさそうに答えた。
「ミレナ・サーフェリアです。住所は温泉通り三丁目、共同住宅アカネ二〇二号室。昨日、暗証番号の再設定で来ました」
そこまで言われて、職員はさらに困った顔になる。
昨日来ていたなら、なおさら“この写真に近い顔だったのだろう”と分かるからだ。今日の本人を疑いたくないのに、写真がそれを許さない。
隣の机から、美月がいつもの勢いで半分立ち上がりかけて、勇輝に片手で止められた。こういう場面で広報の顔を出すと、だいたい火種が増える。
「主任、これ、写真が昨日と今日で別人レベルなんですけど……」
「別人レベルって言うな。まだ本人かどうかは確認中だ」
「それはそうなんですけど、窓口の職員さんの心が先に追いついてないです!」
加奈は少し遅れて入ってきて、状況を一目見て足を止めた。紙袋の中には焼き菓子と、なぜか細い付箋の束が見える。住民課の案件は、気力より先に整理用の紙が減ると読んだのだろう。
「……ああ、これはたしかに困るね」
加奈は声を落としたまま、ミレナへやわらかく会釈した。
「いきなりいろいろ聞かれて落ち着かないと思うけど、ちょっとだけ付き合ってくださいね」
その直後、背後から市長の声がした。今日は無駄に面白がっていない。そこだけは助かる。
「変身種族か、それに近い体質だな」
市長はカードの写真と本人を見比べ、腕を組んだ。
「珍しくはない。だが、住民課で起こると厄介だ」
「はい。まさに今そこです」
勇輝は短く答え、それからミレナの方へ向き直った。
「まず、こちらから失礼のないように確認したいんですが、今日の外見とカードの写真が違うのは、変身体質ですか。それとも、意図的に姿を変えていますか」
ミレナは少し迷ってから言った。
「体質です。正確には、父方が幻影系で、母方が人間です。体調とか、空気中の魔力の濃さとか、緊張の具合で、表に出る顔立ちが少し揺れます。耳の形と髪色がいちばん変わりやすいです」
「少し、っていう規模じゃない気がするな……」
美月が小声で呟き、加奈に小突かれた。
「言わないの。本人が一番困ってるでしょ」
「ごめんなさい……」
ミレナは苦笑して、しかしその苦笑もどこか慣れているようだった。
「よく言われます。学校の頃から、写真写りで毎回揉めました」
「住民課でもですか」
「はい。昨日は耳が出てました。今日は抑え気味です」
「耳って、抑え気味にできるんですか」
「完全には無理ですが、気持ちを平らにすると少し」
住民課の職員が、そこでついに肩を落とした。
「気持ちを平らにって、窓口で求めるの重すぎませんか……」
その言葉はかなり本質的だった。
制度の方が“毎日同じ顔でいてくれること”を前提にしているせいで、本人が自分の体質を窓口向けに調整しなければならない。そこからしてもう、生活側の負担が大きすぎる。
◆朝・住民課カウンター内側(疑うことと確認することは似ているようでいて、窓口で受け取られる重さがまるで違う)
勇輝は、窓口の流れを一度止めない範囲で、臨時の確認手順をその場で組んだ。
写真が一致しないからといって、すぐ追い返すのは最悪だ。本人である可能性が高いのに、顔だけを理由に手続きができないとなれば、生活そのものが止まる。だが、安易に通せば制度の方が死ぬ。ここで必要なのは、“写真以外の本人確認要素”を重ねて、窓口の職員が安心して判断できる線を作ることだった。
「まず、カードの暗証番号で電子証明を確認します」
勇輝は住民課職員に言った。
「顔写真がぶれても、暗証番号を本人しか知らないなら、ひとつ大きな確認になります。それに追加書類があれば重ねる。最後に、本人しか答えづらい質問を二つか三つ。三層にすれば、今日は進められる」
若手職員がすぐに頷く。
「電子証明……そうか。写真だけじゃなくて、そこを見るんですね」
「そうです。写真は入口にすぎません。入口が揺れる世界なら、別の鍵を見るしかない」
ミレナはすぐにカードを差し出した。
「暗証番号、分かります。昨日変えたばかりなので」
「昨日も来たんですか」
加奈が思わず聞くと、ミレナは少し恥ずかしそうに笑った。
「昨日は昨日で、耳が出たままだと写真と違いすぎるから一回落ち着いて出直そうと思って……でも今日は髪色まで変わってしまって」
「頑張れば頑張るほど窓口が混乱するやつだね」
加奈の言葉に、住民課の職員がつい吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。笑っていい話ではないが、少しでも空気がほどけると窓口は回しやすくなる。
カードリーダーに通し、暗証番号を入力し、電子証明書を確認する。
結果は問題なし。本人の電子証明は通った。
「通りました……」
職員の声が、目に見えて軽くなる。
「署名用も利用者証明用も、本人で間違いありません」
「では次。保険証や診察券など、別の氏名確認書類はありますか」
ミレナはすぐに財布から二枚出した。健康保険証と、共同住宅の入居者カード。どちらも氏名は一致している。
「最後に確認です。転入日は?」
「一か月と九日前です。天空橋の手前の仮住居から、温泉通り三丁目へ移りました」
「同居者は」
「いません。単身です」
「昨日の手続き内容は」
「暗証番号の再設定と、電子証明書の継続利用確認です」
職員はそこで深く息を吐いた。顔写真が一致しなくても、これだけ重なれば“本人ではない”と言い張る方が難しい。
「……本人確認、進めます」
その一言で、ミレナの肩も少しだけ下がった。
たぶん彼女は、“また追い返されるかもしれない”と庁舎へ入る前から構えていたのだろう。そういう人の緊張は、書類より先に声へ出る。彼女の声が最初からずっと少し硬かった理由が、そこでようやく分かった。
「ありがとうございます」
ミレナは小さく頭を下げた。
「毎回“本人を連れてきてください”みたいな顔をされるの、けっこう堪えるので」
住民課の若手職員が、その言葉にぎくりとした。
「……すみません」
「いえ、今日みたいにちゃんと確認してもらえれば、それで十分です」
そのやり取りを聞いて、勇輝は今日の案件が単なる窓口のイレギュラーではなく、“疑われる側の生活のしんどさ”まで含んでいることを、改めて強く意識した。
◆午前・さらに来る二件目三件目(例外は一件なら対応できる。続けて来た瞬間に、それは運用の穴だと分かる)
ミレナの手続きがようやく落ち着いたところで、住民課の別窓口からまた職員の声が上がった。
「こちらも……写真と、目の前の顔が……」
振り向くと、今度は男性だった。カードの写真では、額のあたりに短い角が二本ある。だが目の前の本人には、角がない。代わりにこめかみのあたりへ薄い鱗が出ている。
「今日は角が引っ込んでいます」
本人は疲れた顔で説明した。
「雨の日は鱗の方が出やすくて」
「顔の優先順位が天気で変わるのか……」
美月が小声で言う。
さらに数分後、別の列でも似た話が起きた。今度は高齢の女性で、カード写真では瞳が濃い金色だが、今日の目の色は薄い茶に近い。
「朝は茶色なんです。夕方に寄ると戻りやすいんですけど、病院の前に寄りたくて」
もうここまで来ると、住民課の一件ではなく、町全体の本人確認の前提がずれていると認めざるを得ない。
「主任……」
住民課のベテラン職員が、帳票の束を抱えたまま言った。
「これ、今週だけで七件目です。最初は珍しいと思っていたんですけど、たぶん“珍しいから様子見”で済ませる段階を越えました」
「そうですね」
勇輝は答えた。
「変身体質や擬態体質の人が、役所の窓口で本人確認に詰まり始めている。しかも全員、悪意があるわけじゃない。ただ生活しようとしているだけ」
加奈が頷く。
「なのに“疑われる人”になっちゃうんだよね。本人からしたらかなりつらい」
市長が、今日は珍しく正面から真面目だった。
「制度は、守るためにある。だが、守り方が一種類しかないと、守るはずの住民を先に弾く」
「だから手順を増やします」
勇輝はその場で決めた。
「写真だけに頼らない運用を、暫定でも今日決める」
◆昼・住民課奥の小会議(顔は便利だが、顔だけで済ませる仕組みは、顔が揺れる世界に入った瞬間に一番脆くなる)
住民課の奥の会議スペースに、住民課、異世界経済部、情報担当、そして生活安全の職員が集められた。美月は議事録係として参加しているが、今日は広報の興奮より実務の顔をしている。
勇輝はホワイトボードへ論点を書き出した。
1) カード情報は一致する
2) 顔写真だけが一致しない
3) 悪用の可能性を捨てられない
4) しかし、毎回止めると生活が止まる
5) 疑われる側の負担が大きい
6) 写真以外の確認軸が必要
情報担当が最初に口を開く。
「やはり電子証明が軸ですね。暗証番号と証明書の組み合わせは強いです。ただ、忘れた場合の再設定動線まで整理しないと、結局また窓口で詰まります」
住民課のベテラン職員が続けた。
「写真が違う時点で職員が硬くなるので、言い方の統一も必要です。“別人ですね”と言ってしまうと、その時点で関係が壊れる」
「そこ、大きいです」
加奈がすぐ言う。
「“ちょっと確認させてください”と、“本人じゃないですよね?”って、同じ中身でも受け取り方が全然違うから」
美月がメモを取りながら顔を上げた。
「掲示を出すなら、“変身の方はこちら”みたいなラベルは危ないですね」
「危ない」
勇輝は即答した。
「カテゴリ化が強すぎる。特別扱いしすぎると、逆に『あの窓口の人は変身種族らしい』みたいな視線を作る。窓口側のマニュアルに落としつつ、住民側には“写真が一致しない場合でも、別の方法で確認できます”くらいに留める」
市長が腕を組む。
「では、本人確認の軸を再設計するか。顔、暗証番号、追加書類、問答。どれか一つではなく、複数で見る」
「はい。その代わり、“写真が違うから即アウト”はやめる」
住民課の若手が少し不安そうに言った。
「でも、悪用する人が“今日は変身してます”って言い張る可能性はありますよね」
その指摘は正しい。だからこそ、安易な情緒だけで緩めるわけにはいかない。
「そこは逆です」
勇輝は言った。
「“変身体質です”を免罪符にしないためにも、顔写真以外の確認軸を増やす。暗証番号、追加書類、直近の手続き履歴、本人しか分かりにくい情報。写真だけの本人確認より、むしろ堅くする部分もある」
情報担当が深く頷いた。
「なるほど。緩めるんじゃなくて、写真依存を減らして、複数要素へ分散するんですね」
「そうです。顔が揺れる世界へ入ったなら、入口を一つにしておく方が危険です」
そこで美月が、おそるおそる手を挙げた。
「“基準の外見”を本人に決めてもらうのはどうですか。役所が勝手に“この顔を本物にします”じゃなくて、“窓口ではこの状態を基本写真にします”って本人が選ぶ」
「いいですね」
加奈がすぐ乗った。
「自分で選べるなら、写真を撮ること自体のストレスが少し減る」
住民課のベテラン職員が言う。
「カード写真の更新頻度が増えるかもしれませんが、写真の意味が“その人が選んだ基準状態”になるなら、窓口でも扱いやすいです」
勇輝はその案を採った。
「よし。暫定運用として、“外見が変動する体質の方は、基準となる外見を本人の同意で一つ決める”を入れます。あわせて内部メモで、耳・角・瞳・鱗の変動範囲を記録。外へ出すんじゃなく、窓口確認用だけに持つ」
美月がすぐに書き足す。
「“疑う”じゃなく“確認する”。“写真と違うからだめ”じゃなく“写真が違う場合は別要素も確認する”」
「その言い換え、大事だ」
◆昼過ぎ・生活への波及確認(本人確認が一つ詰まると、役所の窓口だけでなく、受け取り、通院、学校の引き渡しまで、同じ困りごとが少しずつ別の場所で起きる)
住民課だけで話を閉じるのは危険だと、勇輝は途中で判断した。
住民票やカードの確認は入口にすぎない。本人確認のやり方が写真一枚に寄りすぎているなら、役所の外でも同じ混乱が起きているはずだ。しかも、外では住民課ほど丁寧に手順を組んで待ってくれないことが多い。
そこで勇輝は、教育委員会、保健福祉、図書館、共同住宅の管理担当へ短く聞き取りを飛ばした。
返ってきた答えは、どれも“やはり起きていた”だった。
教育委員会からは、放課後児童クラブの引き渡しで一度揉めたと報告が来た。
迎えに来た保護者の髪色と耳の形が登録時写真と違い、補助員が戸惑ったのだという。幸い、子ども本人が「うちのママだよ」と泣きそうになりながら抱きついたために事なきを得たが、あとで保護者から「疑われるのは仕方ないけど、子どもの前で止められるのはつらい」と連絡が入ったらしい。
保健福祉からは、薬の受け取りでも似た話があった。
高齢の変身体質の人が、通院後に処方薬を受け取ろうとして写真と顔が違うと止められた。本人は暗証番号も持っておらず、結果としていったん家族へ連絡しなければならなくなったという。命に関わるほどではなかったが、体調が悪い日に説明をやり直す負担はかなり大きい。
図書館では貸出カードの写真が古く、耳の長さが変わった利用者を新任司書が止めかけた。
共同住宅の管理担当からは、宅配便の本人限定受取で顔写真との不一致を理由に再配達が続いた事例が二件あると聞かされた。
「住民課だけじゃないですね」
美月がメモを見ながら言う。
「生活のいろんな入口が、みんな“写真の固定”を前提にしてる」
「そうだ」
勇輝は頷いた。
「住民課が先に整えれば、学校にも福祉にも説明を返せる。逆にここが曖昧だと、“役所も困ってるなら止めておこう”が広がる」
加奈が、付箋へ短く言葉を書きながら言う。
「本人確認って、本人の安心でもあるけど、疑われる回数が増えると“どこにも行きたくない”になるんだよね。顔が揺れるだけで、生活圏が少しずつ狭くなる」
その言い方が、勇輝にはかなり重く響いた。
制度の不一致は、一回ごとの小さな困りごとに見える。だが、それが学校、薬、受け取り、窓口で繰り返されると、人は外へ出ること自体が嫌になる。顔が変わる人の側だけに“頑張って固定してきてください”を求め続けるのは、やはり違う。
市長も静かに言った。
「町へ住む資格を、顔の固定で測るわけにはいかん」
「だからこそ、本人確認の手段を顔から少し引き離します」
勇輝はホワイトボードへ、新しい項目を足した。
住民課で作った運用を外へ返す
・学校引き渡し
・福祉・薬受取
・図書館
・本人限定郵便等の案内
「住民課の一件を、住民課だけの解決にしない」
そう口にした時、ようやく今日の案件の輪郭が全部つながった気がした。
◆昼過ぎ・暗証番号を忘れた人の窓口(電子証明が強い鍵でも、それを持てない人を置いていくと、また別の不公平が生まれる)
写真と顔が一致しない時、電子証明と暗証番号が強い軸になるのは間違いない。
だがそれが使える人ばかりではない。高齢の人、カードを作っていても暗証番号を控えていない人、何度も変えて混乱している人、そもそも電子証明の利用場面が少なくて意識していない人。そこを切り捨てれば、今度は“若くて機械に強い変身体質の人だけが救われる”という別の偏りが生まれる。
それを証明するように、午後の窓口でまた別の相談が来た。
「暗証番号、忘れました……」
細い声でそう言ったのは、六十代くらいの女性だった。
カード写真では目の色が濃い青だが、今日の本人の目は灰色に近い。肌のきめも少し違って見える。たぶん、水辺の種族か、その血を引いているのだろう。隣には娘らしい女性もいて、かなり心配そうに母親を支えていた。
「病院の高額療養費の関係で、今日中に確認したかったんですけど……」
娘のその言い方で、窓口の空気がまた張る。
今日中。生活を止められない案件だ。
職員が勇輝を見る。
勇輝はすぐに娘の方へも確認した。
「続柄が分かる書類、ありますか」
「あります。住民票の写しと、健康保険の世帯証明と、診察券も」
「では、今日は暗証番号再設定の手順へ案内しながら、必要な確認を重ねます。時間は少しかかります」
女性は、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「すみません。朝と夕方で目の色が変わるだけなんです。本当に、それだけなんですけど……」
加奈がすぐ横へ行き、椅子を少し引いた。
「それだけじゃないよ。手続きがたくさん重なると、説明する方もしんどいから。座ってください」
勇輝は、ここで“暗証番号がない人のための確認”も整理した。
カードの失効や再設定の案内。
代理人を立てる時の条件。
質問確認を重ねる順番。
家族関係の確認。
病院や福祉へ“本日確認中である”と返すための一時的な証明の出し方。
住民課のベテラン職員が、小さく言う。
「主任、これ、本人確認っていうより、“本人が本人でいられるための補助線”ですね」
「そうかもしれません」
勇輝は答えた。
「確認の厳しさは必要です。でも、その厳しさに辿り着くまでの足場がないと、人によっては入口へ来る前に落ちる」
高齢女性の暗証番号再設定は、娘の補助と職員の丁寧な説明で何とか終わった。
そのあと女性は、疲れたように、それでもほっとした顔で言った。
「私ね、最近、役所へ来る前の日は水分を控えてたんです」
「どうしてですか」
加奈が聞く。
「目の色が薄い方が、人間に見える気がして……。それで、止められにくいかなと思って」
その場が静まり返った。
顔を揃えるために水分を控える。そういう生活側の無理が、たぶん今まで何人もの中で起きていたのだろう。
勇輝は、メモ帳へ一行だけ足した。
“本人が体質を無理に抑えて来庁しなくてよい”運用にすること
それは制度文言にはなりにくいが、今日の確認の芯には置いておくべき言葉だった。
◆昼過ぎ・別の来庁者の一言(制度の穴は、困っている人だけでなく、悪用を考える人にも見つかるからこそ、先に線を引かなければならない)
会議が終わりかけた頃、住民課の職員がもう一件、困った顔で呼びに来た。
「主任、別窓口で……ちょっとまずいかもしれません」
そこにいたのは、中年の男性だった。カードの写真は普通の人間の顔立ちだが、目の前の男は髪色と目元がかなり違う。
「今日は変身してるだけです」
男は妙に慣れた口調で言った。
「さっきの人たちもそうだったでしょう? 本人確認、別のでいけるんですよね」
その言い方で、空気が一段だけ冷えた。
困っている人の説明ではない。穴が見えた瞬間に、そこへ滑り込もうとする人間の声だ。
「では、暗証番号をお願いします」
勇輝が落ち着いて言うと、男はそこで少し詰まった。
「いや、今日は顔が違うんで、忘れて……」
「暗証番号は顔で変わりません」
美月が真顔で言い、住民課の職員がその場で笑いそうになるのを堪えた。
「追加書類は」
「家に……」
「直近の手続きは」
「ええと……」
そこで答えが鈍る。もう十分だった。
「今日は手続きできません」
勇輝ははっきり言った。
「顔が違うからではありません。本人確認の要素が足りないからです。写真が一致しない方にも、確認手順はあります。でも、確認材料がなければ誰でも通れなくなる」
男は不満そうに口を開きかけたが、市長が一歩前へ出た。
「町の制度は、優しさだけでも、厳しさだけでも回らん。確認は必要だ。帰って揃えてこい」
言葉は静かだったが、そこで押し切るだけの重さがあった。男は舌打ちまではしなかったが、明らかに諦めた顔で引いた。
その後ろ姿を見ながら、住民課の若手が小さく息を吐く。
「……これで確信しました。“変身体質です”って言えば通る運用にしたらだめですね」
「ええ」
勇輝は頷いた。
「だからこそ、“顔が違っても確認できる”と“確認が足りなければ通らない”を両方揃える。片方だけだとどちらかが壊れる」
加奈が、小さく言った。
「助けるための仕組みって、悪用されないようにしないと続かないもんね」
◆午後・写真更新のための小部屋(本人確認の写真を撮るという行為が、誰かにとっては“今日はどの自分で社会に出るかを選ぶ”ことでもある)
ミレナは、その日の手続きが終わったあとも帰らなかった。窓口の端で少し待ってから、勇輝に声をかけた。
「もし可能なら、今日のうちに写真更新の相談もしたいです。毎回これだと、私も来るのが怖くなるので」
それは自然な申し出だった。
窓口での確認手順ができても、元の写真が極端に今の姿とかけ離れていれば、毎回同じ負担がかかる。基準外見を本人が選ぶというさっきの運用を、さっそく現実へ下ろす最初の機会でもあった。
住民課の奥の小さな撮影室は、ふだんなら無機質に感じる場所だ。背景用の薄い板、照明、椅子、角度の印。だがその日は少しだけ違う空気があった。写真を撮るという単純な作業のはずなのに、“どの姿を基準として町へ預けるか”を決める時間になっていたからだ。
「どの状態が、一番生活の中で長いですか」
勇輝が聞くと、ミレナは少し考えた。
「仕事の時は、耳が少し出ているくらいが多いです。完全に人間寄りだと、逆に疲れます。銀髪までは行かなくても、今より少しだけ明るい色の方が自然です」
加奈が、やわらかく言う。
「じゃあ、“人に見せやすい顔”じゃなくて、“あなたが無理しすぎない顔”の方がいいね」
ミレナは、その言葉に救われたように微笑んだ。
「はい。窓口に来るたびに、自分を削って一番人間っぽい顔を作るの、少ししんどかったので」
写真撮影の担当職員が、いつもよりずっと丁寧に椅子の位置を整える。
「焦らなくて大丈夫です。呼吸が落ち着くまで待ちます」
照明の下で、ミレナは目を閉じ、一度ゆっくり息を吐いた。それから開いた目は、金と茶の中間くらいの柔らかい色になっていた。耳は少しだけ長い。髪色は黒よりわずかに明るい灰を含む。写真の中では、人間にもエルフにも寄り切らない、けれどたしかに彼女自身だと思える顔が立っていた。
美月が撮影後の画面を見て、小さく言った。
「……この顔、いいですね」
「“いい写真”って言い方が、今日はちょっと違って聞こえるな」
勇輝が言うと、加奈も頷いた。
「うん。ちゃんと“この人がここで暮らしてる顔”って感じがする」
ミレナは画面を見て、しばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「これなら、次に来る時、前より怖くないかもしれません」
その一言は、住民課の誰にとっても重かった。
窓口は、住民にとって怖い場所であってはいけない。厳密であってもいい。確認が多くてもいい。けれど、最初から身構えて行かなければならない場所になったら、それは生活の側に深く刺さる。
◆夕方・新しい運用の掲示(誰かだけのための特別扱いではなく、“写真が一致しない場合でも確認できます”という一般的な逃げ道として示すのが大事だった)
閉庁前、住民課の掲示板に新しい案内が貼られた。
文面は短く、強すぎない。種族名も“変身”という単語も出さない。出した瞬間に、そこへ余計な視線が集まるからだ。
写真と現在の外見が一致しない場合でも、
電子証明書や追加書類などで本人確認できることがあります。
窓口でご相談ください。
その横には、小さく付記も入れた。
確認のため、お時間をいただく場合があります。
ベテラン職員が、その紙を見上げながら言う。
「これなら、“顔が違う人専用窓口”みたいにならないですね」
「そうです」
勇輝は頷いた。
「例外扱いを目立たせるんじゃなく、“困った時は確認の道がある”を見せる」
ちょうど証明書を取りに来ていた男性が、その掲示を読んで足を止めた。
「へえ。今はそういうこともあるのか」
その口調には、驚きはあっても拒絶がなかった。そういう反応で十分だった。制度の更新というのは、大声で“新時代です”と宣言するより、“ああ、今はこうなんだな”と静かに受け入れられる方がうまくいく。
ミレナは帰り際、その掲示の前でもう一度立ち止まった。新しい写真の手続き控えを封筒へ入れながら、少しだけ肩を軽くしている。
「今日ここに来てよかったです」
そう言ってから、少し笑う。
「最初は、また“本人を連れてきてください”って言われるかと思ってたので」
住民課の若手職員が、そこでまっすぐ頭を下げた。
「言わなくて済む手順を、ちゃんと作ります」
「お願いします」
そのやり取りのあと、ミレナは封筒を大事そうに鞄へしまった。
写真の更新申請。電子証明の確認。住民票の写し。どれもただの紙だが、彼女にとっては“次にここへ来る時、少しだけ怖さが減る紙”でもあったのだろう。
◆夕暮れ・住民課の窓辺(顔が変わる人を町からこぼさないために、町の方が確認の仕方を少し変える。それだけで救われる日がある)
閉庁時間が近づくと、番号札の機械が止まり、窓口の内側で椅子がひとつずつ戻されていった。
住民課はようやく、いつもの終業前の静けさへ戻る。日中のざわつきが嘘みたいに、紙の擦れる音だけが残る。
若手職員は、今日作った臨時運用のメモをファイルへ綴じていた。
写真一致しない場合の確認手順。
電子証明。
追加書類。
質問確認。
言い方の統一。
基準外見の本人選択。
それらは全部まだ暫定だが、暫定でもあるとないとでは明日が違う。
「主任」
若手職員がメモを閉じながら言った。
「今日、一番助かったの、たぶん“別人ですね”って言わなくていい手順ができたことです」
勇輝は、その言葉に少しだけ考えてから答えた。
「うん。確認するのは必要だけど、最初の一言で刺さる必要はないからな」
加奈は、空になった紙袋をたたみつつ窓の外を見た。
「窓口って、生活の入口なんだね。学校とか病院とかより前に、“ここで引っかかると全部しんどい”って感じがする」
「そうだと思う」
勇輝は答える。
「だから、顔が違うだけで毎回止まる人を出し続けるわけにはいかない」
市長は腕を組んだまま、庁舎前の広場を見ていた。今日は最後まで変に飾った言い方をしなかった。
「町は、同じ顔で並ぶ者だけでできているわけではない」
市長がそう言う。
「なら、確認の仕方を一つ増やすしかないな」
「増やしました」
勇輝は静かに返した。
「顔だけじゃ足りない町になったなら、その分だけ手順を増やす。それで暮らしが続くなら、たぶんそれでいい」
窓の外では、ミレナが庁舎の前で一度だけ足を止め、ガラスに映る自分の姿を確かめるように見ていた。黒でも銀でもない、今日選んだ中間の髪色。少し長い耳。薄い金を含んだ目。
それから彼女は、誰にも見せるためではなく、自分で納得したように小さく頷いて、夕方の通りへ歩き出した。
その背中を見送りながら、勇輝は住民課の掲示板へ目を戻した。
写真が一致しない場合でも、確認できます。
たったそれだけの文なのに、今日一日でずいぶん意味を持つようになった気がする。
紙にできることは限られている。写真も、証明書も、欄も、番号も、全部万能ではない。
でも万能でないからこそ、人の方が少しずつ確認の仕方を覚えていくしかないのだろう。
同じ顔でいられない人も、この町では暮らしていく。
なら、その暮らしが窓口で詰まらないように、町の方が少しだけ手順を増やす。
それは派手な改革ではないし、ニュースにもならないだろう。けれど住民課の仕事としては、たぶんかなり大きな更新だった。
番号札の機械が完全に止まり、最後の灯りが窓口の上でやわらかく落ちる。
その光の中で、更新申請の控えと臨時運用のメモが並んでいた。片方は一人の住民のための紙で、もう片方は明日からの窓口のための紙だ。
その二枚が並んでいる景色を見て、勇輝は今日の仕事がようやく“困惑”から“整備”に変わったのだと感じた。
住民課の窓口は、相変わらず人生が並ぶ場所だ。
ただ今日からは、そこへ並ぶ顔が毎日少し違っていても、前よりは追いつけるはずだった。
そう思えるだけの線が、夕暮れの役所の中に、ちゃんと一本引かれていた。
そしてその線は、たぶん明日の窓口で、また誰かの生活を静かに支えるのだろう。
派手ではないが、こういう日の方が町は長く持つ。勇輝は最後の書類箱を閉じながら、そのことをかなり確かな実感として受け取っていた。
閉庁後、住民課のカウンターには、更新申請の控え、臨時運用のメモ、学校と福祉へ回すための説明文案が並んでいた。どれも一枚の紙にすぎないのに、その紙があるだけで明日の窓口の声の出し方が少し変わる。
顔が変わる人を、毎回“写真と違う人”として迎えるのではなく、“確認の仕方を少し増やせば暮らしへ戻れる人”として迎える。その違いは、住民課の机の上では小さく見えても、帰り道の軽さにはきっとちゃんと出る。




