第46話「公共施設予約バトル! 天界と魔界が同時予約」
――体育館の予定表は、平和の象徴……のはずだった。
公共施設の予約というのは、ふだんは平和そのものだ。
平日の午前には健康体操の輪ができて、午後は囲碁の石が静かに鳴る。夕方になると子どもたちのバスケットボールが床を叩き、夜はバドミントンの羽が白い弧を描く。
たまに文化祭の練習、たまに町内会の総会。予定表のマス目は、暮らしのリズムをそのまま写したみたいに、きちんと埋まっていく。
そして役所は、そのマス目を守る。
守る――というより、「守れている状態」を当たり前に維持する。誰かが困らないように、誰かが怒らないように、誰かが遠慮しすぎないように。いつも通りに使えることが、いちばんの行政サービスだ。
……のはずだった。
「主任、すみません。ちょっと、今、見ていただきたくて」
体育館の管理担当が、控えめにドアをノックして入ってきた。
顔色が薄い。声も、いつもより一段小さい。こういうとき、派手な言葉は出てこない。代わりに、手元の紙がやけに丁寧に揃えられている。
机の上に置かれたのは、印刷された予約一覧表と、申請書が二枚。
一枚には金色の印章。もう一枚には黒い蝋封。紙の重さが違う。文化の温度が違う。――そして、なんとなく、背筋の汗が違う。
勇輝は、紙を見てから管理担当の顔に視線を戻した。
「落ち着いて話して。二重に入ってる?」
「はい……同じ日時、同じ体育館です。しかも、どちらも“全面使用”で」
横から覗き込んだ美月が、目を丸くした。
「……え、これ、天界の印章と……魔界の封蝋、ですよね?」
その声が思ったより弾んでしまったのを、美月自身も気づいたのだろう。口を押さえて、慌てて小さく続ける。
「す、すみません。びっくりして……いや、びっくりはしていいんですけど、窓口的には……」
勇輝は、指先で予約一覧表の該当欄を押さえた。
日付。施設名。区分。使用形態――全面。
そして団体名が二つ並んでいる。
天界合唱隊。
魔界舞踏団。
文字だけで、空気が変わる。体育館の床板が、今から何かを察して身構えているみたいだった。
「声量は落として大丈夫。今ここで驚きが跳ねると、廊下まで伝わる」
「はい……静かに、燃え……あ、燃えません。燃やしません」
「燃やさない。できれば、熱も上げすぎない」
管理担当が、申し訳なさそうに指を組んだ。
「私の処理が悪くて……いや、私というより、システムと窓口の……」
「順番に聞こう。まず、どういう経路で入った?」
「天界側はオンライン申請です。“天界観光庁”のアカウントで入りました。申請フォームは正規で、必要事項も全部揃っていました」
「魔界側は?」
管理担当は一度だけ喉を鳴らしてから、言いにくそうに続けた。
「窓口です。封蝋つきの紙で……提出に来た方が……こう、影みたいな……すみません、表現が……」
美月が、思わず小さく頷いてしまう。
「わかります。影みたいな人、います。窓口に“来た”っていうより、窓口の横に最初から“いた”みたいな」
勇輝は、管理担当を安心させるようにうなずいた。
「その表現で十分伝わる。で、問題は……どうして“両方確定”になったのか、だよね」
「はい。オンラインの方で一瞬、システムが落ちまして……予約確定の通知が、二回出たんです。こちらの端末にも二回。自動で“確定”のステータスが付いてしまって、その直後に窓口申請が来て……窓口の方も、通常の手順だと“空き”が出ていたので、こちらも確定処理をしてしまいました」
勇輝は、紙の角をそろえ直した。
こういうとき、紙を丁寧に揃えるのは、気持ちを揃えるための手つきだと自分でも思う。慌てているときほど、指先で現実を掴む。
「つまり、重複の原因は市側の処理とシステムの挙動。どちらか片方に“あなたが悪い”とは言えない」
加奈が、ちょうどそのタイミングで覗き込んできた。
喫茶ひまわりの紙袋を抱えている。最近、役所への差し入れが「寄り道」ではなく、「業務の一部」みたいな速度で届く。
「おはよ。……あ、なんか空気が固い。何が起きたの?」
「体育館が、天界と魔界で同じ日に押さえられた。しかも全面」
「全面……それ、片方が譲るしかないやつ?」
「普通なら。相手が普通じゃない」
加奈は一拍置いて、天界の印章と魔界の封蝋を交互に見た。
そして、妙に真剣な顔で言った。
「……同じ場所で、同じ時間に、合唱と舞踏? 体育館が割れるっていうより、たぶん住民の感情が二つに割れる」
「割れないように、うまく繋ぐ」
「うん。繋ぐ方法があるなら、繋ぐ」
そこへ、さらにもう一人。
のっそり、というより、静かに“場に馴染む”形で気配が増えた。
「状況を聞いた。体育館か」
市長だった。
いつもの、どこか楽しげに見える目。今日はその光がほんの少し強い。――問題の匂いを嗅ぐと、なぜか機嫌が良くなるタイプの行政トップである。
「市長、機嫌が良さそうに見えるの、今はちょっと危ないです」
「機嫌が良いのではない。こういうときに“表情が曇らない”のが仕事だ」
「言ってることはありがたいんですけど、現場は曇るときは曇ります。曇らないと滑る」
美月がメモ帳を開き、ペン先を構えた。
「調整会議ですね。議事録、取ります。あと、告知文も……」
「告知は、煽らない。落ち着いた言葉で、必要な情報だけ」
「わかってます。わかってますけど、“天界と魔界が同時予約”っていう事実がもう強いので……」
「強い事実ほど、静かに扱う」
勇輝は、管理担当に向き直った。
「相手方には連絡した?」
「まだです。どちらも“確定通知”が行っているので……今、こちらから連絡すると……」
「混乱する前に、こちらが責任を持って整理する。会議を設定しよう。天界側と魔界側、代表を呼べる?」
「天界観光庁の窓口は連絡が取れます。魔界側は……封蝋の申請書に連絡先が……“黒い伝令”とだけ……」
美月が、そっと手を挙げる。
「黒い伝令、たぶん、います。役所の裏口あたりに。よくわからないけど、用があるときだけ現れて、用が終わるといなくなる人」
「……いる前提で動けるの、すごいな」
「慣れです。慣れは怖いですけど、役に立ちます」
加奈が、紙袋を机の端に置いた。
「じゃあ、まず会議。公平に。丁寧に。あと、最初に“市が原因”って言わないと、どっちかが相手のせいにし始めるよ」
「そこは最初に言う。市側の不備で二重確定になった。だから、市側が調整する。責任の所在を曖昧にしない」
市長が、軽くうなずいた。
「公平というのは、“同じ扱いにする”ではない。“同じだけ納得できる”ようにすることだ。主任、会議室を押さえよう」
「会議室も予約制です。ここでも二重になったら笑えません」
「笑えないものを笑える形にするのも行政の仕事だ」
「今は笑う前に、ちゃんとスケジュールを確認してください」
そんなやり取りで、会議の準備が始まった。
*
会議室には、いつもより少しだけ多めに水とおしぼりが置かれた。
天界の人は手を清める文化がある、と誰かが言い、魔界の人は“冷たい水より常温”が良い、と別の誰かが言った。
結局、全部置いた。置けばいい。置くぐらいなら、揉めない。
席の配置も工夫した。
正面からぶつからないように、長机をコの字にして、真ん中に資料を置くスペースを作る。
天界側と魔界側は対面しない。視線が一直線にぶつかると、言葉より先に空気が尖ることがある。異界相手だと、尖った空気が本当に刺さることがある。
勇輝は、資料の束を手元に揃えた。
予約一覧、申請書コピー、利用規約、使用区分の説明、転換作業の手順案、そして――「市の処理不備に関する説明とお詫び(案)」。
行政は紙で心を守る。
紙は、逃げ道ではなく、足場だ。
天界側の代表は、合唱隊の代表・セラフィナだった。
白い衣。背中の翼はきちんと畳まれ、姿勢が美しい。笑みは柔らかいのに、目の奥に規律がある。歌う人の目だ。
魔界側の代表は、舞踏団の代表・ヴァルド。
黒い外套。長身。視線が鋭い。笑っているのに、言葉を選ばないとこちらが転びそうになる圧がある。
ただし――手元の申請書は、驚くほど丁寧に整えられていた。魔界の人は雑だ、という先入観を、こういうところで裏切ってくる。
勇輝は、まず名乗った。
定型から入る。定型は心臓の鼓動を整える。
「本日はお忙しいところありがとうございます。ひまわり市役所、異世界経済部の主任・勇輝です。本件の調整窓口を務めます」
隣に座る加奈が、軽く会釈する。
「こちら、喫茶ひまわりの加奈さんです。地域側の協力者として同席してもらっています。施設運用や導線面で意見をもらいます」
美月は少し距離を置いて座り、資料に付箋を貼りながら笑顔で頭を下げた。
「広報・記録担当の美月です。議事録と、当日の案内資料の作成を担当します。必要な情報を、誤解が出ない形に整えます」
最後に市長が名乗る。
「市長だ。公共施設は市民の財産であり、文化の器でもある。今日はその器を、割らずに活かすために来た」
セラフィナが、穏やかに頷いた。
「お招きいただきありがとうございます。私たちは祈りの合唱を捧げるため、この体育館を必要としています。音の響き、天井の高さ、人の導線。すべてが整って初めて、歌は届きます」
ヴァルドは、短く言った。
「我らも同じだ。舞踏は闇の芸術。床の反発、照明の落ち方、観客の距離。……そして何より、日程は軽々しく動かせぬ」
美月が、ペン先を止めた。
勇輝は、美月の視線を一度だけ受け止めてから、やんわりと“落ち着け”の合図を送った。
ここで反応すると、空気が釣られる。
勇輝は、真正面から事実を置いた。
「本題に入ります。体育館の予約が、同じ日付で二重に確定していました。原因は、市側の処理とシステム挙動にあります。本来であれば発生させてはいけない重複でした。ご迷惑をおかけします」
セラフィナは、胸の前で手を重ねた。
「謝意をもって受け取ります。けれど、私たちは既に合唱隊を編成し、祈りの段取りを組み、来訪者の導線も整えています。簡単に日程は変えられません」
ヴァルドは、さらに低い声で続けた。
「我らも同様だ。舞踏は夜の潮と連動する。日程をずらせば、舞台が死ぬ」
加奈が、ここで口を挟んだ。
喧嘩を止める挟み方ではない。
ただ、地面の目線を置く。
「まず確認していい? “本番”の時間。合唱は何時から何時まで。舞踏は何時から何時まで。そこがわかれば、できることが見える」
セラフィナが書類を差し出す。
「午後二時、開場。三時、開演。終演は四時半。撤収は五時までです」
ヴァルドも、同じように書類を出す。
「我らは夜。六時入り。七時開演。九時終演。撤収は十時まで」
勇輝は、頭の中で予定表を広げた。
……被っていない。
驚くほど、被っていない。
管理担当が、慌てて補足する。
「“全面使用”が同じ日で……システム上は、一日通しで押さえた扱いになっています。準備とリハーサルを含めての全面、という申請でした」
勇輝は、静かに息を吐いた。
詰んでいない。
ただし、何もしなければ詰む。
「ありがとうございます。整理します。両団体とも“全面使用”を希望しているのは、準備とリハを含めての確保が必要だから。つまり、“時間帯”で分割し、転換時間を確保できれば、両方成立する可能性が高い」
市長が、わずかに口角を上げた。
“道がある”という表情だ。
勇輝は、提案書の一枚を差し出した。
「提案です。体育館の使用を時間帯で分割します。天界合唱隊は午前から夕方まで。魔界舞踏団は夕方から夜まで。間に転換時間を一時間確保し、市側で換気・清掃・照明切替を支援します」
セラフィナが、丁寧に問い返す。
「転換の一時間で、音響機材の移動と、床の状態の調整まで可能ですか?」
ヴァルドは、目を細めたまま言う。
「我らの闇は、闇であることが条件だ。天界の光が残れば、舞踏は死ぬ。香りも、残れば邪魔だ」
美月が、思わず口を開きかけた。
しかし勇輝が先に、穏やかに手を上げる。
「香りや光の“残り”も含めて、転換作業の項目に入れます。換気を最大に回し、香りの強いものは残さない。照明は、転換後に完全に切り替え、舞踏側の要求に合わせます。必要なら遮光幕も追加します」
加奈が、現場の感覚で補足する。
「体育館って、換気扇のスイッチ、意外と見つけにくいんだよね。あと、床は湿りすぎても滑る。乾きすぎても舞踏で粉が立つ。清掃のやり方、最初に決めといたほうがいい」
管理担当が、食い気味に頷いた。
「はい。床清掃は乾拭きとモップの組み合わせでいけます。転換担当の職員も増員します」
ヴァルドが、低く言う。
「市がそこまで責任を持つのだな?」
勇輝は、目を逸らさずに返した。
「持ちます。二重確定は市側の不備です。だから、市が動きます。責任を押し付ける形にはしません」
セラフィナが、静かに頷いた。
ヴァルドも、何も言わないまま、紙を指先で叩く。
――拒絶ではない。検討の仕草だ。
ただ、異界の調整は一個通ると、次の一個が出てくる。
運用はパズルで、しかもピースの形が動く。
「もう一点、確認があります」
セラフィナが、声を少し落とした。
「合唱は、音取りが非常に繊細です。魔界の準備段階の低音や足音が混ざると、こちらの集中が乱れます。リハーサル中の外部音は、可能な限り遮断したい」
ヴァルドが、すぐに返す。
「我らの足音は舞台だ。抑えるものではない。抑えろと言うなら、そちらが先に帰れば良い」
火花が散りかけた。
言葉だけで済んでいるうちは、まだ大丈夫だ。
しかし放っておくと、言葉が空気を尖らせ、空気が人の態度を尖らせる。
勇輝は、間に“手順”を置いた。
「音の混入は、時間帯の分割で最小化できます。魔界側の準備開始は、天界側の撤収完了後。待機も別室で行う。体育館の中に同時に入らない運用にしましょう」
美月が、小声で勇輝にだけ囁く。
「別室、足りませんよね……会議室しか……」
加奈が、すぐに言葉を拾った。
「喫茶ひまわり、待機に使っていいよ。お客さんには説明する。天界と魔界、同じ時間に店内に入ると、たぶん席の空気が面白いことになるから、時間帯は分けたほうがいいけど」
セラフィナは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「喫茶……というのは、人が飲み物を共にする場所、ですね」
「うん。飲んだり、落ち着いたり、打ち合わせしたり。そういうところ」
ヴァルドが、興味を隠さずに言った。
「苦い飲み物はあるか」
「ある。濃いのも、もっと濃いのも」
「良い」
セラフィナも、控えめに言う。
「甘いハーブティーがあれば、合唱の喉が整います」
「任せて。喫茶って、そういう“困った時の受け皿”にもなるから」
市長が、妙に満足そうに言った。
「よし。喫茶ひまわりを中立の待機地とする」
「市長、条約みたいに言わない。運用です。運用」
笑いが起きかけて、起ききらない。
でも、その起きかけが大事だった。空気が少し柔らかくなる。
最後の課題が残っていた。
いちばん現実的で、いちばん厄介なやつ。
「観客導線です」
勇輝が口にすると、管理担当が頷いた。
「同じ日に二公演となると、入れ替えのタイミングで混雑します。駐車場も、玄関も、トイレも……」
美月が、ペンを走らせながら言った。
「しかも、“両方見たい”って人が絶対に出ます。出るのは悪くないけど、同じ列に並ぶと揉めます。揉めなくても、混ざると詰まります」
勇輝は、即答しなかった。
来るな、と言って止められるものではない。
止めるより、流す。流れを作る。
加奈が、指を折りながら言う。
「入口を分ける。誘導の色を分ける。列の看板を大きくする。あと、終演後の出る流れと、次の開場の入る流れを同じ場所に重ねない」
市長が、落ち着いた声で言った。
「二つの文化が一日に咲くのは価値だ。だが混乱は価値ではない。混乱は怪我に変わる。怪我は信頼を削る」
勇輝は、最終案を一枚にまとめてテーブルの中央へ置いた。
【暫定運用案(第1版)】
・時間帯分割:天界 9:00〜17:00/魔界 18:00〜22:00(転換 17:00〜18:00)
・転換作業:市が換気・床清掃・照明切替を支援(安全管理・立入制限つき)
・待機場所:喫茶ひまわりを時間帯分離で利用(体育館への同時入場を避ける)
・観客導線:入口二系統、色分け誘導、スタッフ増員、駐車場整理
・情報発信:注意事項は統一文面で告知(刺激の強い表現は避ける)
・責任:市は重複確定の不備を認め、必要経費(追加清掃・誘導資材等)を負担する
セラフィナが、ゆっくりと目を通し、顔を上げた。
「受け入れます。秩序が守られ、合唱が守られるなら」
ヴァルドも、紙を見てから頷いた。
「良い。約束が守られるなら、我らも守る」
勇輝は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。約束は守ります。守れる形に、こちらが整えます」
美月が、勇輝の横で小さく息を吐いた。
それが安堵だとわかるくらい、静かな音だった。
加奈は、紙袋の口を少し開けてみせた。
「差し入れ、置いとく? 会議終わったら、みんなで甘いの食べよう。こういう話って、頭が固くなるから」
管理担当が、救われた顔で頷く。
「……お願いします」
市長が、会議の締めに向けて言った。
「では、本日の合意を“覚書”として残し、当日の動線と作業割りを明文化する。主任、議事録と合わせて回覧だ」
「回覧する前に、言葉を整えます。読み手が怖がらない文面にします」
「怖がらせないのは大事だ。怖がらせると、予約表そのものが怖いものになる」
そうして、会議は“戦争にならず”に終わった。
終わったというより、当日の現場に引き継がれた。
行政の会議は、いつもそうだ。会議で終わるのではなく、会議で始まる。
*
当日。体育館は、朝から違う匂いがしていた。
木の床の匂いに、少しだけ空気が澄んだような感覚が混ざる。天界側の来訪者が、玄関で小さく手を合わせている。住民はそれを見て、つられて背筋を伸ばす。
勇輝は、誘導スタッフの配置表を手に、玄関前で全体を見渡した。
色分けした矢印――白は天界、黒は魔界。
仰々しいかと思ったが、実際に立ってみると必要だった。視覚のルールがあると、人は迷いにくい。
「美月、案内板の高さ、もう少し上げられる?」
「はい。目線より上にすると、写真にも入りにくいので、変に拡散されません。誘導はしやすくて、余計な“映え”にはならない位置でいきます」
「その感覚、今すごく助かる」
午前中、天界の合唱隊が入り、体育館が“音の箱”になる。
透明な声が天井に吸い込まれ、残響がふわりと降りてくる。
住民の誰かが、ぽつりと呟いた。
「……なんか、肩の力が抜けるな」
隣の人が、笑う。
「健康体操より効きそう」
合唱の本番は、予定通り。
来訪者の導線も崩れない。誘導スタッフが余計な声を出さず、必要なときだけ手を差し出す。
こういう“静かな成功”が、役所の好きなやつだ。
撤収も驚くほど丁寧で早かった。
セラフィナが、最後に勇輝へ軽く会釈する。
「約束どおり、五時までに完全撤収します。転換の作業が始めやすいように」
「ありがとうございます。こちらも、転換をきちんと回します」
そして、問題の転換一時間。
「換気最大。入口側も開けます。床清掃は乾拭きから。照明は……“暗い側”を優先。遮光幕、準備」
勇輝の指示に、管理担当が走る。
美月は貼り紙を貼り替える。白い矢印を一部外し、黒い矢印を増やす。
加奈は喫茶ひまわりで待機組を受け入れ、時間帯ごとに席を分け、飲み物を出しながら空気を整えている。
そして、市長は――誘導棒を持っていた。
どこから持ってきたのか、ちゃんと反射板付きだ。仕事が早い。
「こちら、魔界の列。こちら、天界の列。交わるな……いや、交わるなら、今は“外”で交わってから、列は分けろ」
「市長、言いたいことはわかるんですけど、説明が高度です。今は単純にいきましょう。列は分ける。迷ったらスタッフに聞く。以上」
「承知した。単純にする」
市長が素直に引くと、現場は回る。
珍しい。だが、ありがたい。
転換の終盤、ひとつだけ小さなトラブルが起きた。
天界側の装飾の一部――白いリボンのような飾りが、換気の風でふわりと舞い上がり、体育館の梁に引っかかったのだ。
「取れますか?」
管理担当が脚立を持ってきた。
しかし梁は高い。脚立では届かない。
美月が、すぐにメモを見ながら言う。
「えっと、こういうときは……」
ヴァルドが、無言で手を上げた。
団員の一人がするりと影のように動き、梁の下に立つ。
次の瞬間、影が“伸びた”。ひょい、と飾りを掴み、静かに下ろす。
セラフィナが、小さく頭を下げる。
「助かりました」
ヴァルドは、淡々と返す。
「借りを作るのは好きではない。だが、今日は貸し借りではなく、運用だ」
勇輝は、その言葉に少しだけ救われた。
運用。
言葉が現実を固定してくれる。
夜。魔界の舞踏が始まる。
低音のリズムが床を叩き、照明が闇を切り裂く。
観客は息を呑み、誰かがぽつりと呟いた。
「……合唱とは、別方向で、心が整うな」
終演後、ヴァルドが勇輝の前に来た。
圧はまだある。けれど、視線の鋭さが“敵意”ではなく“評価”に変わっている。
「市は約束を守った」
「守れてよかったです。協力があったから回りました」
「……協力というより、邪魔をしなかっただけだ」
「それが一番助かることもあります」
セラフィナも、静かに微笑んだ。
「秩序ある転換でした。あなた方の町は、強い。強さが“硬さ”ではなく、“柔らかさ”でできているのが素敵です」
勇輝は、つい視線を加奈の方へやった。
喫茶ひまわりの紙コップを抱えた加奈が、軽く肩をすくめる。
「役所だけじゃ無理だったでしょ」
「うん。今日は、ほんとに助かった」
片付けが終わり、体育館の床がまた“ただの床”に戻る頃。
市長が、ロビーで勇輝に近づいた。
「主任。今日の教訓は何だ?」
勇輝は、即答しそうになって、いったん言葉を選んだ。
教訓は一つじゃない。だが、まず一つ目はこれだ。
「予約システムは落とさない。落ちる前提なら、落ちたときの手順を作る。二重確定が起きたら、現場が倍では済まない」
「良い。二つ目は?」
「“全面使用”の定義を見直す。異界の団体は、必要があって全面と言う。だからこそ、時間帯と作業区分を最初からセットで案内する」
市長は、満足そうに頷いた。
「そして三つ目だ。文化は、分ければ共存できる」
「それ、今日いちばん綺麗に聞こえるやつですけど、結局は時間割です。時間割の勝利です」
「時間割は平和の設計図だ。軽んじるな」
「軽んじてません。今日ほど時間割に感謝した日はないです」
美月が、スマホを見せながら近づいてきた。
画面には、短い告知文と注意事項。ハッシュタグも控えめだ。
「主任、見てください。落ち着いた感じで反応が伸びました。『同日開催』が面白がられる前に、“導線が丁寧だった”“安心して見られた”ってコメントが先に出てます」
「よし。それが一番いい」
「はい。ちゃんと“役所がんばった”じゃなくて、“来た人が安心だった”に寄せました。主語を間違えると変な方向に行くので」
「その判断も助かった」
加奈が、紙コップを差し出す。
苦いのに、温かい、いつもの味。
「コーヒー。転換の一時間、ずっと走ってたでしょ。落ち着いて飲んで」
「……うん。落ち着く」
勇輝は、体育館の入口を振り返った。
白い矢印のテープは剥がされ、黒い矢印も片付けられて、床には何も残っていない。
何も残っていないことが、成功の証拠だ。
公共施設の予約は、平和そのものだ。
平和を平和のままにしておくのは、案外、手がかかる。
けれど――手がかかった分だけ、町は「いつもどおり」をひとつ増やせる。
市長が、どこか静かな声で言った。
「主任。明日は、何が起きると思う?」
勇輝は、コーヒーを一口飲んでから返した。
「明日は明日で考えます。今日は“予定表が守れた日”として、まず一回、胸を張らせてください」
「いい。胸を張れ。守ったのは、予定表ではない。暮らしの順番だ」
「順番、守れましたね。今日のところは」
ひまわり市役所。
今日も通常運転。
ただし、体育館の予定表は――天界と魔界を一日で受け止めても、ちゃんと戻ってくる。




